sasaki.kouji(佐々木広治)
banner
sasakikouji.bsky.social
sasaki.kouji(佐々木広治)
@sasakikouji.bsky.social
岩手県盛岡市在住のただのおじさんです。
いろいろ教えて学べたら幸い。
よろしくお願いします。
1975年8月1日生まれ。
A型。

カクヨムで書いております。よろしければ。
https://kakuyomu.jp/works/16817330654148299357

ご奇特な方がいらしたら、お恵みいただけますと幸い。
https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/3HE9DETGUVIGK?ref_=wl_share

よろしくお願いします。
るということか。露伴は真面目というのか、真剣というのか、興味をもつことにとことん打ち込み研究される人であったのだろうと改めて心づかされる。そしてそれは、万事が生きる道に通ず、ということを分かっていたからかもしれぬ、とも思ったりする。
November 19, 2025 at 6:03 AM
えていて、通俗に堕しそうでいて、肥沃な大地に点々と高雅な花々の咲いているようなやわらかさ、のどかさ、メルヘンさすらあり。むろん諧謔もあふれんほどに。エネルギー、熱量がつよい。それは稟質もあろうけれど、意識的な操作でもあるのだろう。余談として原題『The world according to Garp』を見ていて、worldがwardに近い、似ている、そのことに気がつき、なんとも可笑しくニヤリとさせられた。
November 18, 2025 at 3:22 AM
裏書きしているように思えた。」著者がドストエフスキーを高く買っているらしいことも、ドストエフスキーを世界文學のうちでもっとも愛する私としてはうれしい。「グリルパルツァーとドストエフスキーの違いはテーマにあるのじゃない。違いはそのテーマを扱う知性と洗練度にある。その違いがつまりは芸術だ、 とガープは結論した。この明らかなる事実の発見がガープにはなんとなく嬉しかった。」そして『永遠の夫』も出てくる。猥雑といえば猥雑で、混沌といえば混沌としていて、されどすっきりと物語の線が見
November 18, 2025 at 3:21 AM
では決してない。何ゆえにそうするのかといえば、それは単純なことで、未知の真善美との出会い、そこで受ける悦びのため。それに尽きる。あくまでも自分の悦びのために。もちろんそれに満たない、苦痛や倦怠を味わされることもあるわけだが。本著からは、ひたひたとあたたかく胸を満たされた。本文中の作中作に対する批評にして死に対する論評が、本著の(はしなくも、ではなく狙っているのだろう)特徴を見事に表しているように思われる。「喜劇的で醜悪で不気味で、必然性がなくて愚かしくて不必要であるその性格において、ガープがこれまでこの世界の仕組みについて書いてきたすべてのものを
November 18, 2025 at 3:21 AM
どうしてどうして。作品をなすその人となりが、地味でその旨味の分かりにくい部分がなくもないものの、おもしろい。初老になって、ようようその滋味に目が開いた、ということか。
November 16, 2025 at 2:37 AM
時代が違えど民衆というものは感化されやすく、騙されやすく。木戸銭狙いでしかないものに自らの玉乃緒を断つ。生きてこそなんぼ。自死、心中を非難はしない。さりながら美化することでもない。近松門左衛門自体は、そんなことさらさら思ってなんぞいなかっただろうし。なお、「江戸時代の男女はこれほど涙を流すものかといぶかるほど」という感想を見たが、上代のものも平安のものも知らない、読んでいないことがよく分かる。それで分かったようにレビューするその態度に、私なんぞは訝ってしまうものだが。
November 14, 2025 at 2:32 AM
もあろう。その部分が印象に残っていて、例の叔母と重なってならず。その決意が、であり、母親の有り様が、であり。倫理的にいえば良しとは決して言えぬことだが、人情としてはやむを得ぬことだろうと理解はできる。されど切り捨てられた者の無念も理解できる。切り捨てたところで果たし生き延びたものか不明ではあるし。そういう部分の考察が、著者はやはり甘いと思う。そんなことを思い巡らすことのあたうようになれることも、読むことの効用のひとつではないか。かく、本を読む男は思うことだ。
November 13, 2025 at 4:02 AM
宗教というものへと肉薄してゆく労作。若い人ほど読むべきだと思われるが、残念ながら廃刊となり手が出し易いとは言えぬ値となっている。何ならかの手が回っているのだろうか、と思ったりもしている。
November 12, 2025 at 3:40 AM
善行によって償われる」という理論のもと、金貸しの老婆を殺害した『罪と罰』のラスコーリニコフの理屈に似ているが、罪となるようなことがあったとしても、抑え、善行を積んでゆけばよいのではないか、と言ったことを否定されたことだ。そんなもので罪は拭えないのだ、と。さりながら教会にそういう文言があることを本著により知った。それがなくとも、何があっても許されないのだとしたら、懺悔だとか悔い改めは無意味ということになろう。本著は、末日聖徒イエス・キリスト教会ではなく、その原理主義の犯した犯罪、元の教会との関わりを追及したノンフィクション。そしてそれらを題材にしながら
November 12, 2025 at 3:40 AM
疑問は差別意識であり。「私たちは子どものころからずっと、黒人というのは劣悪な人間であり、人間ですらないと教えられてきました。私には、ほかに知りうる術がなかったのです。」「異人種間の結婚にたいする嫌悪は、モルモン原理主義者と本流のモルモン教徒に共通しているものである。モルモン教会大管長スペンサー・W・キンボールが一九七八年に啓示をうけ、黒人が神権保持者になるのを禁じていた教義を破棄したあとでも、教会の公式の方針は依然として、白人教徒に黒人との結婚をしないよう強く勧告しつづけてきた。」ただし無知であったから目を瞑っていた。決定的となった、トリガーとなったものは、私が 「一つの罪は百の
November 12, 2025 at 3:40 AM
儒教、神道にも目が向いてゆくわけだが。繰り返すがあくまでも独学であり、各々に詳しい方からしたら噴飯物の知識でしかないのだろうが。本著をもっと早く読みたかった、と思った。正に斬られ突き刺されたところを扱い、鮮やかに明快に詳らかに開陳してあり、このことを予め知っておれば深入りすることなく、深入りしたところでよく防御し得たであろうから。さりながら、あれがあったからこそ、様々な方面に目をむけ探求したわけだから徒労ではなかった、という部分も否めないだろう。それは希望だろうか。関わりを持っていた、私の今よりも未熟ななかでのまずもった
November 12, 2025 at 3:39 AM
過大なのではないか、と思う。されど、學ぶところはある、とぽつりぽつりと読みながらもつ感想。晩年は夷斎先生が痛罵しているが読書を怠り惨憺たる有り様となりしが。畢竟、思索観察も怠るていたらくとなっていたことだろう。本著からも著者自身からもまた。
November 11, 2025 at 3:18 AM
スカスカのひ弱な文章だらけになるのは必定ではないか。そも言文一致の散文自体が歴史の浅い、まだ発展途上のものであるというのに。見直すときに、規範とすべきは森鷗外というのはいい加減よした方がよいのではないか。ただし規範をもったり、森鷗外を読むくらいの人も稀にはなったが。嗚呼。かりにもし、では誰のものがよいかと問われることがあれば、その一人として挙げられるのは、幸田露伴。本著は語り調であるし、さまで難解でもない。言文一致の散文であるし。諧謔もあり。一等おかしいのは、初出時の表題が「小説家幸田露伴君」というところ。
November 9, 2025 at 11:44 PM