まさ
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まさ
@careworker.bsky.social
哲学に関心のある介護職。
介護福祉士、介護支援専門員、社会福祉士。

Discordにて読書会「ケアとか倫理とか哲学とか」主宰/参加者随時募集中

高卒。哲学・倫理学の専門教育は受けていません。
「生老病死」に悩みはつきものだが、それに対し悩み、考えた分だけ、その意味は味わい深いものになるだろう。仮に考えることを咀嚼と例えるなら、悩むことは味わうこと、それも人生の苦味の部分なのかもしれない。しかし、苦味もない人生はずいぶん味気ないものだろう。
December 11, 2025 at 12:11 AM
それらは所有できない。それらは訪れる。自我は自己の到来を時に待つ必要がある。自己は所有できない。それは存在において実現されるもの。
December 10, 2025 at 8:00 AM
こう書いていて気付いたのは、僕は「ケア」を「道」と捉えていたと言うこと。
December 10, 2025 at 7:07 AM
マネジメント的役割の比重が増えてきたからこそ、原点としての「ケアの喜び」の深く繋がっていないと、道を見失う。道を誤る。
December 10, 2025 at 7:07 AM
ロゴセラピーの適応的な領域は神経性なのだと思うが、精神分裂病に関しては「意識性」への呼び掛けというところに困難があるようで、具体的な治療プロセスには記述が及んでいなかったが、そうであっても「意識性」と「責任性」という構造は共通しているのだと最後に述べられていたことが印象に残る。
December 7, 2025 at 1:35 AM
「一般実存分析」は精神疾患に関わらず、「人生の意味」や「死の意味」など、広く人間一般の共通する部分を論じており、本書において中核的部分を占めるが、それを精神疾患に応用した「特殊実存分析」におけるフランクルの精神病理学的(フランクルのその分析手法は実存分析と言われるが)記述は、臨床において学ぶべき部分が多いように感じた。「一般実存分析」においても「特殊実存分析」においても、治療的アプローチとしては共通している。実存の根本構造としての「意識性」と「責任性」に呼び掛け、固有の「意味」へと意識を向けることで、症状への執着を緩和させるのだと言えると思う。
December 7, 2025 at 1:34 AM
意識、無意識、自我、自己の関係。
December 3, 2025 at 2:36 AM
強迫行為は本人も不合理と意識しながら、それをせざるを得ないという状況があるが、常同行動は半ば無意識に安心を得る為の行為として行われるという違いがある。
前者は結果的に安心が得られないためにエスカレートしていくが、後者はある程度容認した方が精神が安定する。
意識的行為と無意識的行為。
December 3, 2025 at 2:36 AM
ロゴセラピーの場合には、個々の症候あるいは疾患そのものを取り扱うことが問題なのではなく、取り扱われるべきものは強迫神経症者の自我であり、変化せられるべきであるのは強迫神経症に対する彼の態度なのである。」p205
December 1, 2025 at 8:53 PM
「たとえば統合失調症の患者に催眠法的な処置を試みるならば彼らに被害感情を誘発しうるように、また鬱病の患者に対して、家族に対する武器として情動を利用することを責める個人心理学的処置が患者の自己非難の水車にただ水を注ぐことだけを意味するように、強迫神経症者の症候を立ち入って取り扱うことはただ彼の疑惑症を扶けるに役立つにすぎないこともあるであろう。 症候をこのように取り扱うことと、ロゴセラピーによる症候の一時的な取り扱いとは区別されうるのである。
December 1, 2025 at 8:53 PM
ある不眠傾向の認知症の方、ベッドの上で布団を整えるを行動を延々とするのだが、それに対し意識を睡眠へ向けようと職員が声かけすると、返って反発するようにその行動の執着するように思える。しかし、それをある程度距離を取って見守っている、ある程度のところで入眠するということがあった。これは認知症の常同行動なのか、強迫行為なのか、考えされられる経験となった。
December 1, 2025 at 8:36 PM