過激化した功利主義や、効率を求める思考の間違い、見おとしをなるべく防ぐには、「すべての人」を思い考える思考のフレームワーク、つまり人権の思考がいまのところベストなツールだと私は考えています。
ここまでの話で、まだなにか納得できない、と思う人は「世界人権宣言」だけでも目を通してはいかがでしょうか。何かのヒントがあるかもしれません。
www.unic.or.jp/activities/h...
過激化した功利主義や、効率を求める思考の間違い、見おとしをなるべく防ぐには、「すべての人」を思い考える思考のフレームワーク、つまり人権の思考がいまのところベストなツールだと私は考えています。
ここまでの話で、まだなにか納得できない、と思う人は「世界人権宣言」だけでも目を通してはいかがでしょうか。何かのヒントがあるかもしれません。
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差別感情を温存したい人は、人権が好きではない。例えば「いきすぎた平等」といったものの言い方をときどき目にします。しかしその意味するものは常に曖昧です。
一方、哲学、倫理学の専門教育を受けた人は人権宣言という形式を冷笑したり揶揄したりしがちです。特に英語圏の哲学の伝統は人権を冷笑する不真面目な例え話(例:「トロッコ問題」)を好みます。この種の懐疑論はアマルティア・センが『正義のアイデア』で一蹴しています。
ひとついえることは、過激な功利主義者は刑務所に入るリスクがあります(サム・バンクマン=フリードのように)。民主主義国の人権論者にはその心配はありません。
差別感情を温存したい人は、人権が好きではない。例えば「いきすぎた平等」といったものの言い方をときどき目にします。しかしその意味するものは常に曖昧です。
一方、哲学、倫理学の専門教育を受けた人は人権宣言という形式を冷笑したり揶揄したりしがちです。特に英語圏の哲学の伝統は人権を冷笑する不真面目な例え話(例:「トロッコ問題」)を好みます。この種の懐疑論はアマルティア・センが『正義のアイデア』で一蹴しています。
ひとついえることは、過激な功利主義者は刑務所に入るリスクがあります(サム・バンクマン=フリードのように)。民主主義国の人権論者にはその心配はありません。