sasaki.kouji(佐々木広治)
banner
sasakikouji.bsky.social
sasaki.kouji(佐々木広治)
@sasakikouji.bsky.social
岩手県盛岡市在住のただのおじさんです。
いろいろ教えて学べたら幸い。
よろしくお願いします。
1975年8月1日生まれ。
A型。

カクヨムで書いております。よろしければ。
https://kakuyomu.jp/works/16817330654148299357

ご奇特な方がいらしたら、お恵みいただけますと幸い。
https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/3HE9DETGUVIGK?ref_=wl_share

よろしくお願いします。
#読了 ○○○○著『朝飯』。五月になった中、測候所の技手である語り手は来し方をそぞろに思いおこし愁いを覚える。漂泊の日々。そんな中、旅窶れのした書生体の男が現れる。親戚を頼って旅するなかで病を得寝ついたため路銀がつき、朝飯も食べていないとのこと。語り手はかつての自分を重ね見て、何かしら働いて糧を得ねばならないと諭し、その手段を整えるためと十銭渡すのだが。…やはり巧い。何気なく読みながされてしまうのだろうか、叙述の表現が初っ端から凡百のものとは違う。現代の書き手連中に爪の垢を煎じて飲ませたい。皮肉な落ちも秀逸。語り手は書生風の若い男のことをやれやれとため息をつき、微苦笑しているわけだが、翻って語
December 7, 2025 at 4:58 AM
#読了 マーガレット・ミラー著『殺す風』。
卓越した心理描写と詩的な美しい描写が特徴の著者の高みに到達した作品。津村記久子先生に最も大きな影響をあたえた作品。ロス・マクドナルドの伴侶。そういう前情報があり楽しみにして手にとったものだが、期待が大きすぎたのだろうか、そう賞賛するほどのものでもないのではというのが正直な感想。詩的な美しい描写といわれるが、そうなのだろうか。原文ではそうなのかもしれないが、訳文ではまったくそれは、少なくとも私には感じられず。会話が多くを占めているわけで、そこに美を見出だすことは私にはできなかった。アメリカのものらしいウィット、機知はあるがそれも飛
December 6, 2025 at 4:17 AM
#読了 ○○○○著『秋草』。やはり快く読める。人間性と作物は異なるという好例か。はたと思うのだ。たしかに人でなしな部分はあるし、卑怯でもあるが、そして己がそういう醜さ、卑小さと向き合えなかったのだとしても、人間誰しも良いところだけではなく悪いところもある。○○はある面、際立って人間性が醜悪に見えはするが、されどその数か所を除けば比較的善良な人であったのかもしれない。善良というのか、小心者というのか。小心者ゆえの害悪でもあろうが。本篇は、酷暑をようようやり過ごし、秋にはいったころ「稀な大暑を忘れないため」、秋草に親しみながら綴った随想。まず薫(かおりぐさ)のことについて認めているが、薫とはなんだ
December 5, 2025 at 4:08 AM
#読了 ○○○○著『燈火』。私は○○○○という人間が嫌いだ。老獪な偽善者と芥川龍之介が評したものだが、共感しかない。『破戒』も大したことない、と思うものだし。ために避け、○○のものの頁を繰ることなぞないと思っていたものだったが、ひょんなことから読んだ『ある女の生涯』に、感嘆させられることとなり。悔しいが、うまい。そして本篇を繙き。やはり、うまい。嫌いな私の目から見ても、つけいる隙のなく、巧みにのせられ、気がつけば移入させられている。飯島夫人こと栄子は、病をえて、夫と子らから離れ、療養することに決し、病院のある地へと訪れる。当日は旅館に泊まり、入院の手筈は整っている病院へとゆくばかりなの
December 4, 2025 at 3:21 AM
#読了 金阜山人著『人妻』。夫婦二人暮らしの家の二階に間借りすることになった主人公。一月あまりで引っ越したくなる。それは「夫婦の性的生活に対する羨望と嫉妬」のため。そんな中、事件がおこり。…秀でたところはあるにせよ、手遊という感じで、心理のおこり、流れがぼんやりしている。身も蓋もない言い方をすれば適当に流し書きしたのだろうという印象。されど読後感はよいので、それだけで上等か。
December 3, 2025 at 3:45 AM
#読了 ナタリー・バビット著『時をさまようタック』。1880年の8月の第一週に始まり、その週に終わる物語。一夏の物語、というと今や使い古されくたびれた物語の型のようだが、かつその一週間という短い期間は今の物語ではもうなかなか採用されないかもしれない。アメリカの村トリーギャップの外れに住むフォスター家の10歳の娘ウィニーは、家出をしてはいった領地である森で、美しい青年ジェシィ・タックと出会う。彼は泉の水を飲んでいて、ウィニーも飲みたいというと必死に止められ、そこに来あわせたジェシイの兄と母に拐われることとなり。…詩情豊かな表現に、あっさり簡易な叙述で、読みものとしては水のように抵抗感なく喉越し
December 2, 2025 at 4:36 AM
#読了 マーク・ヘルプリン著『ウィンターズ・テイル』。ジョン・アーヴィングの『ガープの世界』やティム・オブライエンの『カチアートを追跡して』と並ぶ現代アメリカ文学の巨大な成果だという。そして本篇を紹介するために引き合いに出される作家も、ディケンズ、トールキン、ガルシア・マルケス、グレアム・グリーン、ウィリアム・ブレイク、ブラッドベリ、ホイットマン、ベート・グレイン、トマス・ピンチョン、そして当然のことながら同じタイトルの不朽の作品の作者であるシェイクスピアから、ウォルト・ディズニー、神(アン・タイラーは聖書まで引き合いにだしている)。等々解説において高橋源一郎先生が本篇についての言説を紹介され
December 1, 2025 at 4:49 AM
#読了 鏡面生著『巡査』。本篇を夏目漱石が絶賛したのだとか。たしかに『草枕』『坊っちゃん』の漱石に通じるものがある。とはいえ、やはり綾というのか曲というのか捻りのまったくない、著者らしい直截な内容と題名。作家であるらしい主人公が、人の良い巡査と知り合い、酒を酌み交わす。それだけの話でしかない。あまりに直截すぎて、呆気にとられるくらい。著者の常態ではあるが。人として、こういう裏表がないというのか、単純明快であったのだろうか。そう想像したりする。著者を芥川龍之介が評価していたというが、著者の人間性が多分にあるの
November 30, 2025 at 3:02 AM
#読了 孤島生著『窮死』。著者のものでは『武蔵野』と『忘れえぬ人々』を読んでいて、これは小説なのだろうか。それこそ前者は土地のことを記してあるだけだし、後者は過ぎ去りし人びとを記してあるばかり。随想にしても淡々と抑揚もなく味わいの薄く、曲もなく。喩えば島崎藤村の『千曲川のスケッチ』にあたるものだろうと理解は適うも、藤村のはまだしも彩りがあり読ませる工夫だとか才気が見られるのだが。著者のものは積極的に読もうとは思わない、というのかもう他のものも読むことはないと思っていたものだったが、高橋源一郎先生がとあるところで、日本の小説と呼べるものは国木田独歩に始まるのではないかと認めてらして、本篇を
November 29, 2025 at 3:11 AM
#読了 金阜山人著『羊羹』。
飯場で板場の見習いをしていた新太郎。兵役を終え戻るも戦時下、物も不足しはかばかしくない、将来も、またいつ徴兵にあうか分からない。いっそのことと軍屬になつて滿洲へ行き、入營中にならひ覺えた自動車の運轉手になり四年の年月を送る。停戰になり、羽振りのよくなり歸り來る。そして己が錦を見せびらしているうちに、かつて世話になった飯場の主人夫婦に会いたくなる。主人夫婦にも見せつけたいというのもあってのことだろう。店を畳み疎開し、定住しているという田舎へ訪ねると。…そう捻りが効いているわけでも、心理描写が鮮やかでもない。こういったものを手がけさせれば、芥川龍之介は
November 28, 2025 at 3:07 AM
#読了 断腸亭著『或夜』。省線市川驛の待合所に入つて腰掛に腰をかけてゐる季子。越し方を思いかえす。そしてかうしてゐる経緯、彼女の境遇が語られてゆく。戦後さう年を経てはいないが、大分世情が収まりかけた砌。季子は姉夫婦の家に居候してゐる。邪険にされるでなく、特段不満もないはずだが、やりきれなさを覚えてゐる。正確にいへば、不満をもつやうなことはないが、不満とはいへぬやうな薄いものが積もりつもってきてゐて、時おりあちこちへ出かけてゐて、驛の待合所にもよくゐる、といふわけで。けふもさうだつたが、若い男に驛について問はれる。帰宅途中、その男とまた出会い、汁粉屋へと誘はれはいり、帰りについて
November 27, 2025 at 3:43 AM
#読了 金阜山人著『寐顔』。母子家庭。娘は思春期で、母はまだまだ瑞々しく美しく姉妹のように見られることも多々。当時としても奥手なほうであったろう娘は、友人と遊ぶでもなく母とのみおる。それは自分がために亡き父の家にいることになっているのではないか、等申し訳なさがあるからでもあるのか。ある時、かかりつけ医が老齢のため亡くなり、代わりに三十半ばほどの見栄えのよい医師がくるようになり。事実はどうだから知らぬものの、母と噂があるらしいことを娘は知る。たとい何であれ、素知らぬふりをしようと母の寝顔を見て思う。という、それだけ
November 26, 2025 at 2:54 AM
#読了 雷音洞主著『貧富幸不幸』。冒頭に結論が明記されてある。「貧と富とは幸福と不幸福とに対して相即つくところは無い。」皆当たり前と思うのではないか。なにを分かりきったことを、小馬鹿にしとるのかと怒りだす人もいるかもしれない。されど、このことをしかと諒解できている者が過半数なのだろうか。雷音洞主は叱咤する。「忌憚無く言わしむれば、貧即不幸福の妄信が生じてより以来、人々は長い間沈淪している。しかしこれは世が未だ進歩せぬからである。砂糖気の少い者は美味で無いと信じている程度の味覚を有せる如き人々の程度であるからである。そして今日の人々は他人の有もてる砂糖を我等が有ち得たらば幸福で有ろうと云うが
November 25, 2025 at 4:35 AM
#読了 幸田露伴著『馬琴の小説とその当時の実社会』。馬琴のものは何ひとつ読んでいないため、はたして私に本篇を読む資格があるのだろうか、いや、おもしろく読めるものだろうかと懸念はあるも、杞憂ですみ。講演のためのものであるのか、題名の厳めしさ、難しそうな文字面とは案に相違し、語り口調でのみ込みやすい。馬琴のものの「小説中の人物と実社会の人物との関係」に言及している。「すべてに、これは過ぎた昔の事であるといふ過去と名のついた薄い白いレースか、薄青い紗のきれのやうなものを被けて置いて、それを通して読者に種々なる相を示して。
November 24, 2025 at 3:01 AM
#読了 幸田露伴著『ねじくり博士』。雷音洞主にこのようなものがあったとは。牧野信一のような、初期の坂口安吾だとか石川淳のようなファルス漲るものを思わせる、人を喰った作風。文章は夏目漱石の初期のころ、ことに『草枕』を連想させられる名調子。こんなふうなものも書けてしまうのか。見直されるべき、とつくづく思う。少なくとも夏目漱石、森鷗外くらいには評価され読まれるべき書き手だろうと私は信ずる。本篇は、ねじくり博士と渾名される博士の謂わば一人語り。新聞記者を相手に滔々と自説を述べる。「天地は螺線的」ということを発明
November 23, 2025 at 3:32 AM
#読了 幸田露伴著『東西伊呂波短歌評釈』。「骨牌子に記されたる伊呂波短歌などいふも、東京のと西京のとは、いたく異なりて、其の同じきものは四十八枚中わづかに二三枚に過ぎざるぞおもしろき。今試に東西に行はるゝところのものを取りて之を比較せん。」着眼、発想がおもしろい。今でも異なるのだろうか。そも伊呂波骨牌子あまり知らぬため何とも判別がつかぬものの、少なくとも当時は相違があったのだと読んでゆく。頭尾順に比較されてゆく。私がことにおもしろく見たのは「東 老いては子に従ふ/西 負ふた子に教へられ 共に仮名違ひながら其は云はでも
November 22, 2025 at 3:08 AM
#読了 幸田露伴著『貧乏』。落ちらしい落ちもなく終わってしまい、出し抜けに放りだされたような思いで茫然自失する。露伴のものを繙いているとそういうことが往々にしてあるけれどこの度もまた。壮年の夫婦、中年に差し掛かった頃合い。当時を思えば二十代後半辺り、といったところか。舞台は江戸のしもた屋。夫婦二人ぎりらしい。鶏の啼きだいぶん経つというに、男は寝床についたまま女に酒と肴をもって来いと言いはじめ。そこに一人男を訪う者はありしが、二人の会話のみで終始する。見所はその応酬だろうか。江戸っ子は五月の鯉の吹き流しと言うが
November 21, 2025 at 4:15 AM
#読了 幸田露伴著『野道』。春の日の、朋有り遠方より来る、亦た楽しからずやを描いたもの。その朋とは三人、いずれも露伴よりも年嵩の者ばかり。雁信を受け取りそこには侍曹とあり。「名宛の左側の、親展とか侍曹とか至急とか書くべきところに、閑事といふ二字が記されてあつた。閑事と表記してあるのは、急を要する用事でも何んでも無いから、忙しくなかつたら披いて読め、他に心の惹れる事でもあつたら後廻しにしてよい、といふ注意である。」すっかり廃れたものか、少なくとも私は初見であり。文化、教養の衰退ということを思わされなくもない。反省はひとまずおき。露伴は訪れた先輩たちと野道を逍遙する。そして、
November 20, 2025 at 5:31 AM
#読了 幸田露伴著『囲碁雑考』。露伴は囲碁も愛好されたのだろう。囲碁の蘊蓄を綿々と披瀝してゆく。棋歴はないものの。もっともあっても無意味ではあり。生憎私は囲碁にもさまで、いや、つゆさら関心のなく。祖父がやっていたことをうっすり憶えているばかり。さりながら、はっと目を見張る箇所はいくつかあり。「意旁通するとは、対ふところのみに心の滞らずして、思慮の左右前後に及ぶを言ふ也。心執一するとは、心の一に執着して、他面に及ぶ能はざるを言ふ也。」等。やはりいずれのことも極めれば人の生きる道に通ず
November 19, 2025 at 6:03 AM
#読了 ジョン・アーヴィング著『ガープの世界』。私の書見の態度として、なるたけ偏見に囚われぬようにしようというというのがまず第一にあるだろうか。一般教養として、だとか、評判評価が高いからということも元より撰ぶうえで意識の上、下でいやおうなしに働いているだろうが。陰陽関わらず。卑俗な言い方をすれば、しいて雑食を心がけている。分類に拘らず。もちろんそこで好悪は生まれるし、大多数の評価評判と決裂することが少なからずある。例えば『百年の孤独』、夏目漱石、森鷗外、永井荷風、太宰治のほとんどを好ましく思えない等。偏りなくまんべんなく食べるようにしていながら、好みに偏りがない、ということ
November 18, 2025 at 3:20 AM
#読了 幸田露伴著『鼠頭魚釣り』。「鼠頭魚は即ちきすなり。」鱚という文字の方が馴染みのあるがこれは国字であり、鼠頭魚というのらしい。露伴の若き日の釣りの思い出。父と弟とともに。微笑ましく、巧まざる諧謔もあって陽性な読後感。よい釣具を塩梅するに、もしやすると名人筆を撰ばずというから嗤う者もおるのやもしれぬ、されどと滔々と論ずるところが可笑しい。むきになって、かつ仮定して。云う人もいそうではあるが、小心ぶりというのか、人間臭さのあって、いとをかし。釣りの日を心待ちにする様子、当日のこと。陽光の燦々と照るような締め。あたたかく、明るく胸のうちを照らしださるる。
November 17, 2025 at 3:41 AM
#読了 幸田露伴著『侠客の種類』。「侠客と一口に言つても徳川時代の初期に起つた侠客と其の以後に出た侠客とは、名は同じ侠客でも余程様子が違つて居るやうである。」そして侠客とは三種あると説く。その異なる形態が同時に、というのではく時代により変遷があり。その今に近くにあるものは「博徒」という形態だろう。そしてそれは日本固有のものであるらしい、と説く。正直関心をもったことのないことであったため、ただ承っていた状態ではあったが、それにしてもさまざまなことに好奇心をもち學び努めていた方なのだなぁと改めて思わされる。露伴というとせいぜい『五重塔』しか読まれぬが、
November 16, 2025 at 2:37 AM
#読了 幸田露伴著『運命は切り開くもの』「運命前定は一半だけ真実の事実でして、全部運命は前定して居るものだなぞと思つては確にそれは間違」いだというのが要点。顔相見をあげ、人相も変わるものだと。元からもったものは確かにある、されどそれだけではない、運命とは自ら作りあげるもの、築きあげるものなのだ。何やら当たり前な、月並みにすら聞こえそうな文言だが、力強い気勢でなるほどと勇気づけられさえする。坂口安吾の『堕落論』等評論を想起させられもする。露伴がこれを記したのは、己がそうしてきたからであろうし、故に説得力のある文章にもなっている。夏目漱石も森鷗外も好まぬ私だが、露伴のものは好みはじめている私がいる
November 15, 2025 at 4:48 AM
#読了 近松門左衛門著『曾根崎心中』。言わずと知れたお初と徳兵衛の心中譚。徳兵衛がまめやかで一途で能力もあったがため、愛されもし妬まれもし。それによって心中の舞台は整い、善良で真面目で一本気な性故に心中しかないと短絡的な答に到る。若さ、それによる情熱というのか体力があるせいもあろう。お初を現より年若の十九としたのは、公巷で言わるる若い女人客狙いばかりではなかろう。心中に流れ、身を任す初さ、もしくは幼い選択しか見えぬことが自然なようにという狙いがあったのではないか。「未来成佛疑ひなき、戀の手本となりにけり」さぁどうだろう。そんなこともなかろうに、と初老のひねくれた私は思うものだが。それにしても
November 14, 2025 at 2:32 AM
#読了 林真理子先生著『本を読む女』。野坂昭如原作のアニメーション映画『火垂るの墓』がまたぞろちょいとした話題になっているらしい。そして主人公の叔母に対するタレントのコメントが取り沙汰されたものらしい。そのタレントに関心はないからどうでもよいが、あの叔母の対応についての感想として、私は本著の主人公の母親を連想させられる。戦時下、主人公は病弱な男の子を授かる。母親からは他の者なんぞ蹴落とし見殺しにしてでも子を守るものだと言われつけるも、良心から従わず、そのせいか(実際のところは不明)死なせてしまう。自分の不甲斐なさのせいだと悔やみ決意するが、見方を変えれば利己的になろうという決意で
November 13, 2025 at 4:02 AM