私は、クィア理論をやっている一観客として、必ずしも批評側のお二人の見解に全面的に賛成ではない。
クィアに関して「当事者」という表現は私は使わないし、ラストは私は監督の意図に近い形で解釈した(子どもたちは生き延びたのだと理解した)上で、むしろそこで映画はクィアネスを掴み損ねたと感じている<それが必ずしも悪いわけではないかもしれないけれど。
けれども、たとえば「ネタバレ」的に使う問題に始まる、表象における、そして観客としての、クィアの不可視化についての批判は、まったく当然だし真っ当だと思う。
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私は、クィア理論をやっている一観客として、必ずしも批評側のお二人の見解に全面的に賛成ではない。
クィアに関して「当事者」という表現は私は使わないし、ラストは私は監督の意図に近い形で解釈した(子どもたちは生き延びたのだと理解した)上で、むしろそこで映画はクィアネスを掴み損ねたと感じている<それが必ずしも悪いわけではないかもしれないけれど。
けれども、たとえば「ネタバレ」的に使う問題に始まる、表象における、そして観客としての、クィアの不可視化についての批判は、まったく当然だし真っ当だと思う。
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