部隊長クラスの最期に関する証言があるのは、大変貴重な事例かと思います。第1揚陸隊については初めて知りました。
熊沢三郎さんの方も、「落伍」とあるのは、おそらく捕虜になったという意味ですね。「ゆきゆきて、神軍」の奥崎謙三のように、捕虜になって生還した人は散発的にいるので、それらの人々から断片的に実態を把握するしかない、というのが実情なのでしょうね。
mafiaさんのように、必要な時に不定期にリプライを下さるのが、当方にとってもちょうど良いペースと感じています。いつもありがとうございます。
部隊長クラスの最期に関する証言があるのは、大変貴重な事例かと思います。第1揚陸隊については初めて知りました。
熊沢三郎さんの方も、「落伍」とあるのは、おそらく捕虜になったという意味ですね。「ゆきゆきて、神軍」の奥崎謙三のように、捕虜になって生還した人は散発的にいるので、それらの人々から断片的に実態を把握するしかない、というのが実情なのでしょうね。
mafiaさんのように、必要な時に不定期にリプライを下さるのが、当方にとってもちょうど良いペースと感じています。いつもありがとうございます。
『これに使用された船はと言えば、驚くなかれ数世紀前の八幡船級のものばかりで、あえて言うならば海上の竹槍戦法というものである』
というのが実相であった。(略)
装備と同じく、旅団の宿営状況もまた劣悪なものであった。
旅団の駐留地年萌は小部落のため軍隊に対する宿営力を欠き、船舶輸送の関係で建築材料も到着せず、方錐天幕もないため各隊は熊笹を伐開、笹小屋を作ってこれを宿舎とした。のちに一部の建築材料が到着、司令部は三角兵舎に入ることができたが、その他の多くは笹小屋で越冬することになった」
『これに使用された船はと言えば、驚くなかれ数世紀前の八幡船級のものばかりで、あえて言うならば海上の竹槍戦法というものである』
というのが実相であった。(略)
装備と同じく、旅団の宿営状況もまた劣悪なものであった。
旅団の駐留地年萌は小部落のため軍隊に対する宿営力を欠き、船舶輸送の関係で建築材料も到着せず、方錐天幕もないため各隊は熊笹を伐開、笹小屋を作ってこれを宿舎とした。のちに一部の建築材料が到着、司令部は三角兵舎に入ることができたが、その他の多くは笹小屋で越冬することになった」
いささか度胆を抜かれた形だ。航空戦力も殆ど零に等しいビルマ戦線で、印度攻撃の夢がゴム風船のようにふくらんで行ったのも宜なるかなであった。インパールの敗戦と軍司令官のアンダーラインは今もって私に深い印象を残している」
(『秘録大東亜戦史 マレー・ビルマ篇』所収、成田利一「運命の会戦」より)
いささか度胆を抜かれた形だ。航空戦力も殆ど零に等しいビルマ戦線で、印度攻撃の夢がゴム風船のようにふくらんで行ったのも宜なるかなであった。インパールの敗戦と軍司令官のアンダーラインは今もって私に深い印象を残している」
(『秘録大東亜戦史 マレー・ビルマ篇』所収、成田利一「運命の会戦」より)
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生還者の1名、後藤薫氏(同旅団の歩兵第126連隊第2大隊第7中隊第1小隊第1分隊長、軍曹)は、以下のような証言を残している。
(『昭和史の天皇 レイテ決戦(下)』(読売新聞社編、角川文庫)p316-319より引用)
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『陸軍公主嶺学校と星兵団』では、参謀の市川中佐が昭和19年7月8日に転出、8月8日に歩兵第126連隊副官の三角少佐(山内大尉と同じく無天)が後任の参謀として着任、としか書かれていないのですが、①戦場への進出間近の時期に1か月も参謀不在なのは不自然、②旅団内部から後任者を充てるのであれば1か月も掛からないはず、ということで、どうも不自然だなと思っていたところです。
山内大尉自身、旅団長だけでなく他の隊長などとも衝突していたらしいので、その辺りの感情論が『陸軍公主嶺学校と星兵団』の記載に影響した可能性はありますが、詳細は不明ですね。
『陸軍公主嶺学校と星兵団』では、参謀の市川中佐が昭和19年7月8日に転出、8月8日に歩兵第126連隊副官の三角少佐(山内大尉と同じく無天)が後任の参謀として着任、としか書かれていないのですが、①戦場への進出間近の時期に1か月も参謀不在なのは不自然、②旅団内部から後任者を充てるのであれば1か月も掛からないはず、ということで、どうも不自然だなと思っていたところです。
山内大尉自身、旅団長だけでなく他の隊長などとも衝突していたらしいので、その辺りの感情論が『陸軍公主嶺学校と星兵団』の記載に影響した可能性はありますが、詳細は不明ですね。