近世前期の藩政では、会津の保科や加賀の前田、岡山の池田や水戸が儒学を用いたことが有名だけど、むしろ彼らが例外なくらいで。
近世前期の藩政では、会津の保科や加賀の前田、岡山の池田や水戸が儒学を用いたことが有名だけど、むしろ彼らが例外なくらいで。
べらぼうは一貫して朱子学=体制教学て見える描き方だったけど、最終回でついにはっきり言ってしまったなあと。体制教学としての儒学は学説的には50年前に否定されてる話なので...。(教科書ではまだそう説明してるのかな?)まあ多分...分かった上で尺の都合ああいう描写になったと思うのですが...。
べらぼうは一貫して朱子学=体制教学て見える描き方だったけど、最終回でついにはっきり言ってしまったなあと。体制教学としての儒学は学説的には50年前に否定されてる話なので...。(教科書ではまだそう説明してるのかな?)まあ多分...分かった上で尺の都合ああいう描写になったと思うのですが...。
会津藩を例にとるけど、蘆名盛隆が暗殺されたあと、戦争の舞台になり、伊達政宗と蒲生氏郷が死ぬほど争ってたじゃん?上杉、加藤、さまざまな大名が入っても治らない難しい土地だったんだよね
それを保科正之がガッチガチに朱子学の論理を使って会津を変えたんだよ
会津藩を例にとるけど、蘆名盛隆が暗殺されたあと、戦争の舞台になり、伊達政宗と蒲生氏郷が死ぬほど争ってたじゃん?上杉、加藤、さまざまな大名が入っても治らない難しい土地だったんだよね
それを保科正之がガッチガチに朱子学の論理を使って会津を変えたんだよ
最終回の蔦重と本居宣長の対話を振り返ってたんですが、紛争当事者の考える「釣り合い」のために紛争それ自体には無関係のはずの人間の命が奪われるくらい面目は重く命は軽い中世の論理を終わらせるには、儒学の論理で世の中を固める必要があったわけです。
だから蔦重たちの「ガチガチに善悪を決める儒学はよその国のものだから我が国には合わない、我が国は『もののあわれ』の和学の国だ」って言葉はまさに天下泰平の世だから言えたんだし、あれが言える世の中が、中世の人々が本心では待ち望んでいた天下静謐の世なんだとも言えるんですね。
最終回の蔦重と本居宣長の対話を振り返ってたんですが、紛争当事者の考える「釣り合い」のために紛争それ自体には無関係のはずの人間の命が奪われるくらい面目は重く命は軽い中世の論理を終わらせるには、儒学の論理で世の中を固める必要があったわけです。
だから蔦重たちの「ガチガチに善悪を決める儒学はよその国のものだから我が国には合わない、我が国は『もののあわれ』の和学の国だ」って言葉はまさに天下泰平の世だから言えたんだし、あれが言える世の中が、中世の人々が本心では待ち望んでいた天下静謐の世なんだとも言えるんですね。