介護福祉士、介護支援専門員、社会福祉士。
Discordにて読書会「ケアとか倫理とか哲学とか」主宰/参加者随時募集中
高卒。哲学・倫理学の専門教育は受けていません。
考えることは、私と対象とが分離され、私と対象との間に距離がある。
これに対し悩むことは、その問題自体の引き受けがまず問題としてある。その引き受けが成されると、次に考えることが始まる。引き受けるのも嫌な問題だからこそ、それに悩むということは言えるのではないか。
また、悩むことは不要なもののように言われがちだが、引き受け難いものへの態度が深い部分で定まったとき、その人の存在の仕方は、それまでとは異なってくるのではないかと思う。
考えることは、私と対象とが分離され、私と対象との間に距離がある。
これに対し悩むことは、その問題自体の引き受けがまず問題としてある。その引き受けが成されると、次に考えることが始まる。引き受けるのも嫌な問題だからこそ、それに悩むということは言えるのではないか。
また、悩むことは不要なもののように言われがちだが、引き受け難いものへの態度が深い部分で定まったとき、その人の存在の仕方は、それまでとは異なってくるのではないかと思う。
愛は痛みを伴う。愛は自我を超えている。それが自我の中に入ってきたら、自我の殻はひび割れてしまう。しかし、自己の深い部分では、自我が割れてでも迎え入れるべきものであることを、なぜか知っているのだろう。自我はそれに驚く。不意に、「意」を超えた部分で働くそれに。
愛は痛みを伴う。愛は自我を超えている。それが自我の中に入ってきたら、自我の殻はひび割れてしまう。しかし、自己の深い部分では、自我が割れてでも迎え入れるべきものであることを、なぜか知っているのだろう。自我はそれに驚く。不意に、「意」を超えた部分で働くそれに。
愛や美に触れたとき、不意に涙し自分でも驚くようなことがある。これは超越的な何かに触れて、精神の深い部分が共鳴しているからだろう。精神の深い部分の共鳴に、自我は驚嘆する。自我は自己の一部しか知らない。「自己実現」なることは、自我が驚くようなこと実現であるだろう。
愛や美に触れたとき、不意に涙し自分でも驚くようなことがある。これは超越的な何かに触れて、精神の深い部分が共鳴しているからだろう。精神の深い部分の共鳴に、自我は驚嘆する。自我は自己の一部しか知らない。「自己実現」なることは、自我が驚くようなこと実現であるだろう。
これはいま自分自身に問うべき重要で固有な課題であると感じる。
これはいま自分自身に問うべき重要で固有な課題であると感じる。
独語原題は『医師による魂の癒し』
数年前に邦訳第11版の『人間とは何か』山田訳は読了していたものの、旧版の霜山訳もまた違った魅力があるため読み進めていた。
フランクルを読みはじめて20年近くになるが、未だに全ての著作は読めていないし、読む時期によって発見が異なる。今回は「特殊実存分析」の部分、不安神経症、強迫神経性、鬱病、精神分裂病を扱った部分に引き寄せられた。
独語原題は『医師による魂の癒し』
数年前に邦訳第11版の『人間とは何か』山田訳は読了していたものの、旧版の霜山訳もまた違った魅力があるため読み進めていた。
フランクルを読みはじめて20年近くになるが、未だに全ての著作は読めていないし、読む時期によって発見が異なる。今回は「特殊実存分析」の部分、不安神経症、強迫神経性、鬱病、精神分裂病を扱った部分に引き寄せられた。
今日は第二章第二節「特殊実存分析」、神経性を扱った部分を少し読みます。
今日は第二章第二節「特殊実存分析」、神経性を扱った部分を少し読みます。
単純に心理的な側面から語れないのは前提として、そこには自我の不全感のようなものがあるように思え、それがある種の認知症の方にも共通しているように思う。
単純に心理的な側面から語れないのは前提として、そこには自我の不全感のようなものがあるように思え、それがある種の認知症の方にも共通しているように思う。
老いが時に老練な粘り強さを発揮するのは、背後に死が控えている者の諦めと意地があるからかもしれない。諦めと意地は相反するようでいて、同居することで複雑な力を生み出すように思う。
老いが時に老練な粘り強さを発揮するのは、背後に死が控えている者の諦めと意地があるからかもしれない。諦めと意地は相反するようでいて、同居することで複雑な力を生み出すように思う。
遊びに飢えた子ども達の顔を前にして本の世界に立て籠ること、それは大人の殻に立て籠ることだ。しかし自我は読書を求める…。
遊びに飢えた子ども達の顔を前にして本の世界に立て籠ること、それは大人の殻に立て籠ることだ。しかし自我は読書を求める…。
現実的問題から離れ、思考の自由と孤独を満喫した結果、人はその自由と孤独の意味を問うことになる。フロムが『自由からの逃走』で問うたものは、その「何のために?」と問いかけてくる「自由」であって、風のように奔放な自由ではなく、良心に問いかけてくる「自由」であったろう若松英輔さんが「自由」を「自ら」に「由る」ことと述べていたが、そういう意味での「自由」は、「良心」も含みこむものと言えそうだ。またスピノザの「自由」とはそういうものだと捉えている。自己の深い必然性に従うことは、自由に反するものどころか、一致して然るべきものだと。
現実的問題から離れ、思考の自由と孤独を満喫した結果、人はその自由と孤独の意味を問うことになる。フロムが『自由からの逃走』で問うたものは、その「何のために?」と問いかけてくる「自由」であって、風のように奔放な自由ではなく、良心に問いかけてくる「自由」であったろう若松英輔さんが「自由」を「自ら」に「由る」ことと述べていたが、そういう意味での「自由」は、「良心」も含みこむものと言えそうだ。またスピノザの「自由」とはそういうものだと捉えている。自己の深い必然性に従うことは、自由に反するものどころか、一致して然るべきものだと。