田中貴子
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takakotanaka.bsky.social
田中貴子
@takakotanaka.bsky.social
日本中世文学研究者。甲南大学教授。猫(文覚)と暮らしています。
ふわふわの毛布に擬態するもんちゃん。
November 24, 2025 at 12:00 PM
ふと思った。中古中世、もちろん近世の和歌も「古文」で書かれているが、それは現代人から見たら「古文」なだけで、詠んだ当時の人にとってはどんな感覚だったのだろう。「古文」は詠まれた当時の現代語でもあるから、俵万智みたいに現代語で和歌を詠むという感覚なのか。それとも、過去の語法や語彙で詠んでいるという感覚なのだろうか。時代時代で語法や語彙は変わるのでそうした面からの検討は必要であるが・・・。今日はこまごました仕事をこなした。お供はプシプシーナ珈琲のエクアドル。深煎りが美味しい季節。甘えていた猫は、晩ご飯を一心に食べている。
November 24, 2025 at 10:58 AM
久しぶりの完全休日。冬用シーツを新しくしたら、途端に猫がベッドに上がってきた。清水克行『室町は今日もハードボイルド』(新潮文庫)を読んでいる。「落書き」についての章が目当てだが、気軽に読めるので楽しい。そろそろ、依頼論文に取りかからなければいけないのだが、一度発表したものを論文化するのは割と大変だ。忘れていることもあるが、その後考えが変わることがあるから。SNSで知ったレイ・ハラカミのアンビエントを聴いているが、午後にふさわしい緩やかな気分になれる。お供は山香社のボリビア。品のいい酸味。猫は電池が切れたようにぱたりと寝てしまった。
November 23, 2025 at 4:20 AM
11月もたそがれの国。
十一月の黄昏
November 22, 2025 at 2:13 PM
これ持っていると、猫がガン見してくるんだが、ちゅ〜るじゃないよ。
November 21, 2025 at 11:17 AM
寒いね、もんちゃん。
November 19, 2025 at 10:22 AM
臨川書店の「中世の日記をひらく」シリーズ、まずはこの2冊から。内容はいくつかの年の記録を現代語訳が中心で、コラムや解説も。大学院時代、『看聞日記』を研究会で読んでいたが、やはり面白い。『建内記』は真面目な記事ばかりだな。
November 19, 2025 at 3:19 AM
クリームチーズといぶりがっこも!
刻んで塩昆布と合えるのも美味しいよ
クリームチーズと柿合わせるの美味いっすよ!!!!!!!!!!!
November 18, 2025 at 1:21 PM
誕生日がきて、高齢者の仲間にはいってしまいました。
November 18, 2025 at 7:14 AM
知り合いからクマを解体して食べる会の写真が送られてきた。仰向いて腹を割かれた中くらいのクマの股のあたりに、猟犬だろうか、二匹の犬が群がっているのだが、それがまさに九相図そのものの構図であることに驚く。どんな動物でも、股周辺の肉は柔らかくてうまいのだろう。犬は(食いついてはいないものの)、それをよくわかっているようだ。何も見ていないクマの目がやや見開かれている。腹からはみ出るほどの白い脂肪が鮮やかだ。クマはこのあと、カレーと鉄板焼きになったという。口にしてみたいような、したくないような、生き物の死と生のすがた。
November 16, 2025 at 11:45 AM
昨日は臨時の出勤だったが途中で腰をぎくりとやってしまい、痛み止めを飲んでなんとか帰り着く。今日はひたすら休養日にしたいが、洗濯物が溜まっているんだよな・・・。猫が突然投薬用ちゅーるを食べなくなって、お薬をどう与えるか試行錯誤中。三上喜孝『落書きに歴史をよむ』が届いたので読み始めるが、何かに「書きつく」ことの認識が文学とはかなり異なる。いろいろな落書きが紹介されていて、既存の和歌もいくつか見えるのが面白い。色っぽい内容もあって、相合い傘のルーツはこれかと思う。今朝のお供はプシプシーナ珈琲のエクアドル。甘い物がほしくなる味。
November 16, 2025 at 1:33 AM
今日はブルスカで色々教えて頂いたおかげで、怒濤のように調査が進んだ。中国の「題壁詩」のほか、日本では「柱歌」とも称される「柱に書き付けた歌」の研究がけっこう見つかった。また、「書きつく」という行為そのものについても研究があることが判明(『土佐日記』『枕草子』『徒然草』にも見える)。しかし、『万葉集』のコラムは同人誌や文学館報など入手しがたいものが多いなー。まだ全部読んだわけではないが、説話集についてはあまり言及されていない模様なので、もしかしたらいつの日か論文化するかもしれません。
November 14, 2025 at 11:31 AM
ご教示ありがとうございました。加畠吉春「題壁詩と和歌」(『和漢比較文学』41号)という論文がありました。本論文によると『大和物語』初段にも題壁詩の影響があるのでは?ということでした。
「題壁詩」と呼ぶらしいですが、具体的にいつから始まっていつ本邦に伝わったかはすぐはわからず。
でも遅くとも春秋戦国期までにはなんかやってそうな気がしますよね。
November 14, 2025 at 3:46 AM
漢詩を壁にかきつける、というのはどこかで見たような気が・・・。
大和の初段にあるってことは、なんか中国の古典に本説ある可能性ある…?RP
November 14, 2025 at 12:26 AM
柱や壁にかきつけることについては、「もしや、落書き?」と思って調べてみると、三上喜孝『落書きに歴史をよむ』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー)の表紙に、まさに柱に何かをかきつけている僧侶の姿を描いた絵(『西行物語』だろうか?)が用いられていたのを見つけたので、本を買うことにした。いろんな人がいろんな社寺仏閣に「かきつけて」いるのだが、「落書き」とどう違うのか、問題はないのかと考えていたところ。どんな本だろう、わくわく。
印象としては、「(紙以外の)何かに書き付ける」行為は、出家、退出、別かれ、などの場面に多く見られるように思う。
みやさんのご教示により、まずはすぐ入手できた工藤重矩「大和物語初段の解釈」(『中古文学』30号)、山崎正伸「『大和物語』初段の史実的和歌解釈と初段の意味するもの」(『東洋学研究所集刊』29号)を読んでみた。伊勢が弘徽殿の壁に歌をかきつけた段。召人でしかない伊勢にとって帝への連絡手段がそんな方法しかなかった、伊勢の主である温子がそこにいたから、などという説があるという。山崎論では、「自己の思いを表白するのがこの書き付ける行為」と述べる。なるほど。しかし、なぜ紙ではいけないのだろうか?残存形態が異なるからかな。調査続行。
November 13, 2025 at 7:33 AM
どういう状況か、何にかきつけているか、そもそも「かきつく」(『日国』では、「ちょっとした事柄を書いておく」とする)という行為について、など調べる必要があるが、『新編国歌大観』をひいてみると「かきつく」はかなり出て来るなー。
印象としては、「(紙以外の)何かに書き付ける」行為は、出家、退出、別かれ、などの場面に多く見られるように思う。
みやさんのご教示により、まずはすぐ入手できた工藤重矩「大和物語初段の解釈」(『中古文学』30号)、山崎正伸「『大和物語』初段の史実的和歌解釈と初段の意味するもの」(『東洋学研究所集刊』29号)を読んでみた。伊勢が弘徽殿の壁に歌をかきつけた段。召人でしかない伊勢にとって帝への連絡手段がそんな方法しかなかった、伊勢の主である温子がそこにいたから、などという説があるという。山崎論では、「自己の思いを表白するのがこの書き付ける行為」と述べる。なるほど。しかし、なぜ紙ではいけないのだろうか?残存形態が異なるからかな。調査続行。
November 13, 2025 at 4:33 AM
印象としては、「(紙以外の)何かに書き付ける」行為は、出家、退出、別かれ、などの場面に多く見られるように思う。
みやさんのご教示により、まずはすぐ入手できた工藤重矩「大和物語初段の解釈」(『中古文学』30号)、山崎正伸「『大和物語』初段の史実的和歌解釈と初段の意味するもの」(『東洋学研究所集刊』29号)を読んでみた。伊勢が弘徽殿の壁に歌をかきつけた段。召人でしかない伊勢にとって帝への連絡手段がそんな方法しかなかった、伊勢の主である温子がそこにいたから、などという説があるという。山崎論では、「自己の思いを表白するのがこの書き付ける行為」と述べる。なるほど。しかし、なぜ紙ではいけないのだろうか?残存形態が異なるからかな。調査続行。
和歌の詞書に、柱や壁に和歌を書き付けるという文言が見える場合があって、なぜそんなことをするのかずっと疑問に思っていた。和歌研究者の谷知子さんに相談したらいろいろ資料を送ってくださったのだけど、そういう行為についての論文は見つからないとのこと。『撰集抄』にも、遁世の末亡くなった僧のそばに和歌などの書き付けが残されていたというくだりがしばしば見えるので、何か関係あるのかと調べ始めたのだが・・・。もし、参考になりそうな論考などがあれば、ぜひご教示ください。今日は会議続きで疲弊して帰宅。甘える猫がかわいすぎて困る。
November 13, 2025 at 4:08 AM
みやさんのご教示により、まずはすぐ入手できた工藤重矩「大和物語初段の解釈」(『中古文学』30号)、山崎正伸「『大和物語』初段の史実的和歌解釈と初段の意味するもの」(『東洋学研究所集刊』29号)を読んでみた。伊勢が弘徽殿の壁に歌をかきつけた段。召人でしかない伊勢にとって帝への連絡手段がそんな方法しかなかった、伊勢の主である温子がそこにいたから、などという説があるという。山崎論では、「自己の思いを表白するのがこの書き付ける行為」と述べる。なるほど。しかし、なぜ紙ではいけないのだろうか?残存形態が異なるからかな。調査続行。
和歌の詞書に、柱や壁に和歌を書き付けるという文言が見える場合があって、なぜそんなことをするのかずっと疑問に思っていた。和歌研究者の谷知子さんに相談したらいろいろ資料を送ってくださったのだけど、そういう行為についての論文は見つからないとのこと。『撰集抄』にも、遁世の末亡くなった僧のそばに和歌などの書き付けが残されていたというくだりがしばしば見えるので、何か関係あるのかと調べ始めたのだが・・・。もし、参考になりそうな論考などがあれば、ぜひご教示ください。今日は会議続きで疲弊して帰宅。甘える猫がかわいすぎて困る。
November 13, 2025 at 4:05 AM
詩歌が装飾やデザインであるというのは面白いと思います。現代の「書」がまさにそうですし、詩歌ではないけれど葦手というのもありますね(木簡・・・卓上のパーテーションでラーメン屋を思い出した)。
【露城の思いつき】
田中先生のポストを見て想起したのは横山光輝版『水滸伝』に酔った宋江が気持ちよく料亭の白壁に詩を墨書する場面があって(その詩句を悪用されて山賊となり梁山に行く運命をたどる),詩歌はなにも紙に表現したり口吟するばかりにあらずで,詩歌は書として装飾やデザインの素材としても在ったんだろうな,と.

だから他とサイズの異なる歌木簡や人麻呂歌集略体歌なんかも装飾素材で歌木簡は卓上のパーテーションじゃないか?などと思ったりするのだけど,
いかんせん
論文に仕立てるすべがない.
和歌の詞書に、柱や壁に和歌を書き付けるという文言が見える場合があって、なぜそんなことをするのかずっと疑問に思っていた。和歌研究者の谷知子さんに相談したらいろいろ資料を送ってくださったのだけど、そういう行為についての論文は見つからないとのこと。『撰集抄』にも、遁世の末亡くなった僧のそばに和歌などの書き付けが残されていたというくだりがしばしば見えるので、何か関係あるのかと調べ始めたのだが・・・。もし、参考になりそうな論考などがあれば、ぜひご教示ください。今日は会議続きで疲弊して帰宅。甘える猫がかわいすぎて困る。
November 13, 2025 at 3:54 AM
Reposted by 田中貴子
【露城の思いつき】
田中先生のポストを見て想起したのは横山光輝版『水滸伝』に酔った宋江が気持ちよく料亭の白壁に詩を墨書する場面があって(その詩句を悪用されて山賊となり梁山に行く運命をたどる),詩歌はなにも紙に表現したり口吟するばかりにあらずで,詩歌は書として装飾やデザインの素材としても在ったんだろうな,と.

だから他とサイズの異なる歌木簡や人麻呂歌集略体歌なんかも装飾素材で歌木簡は卓上のパーテーションじゃないか?などと思ったりするのだけど,
いかんせん
論文に仕立てるすべがない.
和歌の詞書に、柱や壁に和歌を書き付けるという文言が見える場合があって、なぜそんなことをするのかずっと疑問に思っていた。和歌研究者の谷知子さんに相談したらいろいろ資料を送ってくださったのだけど、そういう行為についての論文は見つからないとのこと。『撰集抄』にも、遁世の末亡くなった僧のそばに和歌などの書き付けが残されていたというくだりがしばしば見えるので、何か関係あるのかと調べ始めたのだが・・・。もし、参考になりそうな論考などがあれば、ぜひご教示ください。今日は会議続きで疲弊して帰宅。甘える猫がかわいすぎて困る。
November 13, 2025 at 3:20 AM
和歌の詞書に、柱や壁に和歌を書き付けるという文言が見える場合があって、なぜそんなことをするのかずっと疑問に思っていた。和歌研究者の谷知子さんに相談したらいろいろ資料を送ってくださったのだけど、そういう行為についての論文は見つからないとのこと。『撰集抄』にも、遁世の末亡くなった僧のそばに和歌などの書き付けが残されていたというくだりがしばしば見えるので、何か関係あるのかと調べ始めたのだが・・・。もし、参考になりそうな論考などがあれば、ぜひご教示ください。今日は会議続きで疲弊して帰宅。甘える猫がかわいすぎて困る。
November 12, 2025 at 11:59 AM
阪急神戸線が止まってる・・・(呆然)。
November 10, 2025 at 6:32 AM
もんちゃん、お疲れさま。
November 9, 2025 at 12:57 PM
雨の日曜日。午前中は眼科に目薬もらいに行き、午後は送られてきた講演の校正をしている。録音を起こしたものだが、自分の滑舌の悪さか不明箇所も多々あり、記憶を掘り起こしている最中。昨夜から小池真理子『怪談』(集英社文庫)を読み始めたのだが、内田百閒に似た悪夢的な怖さに慄き、しばらく寝付けなかった。ホラーというのではなく、確かに怪談としかいいようがない、幽冥界の境界をのぞく感覚。昔某社から怪談研究本の依頼があったのだが、担当者が定年退職してうやむやになったことがある。今日のお供はプシプシーナ珈琲のエクアドル。濃くてまろやか。猫はぐっすり昼寝中。
November 9, 2025 at 4:53 AM
日本文学系学会ではポスター発表というものがないので、私も一度もおこなったことがない。心理系とか理系では当たり前のようで、一日に何回もポスター発表している方もあるようだ。古典文学だと資料を逐一読んでもらわないといけないので、難しいのだろう。2024年度の全学業績一覧(という冊子が勤務先にはあるのです)を見ていて、色々思う。去年は論文が1本しか出せなかったが、口頭発表は4本とまずまず。これを論文化せねば。今日は久々の休養日。山香社のグアテマラがいい香り。蓄熱ベッドを買ったのに、猫はその真横でこれ見よがしに寝ている。
November 8, 2025 at 2:55 AM