ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%...
このBlueskyのアカウントは、見ている方もごく少なく、私のように壁打ちで吐き出していれば満足、という人間にとっては非常にやりやすい。今後も、ひっそりやっていきたい。
このBlueskyのアカウントは、見ている方もごく少なく、私のように壁打ちで吐き出していれば満足、という人間にとっては非常にやりやすい。今後も、ひっそりやっていきたい。
これに関して、以下のブログによれば、「後日帰還した戦友が妻に語ったところによれば『戦病死ではなく空襲を受けての戦死だった』『亡くなった日は4月30日』」とのこと。
hakameguri.exblog.jp/35470633/
このような証言者が実際にいたのであれば、生還者がほぼ存在しない「サンドイッチ部隊」のうち、第1揚陸隊からは生還者がいたということになる。その後の同隊の運命について、もう少し詳しい証言を知りたいところ。
これに関して、以下のブログによれば、「後日帰還した戦友が妻に語ったところによれば『戦病死ではなく空襲を受けての戦死だった』『亡くなった日は4月30日』」とのこと。
hakameguri.exblog.jp/35470633/
このような証言者が実際にいたのであれば、生還者がほぼ存在しない「サンドイッチ部隊」のうち、第1揚陸隊からは生還者がいたということになる。その後の同隊の運命について、もう少し詳しい証言を知りたいところ。
「中央は良いアイデアで、良い名称をつけているが、私は海上機動攻撃の能力はほとんどないと考えていた。
したがって同旅団に多くの戦力発揮を期待していなかった。ただし、第27軍がこれをどう運用するかについては干渉しなかった。
方面軍としては、無いよりましであり、かつ兵員数は相当なもので、少しでも兵員数の欲しかった折りでもあり、下手に中央に干渉して取りあげられるようなことは避けた」
(戦史叢書『北東方面陸軍作戦<2>』 p213)
「中央は良いアイデアで、良い名称をつけているが、私は海上機動攻撃の能力はほとんどないと考えていた。
したがって同旅団に多くの戦力発揮を期待していなかった。ただし、第27軍がこれをどう運用するかについては干渉しなかった。
方面軍としては、無いよりましであり、かつ兵員数は相当なもので、少しでも兵員数の欲しかった折りでもあり、下手に中央に干渉して取りあげられるようなことは避けた」
(戦史叢書『北東方面陸軍作戦<2>』 p213)
「旅団本来の任務は、その有する機動用舟艇をもって海上を機動し、敵の上陸点またはその付近に逆上陸を行ない、もって進攻する敵を撃滅する、というものであるが、肝心の機動艇が配当されず、代用された漁船も数隻に過ぎず、大発もまた10隻内外にとどまった。
そこで旅団は海上輸送第6大隊(根室)と協定し、同大隊の保有船舶により海上機動力の強化を図るなど苦心して、一応特大発6、大発39、計45隻を胸算できるようになった。(続)
「旅団本来の任務は、その有する機動用舟艇をもって海上を機動し、敵の上陸点またはその付近に逆上陸を行ない、もって進攻する敵を撃滅する、というものであるが、肝心の機動艇が配当されず、代用された漁船も数隻に過ぎず、大発もまた10隻内外にとどまった。
そこで旅団は海上輸送第6大隊(根室)と協定し、同大隊の保有船舶により海上機動力の強化を図るなど苦心して、一応特大発6、大発39、計45隻を胸算できるようになった。(続)
「戦車を島に揚げることは揚げたが、ハイマツなどのため島内に機動の余地がなく、上陸点の奥地に置いただけに過ぎなかった」
(戦史叢書『北東方面陸軍作戦<2>』 p196)
「戦車を島に揚げることは揚げたが、ハイマツなどのため島内に機動の余地がなく、上陸点の奥地に置いただけに過ぎなかった」
(戦史叢書『北東方面陸軍作戦<2>』 p196)
ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%...
ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%...
「『生きて虜囚の辱めを受けず』という戦陣訓は、海軍では読んだことも教わったこともありませんでしたが、日本人の道徳律として、そう考えるのが常識の時代やった」
と。(神立尚紀『戦士の肖像』より)
とはいえ、日清・日露の頃は、捕虜になることはここまで忌避されていなかったのだから、その「常識」を形成するのに、やはり「戦陣訓」の影響は小さくなかったと言うべきなのだろうか。
「『生きて虜囚の辱めを受けず』という戦陣訓は、海軍では読んだことも教わったこともありませんでしたが、日本人の道徳律として、そう考えるのが常識の時代やった」
と。(神立尚紀『戦士の肖像』より)
とはいえ、日清・日露の頃は、捕虜になることはここまで忌避されていなかったのだから、その「常識」を形成するのに、やはり「戦陣訓」の影響は小さくなかったと言うべきなのだろうか。
ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%...
今回、凍結を申し立てたジーニハルトさんの言葉遣いが激しかったため(気持ちは分かります)、申立ては不調に終わりましたが、「相手の会話ページで対話を試みる→コメント依頼→伝言板報告やブロック依頼」という手順で対処すれば良いことが分かりました。
当人が過去10年に編集した記事が常軌を逸した分量であり、記事内容と出典の精査などは何年レベルの作業が必要そうですが、いざという時に指摘できるよう、黙って少しずつ個人的な作業を進めておきたく思います。
ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%...
今回、凍結を申し立てたジーニハルトさんの言葉遣いが激しかったため(気持ちは分かります)、申立ては不調に終わりましたが、「相手の会話ページで対話を試みる→コメント依頼→伝言板報告やブロック依頼」という手順で対処すれば良いことが分かりました。
当人が過去10年に編集した記事が常軌を逸した分量であり、記事内容と出典の精査などは何年レベルの作業が必要そうですが、いざという時に指摘できるよう、黙って少しずつ個人的な作業を進めておきたく思います。
命名者は第5艦隊の松木通世先任参謀とのこと。(同艦隊の久住忠男・元参謀の証言)
命名者は第5艦隊の松木通世先任参謀とのこと。(同艦隊の久住忠男・元参謀の証言)
個人的には、この手のことにはなんとなく東條の方が潔癖そうなイメージがあり、やや意外ではある。
個人的には、この手のことにはなんとなく東條の方が潔癖そうなイメージがあり、やや意外ではある。
それが実情に近いのだとすれば、彼ら彼女らの「愛国」やら「伝統護持」の薄っぺらさに呆れる。
以前も書いたが、先祖の財産を相続したければ、負債も継承しなければならないのである。
ただ、ネットで牟田口弁護論をまき散らしている手合いについては、何を考えているのか、さっぱりわからない。
ゆがんだ承認欲求?
それが実情に近いのだとすれば、彼ら彼女らの「愛国」やら「伝統護持」の薄っぺらさに呆れる。
以前も書いたが、先祖の財産を相続したければ、負債も継承しなければならないのである。
そして、旧軍において特に重大な問題点を内包しており、これらの人たちにとって何とかごまかしたい対象が牟田口と特攻ではないか。このことは同時に、この2点を厳しく批判した高木俊朗を、どうにか「デマ作家」に仕立て上げたいという歪んだ動機の元になっているのではないか、というのが個人的な印象です。
そして、旧軍において特に重大な問題点を内包しており、これらの人たちにとって何とかごまかしたい対象が牟田口と特攻ではないか。このことは同時に、この2点を厳しく批判した高木俊朗を、どうにか「デマ作家」に仕立て上げたいという歪んだ動機の元になっているのではないか、というのが個人的な印象です。
ただ、ネットで牟田口弁護論をまき散らしている手合いについては、何を考えているのか、さっぱりわからない。
ゆがんだ承認欲求?
ただ、ネットで牟田口弁護論をまき散らしている手合いについては、何を考えているのか、さっぱりわからない。
ゆがんだ承認欲求?
西部ニューギニア方面の航空要塞構想やヘルヴィング湾決戦論は、この人の関与が大きいのではないかと思っているが、
・そもそも現実的にこの地域へ航空戦力を集められるのか
・優良な飛行場造成部隊や機材・器材を大量に投入できるのか
・多数の飛行場を短期間で造成できるのか
・戦力や現地駐屯部隊を維持するための物資・人員を継続的に補給し続けられるのか
といった実現可能性の面にあまり考えが及んでいないように思われ、陸軍の俊秀と呼ばれた人のはずなのに、と以前からやや不思議に思っている。
西部ニューギニア方面の航空要塞構想やヘルヴィング湾決戦論は、この人の関与が大きいのではないかと思っているが、
・そもそも現実的にこの地域へ航空戦力を集められるのか
・優良な飛行場造成部隊や機材・器材を大量に投入できるのか
・多数の飛行場を短期間で造成できるのか
・戦力や現地駐屯部隊を維持するための物資・人員を継続的に補給し続けられるのか
といった実現可能性の面にあまり考えが及んでいないように思われ、陸軍の俊秀と呼ばれた人のはずなのに、と以前からやや不思議に思っている。
インパール作戦開始前、メイミョウの第15軍司令部で牟田口中将とやり取りのあった報道班員が、以下のようなことを書き残している。
「一夜私が牟田口軍司令官を官邸に訪問した時、こんなことがあった。(中略)
『今のうちに暇でもあったら読んで見給え、なかなかいいことが書いてある』と言って尾崎士郎の小説『成吉思汗』を貸してくれた。無聊の新聞記者を慰める軍司令官の親切に感謝して『ではお借りします』と宿舎に帰ってから本を開いてみた。(続)
インパール作戦開始前、メイミョウの第15軍司令部で牟田口中将とやり取りのあった報道班員が、以下のようなことを書き残している。
「一夜私が牟田口軍司令官を官邸に訪問した時、こんなことがあった。(中略)
『今のうちに暇でもあったら読んで見給え、なかなかいいことが書いてある』と言って尾崎士郎の小説『成吉思汗』を貸してくれた。無聊の新聞記者を慰める軍司令官の親切に感謝して『ではお借りします』と宿舎に帰ってから本を開いてみた。(続)
「八月十五日以降、レイテ島において米軍に投降したものは約二〇名である」
との記述があるが(p178)、どこから引用した情報なのか、以前から気になっている。
いずれにせよ、大岡昇平『レイテ戦記』の「終戦後(カンギポット)山から出て来た者は一人もいなかった」という記述は、古い情報として否定されるべきであろう。
(大岡を責める趣旨ではなく、一人の作家が当時収集できた情報では、それが限界だったということではないかと思う)
「八月十五日以降、レイテ島において米軍に投降したものは約二〇名である」
との記述があるが(p178)、どこから引用した情報なのか、以前から気になっている。
いずれにせよ、大岡昇平『レイテ戦記』の「終戦後(カンギポット)山から出て来た者は一人もいなかった」という記述は、古い情報として否定されるべきであろう。
(大岡を責める趣旨ではなく、一人の作家が当時収集できた情報では、それが限界だったということではないかと思う)
山内少佐は同書で、「第68旅団発足直後の昭和19年7月11日に、自分は旅団参謀に任命されたが、栗栖旅団長や幹部クラスと折り合いが悪く、8月8日に解任され、なかば放逐される形で台湾軍に転出した」旨を述べていますが、同旅団の部隊史的な本である『陸軍公主嶺学校と星兵団』では、上記の参謀在任期間も含め、山内少佐の存在は完全に抹殺されています。
山内少佐は当時の旅団の状況をかなり具体的に証言しており、旅団の関係者であることは間違いないように思われ、謎としか言いようがありません。
山内少佐は同書で、「第68旅団発足直後の昭和19年7月11日に、自分は旅団参謀に任命されたが、栗栖旅団長や幹部クラスと折り合いが悪く、8月8日に解任され、なかば放逐される形で台湾軍に転出した」旨を述べていますが、同旅団の部隊史的な本である『陸軍公主嶺学校と星兵団』では、上記の参謀在任期間も含め、山内少佐の存在は完全に抹殺されています。
山内少佐は当時の旅団の状況をかなり具体的に証言しており、旅団の関係者であることは間違いないように思われ、謎としか言いようがありません。
現場指揮官としては一方の極端なケースなので、もう一方の極端なケース(例えば、以前触れた田中稔少佐とか)も一緒に把握しないと、旧軍に対するバランスの取れた見方にはならないと思う。
現場指揮官としては一方の極端なケースなので、もう一方の極端なケース(例えば、以前触れた田中稔少佐とか)も一緒に把握しないと、旧軍に対するバランスの取れた見方にはならないと思う。
林大尉は歩兵第73連隊の連隊旗手を務めた後、同連隊の第1大隊第3中隊長としてルソン島に出征。既に師団が甚大な被害を受けていた昭和20年5月下旬、第1大隊の残存兵力200名からなる混成中隊の隊長に任命され、タクボ峠の最前線に向かう。6月1日、米軍の砲撃により個人壕で戦死。没後少佐。(続)
林大尉は歩兵第73連隊の連隊旗手を務めた後、同連隊の第1大隊第3中隊長としてルソン島に出征。既に師団が甚大な被害を受けていた昭和20年5月下旬、第1大隊の残存兵力200名からなる混成中隊の隊長に任命され、タクボ峠の最前線に向かう。6月1日、米軍の砲撃により個人壕で戦死。没後少佐。(続)
(SNSは見ています)
(SNSは見ています)
この人物は、インパール作戦の作戦命令すら読んだことがなく、作戦の目的さえ分かっていないのではないか。
ただ、こういう問題人物が、wikipediaを独りよがりな研究発表の場に悪用していることで、wikipediaの信用度そのものがどんどん下がっており、そのことは次第に有名になりつつあるように思う。
ja.wikipedia.org/w/index.php?...
この人物は、インパール作戦の作戦命令すら読んだことがなく、作戦の目的さえ分かっていないのではないか。
ただ、こういう問題人物が、wikipediaを独りよがりな研究発表の場に悪用していることで、wikipediaの信用度そのものがどんどん下がっており、そのことは次第に有名になりつつあるように思う。
ja.wikipedia.org/w/index.php?...
shirakaba.link/betula/%E5%B...
少佐で予備役編入は早すぎる気がしますが、大正14年なら宇垣軍縮の影響でしょうか。今村均(陸大首席)の少佐進級は大正11年、中佐は15年なので、思ったほど進級スピードに差は付いていない印象。
この小泉少尉、今村の回顧録には、予備役中佐時代に中国戦線で兵站業務を行っていた様子が描かれていましたが、大戦末期の昭和19年9月には新潟聯隊区司令部部員に発令されていたのですね。(異動通報では少佐なので、今村の「中佐」は、あるいは記憶違いか)
shirakaba.link/betula/%E5%B...
少佐で予備役編入は早すぎる気がしますが、大正14年なら宇垣軍縮の影響でしょうか。今村均(陸大首席)の少佐進級は大正11年、中佐は15年なので、思ったほど進級スピードに差は付いていない印象。
この小泉少尉、今村の回顧録には、予備役中佐時代に中国戦線で兵站業務を行っていた様子が描かれていましたが、大戦末期の昭和19年9月には新潟聯隊区司令部部員に発令されていたのですね。(異動通報では少佐なので、今村の「中佐」は、あるいは記憶違いか)
「隊長室に行くと、稲田中尉と少佐の肩章のある背のひくい将校とが話をしてゐた。丸顔を髯で埋め、ぐるりとした丸い眼でまじまじと見る。稲田中尉から田中少佐だと紹介されて、この人かともう一度見なほした。作間部隊の大隊長で、兵隊たちが、敵は英軍ではなくて田中少佐であるといつてゐるといふことをきいたことがある。
一度も中隊、陣地を見まはらず、天気のよい日で、飛行機の来ない日に迎へをよこせといつた、また、敵機が来ると一番に防空壕にとびこみ、こしらへた二人の副官を入口の両側に張り番させたともきいた。(続)
「隊長室に行くと、稲田中尉と少佐の肩章のある背のひくい将校とが話をしてゐた。丸顔を髯で埋め、ぐるりとした丸い眼でまじまじと見る。稲田中尉から田中少佐だと紹介されて、この人かともう一度見なほした。作間部隊の大隊長で、兵隊たちが、敵は英軍ではなくて田中少佐であるといつてゐるといふことをきいたことがある。
一度も中隊、陣地を見まはらず、天気のよい日で、飛行機の来ない日に迎へをよこせといつた、また、敵機が来ると一番に防空壕にとびこみ、こしらへた二人の副官を入口の両側に張り番させたともきいた。(続)