①東京古書会館での稀覯書展と展示即売会に行き、福沢諭吉『増訂華英通語』1860年初版上下本の復刻版を入手。②国立公文書館での「世界へのまなざし:江戸時代の海外知識」展で新井白石『西洋紀聞』自筆稿ほかを嘆賞。さらに③東京国立近代美術館「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」で、丁寧な解説と優れた構成による広義の戦争画・メディア展を見た。充実した疲労感と共に友人と本郷での酒食を満喫。
①東京古書会館での稀覯書展と展示即売会に行き、福沢諭吉『増訂華英通語』1860年初版上下本の復刻版を入手。②国立公文書館での「世界へのまなざし:江戸時代の海外知識」展で新井白石『西洋紀聞』自筆稿ほかを嘆賞。さらに③東京国立近代美術館「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」で、丁寧な解説と優れた構成による広義の戦争画・メディア展を見た。充実した疲労感と共に友人と本郷での酒食を満喫。
『日本政治学出版の舞台裏』をめぐって、本と編集と出版の話をしました。延長試合となり「その3」もあり、現在編集中。近々アップされる予定です。
jpn01.safelinks.protection.outlook.com?url=https%3A...
『日本政治学出版の舞台裏』をめぐって、本と編集と出版の話をしました。延長試合となり「その3」もあり、現在編集中。近々アップされる予定です。
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神護寺の後に高山寺に詣り、(松下圭一先生ご夫妻の紹介により)山主の小川千恵さんにお会いしてお話しを伺ったことも懐かしい。25年前のこと。
神護寺の後に高山寺に詣り、(松下圭一先生ご夫妻の紹介により)山主の小川千恵さんにお会いしてお話しを伺ったことも懐かしい。25年前のこと。
《詩が詩であるためにはこうした、事前には何をどう書くことになるのかわからないが、それでも何かどうしても書いておきたい衝動があって成立するものであって、それは書かれたあとにのみ書き手にもその内容が知られるという厄介かつ快楽的なシロモノなのである。》
《詩が詩であるためにはこうした、事前には何をどう書くことになるのかわからないが、それでも何かどうしても書いておきたい衝動があって成立するものであって、それは書かれたあとにのみ書き手にもその内容が知られるという厄介かつ快楽的なシロモノなのである。》
一節「高橋真と『アイヌ新聞』の挑戦」、二節「『北の光』と新生北海道アイヌ協会」、三節「進駐軍とアイヌ民族の言論活動」で構成されている。
戦後現代のアイヌ文学と言論活動のスタートを切った高橋真と、北海道アイヌ協会の言論活動とを扱い、さらにGHQとの関連での「幻のアイヌ独立論」についても論究していて、とても刺激的である。著者の博捜にも感心する。
一節「高橋真と『アイヌ新聞』の挑戦」、二節「『北の光』と新生北海道アイヌ協会」、三節「進駐軍とアイヌ民族の言論活動」で構成されている。
戦後現代のアイヌ文学と言論活動のスタートを切った高橋真と、北海道アイヌ協会の言論活動とを扱い、さらにGHQとの関連での「幻のアイヌ独立論」についても論究していて、とても刺激的である。著者の博捜にも感心する。
『日本政治学出版の舞台裏』をめぐって、本と出版社の話をしました(9月27日)。つづきも近々アップされる予定です。
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『日本政治学出版の舞台裏』をめぐって、本と出版社の話をしました(9月27日)。つづきも近々アップされる予定です。
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ところで、この店の道路向かいは、演劇作家の久保栄(1900-58)の生誕地だった。栄の父は札幌市商工会議所会頭。実業家であった祖父・父は、正月の年頭の事業方針挨拶と宴会をこの地にあった広壮な屋敷で行ったというが、もちろん今はその片鱗もない。
ところで、この店の道路向かいは、演劇作家の久保栄(1900-58)の生誕地だった。栄の父は札幌市商工会議所会頭。実業家であった祖父・父は、正月の年頭の事業方針挨拶と宴会をこの地にあった広壮な屋敷で行ったというが、もちろん今はその片鱗もない。
前日は、この奥沢墓地まで歩いて30分の距離にある松ケ枝の宿に泊まりました。今朝7時半に宿を出て、歩いて奥沢墓地に向かいました。
旧天神小学校の横から墓地に入り、およその場所の検討をつけて歩きましたが、何の標識もなく、ほとんど諦めかけました。急な坂を登ったところに少しだけ平らなところがあり、そこで一休みしていましたら、山側20メートルほど先に「小林家之墓」が見える! それも、写真で見ていた書体だ‼︎ これだと思ってそばに行きましたら、全くその通り‼️
多喜二が1930年に父親のために建立した墓に、その遺骨は埋葬されたわけです。
前日は、この奥沢墓地まで歩いて30分の距離にある松ケ枝の宿に泊まりました。今朝7時半に宿を出て、歩いて奥沢墓地に向かいました。
旧天神小学校の横から墓地に入り、およその場所の検討をつけて歩きましたが、何の標識もなく、ほとんど諦めかけました。急な坂を登ったところに少しだけ平らなところがあり、そこで一休みしていましたら、山側20メートルほど先に「小林家之墓」が見える! それも、写真で見ていた書体だ‼︎ これだと思ってそばに行きましたら、全くその通り‼️
多喜二が1930年に父親のために建立した墓に、その遺骨は埋葬されたわけです。