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拙さに恥入りながら、それでもやっぱりお気に入り
November 18, 2025 at 3:29 PM
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『——』(3/3)
　待ち望んでいた、というと野次馬根性旺盛でみっともなくはあるが、これまで浮いた話のひとつも無かった友人の恋バナなんてそりゃあ大いに興味を引かれた。親しい友人からの久しぶりの連絡。画面越しに漂う甘い恋の香り。うきうきしながら待ち合わせ場所の居酒屋で落ち合って世間話もそこそこに話を促した。 　聞き間違いだと思いたかった。酔いが回りすぎたとかこの場に満ちた熱気にあてられたとか、そういうせいにしたかった。でもまだ夜は始まったばかり、二人ともそれほど酒に弱いわけでもない。だから聞き間違いなんかじゃないってことだ。 「うつくしいひとなんだ」 「あ、うん」 「そればかりでなく可愛らしくもある」 「あーね……」 「うん」 　こくりと酎ハイを飲んでふわりと花が咲くように笑う。さすが学園の王子様と呼ばれていた勇作である。ファンクラブもあったとかなかったとか？そんな彼が行き着く先がここだとは誰も思わずみんな夢を抱き続けるのだろう。杉元だってまさか、まさか彼のお相手が“あれ”だとは思いもしなかった。願わくは出会わなければいいとまでも思っていたのに。 「いままで恋をしたことがなかったけれどこのためにとっておいたんだろうなと思うよ」 「……」 「ふふ、ロマンチックすぎるかい？」 　このアルコールと喧騒に満たされた、いっそ俗っぽくもあるこの場にそぐわないきらめきを纏って勇作が微笑む。杉元に向けて心底幸せそうに、嬉しそうに語ってくれる。多少の恥じらいを含んで目を伏せる様もいじらしい。まさに恋する乙女もとい青年だ。 　けれど実際は彼の語る恋はいわゆる真っ当な恋ではない。あまりにも当然のように語るから聞き落としてしまいそうだったけれど圧倒的な問題がある。 「そのお、え〜っと……」 「実際お会いするまでは不安でもあったんだが、あ、うん。なにかな」 「や、でもそれって」 　でも、でも？ 　気づいていないわけがないだろう。倫理と法律、世間の目。それをあえて指摘する必要があるのか。俺は目の前の男の敵になるつもりがあるのか。 　答えは否だ。 「……佐一は運命の人っていると思う？」 　二人の間に一瞬下りた沈黙の帷をそっと持ち上げて勇作が静かに問いかける。真っ直ぐに杉元を見据える凪いだ瞳の奥になにがあるのかわからない。 「いると思う」 「だろ？……私にとってはそれが姉だったということだ」 「そっか」 　彼の言う彼の姉、正確には異母姉を杉元は知っている。なにせ前世からの因縁の相手だ。味方だったし敵だったし一言ではとても言い表すことはできない。なんの因果か今生でも知り合ったが、まあ、そこそこ良好な関係を築けていると思う。時代が変われば自分たちはこうもなるのか、と面白くもあったが、こと勇作に関しては面白いの一言で済む話ではない。 　けれどそれを自分が言う必要はないはずだ。かつて様々な形で関わった人たちと今世でも巡りあった。それを再会と認識したのは杉元と尾形だけだった。勇作も前世なんて関係なく尾形と出会い、そして恋に落ちた。 　それならば、杉元は前世を持ち出して二人の関係に口出しするべきではない。 「やはり、悪いことだと思うかい」 　形の良い眉を下げて自信なさげに勇作が呟く。良い家に生まれて抑圧されつつも敬愛する親の期待に応えんといつも努力を重ね、優等生の代名詞であった勇作。そうやって品行方正に常識的に普通に生きてきた彼の人生の大きな分岐点が今なのだろう。 「俺はお前の味方だよ」 　奇妙な関わりがあっても深い関わりのなかった前世。しかし今世では互いに一番というくらい仲の良い友人だ。彼の味方でありたいと思うくらいには杉元だって友人のことが好きだった。敵になるつもりはない。 　杉元の言葉を聞いて勇作が力の抜けたように笑う。ささやかでも彼が彼の愛する人と笑い合える世界であればいいと思う。
November 18, 2025 at 3:29 PM
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(5/5)
「……あ」 「利吉くんよ」 「りきちくん」 「うん」 「利吉くん」 　彼の絶唱のあわいに愛しむような母の声。世界でいちばん大切なひとの名前が喉を震わせ、唇の隙間からあふれていく。 　ぱちり。しゃぼん玉がはじけるような音を聞いた。 　生まれ変わりというものを世間一般の人は信じるだろうか。まだ幼い頭のなかには、そもそもそういう概念すらなくて、素直にかつての自分をも自分として受容できたことはよかったのかもしれない。霧のように冴え冴えとしたつかみどころの無いなにかが脳内を侵していく。次第に半助は自分と彼について理解することになる。 　ああ、と声が漏れた。兄弟になったのか。それは幸いであり、災いだった。うつむく半助の頭にこつんと自らの頭を寄せた母にはわからなかっただろうけれど、小学一年生にして半助は深い絶望というものを感じていた。 　母の腕のなかではきらめく命が声をあげて泣いている。彼だってきっと、こうやって生きていくことについて絶望しているに違いない。 ＊＊＊ 「お兄ちゃんって呼んでくれてもいいんだよ」 「呼びません」 「どうして」 「わかっているのでしょう」 「どうかな」 　またそうやってごまかすんですね、と遠慮のない毒が矢となって半助の方へやってくる。それをぱしりと受け止めつつ、あの頃の彼ならこの言葉も飲み込んでいたのだろうと思いを馳せる。たとえ切れ長の目は口よりもよほど達者に思いを伝えてくるとしても、音にして世界には落とさないだけの、理性があった。 　理性。そう呼んでは非道かもしれない。あれは理性と断ずるにはあまりにも彼の善性に頼りすぎていたから。 「私は最初に間違えてしまいましたから。今回は同じ轍を踏むような真似、したくないのです」 　そう言って過去へ向ける目線の途方のなさは、とても彼が十二歳の子どもだとは思えないものだ。そしてそれは半助と利吉の間で諒解している点において事実である。二人は今と四百年は隔たる過去に生きていたのだから。 　兄などと呼んでは、と利吉が息をつく。 「兄などと呼んでは、あなたは私を見てくれない」 「そんなことないよ」 「……そうだとよかったのですが」 　参ったな、と半助は頭を掻く。じとりとした利吉の目が光線となって半助の眉間に向かってくる。それを分厚い参考書でさえぎりつつ半助はおどけてみせる。 「じゃあ先生とでも呼んでくれるかい」 「まだ大学に受かってもないくせに」 　今世の彼は結構毒を吐く子なのかもしれないな、と半助は思っている。半助に対してどうにもあたりが強い。今みたいな言葉、仮にも幼馴染の兄貴分、それも受験を控えた男子高校生に言うべきではない。けれどこれも前世の半助の行いに起因するのだとしたら、利吉の執念深さとともにそれだけ思われているのだと突きつけられているようで、仄暗い喜びはじわりと身体中に広がっていく。 　だって四百年だ。 「あの頃、『きみは私にとって弟のような存在だから』とあなたは逃げていましたね」 「事実だもん」 「ええ、ええ。だから私も深追いはしなかったでしょう」 　音として耳に届くことはなくとも、彼がどう思っているかなんて、それこそ意志の強い瞳やふとした仕草の端々、それとなく匂わせられる他の人との扱いの差から思い知らされていた。深追いはしなかっただなんて殊勝なことを言っているが、言葉にしないほうがたちが悪かった。あらゆる情報や振る舞いをこぼすことなく捉え、観察し、事実を汲み取ることが忍びの行いである。そうやって突きつけてくる彼は確かに優秀な忍者で、しかし最後には逃がしてくれるだけの温情があった半助の弟だった。 　今世では兄と呼んではくれないし、事実、半助は兄ではない。赤子の利吉が半助の母に抱えられて家を訪れたときは、利吉は本当に半助の七つ下の弟に生まれ変わったのだと思って絶望したが、後々判明したことには産後の肥立が悪い利吉の母とその世話をする伝蔵が、苦渋の決断で半助の家に生まれたばかりの利吉を預けたのだということ。彼らは駆け落ち同然で結婚したために頼れる親はないが半助の両親とは深い信頼関係を築いていて、そして半助の両親は利吉の両親に大恩あったらしい。 「それで、今世も私とあなたには血のつながりがないので、お兄ちゃん、なんて呼びませんよ」 「でも幼馴染のお兄ちゃんじゃない」 「そうやって逃げるおつもりですか」 　痛いところを突くなあ、と半助は苦笑した。でもこれだけは否定しておかなければならない。 「逃げるつもりなんてないよ」 　ずっと胡乱だった利吉の目がぱっと見開かれる。ぱち、と視線がかち合って、驚愕や歓喜の感情が心に流れ込んでくる。約四百年と十二年。もはや知らない振りなどできようもないし、する必要もないのだ。彼から深く思われていること。そして自分だって同じだけの思いをずっと携えてきたこと。 　見つめ返す視線から、半助の覚悟と真剣さは伝わっただろうか。感極まったように、まだ幼さの残る子どもの手が半助に伸びてこようとした。 「でもさあ、やっぱりお兄ちゃんって呼んでみてくれない」 「はあ？」 　その指先がぴたりと止まる。一気に脱力したような怪訝な声が利吉の唇の端からこぼれる。もう言葉を飲み込まなくなった彼はやっぱり厳しいが、今世はそういうところもいいと思う。だってそれも半助の影響だ。 　絶対に呼びませんから！　と目を釣り上げて彼はそっぽを向く。拗ねさせてしまった。けれど今度こそ彼の思いを無碍にするつもりはなくて、ただそういう関係に進む前に、あの頃にちゃんとお別れをしておきたいだけ。 　前世では半助が逃げていたから終ぞ兄分と弟分の関係を越えることはなかったけれども、利吉に、そして半助自身だって苦しくはあったけれども、しかし確かに幸せではあったのだ。無邪気に向けられる笑顔、日の当たるところへ手を引いてくれた少年の手、成長しても変わらず慕う眼差し。それらを向けてくれることがどんなに嬉しかったか。特別なんだと思わざるを得なかった。自分にとっての彼も、彼にとっての自分も。 　あのときだって、彼と二人きりの関係ではあったのだ。忘れることはない。密やかに耳に吹き込まれる彼からだけの呼び名。仕事仲間でもない、教師と教え子の関係でもない、たった一つの形だった。今回はその関係に終止するつもりはないけれど、そんな思い出が今でも心臓を刺すのだ。
November 18, 2025 at 2:57 PM
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(9/9)
「おおー！」 「あー、でもぜったい怒られるよな」 「おおー？　そりゃ怒られるでしょ」 「ですよね……」 　言い切った瞬間には格好もついていたのに風船から空気が抜けるように利吉からどんどん威勢がなくなっていく。面白くて笑ってしまえば二度目のするどい睨みが放たれてしまった。 「結婚式だけじゃなくて新婚旅行も消えちゃうんだもんね」 「ですよねえ。楽しみにしていたからなー」 「ああ、お嫁さん？」 「はい？　あ、そうですそうです。まあ私にとってもこれだけが救いみたいなもんでしたけど」 　ピザとパスタとラザニアにティラミス、パンナコッタ。ワイン。キッシュとブイヤベース、エスカルゴとマカロン、カヌレ、クレーム・ブリュレ。シャンパン、ビール……ジャガイモ？　ヴルスト、アイスヴァイン、…………ザワークラウトに……、アプフェルクーヘン、シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテ。……シュニッツェル、ウインナーコーヒーとザッハトルテ……。……パエリア、………………とアヒージョ、チュロス…………。 　氾濫するカタカナの単語たちを聞きとめようと努力はしたのだが、途中から残像も残さず流れていく景色とともに半助の意識を素通りしていったことは利吉には内緒だ。新婚旅行としてヨーロッパ諸国周遊が予定されていたらしいことはわかった。とはいえ利吉の楽しみは食事だけだったのだろうか？　つらつらと流れるように利吉の口から発せられる言葉は見事に食べ物のみだった。 「人間ね、腹が満たされればなんでもできそうな心持ちになれるんですよ」 「はあ。そうですね？」 「と、信じています」 「はい」 「そうじゃなきゃやってらんないと思ったんですよ、望んだわけでもない結婚生活なんて」 「難儀ですねえ」 「でしょ。慰めてくださいます？」 　まあ、毎日味噌汁なら作ってあげよう。 　不幸とは言わないまでも複雑な事情で結婚まであれよあれよと話が進んでしまったトラブルを慮って最大限の甘言を囁いてやれば利吉は無邪気に歓喜の声をあげた。実のところ片手鍋さえコンロ下に仕舞い込んで久しいし、顆粒だしも味噌も半助の家には存在しないのだが。 「利吉くんは色気より食い気だね」 「なんです、こんなイケメンを捕まえてそんなこと言うんですか？」 「これは失礼。かっこよすぎて私には過ぎるかもね？」 「あなたに上質なベッドが加わればお釣りがきますよ」 「じゃあベットを買いにいかないとね」 「あ、私も半分出しますから」 「そうしてくれると助かる」 　 　顆粒だしや味噌を新たに買うくらいのお金はあるとはいえ、実のところ半助の懐は寂しい。最近はじめて自分の車を買ったのだ。 「私のためにですか」 「そうだよ。いいかい、人ひとり連れ去るには入念な準備が必要で、それは様々な状況を想定した計画とそれらの実行を可能にする道具を不足なく揃えること。あと知恵と謀略と勇気と……」 　半助はまだ言葉を続けるつもりだったのだが、ふうん、と利吉が気のない相槌を打つ。「ふうん」て。生返事にも程がある。数百万を引き換えにしたのだから少しくらいの文句を聞いてくれてもいいはず、と、ちょうど信号で停まったので利吉に顔を向けてみる。 　その顔を見て、おや、と開きかけた口を閉じた。耳に届いた声にのせられた色から、利吉はおよそ興味というものの気配すら感じられない表情を浮かべているのだろうと予想していたのだが、その表情は思いのほか、晴れている。幸福を噛み締めているとでもいうのだろうか。じっとその横顔を見つめる半助に気付かないくらい夢中になって指先で宝石の原石を突き回しているような。いまはきれいに削り出さないままのその段階こそが楽しいと真っ直ぐな視線が雄弁に語っているような。 　ぽっと浮かんだつまらない文句は音にならなかった。ただ一心に眩いものを見る彼の横顔に見惚れてしまった。 　ププーッ！　と二人の静かな世界は突然、異質な音に割り込まれた。後ろの車からのけたたましいクラクション。黙り込んだ半助に利吉も気が付いていなかったため、二人して大きく肩を跳ねさせた。 「わっ、信号青ですよ！」 「え、あ、ほんとだね」 「はやくアクセル踏んで」 「う、うん。直進でいいよね」 「はい。え？　いや、知らないですけど」 　あれ、これいまどこに向かってるんですか？ 　今さらの疑問を利吉が投げかけてくる。式場を飛び出して半助に誘われるままピカピカの新車の助手席に乗り込み、それから行き先については話題にならなかった。そういえばそうだ。半助も他の車に流されるまま運転していたともいうべきで。 「いや、特に行き先は決めてないんだけど」 「えっ？　さっき誘拐には計画が必要って」 「重要なのは、ほら、勇気だからさ」 　嘘でしょ、と利吉が吐いた。誘拐犯のプライドないんですか？　と詰られて、そんなものないほうがいいはずなのにちょっと落ち込んだ。才能もないですね、とトドメを刺される。傷口から溢れ出すのは、なんだろう。知らない女性の隣で笑顔を貼り付ける利吉を見たときにうまれた、どろりとした焦げ付きのような嫉妬だろうか。でもそれはこのまま全部流れ出て消えていくような気がした。 「じゃ、どこに行きます？」 　気を取り直したように利吉が尋ねてくる。呆れと驚きは一周回ったのか、声は弾んでいる。よかった。半助もいちばんの隠しごとを晒したので、もう憂うことなどなにもない。 　 「イタリア、フランス、ドイツ……」 「車では無理でしょ」 「例えじゃないか」 「旅行に行きたいってことですか？」 「ただの旅行じゃなくて“新婚”旅行ね」 　次に耳に飛び込んできた声は喜色を存分に乗せたもの。それが聞きたかったのだ。 「いいですね！」 　楽しげに利吉が笑う。つられて半助も声をおさえずに笑い出すと、さらに利吉が笑みを深くする。やがて車内は吹き込んでくる風の音に負けないくらいの二人の笑い声で満ちていった。 　どこへでも行ける。時間はいくらでもある。思い返せば少し苦い数時間前からいまだけは逃げるように半助はアクセルを踏み込んだ。 　二人を乗せた車は流線を描いて遠く遠くへ走り去っていく。
November 18, 2025 at 2:17 PM
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(5/9)
「はあー。めっちゃ笑った」 「なんか言ったー？」 「シートベルト外していいですかーって言ったんです！」 「いいわけないだろ！」 　いやだ、ジャケット脱ぎたい！　駄々を捏ねるように声だけで大袈裟にブスくれた利吉。まるで子ども返りみたいでこれには思わず苦笑する。けれど半助もそうだ。ただしく言うのならば二人が子どもに戻ったのではなく、あの頃のような気安い関係が蘇ってきているということ。当時よりも半助は運転に慣れたし、利吉には半助を上回る運転のセンスがあることがわかったのだけれど。 　利吉は苦戦しながら広くはない助手席でジャケットを脱ごうと画策して唸っている。半助としてもその婚家の存在を感じさせる衣装は一刻もはやく脱ぎ去ってほしいから「頑張れー」と声援を送っておく。心にもないことを！　と返してきた利吉には半助の愛が伝わらなかったらしい。残念だ。 「もしこの車のルーフが開いたら」 「うん？」 「あれ、オープンカーだったら？」 「オープンカー？」 　どうにかジャケットを脱いで後部座席にそれを放った利吉がおもむろに言った。きんいろの縁取りが趣味のわるいカフスボタンはカップホルダーに落とされた。これはジャケットのように放り投げられては困る類いのものだったが、いまでもそのあたりの分別をつけることはできるらしい。虹色の光沢をたたえた貝で誂えられた第一ボタンを外して開放感を存分に味わっている彼の、それでも雑にならない線引きはいつでも変わらなくて、そういうところが好きだった。 　半助がいままさに想いを再確認していることなどつゆ知らず、利吉は言葉を続ける。 「後ろに空き缶でも括って走るつもりだったんですか？」 「あっは！」 　発想が古い。いったいどこでこの若者がそんな知識を得たんだ？　いまどきの日本でそんなことを考えるカップルなんていない。……いや、どうだろう。幸せの絶頂にいるのならそういうこともやりたくなるものなのかもしれない。半助としても利吉が望むのならばやってもよかった。法律？　浮かれた男の妄想からはご退場いただくことにする。 　いまだって、半助は自分が相当浮かれている自覚は十分にあった。浮かれるなというほうが変な話だ。愛し子がこの手を取ってくれたあの瞬間から止まっていた心臓は動きはじめ、いろを失っていた世界が鮮やかに染め上げられたのだ。 　 「空き缶ねえ。昨日きみと二人で飲み干したビールの缶とか？」 「あれ！　昨日はほんとに飲みすぎました、おかげで式中もずっと頭痛くって……」 「あっははははは！」 　遠慮のない笑い声をあげる半助に「笑いごとではないんですよ」と利吉は言うが、その声音に疲労は滲んでいない。むしろ楽しげであり、「ああ、こうしてよかった」と、これだけで確信できた。利吉に手を伸ばしたらその手を握られたから、それ以上の力で握り返して引っ張った。そのあとは浮き足立つ両足で地面を蹴って二人して車に飛び乗った。あの選択は間違いではなく最適解だった。 　酒のせいばかりではなくどんよりと重苦しく落ち込んだオーラをまとった今朝の利吉。彼をこの手で生まれ変わらせることができたのだと思えばじんわりとした愉悦と優越が半助の胸に広がる。 「ただ利吉くんを世界に自慢したかっただけだよ。私のものなんだってね」 「……」 「え、黙るなよ。照れるだろ」 「いやっ！　……仕方ないでしょう、これは」 　左手で口を覆ってぱたぱたと右手で風を送る利吉の肌は薄っすらと赤く色付いている。暑さのためではないんだろうな、と思えば自然と笑みがこぼれ、それを耳聡く聞きつけた利吉が「前見てください」と切れ長の目をいっそう細めて半助を睨んだ。はあい、と返事をすればさらに安全運転を念押しされてしまった。 　反省反省。いくら利吉が助手席におさまってくれているからといって、たしかにこれ以上そわついてはいけない。よし、と表情筋に力を込めて態とでもいかめしい顔を作らないと天まで昇っていってしまいそうだ。 　どうにかこうにか運転に集中しようと半助がハンドルを握り直した間に利吉は顔の赤みを引かせたらしい。次に利吉が発した声には夢からさめていく瞬間のような、舞い上がった宙から着地するような、この星の重力を感じさせる響きがあった。それでもなんでもないようなふうを装って彼は言葉を転がす。 「まあ。世間一般で言えば手遅れだったのでしょうね」 「おや、世間がなんだって？」 「……あなたってそんなでしたっけ」 「許してくれよ。これでも浮かれてるんだ」 「そうでしょうとも。花嫁ならぬ花婿を攫う偉業を成し遂げたんですもんね」 「その通り」 　大仰に言って頷く。利吉は困ったようなため息を吐いたけれど、そこに真の困惑や戸惑といったものは微塵も感じられないのだから、利吉だって同じくらいのやらかしをした自覚はあって、でもそれを後悔していないということだ。 　当然、半助だって後悔などしていない。普通でいえば手遅れだったのだろうと振り返りながら、でも今回間に合ったのだからいいじゃないかと楽観的に捉えることはそう間違ったことではないはずだ。 「前代未聞だろうね、花婿のほうを連れ去るなんてね」 「花嫁を攫う男がいればよかったんですがね」 「そうしたらきみは気の毒に取り残されるのか」 「それは……。なんかいやです」 「だろ？　来賓対応とかで今頃はてんてこ舞いだったろうね」 　二人の間に気まずい沈黙が落ちる。開けっ放しの窓から入った風が素知らぬふりでうなじを撫でて去っていく。 　言ってから改めて認識したが、これはそっくりそのまま利吉と結婚するはずだった女性がいま置かれている状況だ。なんというか、かわいそうに。 「しまったな……」 「……うわー。利吉くんってば人でなし」 「あなたが言います！？」 　あー、謝らなきゃ。許してくれるかな。利吉が呟く声が聞こえてくる。この子はちょっとズレていると思う。真面目すぎて心配になる。普通、連れ去られたという体とはいえ結婚式を抜け出した婚約者があとから連絡を取ってきたら、取り残されたほうは烈火のごとく怒るものではないだろうか。謝って許されるとか、そんな次元ではない。大抵の人——世界中に溢れているだろう花嫁か花婿を連れ去る人——はそういう面倒を避けようとするものだと思うが、誠実な利吉にその発想はないらしい。 「お兄ちゃんが間に入ってあげようか」 「引っ掻き回すためにですか？　やめてください」 「でもきみが連絡するよりうまく収められると思うけどなあ」 「……どこから湧いてくるんです、その自信」 　でもきみが怒られてしまうよ、と言えば、想像できたのだろうか。少し口をつぐんでから利吉は「覚悟の上です」ときっぱり言い切った。
November 18, 2025 at 2:17 PM
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(7/7)
　気が付いたらお互いカップも置きっぱなしで指折り数えている。コーヒーはもうとっくに冷めていたからどうってことはない。 「いい感じのライトとかも買ってさ」 「天井のライト、シャンデリアにできるんじゃない」 「えーそれはちょっと」 「あんまり？」 「うん。シャンデリアよりは大きい観葉植物とかがいいなあ」 「……利子ちゃんが水あげてね」 　仕方がないなあ、と利子が明るく笑う。半助はサボテンさえも枯らしかけた実績がある。ホコリを薄っすら被ったそれを憐れんで持ち帰ったのは利子で、前に花をつけたことを教えてくれたっけ。 　 「お兄ちゃん、本当に面倒くさがり屋だよね」 「いや、生きてはいけてるから。ね？　ね？」 「はいはい。じゃあ料理も私担当かな」 「よろしくお願いします」 「食器とかたくさん買っていいならいいよ」 「もちろん」 　三億円だよ？　と言えば、そうだった、と眉が垂れる。顔に少し影が差す。勢いを削がれた様子の利子の代わりに半助が言葉を続ける。 「……それから欲しいものが全部おさまる家か」 「うん」 「利子ちゃんはどんなところに住みたい？」 　はあ、と肺に溜まった息を吐いて利子が思案する。少し左上に目線を向けて小さく唸る。その様子を眺めながら半助は中身の減ったカップに口をつけた。冷たい液体に強制的に興奮を覚まされていく感覚は不快だった。 「海の見えるところがいいな」 「ああ、いいな、それ」 　実家が山深いところにあるから海への羨望を抱える利子に半助も同意する。遠い町の、開けた空とどこまでも広がる海を眺めることができる窓がある部屋。それを利子が望むなら、それがいい。 「でも家は買わなくていいの」 「うん」 「大きすぎない部屋を借りて何回か引っ越しするから」 「いいね」 「……それで引っ越す前にお父さんとお母さんに手紙を書く」 「……」 「心配させてるから」 　心配させてるから。 　その言葉は仮定の話に使うには不自然だ。そして実際、彼らの娘と息子は彼らに心配をかけ続けている。口をつぐんだ利子と同じように半助も黙った。利子が実家に帰らなくてもうどれくらい経つだろう。不誠実なことはできないと思っているらしかった。 　利子と半助はひとつ屋根の下で兄妹として育った。たとえ血が繋がらなくても、そうやって世界に存在してきた。やがて二人の関係は変化した。二人にとっては自然な流れだったが、葛藤は利子のほうが複雑なのだろう。愛する両親が信じる二人の関係と彼女自身が望んでしまった二人の関係。どちらも取ることができるほど利子は独善的になれず、現実から目を背けることもできない。だから閉塞感を眺めていた。 　半助は、もう認めていた。利子が望むのなら、しがらみをすべてかなぐり捨て、利子の目を塞ぎ、どこかへさらってしまえる自分がいることを。けれどそれを望まないから利子は利子なのだ。半助が愛して、半助を愛する、利子だ。 　諦めを滲ませた声で利子が再び話し始める。利子自身か、半助に言い聞かせるようにか、ゆっくりと確認するように。 その度に心臓に針が刺さってそこから血が吹き出しても、利子はその痛みが当然だと思っている。 「まあ、でも結局貯金しちゃうのかも。仕事も辞めれないし」 「仕事か。私は辞めてもいいよ」 　仕方がなさそうに利子が首を横に振る。そんなことないでしょ、と。物分かりのよい声色で否定される。それは事実であった。しかしそれを捨ててもいいと、本気で思っているのだ。そして利子がそれを望まないことも知っている。 「仕事は大切でしょ。生徒に慕われる土井先生だもん」 「まあ、ね」 「そういえば私もそろそろあの子たちに会いたい気がする」 「うん。そうだね、会いにきてやってくれ」 「そうする。私だってもらった仕事はやらせてほしいから」 　うん、うん。なおも並べ立てられる利子の言葉を聞きながらカップを壁際に追いやる。利子の言うことはもっともだ。でも今はまだ。 　テーブルの反対の端に寄せていた紙束を引き寄せて手に取って持ち上げる。二人の間に掲げて利子の言い訳を遮った。 「ところでここにこの前買った宝くじがあるんだけど」 　番号見てみない？　と言うと利子が唇を引き結ぶ。長い長い時間が流れて、やがて利子は小さく頷いた。 　この部屋はあたたかく明るいから、まだ夢に浸っていてもきっと私たちは許される。
March 9, 2025 at 2:19 PM
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読んでくださってありがとうございます🙌土って感情に鋭そうでもあり疎そうでもあり……今回は鈍感を全面に押し出した感じで書けて満足です！笑　恋するりこちゃんは強いと思うので今までの分翻弄し返しながら幸せを掴みとってくれると思います💪
March 4, 2025 at 1:12 PM
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(11/11)
　浮かない顔でうんうんと唸る二人組に快く対応してくれた美容部員にタッチアップをお願いした。たくさんのショッパーを抱えた半助は化粧品に関しては戦力外であるので離れたところで待っててもらう。美容部員はぱっぱっぱっと利子の顔に色を乗せていく。はきはきと流れるような商品説明は申し訳なくもほとんどを聞き逃してしまったが、とにもかくにもすべて買い揃えることができそうだ。 　一番最後はリップだ。これが似合いそう、と言われた色は確かに我ながら似合っていた。淡めの色は好みとも一致していた。しかし。 「もう少し濃い色だと合わないですか？」 　思うところがあってそう言ってみる。試してみましょう、と乗せてもらった色は、なるほど、こうなるのか。 「どちらもお似合いになりますね」 「ありがとうございます。うーん……」 「本当に素敵ですよ」 　褒められて悪い気はしない。どちらの色にするべきか迷っていると、美容部員の視線は先に試した淡い色の方へ向けられていた。 「これにします」 　片方選んで言うと、少し残念そうな表情を窺わせながらもプロの笑顔が向けられた。 ＊＊＊ 「今日はありがとう」 「こちらこそ。かわいい利子ちゃんをたくさん見れて楽しかったよ」 　一日中歩き回ったショッピングモールを出ると外はすっかり暗かった。けれど街灯や店の照明から煌々と光が降り注ぐから半助の顔がよく見えた。そんなに嬉しそうな顔でそんなに甘い言葉を口にしているのになんで利子のことを婚活パーティーになんて送り出せるんだろう。こんなに大切にされているのに、こんなに好きなのに、これっぽっちも伝わっていなかった。 　なんにもならなかったな、と悲しくなる。なにも変わらないままついに今日が終わってしまう。今日だけではなくて、本当に半助ではなくて誰か他の、半助の言う運命の人を探すべきなのかも。 「ん？」 　半助を見る。いつも通りの優しさの滲む笑顔で利子を見返した。変わらなかったな、この人は。なんで変わらないんだろう。利子はいま、長年抱えた恋の終焉に立とうとしているのに。 　そう思うとふつふつと怒りがわいてきた。こんなにのんきに、利子の告白を受け取らないで、そのくせ突き放すこともしない。本当に利子の気持ちを理解していなかったのか？　半助を疑いたくはない。でも疑わないとすると半助は鈍感を通り越して、呆れるほどの——馬鹿だ。 「利子ちゃん、その口紅」 「はい？」 「ちょっと濃くない？」 　 　思わず立ち止まった。半助も立ち止まって、うつむいた利子を気遣わしげに覗き込もうとする。どうしたの、なんて言って。 　まったくこの人はどこまで利子を綺麗にしようとしているのだろう。綺麗な姿で会いに行くのがあなたではないんですよ。それでもいいんですか、いや、いいんだろうな。ここまでとことん突き放された。諦めるしかないのかもしれない。けれど、けれど。最後に利子の怒りを受け取ってもらうことくらい許されるはずだ。散々、利子の恋心を無碍にしてきたのだから。 「……濃いですか」 「うーん。いつもはもう少し薄いような気がするけど」 「じゃあ薄くすればいいですかね」 「そう思うよ」 「だったらこうします」 　買ったものはすべて半助が持っているから利子の両手は空いていた。だからその手で近くにあった半助の顔を掴んで、つま先立ちになって、利子は半助と唇を合わせた。たったいま半助に濃いと言われた色を落とすように強く、しっかり。 　顔を離すと呆気に取られた顔の半助が目を見開いて利子を見ていた。ぽかんと空いた口とその唇にうつった色が相まって面白い顔をしている。 　利子は夜の街を駅に向かって走り出した。両親の待つ家へ帰って、似合っているはずのメイクを早く褒めてもらおうと思う。それからお母さんに明日ワンピースを着るときに手伝ってくれるよう頼まなくては。早く帰ろう。なんだか心の底から楽しくて、吹っ切れたら一人でも笑えた。 「利子ちゃん！」 　後ろで半助が叫んでも利子は止まらない。けれど明日の婚活パーティーのためのものは全部半助が持っているから。 　その赤い唇で家まで届けに来てくれたらいい！
March 3, 2025 at 8:32 PM
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(8/11)
　しかし、しかしだ。いい加減この感情を正確に理解してもらいたい、という欲が出た。半助と、実の兄妹よりも仲の良い関係を築くことができた事実は嬉しい。でも本当の兄妹ではないし、利子はそういう意味で半助が好きだし、そろそろ次の段階に進みたい。 　半助も満更ではないはずなのだ。今まで他の人からの告白は「利子ちゃんと過ごす時間が減ると困るから」で断ってきたし、なんでも利子が最優先だった。妹への愛にしてはちょっと甘い。だから半助も利子のことがおそらく好きなのだ。たぶん。きっと。 　そう考えて手を変え品を変え猛アタックをしてきたのだが、理解しているのかいないのか、のらりくらりと躱されるばかりで。 「あなたに一番綺麗な格好をさせてもらいたいです」 「え、うん。綺麗な格好？」 「ウエディングドレスとか」 　決まった。と思った。付き合ってもないのに結婚は重いかも、と言った後で気が付いたが、まあ仕方がない。いくら好きと言っても伝わらなかったのだから、それを上回る言葉でないと。 「……利子ちゃん、結婚したいの？」 「したいです」 「お付き合いしてる人とかいたっけ」 「いませんけど、もうしたい相手は決まってます」 「相手？」 　ずっと好きな人がいること、あなたは知っているでしょう。 　利子は期待を込めて半助を見つめた。真剣な目で見つめ返された。ついに伝わったんだと思った。頭の中でファンファーレが鳴り響き、色とりどりの紙吹雪が舞い上がる。世界に向けて感謝しながら喜びの舞を踊りたいくらいだった。 　しかしかなしくも半助の鈍感力は天元突破、利子の予想を外れる返答をしてきたのだった。 「それって婚活するってこと！？」 「は？」 「運命の人がいるってことだよね、探しにいくってこと！？」 「……」 「婚活パーティーとか！？」 　利子はうつむいた。それを首肯と捉えたのか半助はにわかに盛り上がって「じゃあ一番綺麗な、あっ、二番目に綺麗な格好で行かないと！」と興奮気味に拳を突き上げた。買い物付き合うよ！　利子ちゃんに似合う格好は私がわかるから！　とも言い切った。 　——なんでそうなる。利子は頭を抱えた。愚痴混じりにこの話を伝えた小松田も照代も父も母も、久々知も斎藤も三郎次も伊助も、一様に頭を抱えた。 「土井先生って自分のことになると無頓着っすよね」 　と、きり丸は言い切った。苦笑いで返す他なく頷くと憐れむような慰めのような目をもらった。利子さんも苦労してますねえ、と理解を示されてうっかり泣きそうになった。なんでこの子どもがこんなにわかってくれて当の本人はわかってくれないのだろう。敢えて避けられているようには、思えないが。 「まっ、そろそろ痛い目見てもらったらいいんじゃないすか？」 「痛い目？」 「そう！　ここまで気持ちを理解しないなんて、土井先生は鈍感すぎるんで」 「いや私の伝え方が悪かったのかもしれないし」 　容赦なくばっさりと言い切られたことに慌てて半助を庇うようなことを言うときり丸が目を丸くする。「そうなんすか？」と。いや、そうでもないかも、とやっぱり思い直す。続けて、ときり丸に促すと不思議そうにしながらも指をぴん、と立てて言う。 「やっぱりここら辺で痛い目見ないと、先生、後悔しますよ」 「うん？」 「自分の気持ちに鈍感すぎるんで」 　自分、ときり丸が言った。自分というのは半助自身の気持ちということかと聞き返そうとしたのだが、その前にきり丸が口を開いた。 「痛い目といえば……お金！」 「おお。君らしい」 「いやいや皆んなそうでしょ。だから利子さんは土井先生にたっくさんお金を使わせるんです」 「どうやって？」 「婚活パーティーに着ていく服を買ってもらうんです！　そしたら『ああ、お金が減っていく〜』『利子ちゃん、私なにか悪いことしたかい〜』『待てよそもそも婚活しようと思ったのって……』『はっ！　利子ちゃんは私が好きだと言っていなかったか？』みたいに！」 　はは……。と力無く笑う利子の前でえっへんと胸を張るきり丸。正直なところ、そういうふうにうまくいくとは思えないがそんな考えは利子では思いつかなかった。 　利子はどちらかといえば半助の迷惑にはなりたくなかった。気持ちは(伝わらなくても)積極的に伝えていくが、半助を騙したり脅したりするような方法は使いたくなかった。負担にもなりたくなかった。たとえばふとしたときに誰かからもらうキャンディーのように純粋な甘いだけの気持ちをころんと忍ばせるみたいに、そっと、でも確実にそばに置いておきたい。そうやって今までやってきた。 　しかしそれでもだめならば、多少強引でもきり丸が言う作戦を試してみる価値はあるかもしれないと思った。もうここまできたら引けない。半助本人に勧められつつも行く気の起きなかった婚活パーティーだって利用するしかない。 　そして、これで迷惑がられたら、本当に婚活パーティーで新たな出会いを探すのもありなのかも。 　かくしてきり丸による作戦が決行されることになったのである。 ＊＊＊ 　生まれたときから人里離れた山奥で育ち、多くの人と関わるようになったのは高校生の頃からである利子は人とのやりとりが少し苦手だった。半助を通して知り合った者とはうまく関係を築くことができているものの、知らない人との会話は緊張する。 　だからワンピースに始まり、靴、鞄、アクセサリー、その他持ち物を揃える過程で疲れ切ってしまった。体力だけは山育ちのおかげで無尽蔵だから精神的な疲労である。若干やさぐれた気持ちにもなってきて、なんでこんなことになったんだろう、と心の中でごちる。そもそも半助が悪いのではないか？　半助が利子の気持ちを真剣に受け止めないから。それなのに半助はやけに楽しそうに利子を連れまわし、適当なものに決めることをよしとしないから買い物時間が伸びてその分多くの店員と話さざるを得なくなった。 　疲れた、と呟くと半助は「でも明日はもっとたくさん話すことになるよ」と困ったように笑う。そうだった、と思い出して気分が落ち込む。まあでも、今日私と選んだものをお守りだと思ってよ。——なんで、大好きな人に着飾らせてもらって婚活なんてしないといけないんだろう。 「こちらのお色はいかがでしょう」 「……あ。好きな色です」 　それでも日が暮れた頃、最後に買うものは化粧品を残すのみになった。利子に似合う格好はわかるから、と豪語した半助もさすがに数多く並ぶリップやアイシャドウの微妙な差異を理解して利子の肌に合うもの選ぶことはできない。そして利子が普段使っているものを買い足しにきたわけでもないから、利子が新たなものを真剣に選ぶべきだったが、ただでさえ一日の疲れが溜まって集中して吟味することができなかった。
March 3, 2025 at 8:32 PM
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お大事になさってください😢
March 2, 2025 at 8:21 PM
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(6/6)
「でも何体も並べて売るのはよくないだろう？　だから数馬たちに渡すよ」 「……そうだな」 「数馬より左近のほうがいいかな？　あの子、流されにくいからけっこう手堅い商売してくれるんだよね」 　なんてことないように卒業後のことを言ってのけた伊作に胸が突かれるような感覚を覚える。そうだった、こいつは優しげに思えて妙に達観しているきらいがあって、それにときたま寂しさを感じさせられるようなことがあった。 　俺が勝手に抱くわだかまりなど全く理解せず、くくくっ、と上機嫌に伊作が笑う。頬をつつくように跳ねた髪が邪魔そうだな、と思った。灯りが伊作に落とす影がまだ見慣れない。 　肩につくかつかないかで揺れる髪の先端は結い上げてしまうと奇麗に揃う。間違ってもざんばらではないことに改めて土井先生の恐ろしさを知る。過日、俺たちは“土井先生”の敵となり、彼から容赦のない攻撃を受けた。強かった。これが世の裏で俺たちが渡り合っていかなければならない忍者なのだと、文字通り眼前に突きつけられた。あのときの彼が意識していたことではなかっただろうが、いつだって土井先生はひたすらに誠実な教師であった。 　そして彼が教師としてあることが奇跡なのだと思い知らされた。しかしその奇跡は単なる偶然ではなく努力で保たれていることに、彼の優しさを。聞くところによると山田先生とその奥さん、利吉さんの存在が大きいらしい。他に彼を支えとなっている人たちがいるのも事実だ。願わくは、最初の学園の生徒として俺たちも少しは役立っているならば嬉しい。 　けれどなによりも土井先生が土井先生であろうと試行錯誤して考え続けている。生来の優しさと思慮深さにかまけずそれを維持しようとする不断の努力はしっかりと結実している。俺たちが証明していく。いつかは努力ではなく本質になるのではないかとも思う。そういう忍者のあり方が実現されていることは希望である。これから出ていく世界が暗くて汚くて寒くて苦しくても、そうやって笑っている人の支えになることができるのかもしれないと思えば。きっと俺たちは生きていける。 　くしゅん、と伊作がくしゃみをした。思考に沈んでしまった意識が引き上げられる。はっとして、もう一度伊作に言ってみる。視界の端で灯りが揺れていた。 「伊作、もう布団被って寝ろよ」 　うん、と生返事。俺の言うことを聞く気はないらしい。 　晩秋の夜の寒さは冬の身を切るような痛みとは比べものにならないが、それでも寒いものは寒い。火の側とはいえ油を節約したそれが灯り以外のなにかになるわけでもなく、ましてや寝巻き姿となれば体に障るに違いなかった。それに、少し動けばすぐに晒されるうなじが寒そうだ。　 「伊作」 「うん。でも文次郎の方が寒いなか頑張ってるだろ？」 「文次郎？」 　外に意識を向ければギンギーンと不気味な鳴き声が聞こえてくるような気もする。あいつが夜中に鍛錬をしていることはまあ不思議ではない。仙蔵は同室がいないのをいいことに火薬の調合に勤しんでいるのかもしれない。長次は兵法書を浚いなおしているだろうし、いちばん深手を負った小平太は眠りについて養生しているか苦無を磨いているのかもしれない。いずれにせよ、全員が全員言葉を持たない夜を過ごしていることは確かだろう。 　もう忍者として世に紛れ込んでいくことの厳しさを知らなかったときには戻れないからだ。今までだって知っていたつもりだが、本当の理解には及んでいなかったのだ。目に見える変化があるから今度こそ忘れることはない。見るたびに心を抉られるような気持ちになっても。 「怖かったね」 「え？」 「ほら、土井先生のさ、竹林で」 「ああ」 　あれから声に出してあのときのことを振り返ることはなかった。言わずともわかっていたし、語る言葉を持たなかった。それをいま、伊作はそっと紡ぎ出す。 「僕はやっぱり、斬りかかられたときが本当に。あのときはぞっとしなかったけど今思えば幸運だったよね」 　運じゃないだろ、実力だろ。そう返せばよかったが、伊作が決して自分を卑下しているわけではないことはわかった。今晩は随分と機嫌がいいらしい。 　反対に俺は胸のなかに鉛のかたまりを抱えているような重く冷たいものを感じる。まだ未熟だな、と誰よりも冷静な思考をし、それを滅多に表に出さない同室と自分の差を確かめる。底がしれない。ずっと一緒にやってきたのに元から違う人間だったからか、こうも違う。それでも一緒にやってこれたのか。 「小平太のさあ、覚えてる？」 「どれをだ」 「髪を掴まれて動きを封じられたやつ」 　俺が眉根に皺を寄せたことを見てとって伊作は話を続ける。よくない方向に話が流れていく空気を感じた。 「先生方はどっちでもいいって言うし、実際利吉さんとかはそうだけどああいうことってあるよね」 「だがそもそも忍者は闘うものじゃないだろう」 「闘わないわけじゃない。留三郎の方がわかってるだろ」 「お前の武器は近距離じゃない」 　とめさぶろう？　諌めるように、音の一つ一つを噛み締めるように言われた。仕方がないなという声色で。 　物事の最後というのはいつのまにか過ぎているのだと、近頃とみに思い知らされる。　 　桜の花びらが溜めた水に浮いていてそれを取り除かなければならないと面倒に思うこと。 　雨の季節に洗った装束を外に干せず室内に立ち込める匂いに辟易すること。 　容赦ない日差しが俺たちを差すことに嫌気がさして忍者は太陽の下にも月の下にも出てはいけないはずではと屁理屈をこねること。 　小松田さんが必死に集めた落ち葉で焼き芋をしようと言い合うのに具体的な日時が決まらず文句を言い合うこと。 　毎日のことのように感じていたのに、いつのまにか忘れてしまう。 「これを機に短くしちゃおうかな。どうせ卒業までに元には戻らないからね」 「……」 「寂しいかい」 　寂しいさ。俺が言わずとも伊作は言わずともわかっていると思っていた。 「怖かったね」 「……」 　ふわふわと髪が揺れる伊作の姿を誰よりも多く見てきたのは俺だ。だから毎日のこと、当たり前のことなんだと思っていた。そうではないのだと。最後というのはいつのまにか過ぎるし、突然やってくる。 「そうだね。お前は僕以上に僕の髪を気に入っていたよね」 「……そうだな」 　ふっと笑って伊作が言った。俺の返事を聞いて満足したように手を止めていた仏像彫りに戻った。お前が惜しんでくれてよかった、と落とされた小さな呟きに言葉を返せないでいると、おやすみ、と言われた。おやすみ、と返したから寝なければならなくなった。布団に潜り込んでも衝立の向こう側に伊作の気配がする。短い髪を揺らして冬が終わったあとのことを考えている。 　あとどれくらい続けることができるのだろう。なにもかもわからないまま布団の中で目を閉じた。 　けれど朝には遠く、灯明皿の光はまだ消えない。
February 25, 2025 at 10:48 PM
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(5/5)
「三郎次先輩、もう海に入らなくなりましたよね」 「あ？」 「ご実家にいる時間も短くなってるし」 「……」 「寂しいんじゃないですか」 　最後のは、揶揄いみたいな。でも揶揄いに悲しさを隠しきれなかったかもしれない。勝手な哀惜だ。海とともに育ち、今だってこんなに海を求めているのに、それに近付くことができないこと。 　忍びになるのだから。 「それはお前のことか」 　すっ、と切り込むような声色。よく研がれた刃が痛みも感じさせずに身を切り開いていくような静かさで、言葉が返ってくる。「え」と口から転がりでた間抜けな音に、振り返った彼はにやりと笑った。 「ふうん？」 　先ほどの意趣返しのように顎をわずかに上向けて言ってくる仕草に、カッと顔が熱を持つ。やっぱりこいつ本当に変わってない。僕らは組を馬鹿にしていた、いけ好かない奴の頃から。 　寂しいのかな、と気を遣った僕が馬鹿だった。あれほど親しんだ海にもう深く触れることのできないのと似た哀しみを僕も抱えているから。それを二人で分けてもいい、なんて思っていたのは僕だけだったか。 　悔しさに眉を寄せる僕をじっと見つめている先輩に気付いた。なんですか、と噛みつこうとして先手を打たれた。 「お前の手さ、最近きれいだよな」 「は？」 「もう実家の手伝いはしないのか」 　こっちを見つめてくる瞳の光にたじろぐ。言葉が出てこない。そんなにまっすぐ、こっちを見透かすような目、やめてくれ。海のように深い思慮をのぞかせるなんてらしくない。だから嫌なんだ。 　なにもわかってないような素振りをして本当は全部わかってるのに、一度隠してみようとする。どこまで考えているか、素直には見せようとしない。そのくせ結局明らかにするのは、なんでなんだ。 「お前が一年生のときの休み明けさ、いつも通り火薬庫の整理したろ」 「はい」 「あそこ暗いから久々知先輩の顔色が悪く見えるのもいつものことだったけど」 「ああ、久々知先輩って色白でしたもんね」 「うん。あの日はお前の手も青褪めてて驚いたもんだ」 　 　幽霊みたいだったけど、それが当たり前になったけどな。小さく笑うのに合わせて頷く。 　学年が低い頃は家に帰れば染め物の手伝いをしていた。藍染めの布を洗うとすぐに手が青くなる。父も母もずっとそうだったから、僕だってそうなるのは当たり前のことだと思ってたのに、今やもう遠い昔のことだ。あの日常に戻ることはない。 「実家の手伝いはしませんよ」 「……」 「ていうか、できません」 　三郎次先輩もそうでしょ。 　そうだなって頷いてくれると思った。だって同じだから。僕は手を青く染めるわけにはいかなくなった。先輩だって、潮の匂いをさせなくなった。海に近付けなくなった。色も匂いも、まとっていては忍べないから。忍者になると決めたのだ。だから今までの生活から離れなくてはいけない。生まれてからずっと当たり前だったことから離れる代わりに僕は先輩に近付いていく。 「いつまでも青い手でいればよかったのに」 「先輩だって」 　惜しんでいるような、ただぼやいただけのような。それ以上の温度を感じることはなくて安心した。でもきっとわからないだけなんだ。このわかりにくい先輩のことを僕は。 　一度、海に一緒に行ったことがある。海は火薬庫の薄暗くひんやりとした空気とはまったく違った。 　眩しかった。容赦のない日光に目を細めた僕を先輩が振り返った。海水に濡れた肌を太陽のもとにさらして、潮と砂をつけたまま笑う姿が今も瞼の裏に焼きついている。濃く浮かび上がる輪郭を目でなぞって、目を閉じた。目の端に涙が浮かんだのは強すぎる光が沁みたからだ。 　眩しかった。 　もう二度と見ることはない。 「伊助、五年になるんだな」 「代理から抜け出しても頼りない委員長を支えないといけませんからね」 　言ってろ、と光を背負った先輩がくしゃりと笑った。
February 25, 2025 at 10:29 PM
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エリック(1/1)
ハリソン(1/1)
　朝日が昇るのを待ちきれずに騎士館を抜け出た。同じ部屋の誰も起きていない。いつも早朝鍛錬に励む隊長格だってまだ夢の中にいる。 　受けた傷はなんてことのない軽い傷。それゆえの鋭い痛みは甘んじて受け入れる。靴紐を確認して、じっとりと靄の立ち込める外の世界へ走り出す。 　眠ってなどいられなかった。じっとしてなんていられなかった。受けた赤い光があまりにも強烈で、この身の内からじりじりと焼かれている。衝動に身を任せてひたすら走った。 　凡人なのだと言ってきた。自分は至って普通の人間で。 　そう言って頬をかくのは謙遜しているのでも照れ隠しなのでもなくて、ただ勝手な気まずさを感じるからだった。人よりも頑張れることがあった。人よりも頑張れないことがあった。ぜんぶひっくるめたら普通の人間くらいにはなれているかな。どれくらい頑張れているのか、頑張れていないのか、直視するのは怖かった。 　がむしゃらに努力する人の発するまっすぐな光に目を細める振りをして目を逸らす。確たる目標もなく生きてきた自分の影も見れずに目を閉じる。 　努力をすることには勇気がいる。太陽を目指すのか、と言われれば持ち上げた手は曖昧に空を切る。いいえ、そんな、自分には到底。そうやって心を守ってきた。これからもそうしていくはずだった。 　魅了されてしまった。 　無力を感じて嘆くことしかできなかったあの状況を覆した子どもに。騎士団長が無事だったことに滲んだ視界の中にぼろぼろになった姿が映った。ドレスは破れ、髪はほつれ、手足は土埃にまみれてくすんでいた。けれど、彼女が誰も彼もを平等に照らす光は遮る暇もなく心の中に入り込んでしまった。その煌めきが際限なく強くなっていく。 　突き動かされるように走り続ける。力が漲って体は軽いけれど、重い鋼を差し込まれたようだった。あれほど無力を嘆いたのに、そのすべてを満たして溢れるほどのものを与えられた。叫び出したい感情の代わりに走る。走る。走る。 　太陽に手を伸ばすことが怖いなんて、言っていられない。立ち止まってなど、いられないな。なによりも美しい、赤い輝きを知ってしまったのだから。 　それが長い道のりの先、生涯を照らし続けることになる予感を抱いて、今はまた一歩前へ進む。 伸びてきたな。切ったほうがいいんじゃないか。　(……)　そう言われてすぐに声が出なかったのははじめてだった。　どうした？　不思議そうに傾げられた動きに合わせて、ほそい髪が肩に触れるのが視界に入る。　(副団長がこの長さだ。ならばやはり)　髪が肩に一ミリ触れることと二ミリ触れることの違いはなんだ。二ミリと三ミリの違いは。三ミリと四ミリの違いは。一ミリとその十倍、また十倍の違いは。　(……)　どうした、私が切ってやろうか。　いいえ。　こう答えたのもはじめてだった。
February 25, 2025 at 10:24 PM