時子
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勇尾⚠️現パロ/女体化
『かなしい幽霊』(4/4)
　なにが楽しいのかいつもにこにこと微笑んでいる勇作が今日はその柔らかい表情に明らかな険しさを滲ませていた。額に手を当て、眉を寄せ、口を引き結び、痛みを堪えている。それでも努めて穏やかでいようとしている。その健気さがなんとも言い難く哀れだと思う。ここには尾形しかいないというのに。尾形しかいないから、だろうか。 　部屋から青い顔をして幽鬼のようにゆらりと出てきた勇作を、尾形は読んでいた本から目を離して見上げた。 「痛むんですか」 「ええ……はい。そうです」 　いつものことですが、と諦めを含んだような声で呟いてぎゅっと目をつむる勇作を見て、意味のない問いだったことに気が付く。そんな尾形の微かな苦い気持ちなんて知る由もないままに、いつもはぴんと伸ばされた背を丸め気味にして勇作はふらふらと尾形の方へ寄ってくる。それに合わせて本を置き両手を広げる。うっすらと目を開けた勇作はその腕の中に収まって椅子に座る尾形の膝に縋り付くようにして膝をついた。 　取り繕ってはいたが相当痛むのだろう。顔を埋めた途端に小さなうめき声を上げる勇作の後頭部をそっと撫でる。切り揃えられた髪をかき分けると円形の痣を見つけられることを、きっと勇作は知らない。彼の母親は知っているだろう。父親も、知っているだろう。勇作はあの人に愛されているから。そうでなくとも興味もないくせに尾形の黒子の位置まで把握していそうな性格をしているし。 　ぼんやりと考えていたところに勇作が肺に溜まった空気を全部吐き出すような長い息を吐いた。掛ける言葉に困り結局、再度「……痛い？」と尋ねてしまう。勇作はううんと唸ってもごもごと答えた。 「痛いです。けど、こうして姉様の近くにいると和らぐ気がします」 「そうですか」 「はい。ありがとうございます」 　もう少しこうしていてもいいですか、との言葉には応えないで頭を抱えた。嬉しそうにもう一度ありがとうございますと呟く勇作をやはり哀れだと思う。けれど尾形の胸に仄暗く甘い感情が広がるのは事実だった。 　毎月二、三日ほど頭を貫くような頭痛に苦しむ勇作をなだめて抱きしめて面倒を見るのはいつからか尾形の役目になっていた。出会う前はひとりで対処していたのだろうにこうして甘えてくる勇作は弱さを曝け出すほどに尾形を信用しきっている。信用しきってしまっている。 　その苦しみの原因はおそらく尾形だというのに。 　知らないで尾形に向けて微笑む勇作は、その頭を貫いたのが尾形だったと思い出すことはあるのだろうか。思い出してほしくはないような、思い出すだろうと当然のように考えているような、どちらでもある気がする。どちらがいいということもない。ただどちらでも、この先尾形が進んで行く未来は勇作次第だ。 　どうなるかはわからないから、いまは世界から勇作を隠すみたいにして抱き、そっと微笑んだ。 ＊＊＊ 　あ、と声をあげそうになってすぐに言葉を飲み込んだ。けれど僅かに生まれた暗い感情は上手く飲み下すことができず、キャップを深くして顔を地面に向けた。 　じっとりとした空気がコンクリートから立ち昇る。夏の夕方に相応しい暑さが途端に気に障った。普通なら夏特有の湿度と温度、それらを消すように時折吹く風とこの時間帯は仕事終わりの企業戦士たちを浮き足立たせるにはいいスパイスだろう。今日の働きを讃えるために飲みに繰り出すのであろう集団や、なにごとかを笑顔で話しながら連れ立って歩く人たち、そういう明るく賑やかな光を放つ人々の中に勇作もいた。 　そうだろうな、とは思う。あの人は実直で人当たりがよく、誰に対しても真摯に向き合うから付き合っていて気持ちがよいのだろう。丁寧な言葉遣いも打てば響くような反応の良さも話題の豊富さも備えている、完璧な人間だ。人の中心にいるのが相応しく、それはたとえばこの瞬間では人の輪を抜けて尾形のもとに来るのは正解ではないということだ。寂しくないと言えば嘘になる気がする。けれど前は俺だけの幽霊だったのに、と思うと同時に人に囲まれているのが正解の人だと諦めるより前に理解している。そこに尾形がいないことも当然だと。 　そろそろ毎月の頭痛の時期だと思って念のため迎えに来てはみたが、遠目から見る限り普段の勇作と違ったところはない。この分なら大丈夫だろう。ならば気が付かれる前に退散するまでだ、と腰かけていたパイプベンチから体を離し丸めていた背中を伸ばしたところで、遠くの集団から頭一つ飛び抜けた勇作と目があった。 　今度こそ「あ」と声が出た。まさか聞こえてはいないだろうが、側の人たちに声を掛けてから一直線にこちらへ歩んでくる勇作に慌てる。戻れ、と念じながら手を振ったけれど思いは虚しく勇作は尾形の目の前まで来てその長身で沈みかけの陽を遮った。 「姉様！」 「勇作さん、ちょっと、戻った方がいいのでは」 「いいんです。迎えに来てくださったんでしょう？」 　姉様、とぺかぺかと笑う勇作を前にしてしまったら本当はこの人を人の輪に戻すことが正解なのだとわかっているのになにも言えなくなる。ええ、まあ、はい、と曖昧な肯定でも嬉しそうに笑うその後ろ、少し遠くから興味津々といった様子でこちらを見る勇作の同僚たちが見えて気まずい。でも彼らの前にいたときよりも屈託のない笑顔が向けられていることにどうしようもない優越感を覚えてしまった。 　勇作は尾形のそんな感情に気が付くわけもなく、帰りましょう、と尾形が被っていたキャップを自分の頭の上に乗せた。体を捻って抜け出してきた輪の方に会釈しながら家路への一歩を踏み出す動きに尾形も続いた。未だ多数の視線は感じるけれど、もう勇作は尾形のもとに戻ってきたのだ。正解ではないだろう。けれどこれが勇作の選んだ解だ。 　少し前を歩いていた勇作が不意に路地裏に入った。どうしたんだ、と尋ねる間もなく尾形も続いた瞬間に振り返った勇作に抱きしめられた。ぐっと固く絞められた両腕の中で驚いて声を掛けることもできないでいると、はあ、と深いため息が肩に押し付けられた口から吐き出された。頭痛か。耐え切れなくなったのだろう。少し前まではそんな気配を微塵も感じさせなかったが、いまはもう張り詰めていた気を緩めてもいいと、そう思ったのか。 　そろそろと手を背中に回す。軽く叩くようにして背を撫でながら尾形も目をつむった。息を吸うといつも勇作がつけている香水と汗、仕事終わりの匂いがする。 　しばらくそうしていた。気が済んだのかゆるゆると腕の拘束を解いて体を離す勇作を尾形も解放する。見上げた顔は太陽が沈んだためではなく若干青ざめているくらいで、いままで相当な無理をしていたのだとわかった。人の前だったから。尾形以外の、人の前だったから。そう思うと自然、上がる口角は抑えきれず、離したばかりの手で勇作の手を掬い上げた。 「帰ろう」 　はい、と勇作はほっとしたように笑んで頷いた。手を繋いだ帰り道、「迎えに来てくれてありがとうございます」と呟かれた言葉に、尾形はまたにんまりと笑った。
November 18, 2025 at 3:29 PM
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☁️生
『碧空』(3/3)
　いつだって恐れている。自分の一声が誰かを殺してしまうのだとわかっている。 冷静に、冷静に。落ち着け。 　言い聞かせて息を吐く。手を握って開く。握る。開く。柄に触れる。しかし指先は小刻みに揺れていてこれじゃまともに振るえやしないだろう。ふとした瞬間、足から力が抜けてしまいそうになる。必死に気持ちを鎮めようとしても思いとは裏腹に歯がカタカタと音を立てた。ままならないものだな、心とは。吐いた息さえも震えていた。 　いつも冷静であることを固く誓っていた。私が動揺を見せればそれは伝播してインシデントとなる。努めて冷静であろうとしていた。そしてその誓いを今日までは破らずにいることができていた。 「——！！」 「っ……」 「……———！？」 「！……」 　インカムから聞こえる音、音だった。もはやあちら側は通信を行える状態ではないのかもしれない。濁流のように耳に流れ込んでくるものは決して声ではない。爆発音、破裂音、咆哮、何かが壊れる音、衝突音、呻く音、———ぶつん！　『雲生、聞こえるかっ』 「は、はい！」 　はっと顔を上げた。いつの間にか下を向いていた。暗い足元、あるいは真っ暗な闇を凝視していた。 　突然クリアになった音声、向こう側の彼は早口に戦況を話し始めた。聞き漏らさないように注意しながら自分が持っていた情報と照らし合わせる。味方はどこにいる、敵の動向は、地上の様子は。私は進路を用意しなければならない。道を切り拓いて、切り拓かせるのだ。 　どこだろう。どこからなら行けるだろう。かつてこれほどまでに酷い状況を管制したことはない。それでもやらなければならない。いままでになく高速で頭を回転させ、目を凝らした。ともすれば絶望の暗雲に埋め尽くされてしまいそうになるのを必死に振り払って。 　光が差した。——ああ、ここからなら。ここからなら私は仲間を未来へ飛ばせる。 『いけそうか』 「はい」 　私の答えを聞いて、向こう側の張り詰めた空気がほんの少し緩んだ。希望的観測ではない事実を答えたまでだがそれでも希望になるなら重畳か。そう思ってすぐ、嫌な金属音が耳を掠めて緊迫した声が何かを叫ぶ。私からの指示を待つことを慌ただしく言い終わるや否や通信は切られた。 　刹那に祈る。どうか無事であるように。そしてここからは私にかかっている。 　目を見開く。見極めなくてはならない。これからやってくる一瞬一瞬、いつ指示を出すことがベストか。怖気付いて見逃してはならない。しかし早まってもいけない。声が聞こえる気がする。仲間の声。ここにいるのは私だけだがこの空の下には仲間がいる。救わなくてはならない。一緒に生き抜かねばならない。そしてもう一度空を見上げて笑うのだ。 　手が震えた。武者震い、ではないかもしれない。目の奥がちかちかとした。これも見上げた空の眩しさのためではないのだろう。 　切り取られたガラス越しの空。広く、青い。 　禍々しい敵によって埋め尽くされようとしていても、変わらなかった。大地を覆い尽くす埃と血と亡き骸になど気付かないかのように透き通る空はどこまでもどこまでも続いている。こんなこと知らなかった。知らなくてもいいはずだった。仲間が戦い本丸が破壊されているその瞬間にも空は変わらずにあること。けれどこれは私にとって救いである。 　窓の外を見据える。背筋を伸ばす。意識して両脚に力を入れる。震える拳をゆっくり開く。柄から鍔、鞘に触れる。自分の刃を確かめてみたいと思ったけれど、やっぱりやめた。そのまま左手で耳から口元に伸びる銀色の金属をなぞる。不思議と凪いだ気分になった。 「よし」 　悠々と雲の流れる空の下に立って正確な判断を下す。私にできることをするまでだ。 　今が一番空に近い。
November 18, 2025 at 3:18 PM
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ぶぜちょぎ⚠️本丸襲撃/刀剣破壊
『こんじょうは　さようなら』(2/2)
　その日の空は雲一つなく真っ青だった。春には菜の花、夏には向日葵畑、秋には秋桜が一面に咲いていたその先を見れば、仲間達と何度も行った海が見える気がした。来年もここに来ようね、と言い合った季節はもうやってこない。ただ沈黙する黒い冬が待ち構えている。 　遠くの方の喧騒に近づけば近づくほど、叫び声と呻き声と金属の触れ合う音が鮮明になって耳に入ってくる。この平和な本丸に無理やり戦場を重ね合わせたかのような、そんな惨状がこの先には広がっているのだ。 　主に挨拶をし、主戦場である門へと足早に向かう。審神者には生き残ってもらわねばならない。例え俺たちはこの喧騒が鎮まる時を知らなくても。 「っ！　山姥切っ！」 「豊前江っ」 　滑稽なことに靴が無いので、緊急事態であるのに廊下を進んでいると、前方から豊前江が走ってきた。手には抜刀されていない彼の本体と、靴がある。 「よかった！　お前に会えるかと思って」 　ここにはもう誰もいない。数振りは主と共に隠れ、数振りは本丸内に侵入した敵がいないか哨戒し、残りは皆敵が侵入してくる門で交戦していた。 　豊前江と山姥切は哨戒担当だった。が、山姥切は先ほどその任を解かれ、門へと向かうことになった。 「どうした、何かあったのか」 「最期にお前に会いたかっただけちゃ」 「最期って……」 　普段と変わらない様子で、彼は笑う。そうだった。俺はいつも、この笑顔に。 「……お前も分かってんだろ？　山姥切」 「そうだね、うん。俺も会いたかった」 「お？　素直だなあ」 「最期だからね」 　暫しの沈黙。 　これから向かう戦に興奮する体を風が撫でる。交わった目線にはっとすると、彼は赤い瞳を目蓋で隠して、そして笑った。思いが滲むようなその笑顔が好きだった。　 「……」 「……」 　長義も今までの日々に思いを馳せるように、一瞬目を閉じた。次に目を開くとき、後悔は失せている。 　じゃ、頑張れよ。 　お互いに。 　そう言って二人は同時に一歩踏み出す。そしてすれ違った。長閑な時間などない。余韻に浸る暇もない。呆気ない別れだ。 　足の速さを自慢していた彼は当然軽い身のこなしで長義が来た道を進んでいき、同じスピードで長義も門への道を辿る。 　開け放しの玄関を潜ると、一層強い夏の日差しが山姥切を照らした。彼の笑顔のようだった。山姥切が大好きだった、彼の笑顔のようだった。 「待たせたな。お前たちの死が来たぞ」 　鞘は捨てた。代わりにその重さの分だけ、彼との思い出と彼への気持ちを抱えたままでいたい。 　息を吸い込むと、長義は敵へと大きく一歩を踏み出した。
November 18, 2025 at 3:13 PM
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土りこ⚠️現パロ
『in her room』(3/3)
　マグカップを二つ、棚からおろした。 　お揃いで買って利子の部屋に置いていたもの。この棚が定位置だったが、もうここに置かれることはない。木製の天板の隣には紅茶の缶とコーヒー豆があったはずだけれど、今はシュガーポットとともにダンボール箱の中だ。コーヒーミルは半助の家に引き取った。それはもともと紅茶党の利子の持ち物ではなかったから。 　名残惜しくてのろのろとマグカップを緩衝材で包んでいると、「これもお願いします」という言葉を添えて平皿やスープカップにココット、この部屋での食事に用いられたすべての食器類が半助の傍らに積み上げられた。積み上げた張本人である利子は言い終わるや否や洗濯機上の収納に手を伸ばす。 「はあ」 「なんですか？」 「……いや」 　その手が掴んだタオルは半助がこの部屋に持ち込んだものだった。ずいぶんへたれてしまっている。そうなるまでにこの部屋で過ごした時間を思うとなんとも言えない気持ちになるが、怪訝な顔をしながら自分の作業に戻った利子からは「もう捨てようかな」という呟きが聞こえてきた。 　マグカップの次に半助が手に取ったのは茶碗だった。いわゆる夫婦茶碗と言われるもの。二人分の食器が必要なのだからと購入した当初は「夫婦……」と利子が頬を赤く染めながら言うこともあったし、半助がどうにも落ち着かない気持ちになって視線を彷徨わせることもあった。いつかそういう日が来ることを夢見て照れくさい空気が漂うこともあった。これからはそんなこともなくなる。 　はあ、と半助の口から今日何度目かのため息が漏れる。ぎゅっと眉を寄せた利子が半助を睨んだ。 　あわただしく引っ越しの準備を進める利子は半助の悪い手際に頬を膨らませて、それから言葉を飲み込んだような間を残してキッチンを通り過ぎていった。かと思えばすぐに居室から顔だけを覗かせて半助を呼んだ。 「この服どうします？」 　呼ばれて向かった先、利子が棚から引き摺り下ろしたカラーボックスを指さして言った。そのボックスは利子の部屋にあって唯一、半助だけのもの。半助が利子の一人暮らしの部屋を訪れるようになってしばらくして設けられたそれには季節ごとに着替えを詰め込んでいた。 「あー。持って帰るよ、今日」 「そう。ボックスはいります？」 「いらないかな。あ、でも荷物になるならもらってく」 「そうしてもらえると助かります」 「うん」 　この部屋に置いていた服をカバンに詰め込むと、反対にボックスは空になる。見渡せば部屋も空っぽ。利子の持ち物はほとんどがダンボール箱に仕舞い込まれてしまって、もうこの部屋で日の目を見ることはない。 　ここで過ごした時間、会話、思い出、そういう形のないものはどこへ行くのだろう。 「それ仕舞ったら棚解体してください」 　食器は私がやるので、と工具を半助に渡した利子は、半助が唇を噛んで眉を下げていることには気がつかないのだろう。それはそうだ。引っ越しは門出。人生の新しいステージに駆け上がることを悲しく思う感傷はいらないのだ。 　そうは言ったって。 「やっぱり寂しいよ〜」 「もう、またそれですか！」 「だって、だって……！」 「じゃあ私はずっとここに住んでていいんですか」 　それもいやだ！　と半泣きの半助を利子は呆れた目で見遣る。 「そうでしょう。新婚なのに別居婚なんて私も嫌ですからね」 「ゔん゙！」 　じゃあはやく手を動かして手伝ってください、と利子が赤い頬を膨らませた。
November 18, 2025 at 3:03 PM
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土利⚠️転生
『あやまたずして、』(1/5)
※松永奏多様作の診断メーカー『こんなお話いかがですか』(ID:804548)を元にさせていただいております。素敵なお題をありがとうございました。
　聞き覚えのある声が聞こえた気がしたから顔をあげた。向けた視線の先、リビングの扉がゆっくりと開いていく。 「母さん」 「半助。いい子にしていた？」 　あらわれたのはほんの少し家を空けていた母。半助、と名前を呼んでふわりと笑ってくれるその笑顔は視界の端にとどまるのみになった。にぎっていた鉛筆が手のひらから落ちるけれど、そんなことは気にしてはいられない。学校はどうだった、給食はちゃんと食べたの、宿題をやっているのね。母はそうやって半助に声をかけるけれど、いつもみたいにプリントを覗き込んで「もっと丁寧に書きなさい」なんて言わなかった。ただゆらゆらと体を揺らして、腕のなかを見つめている。 　母の腕のなか。半助の目もそこに釘付けだった。聞き覚えのある声だと思ったのは、なにかの間違いだったかもしれない。どうしてそんなことを思ったのだろう。ぱちり、とまばたきをして首を傾げる。 　その仕草が母の目に留まったようだった。母は半助が座っていたラグの横に腰を落として、ほら、と半助をうながした。 「赤ちゃん？」 「そう」 「泣いてる」 「泣いてるね」 　そういうつもりではなかったのだけれど、でも気になっていたのは確かだったから、うながされるままに膝立ちでにじり寄ってようやく彼を見た。やわらかそうな頬、みじかい指、うすいまつ毛が震えている。ゆがんだ口には歯がなくて、しかしその小さな体には見合わないほどの音が爆発音みたいに飛び出してくる。 　命の熱をかろうじて覆ううすい皮膚。音のかたまり。みどりの子。
November 18, 2025 at 2:57 PM
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土利⚠️現パロ
『スカイライン』(1/9)
　窓を開けてもいいですか、と利吉が半助を横目で見て言った。 「いいよ、そんなの私が開けるって」 「ありがとうございます」 「ごらん。パワーウィンドウっていうのは運転手の右手ひとつで操作できるんだ」 「へえ、知らなかったです」 　当然ご存知の利吉の両手はタイを解くのに忙しい。彼の視線は半助でも窓でもなく、見えているんだかいないんだか首元のほうに向けられていて、かなしいかな、半助の華麗な操作には一瞥もくれなかった。窓を開けてもいいかと許可を取るようなポーズをとりながら、はなから半助に開けさせるつもりだったようだ。まあ、そういう甘えというにはささやかな言葉も懐かしいから咎めはしない。 　音をほとんど立てずにガラスが下がっていくのにつれて外の騒めきが車内になだれ込んできた。ぶわり、とあたたかさをたっぷりと含んだ風が吹き込み利吉と半助の髪を撫ぜる。 　信号が青に変わったのでアクセルを踏み込む。風は速度と鋭さを感じるものに変わり、「わ、涼しい」とガラスの消えた窓に顔を近づけた利吉が呟く。ついさっき午後二時を知らせてくれたラジオの声は掻き消された。 「ルーフも開けたいねえ」 「え、この車、開くんですか」 「開かないよ」 　適当を言った半助に利吉の無言の視線が突き刺さる。ちらりと彼の目を見ればかわいそうなものを見る目をしていて、なんだよ、と言いながら笑ってしまう。利吉もつられたようで、堪えきれない含み笑いは音をともなっていった。 　はははっ！　心の底からの愉快は笑い声となり、頬に触れる風とともに、キラキラと輝いて車内を満たしていく。フロントガラスを一枚隔てて半助と利吉の前に広がるのは突き抜けるような青い空とどこまでも続いていく真っ直ぐな道。この昼下がりにこれ以上なにを求めるというのだろう。
November 18, 2025 at 2:17 PM
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土利⚠️現パロ/死ネタ
『きみが船でもあいしてあげる』(4/4)
　利吉くん、きみは優しかった。 　あのころもいままでも、たぶん次もそうなんだろう。そういうきみが好きだったし、きっと次も好きになる。きみの性質が変わらないためではないよ。きみがどこでどんなふうに生きるとしても、きみがきみであるのならばそれでいいんだ。現に忍者ではないきみのことだって私は愛してあげたろう。でも生きていなくてはならなかったのに。 　あのころは想像もつかなかった。耳に痛いほどの音と目に突き刺さるような色にあふれた、あれから四百年ばかりあとの時代。私はかつて往生を願ったことがあっただろうか？　願ったのか願っていないのかもわからないくらいだから、西の極楽へ辿り着けなかったことも当然。安穏としているけれど泰平は未だ成されない世に、私はもう一度生を受けた。 　そしてこの世にはきみがいた。それだけで私にとっては極楽かパライソか桃源郷か。とにかく仏の座す浄土よりもよっぽどすばらしいってこと。 　硝煙と血、土とあおくさい草葉に、誰かを騙った油煙墨のにおい。刃に皮膚を裂かれた痛みや毒を取り込んで震える指先の感覚。戦場の怒号とくたびれきった兵士たちが嘆く声の色。 　あのころ私ときみの間にあった普通の生活の手触りを、四百年の間できみはすっかり忘れてしまった。 　生まれ変わって、きみは忍者ではなくなった。 　きみは忍者ではないのだから私になにか教えを乞う必要はなかった。きみは忍者ではないのだから一人で生きていく必要はなかった。きみは忍者ではないのだから頑強な身体などなかった。きみは忍者ではないのだから誰かのために命を賭けることなんてしなくてよかった。 　きみは忍者ではないのになにかにつけて私に教えを受けたがって懐き、忍者ではないから離れることなく私と付き合いを続け、忍者ではないのにある日子どものために道路に飛び出し、忍者ではないから圧倒的な力を受けながす術など知らずに神様に心臓を差し出してしまった。 　利吉くん、きみは優しかった。そんなきみがずっと私の誇りで、自慢の弟分で、尊敬する相手で、好きな人で、そして今は少しきらいだ。 　現代では人が死ねば遺された人間は悲しみに浸る間もないらしい。 　青空の下、親子連れが多くいた公園の側、ぽーんと転がって止まったサッカーボールの横。狂ったように泣き叫んでいた自分を遠くに感じていた。黒々とした血に染まった利吉の額が白いことを知っていた。握り込んだ指先が不器用に半助の頬に添えられる感触も知っていた。その心臓がどれだけの速さで動いているかも——動いていたかも知っていた。 　広く行き渡り、洗練されたように見える国家システムは、今この時代にあってなおも欠陥を抱えているらしい。いくら愛しあって家族同然の関係を築いてきた利吉と半助であっても、戸籍上のつながりがなければ踏み込むことを許されない領域は多かった。誰かが呼んだ救急車に乗り込み、利吉の両親を病院に呼んで、半助のできることはそこまでだった。永遠にも思える時間、病院の黒い角でただ佇むことを見逃してもらった。霊安室にはいれてもらえた。利吉は目を開けないでいた。彼の父親の涙とともに世界は温度を失くし、彼の母親のすすり泣きとともに世界から音が消えた。 　人が命を失ったあとの諸々の手続きに半助が出る幕はなかった。それは制度上許されないためでもあったし、利吉を大切に思っていた二人がこれ以上心を壊さないためでもあった。彼らには現実から目を背けさせるわずらわしいことが必要だった。もちろん、半助は彼らに寄り添う気概はあったのだが。 　利吉の人生の最期に起こった嵐のような出来事が、彼を大事に思い、慕っていた人々の心を掻き混ぜる。利吉は時折り、彼自身が原因であることにもないことにも、眉を下げてこちらを窺うようにしていた。軽く謝罪の言葉を舌にのせつつあとのことについて手を出してみたり、合わせてみたり、どうにかしようと動いていたが、今回ばかりはそんな事後処理を知らんぷりで放り出していく。だから半助がここへやってきた。 　数日ぶりの利吉の部屋はなにも変わったところはなかった。まるで家主が帰ってこないことなど新聞受けの底にすら引っかかっていないよう。けれど新聞受けには数日分の郵便物が溜まっていて、二、三のDMを引っ張り出した半助は靴を脱いで部屋に上がった。 　レースのカーテンは引かれていたけれど厚手のカーテンは開け放たれていた。その向こうで洗濯物が揺れる。日に当たりすぎた衣服はほんの少し薄汚れてしまっているような気がした。まめな性格の利吉は毎日掃除をしていた。ランプが緑色に光る充電機からバッテリーを抜いて壁に立てかけてある掃除機にはめる。隣の観葉植物には微かに埃が積もり、みずみずしいハリを失っていた。水をあげようとキッチンへ向かえば皮が褐色に変わったバナナが転がってあまったるいにおいを漂わせている。冷蔵庫を開ければ消費期限の切れた食パン、口のあいた牛乳パック、半端に残ったお茶のボトル。シンクには、珍しい、コップと皿とバターナイフが残されていた。水切りラックの茶碗の底に埃はついていない。プラスチック製の容器は乾いていた。プラごみを捨てる日は今日ではない。ゴミ箱の前に口を縛った袋があったので、ねじ込んだ。 　そうやって片付けていく。明日を生きるつもりだった利吉の痕跡はそこかしこに残されていたけれど、それらすべてを消していく。キッチンが終われば次は整頓された部屋から利吉の持ち物を引き出さなければならない。 　きみは酷いひとだ。 　私が選んであげたカーテンが掛かった窓から暮れなずむ外の世界を眺める。やがて雲のかたちがわからなくなるほどの暗やみが部屋を冒すまで、私は動けなかった。思えばこんなに静かな時間をこの部屋で過ごしたのははじめてだった。いつだってきみと私は平和に騒がしくお互いを見つめていたから、夕陽がこんなにも胸に迫る美しさで輝くことに気がつく暇もなかったんだ。 　月が白く輝いていた。そういえばあの日も満月だった。あんまりにもきみが美しいから月の都へ連れ去られてしまったのだろうか？　それならば私は富士を踏み台にしてきみを取り戻しにいかなくてはならない。永遠の命などいらない。次の四百年後にまたきみに会いたい。 　ああ、でも本当は四百年と言わず、明日のきみに会いたかった。もしかしたら明後日のきみだったかも。とにかくあの日を超えてきみと。 　朝干した洗濯物、充電をしておいた掃除機のバッテリー、冷蔵庫に入れなかったバナナ、消費期限の迫る食べ物、洗うことを横着した食器。きみは死ぬつもりなんてなくて、当たり前のように未来を生きるつもりだった。私と。 　きみのいなくなった部屋を掃除して、なんてことないように置かれた手のひらにおさまる四角い箱を見つけたときの私の気持ちがきみにはわかるか。震える手で開ければ目に入ってきたのは月の光もかくやという銀色の輝き。どんな顔をしてそれを手に取ったのだろう。まさか、かつて氷ノ山で手裏剣を投じた笑顔ではあるまい。どんな手つきでこれを私に渡そうとしたのだろう。かつて刃を握り込んだ手を開いて傷のない綺麗な手で、きっと。 　これまでずっときみのさまざまな表情、仕草、感情、言葉を一番近くで感じてきたけれど、ついぞ知らないきみがいたとは。 　きみは私と生きていくつもりだった。私との未来を見ていた。やっぱり利吉くんは優しかった。 　しかしこの世でのきみを無駄にしないために、私はきみのいない世界を生きていくしかない。この指輪が私を生かすのだ。たった一人でも、傍らの熱を失っても。愛する人にそんな仕打ちってあるかい？　だからやっぱりきみは酷いひとなのかもしれないね。 　そうであればよかったのにね。
November 18, 2025 at 2:04 PM
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土りこ⚠️現パロ
『兄と妹のサバチカル』(4/7)
　彼女は閉塞感を眺めているのかもしれなかった。 　窓際に置かれたアームチェアに膝を立てて座っている。その膝を支えに開かれた文庫本のページは一向に進んでいないようだ。冬の終わりかけの日差しを遮って影をつくる睫毛はぴくりとも動かない。だから本の内容なんて彼女の頭には入ってきていなくて、別のものに思考を向けている。 　寒くはないはずだが、と思いながら肩から落ちかけていたショールをかけ直してやると、かしいでいた顔がぱっとこちらを向いた。 「ごめん、邪魔しちゃった？」 「……ううん。あんまり集中できていなかったから」 　ありがとう、お兄ちゃん。 　眉を垂らして口角を上げた顔に半助も笑い返した。 「じゃあちょっと休憩する？　利子ちゃん」 　利子が手土産に持ってきてくれた焼き菓子は手付かずのままだった。最近彼女が気に入っているパティスリーで購入したのだという貝殻の形をしたそれは大量生産のものとは異なって長期保存ができない。だから今を逃せば一緒に食べる時間はない。利子もそれを見越して「私も食べたかったから」と言いながら白い箱を抱えてきたのだろう。 　うん、と頷いて利子が本を閉じて立ち上がった。 　壁に沿うように置いたテーブルは円を欠いた形をしている。部屋の奥、窓に近いほうに利子が座り、玄関に近いほうに半助が座る。インスタントコーヒーの入った揃いのマグカップ二つと焼き菓子を用意し、今日も定位置につく。 　日曜日の午後は静かだった。南に向かって大きな窓が面するこの部屋は日中は陽だまりの中にいるような気分にさせてくれるから、二人で過ごすのは大抵この半助の部屋だ。忙しい平日は日が沈む前に部屋に戻ることはないため、明るい部屋は普段とは異なる世界であるようにも感じていた。それとも、利子がいる休日だからなのかもしれない。 　ふう、と息を吹きかけて黒茶色の水面に映る白い光を歪ませた。熱湯を注いだばかりでは熱すぎて飲めやしない。向かい側では利子がコーヒーシュガーの細い袋を破っていた。さらさらとカップの中に沈んでいく音も聞こえそうだった。 　幸せだ。目をつぶる。安いけれどそれなりの風味はするコーヒー、バターがしっとりと染み込んだマドレーヌ、少し物が置かれた雑多なテーブル、窓から入り込むやわらかな陽、二人だけが存在する部屋。手を伸ばせば届く距離に利子がいる。幸せだ。心の中で呟く。 「お兄ちゃん」 「うん？」 「いまって幸せだよね」 「うん」 「幸せ」 「そうだ」 　確かめるみたいにゆっくりと音になって落とされる四文字。そうだね、利子ちゃん。頷いて微笑めば利子もそっと口の端を引き上げた。 「お兄ちゃん、マドレーヌどう？」 「美味しい。久しぶりに甘いもの食べた」 「あんまりお菓子とか食べないよね」 「うん。利子ちゃんは好きだよね」 「好きだし、お菓子は心の栄養だから」 　心なしか誇らしげにも見える表情で言い切った姿に思わず笑ってしまう。自分で言ったのに恥ずかしくなったのか、利子はごまかすみたいにカップに口をつける。半助も少し冷めた液体を一口含んだ。 「子どもの頃、お母さんがよくお菓子作ってくれたよね」 「ああ」 「大好きだったな」 　ぽつりと利子が呟いた。まだ四人で暮らしていた頃はしばしばあったことだった。料理上手でもあり菓子作りが趣味の彼女にずいぶん舌を肥えさせてもらったと感じる。残念ながらその腕前は半助には引き継がれなかったし、今さら教わることも難しいけれど。 「食べたい？　お母さんの作ったもの」 「……どうかな」 　多少の勇気を必要とした半助の言葉に、利子は肩を落として呟く。 　この歳になって家族と休日を過ごす人はどれくらいいるのだろう。それも互いに親元を離れて別の町で暮らす兄と妹。用事があるわけでもない。きっとあんまりいないんじゃないかな、といつか考えたことがある。半助と利子だって、兄妹だから一緒にいるわけでは、ない。 　二人の間に沈黙が落ちる。普段も利子といる時間のすべてを会話に費やすわけではない。それぞれの作業に没頭することもあるし、同じものを見たり同じことをしたりしていても黙ったままのときもある。そういう静寂が心地よくある関係だが、今日は会話を続けたかった。それで一瞬でも楽になれるのなら。 「幸せの話だけど」 「……うん」 「もし三億円があったらどうする？」 　目を瞬かせて利子が半助を見つめる。思いもよらないことを言われた、という利子の胸に生まれた驚きが素直に伝わってくる。彼女がようやく半助に焦点を結んでくれた。たったそれだけで満ち足りた感情がじわりと指先を侵していく。 　向かい合って座っていても利子はずっと半助を見ていなかった。どこか遠い目をして、ぼんやりと曖昧な気配で佇んでいた。利子は窓に近いほうに座って半助の背後にある玄関に視線を向けていたのかもしれない。そしてそこから広がる外の世界を。 あるいは意識して見ないようにしていたのだろうか。ともかくいま、半助が利子の視界に映っているなら、まあいいか。 「さんおくえん」 「そう。大金だよ。なんでもできる」 　あっけに取られた声に半助が答えるが、無言のままで利子がマドレーヌを持ち上げた。半分に割って、片方にかじりついて、すっかり食べ終えてしまうと空いた右手でカップを持ち上げる。もう半分も時間をかけて咀嚼して、やっぱりコーヒーを一口。楽しげな半助から目を離さないまま。 「ペンとレターセットを買いたいかな」 「いいね」 「あとかわいい切手」 　ささやかだな、と口にはしないで続きを促す。 「気になってた本とか、全部買う」 「本棚も買えるよ」 「確かに。じゃあ空いたところにはお兄ちゃんの好きなCDとDVD置いていいよ」 「お、なに買おう。シリーズ全部揃えたい」 「プレイヤーも用意しなきゃね」 　それからテレビ、と利子があげたものに頷く。今はどれくらいの性能になっているのだろう。この部屋にテレビはなく、タブレットに入れたアプリもほとんど使わず契約してみたサブスクも持ち腐れてしまっている。けれどテレビの前に座って過ごす時間は好きだった。ソファに座っていてもラグの上にいても「なに見てるの」と利子が近寄ってきて隣に腰を下ろして、それを微笑ましげに見守るみたいな視線もあった。 「テレビで映画観るならソファも必要だよね」 「利子ちゃんが寝そべれるくらい大きいやつ」 「そう。で、足元はふわふわのラグ」
March 9, 2025 at 2:19 PM
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土りこ⚠️現パロ
『馬鹿な男！』(4/11)
　キャンディーみたいな女の子になりたい。ポケットやカバンにそっと入り込んでも迷惑がられなくて、ふとしたときに見つけられたら笑顔になってもらえるような。溶けてなくなってしまうと寂しくて、だからまた求められるような。 　そういう女の子になりたい。 ＊＊＊ 　土井先生はまじめだから、と小松田は思う。およそ恋愛ごとに向いているタイプとは思えない。以前聞いた話では彼女がいたことはないのだとか。けれどモテないはずがない。だから彼女がいなかったのは単に彼が気持ちを理解することが不得手だからでは、というのが小松田と利子の共通認識である。利子は頭を抱えていた。 　利子もうぶすぎるのよね、と照代は思う。「好きです」と伝えて「ありがとう、嬉しいよ」と返されればぽっと頬を染めてしまう。そこでキスのひとつでもしてみれば到底妹からの敬愛と間違えるはずもないのだが、そういうことじゃない！　と利子は真っ赤になって叫んでいた。 　伝蔵に言わせてみれば、収まるところにおさまるだろう、と。娘が幼い頃から抱える『お兄ちゃん』への恋情はとっくのとうに知っている。半助ならば反対する理由もない、と複雑すぎる親心を抱えながら妻と言葉を交わした。しかし最大の難関は半助に自覚させることだよなあ、と二人で肩を落としたことも覚えている。頑張れ、娘よ。 ＊＊＊ 　土曜日のショッピングモールは多くの人で賑わっている。ターミナル駅から直結するここは老若男女様々な世代の人たちであふれているが、このあたりは男女二人組だとか二、三人の女の子の組み合わせが多いだろうか。よそ行きのワンピースだとか、“ちょっとしたパーティーに着ていくドレス”を売る店が立ち並んでいるエリアに半助と利子もいた。 「見て見て。あれ、利子ちゃんに似合いそう」 「どれですか？」 　半助の顔はいたって明るい。妹との久々のお出かけが楽しくて仕方がないといった様子だ。それ以上に張り切ってもいた。今朝だって『お兄ちゃんの出番だからね』なんて妹に頼られたことへの喜びを隠そうともしないとろけるような笑顔で——だめだ、これ以上は本当に落ち込む。 　利子の顔はこわばっていた。なんでこんなことになったんだろう、ともう何度目かもわからない自問自答を繰り返しては自分を責め立てている。けれどそれをどうにか半助に見せないように取り繕う。どうあれ、半助と今日は一日中二人きりで過ごせるのだ。それは素直に楽しみたいと思う。 　たとえ今日の目的が、明日利子が参加する婚活パーティーに着ていく服選びであるとしても。 　これどう？　と半助が見つけたワンピースを指差す。晴れた空のような水色がかわいらしい。「ご試着されますか？」と近寄ってきた店員に断る気力もないままあれよあれよと言う間にフィッティングルームの鏡の前に立っていた。 「利子ちゃん、着れた？」 「あ、はい！」 　シャッとカーテンを開け、待ち構えていた半助と店員の前に姿を現すと「おお」と二人から感嘆の声が上がる。お似合いです！　と少し興奮したように店員が褒めてくれて照れくさい。自分でも結構似合っているような気がして、単純だが気分が上がった。 「ここのボタンがいいですね」 「そうなんです！　レトロなデザインが人気なんですよ〜」 「へえ」 　まったく気が進まない今日の買い物ではあったが、着てみれば案外よい。なにかこだわりがあるわけではないし、見れるものになっているなら問題ない。むしろ見れないほどのひどい姿でもいいのかもしれないが、それは乙女心が許せない。 　利子が店員と話している間、半助からの言葉はない。半助が勧めてきたのだし感想のひとつでもないものか、と視線を向けるとなにやら顎に手を当てて唸っている。え、まさか似合っていない？　と不安に思っていると半助が口を開く。 「かわいいけど、利子ちゃんにはもう少し薄い色の方がよさそうというか」 「この色もいいと思うけど」 「うーん」 「……これはだめ？」 「だめっていうか」 　他も見てから決めようよ、と言う半助はよい彼氏であるのだろう。普通は服選びに積極的なのは彼女の方だ。だから店員も「彼氏さんは淡いお色がお好きなんですね」と微笑ましげなフォローを入れてくれる。しかし半助は「あ、いえ、彼氏ではないです」とすげなく返す。 　え？　と当然の疑問符を浮かべる店員に曖昧に微笑みながらカーテンを閉めた。その向こうで「兄妹みたいなもんです」といつものようにあっけらかんと口にする半助の姿を思い描く。ワンピースのボタンを外して袖から腕を抜きながら悲しくなった。足元にすとんと落ちた布の重なりが、利子の心みたいだった。 「これは色が濃すぎる」 「裾が短くない？」 「レースがくどいような」 「もっと細いラインがいい」 　色んな店を回って何回も試着しては半助が首を傾げた。散々歩き回り、とうとう元々いたショッピングモールを飛び出し近くの百貨店へ。そこで見つけたワンピースのひとつについに半助は満足げに頷いた。 これがいい、としみじみと言う目の輝きを前にしてはいたずらに否定などできなかった。 　しかし問題がひとつあった。このワンピースはどう頑張っても一人で着脱できないのだ。店員の接客がやけに丁寧だなと価格帯の違いに慄いたが、そうではなくて介助のためだったことが恥ずかしくて言えないまま、購入が決まってしまった。 　顔の晴れない利子を、どうかした、と不思議そうに振り返る半助を見ながら「まあ、お母さんにやってもらえばいいか」と思い当たったので言葉を濁す。それをどう受け取ったのか半助は「あ、今日は私が全部払うからね」と小さな声で囁いてきた。うん、そうだった。「せいぜい半助の財布を軽くしてこい」と激励なのかなんなのかわからない言葉で今朝父に送り出されたことも思い出した。利子の気持ちなんてわかっているだろうにそんなことを言ってきた父を恨めしく思ったものだ。今はもう、試着に疲れて恨めしさより諦めの境地にいる。 　上質な紙でできたショッパーを左手に持ちながら「次は靴かな」と半助が利子の腕を引いて元気に歩き出した。 ＊＊＊ 　好きだ、と何度も伝えてきたつもりだった。相手の立場を危うくさせる卑怯な手は使いたくなかったから、真正面から。しかしそういう愚直さが裏目に出てしまったのか半助が鈍感すぎるのか、利子の恋心はことごとく兄への大きな敬愛として受け取られてしまった。 　利子ちゃんは昔から私によく懐いてくれてるよねえ、と言われれば咄嗟に否定もしたくなるが「私も利子ちゃんが大好きだよ」と続くからなにも言えなくなってしまう。利子の告白がきちんと伝わっていなかったとしても同じ言葉を心底嬉しそうな表情で返されれば、心臓がぎゅうっと掴まれてしまってうまく言葉が出なくなる。だから次も単純な「好き」しか伝えられないのだ。
March 3, 2025 at 8:32 PM
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留伊⚠️軍師ネタ
『灯明皿の光』(2/6)
　灯明皿の光がぼんやりと部屋を照らしていた。 「おかえり留三郎」 「まだ起きていたのか」 　夜も遅いからもう寝ている、と考えていた同室は眠気なんて一分も漂わせない表情で俺を見上げた。寝巻き姿ではあるものが布団は畳まれたままだし灯りは彼の手元を照らす程度の光量を保っている。 　起こさないように気配を殺してきた……というのは正確ではない。夢のなかにいる子どもたちを不用意に起こすことはあってはならないが、そうでなくとも俺たちはいつだって忍ばなければいけない。それがこの透明な殻で包まれた学びやで本当に必要なのかと言われれば、実のところそうとも限らないのだが。しかし俺たちに必要なのは先生方の庇護の下で心安らかに歩くことではなく、来たる春に飛び立つ翼を整え、力を蓄えることだ。 　月のない夜は静かだ。月見桜の時期は遥か前に過ぎ、蛍が命を燃やして飛び交うこともない。秋の虫はつい先日まで夜ごと賑やかさを増していくように感じていたが、気が付けば声は失われた。代わりに俺たちの身を切ろうと刃を構える寒さがすぐそこで息を潜めている。それをどうにか耐え抜けばまたすぐあたたかな風が頬を撫ぜ始める。 　そうすれば別れだ。六年間息をした学園から、背を追った教員たちから、きらきらとした目で見上げてきた後輩から。そして、ともにここまでやってきた同輩から。 　ここを卒業したら永遠の別れとなるかもしれないのに、それを目標に手を繋いできたことのなんと皮肉なことか。しかし学園で一生分の触れあいと衝突を繰り返して俺たちは子どもから大人になる。忍者の卵から忍者になる。忍者は仲良しこよしではない。常に己しか信じることができない世界へ忍び込む前に、無条件に人を信頼してよい環境で過ごしたことは俺の礎となりこの先に待ち構える過酷な人生で暗闇に足を掬われないように俺を支えてくれるのだろう。 「もう寝たらどうだ。夜も遅い」 「お前に言われるとはね。今が何時か知ってのおかえりかい」 「……伊作」 「はいはい。冗談だよ」 　薬代が足りなくてね、と困ったように眉を下げる伊作とのやりとりはあと何回できる。トンテンカンと木を削る刃で指を抉らぬようにと心配をしてしまうことも。 　委員会の予算が、と言いながら伊作が売るために仏像を木から削り出すことはもう随分前から行われているような気がする。なにかいい木はあるかい？　と木の硬さをさほど気にしたことがなかった伊作はまず俺を頼った。気にしたことがなかったのは木の硬さではなく、仏像の柔らかさかもしれない。 　俺は信心深い方ではなく、伊作の彫る仏像に仏の姿を見出すことはできない。見事だな、と思うがそれは伊作の器用さだとか造形の感覚に感心しているのであってそれ以上のことではない。ただ俺よりも伊作の方が仏に期待をしていないだろうとも思う。俺たち六人のうち、いや学園や国を探しても彼以上に救済への戸惑いのなさや彼の視界に入る人への分け隔てのなさを持つ者はいない。それでもその優しさは密のように甘いのではないから伊作は忍者の資質がある。忍者に向いていないんじゃない、と言うのは勝手な願いのようなものである。あくまで忍者でありつつ平等に人を扱う姿勢はやはり仏のようであるから、金策のために彫り出した仏像でもありがたがって買っていく者がいるのだろう。 「それ、いつ売りに行くんだ」 「どうかな。雪が降る前に完成したらいいけど」 　どうだろうな。雪は降りはじめてしまうかもしれない。そうなれば売りに出るのも難儀するから、早く完成するといいが、とは「寝たらどうだ」と言った先ほどと相異なる考えを抱く。 　伊作のほうは早い完成にこだわってはいないようだった。いくつか出来てからでもいいかな、と笑っている。
February 25, 2025 at 10:48 PM
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庄彦
『僕らの背比べ』(3/3)
「彦四郎、背が伸びたな」 「ほんとですか！」 　ぽーん、と飛んできた嬉しい言葉を頭の上で弾ませるみたいな声。ぴょこんと立ち上がった彦四郎の、置き損ねた筆を僕が受け止めた。 「彦四郎」 「あ、ごめん、庄左ヱ門」 「べつにいいよ」 　喜色に一気に染まった頬から熱がすこし引いてしまって、ちょっと悪いことしたな、と思った。でも筆を落としてしまったらことだから、まあ、悪いことはしていないはず。 　先ほど彦四郎に声をかけた鉢屋先輩がふーん？　と首を傾げた。お団子を頬張っていた尾浜先輩がほーん？　と面白そうに呟いた。 「さては庄左ヱ門、彦四郎に背を抜かされて悔しいんだな？」 「違いないな。でも、ま、大丈夫さ」 「うん。庄左ヱ門もすぐに伸びる」 「そんなもんだよな一年生って」 「だよな」 　違いますけど、と言ったってこの先輩方は聞いちゃくれないだろう。別に彦四郎に背を抜かされたって今だけのことだ。先輩も言ったとおり僕らの背はすぐに伸びるだろうし、悔しくなんかない。 　ということを言ってみたって、微笑ましいものを見るような目で「わかったわかった」とたしなめられてしまうのだろうから僕は黙った。彦四郎が目を合わせてきて、同じように困ったふうに唇を歪めている。 「悔しくなんかないです」 「そうかい？」 「はい。だって僕は彦四郎より足が速いですから」 「お」 　単に否定したんじゃ僕が悔しがってると思われて終わりだ。だから理由も説明しなくては。そう思って付け足してみたが、尾浜先輩の目は俄然興味深そうに輝いた。 「そうか、庄左ヱ門は速く走れるんだな」 「はい」 「え、でも、この前の前の競争は僕が勝ったよ」 「それはそうだけど」 「ほお？」 　彦四郎、よけいなことを。思わずそう思ってしまったのは別に恥ずかしかったからとか隠したかったからではない。 　鉢屋先輩も愉快そうに口の端を引き上げる。ほら、二人が食い付いてしまったじゃないか。でも、これって僕が言い始めたことになるのかも？ 「この前の手裏剣のテストは僕の方が一点多かった」 「教科のテストは僕の方が上だった」 「えーと、学園長先生のお遣いに行って褒められた！」 「僕にだって礼儀正しいっておっしゃってくださった」 　あれも、これも、と言い合っている僕らを先輩方が眺めているのがわかった。たぶん、鉢屋先輩が買ってきたお団子は尾浜先輩が多く食べている。でも鉢屋先輩が楽しそうだからいいか。って、なんでやりとりを楽しまれているんだ！ 「先輩！」 「なんだい庄左ヱ門」 「笑わないでくださいよ」 　「んー」とか「ええー」とか、そんな気の抜けたような声で二人が笑う。いくら仕事がないからって、こんなに腑抜けていていいのか。はあ、とため息をつくと同時に彦四郎も肩を落とした。二人で気まずいような目を合わせた。 　なんで僕はあんなに必死になって彦四郎に勝っている部分を並べ立ていたんだっけ、と会話が止まって冷静になると恥ずかしくなる。彦四郎も頬が赤い気がするからきっとおんなじ気持ちだ。 「仕事に戻りましょう」 「そうですよ、先輩」 　いつの間にか立ち上がっていた僕らがお団子を包み直して湯呑みも遠いところに置いてしまう。同意とも不満とも取れない声が二人から上がって、その息の合い具合にちょっと笑ってしまった。 　仲がいいことはいいことだよなあ、三郎。だよなあ、勘右衛門。 　そんなふうに言われたって絆されませんからね、と心で思いながら「はいはい」と口先だけの返事をしたら、二人はようやく重い腰を上げる。 　僕も仕事に戻ろうとして、握ったままの筆が彦四郎の使っていたものだと気が付いて彦四郎を振り返る。彦四郎も僕を見ていた。苦笑して筆を渡すと小さく礼を言われた。それから「なんかごめんね」と。 　うん。素直さはちょっと負けてしまったかも。でも僕らいつまでもこうして競い合えたらいいのにね。
February 25, 2025 at 10:42 PM
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ろじいす⚠️成長ネタ(五年生×四年生)
『あいに染む』(2/5)
　海を見に行こうと言われたから浜へ降りていくのかと思った。砂が足につくのは嫌だな、と顔を顰めたら「そんな顔するなよ」とこれまた顰めっ面で小突かれた。口先だけで謝ってから誘いを受けることを伝え、小松田さんに見送られながら一緒に門をくぐった。 　委員会の先輩後輩の関係ではあるものの、委員会以外で親しく話すことはあまりない。あってもちょっかいをかけられたり揶揄いかえしたり。そんなやりとりが大半だ。僕らは仲が良いとは言えないだろう。今日だって忍術学園を出て以来、言葉という言葉はなかったが、さすがに道のりに怪しさを感じて僕から話しかけた。 「海に行くんじゃないんですか」 「海を見に行こうって言ったんだよ」 「はあ」 　てっきり海へ行くのだと思ったのになぜか山を登らされている。黒い土の隙間からはまるく小さな葉が時折り覗いていて、道には瑞々しさを感じさせる木の枝が迫り出している。それらを傷付けないように避けながら案外速く進んでいく濃い藍色の背中を追っていれば、少し額に汗が浮かんでくる。雪は先日消えたばかりの、まだ朝は冷え込む時期だが、日中の太陽は日毎に光を強めていくようだった。 　春が来る。先日六年生が学園を卒業した。 　ついに山の開けたところに出ると遠くに海が見えた。確かに「海を見に行こう」という言葉に嘘はなかった。しかし先輩が海と言うのなら、それは潮の匂いをまとったものであると信じて疑わなかった。ここでは波の音も聞こえやしない。 「遠くないですか」 「いいだろ。それにお前は好きでもないだろ」 「まあ、はい」 　嘘だ。確かに海は好きではないけれど海の気配は好きだった。しかしこうも離れていては気配どころではない。 　それに、あんたは海が好きでしょう。こんなものじゃ足りないでしょう。 　言葉にはしてやらないつもりだった。しかし遠くで太陽を反射して白く光る水面を見つめる横顔が気に食わなかったから。山の間から覗くわずかな海をじっと見つめる様が普段の嫌味な言動をする男とはかけ離れていたから。 　目を逸らした。妙に落ち着かなくて無言を貫くことができない。 「この休み、家に帰りました？」 「帰ったけど」 　黙ったまま遠くに向けられていた視線が不思議そうに僕を向く。きょとん、とした顔も最近では見ることがなかったが、それがなんだ、と口を尖らせながら今にも顔が歪んでいきそうだ。 「ふうん」 　知らなかった。気付かなかった。五年生が少し学園にいなかったとして、それが長期休み中であろうと帰省なのか実習なのかはわからない。でも、前までは先輩が実家に帰っていたことなんて会えばすぐにわかったのに。ここ最近は本当にわからない。 　なにか言えればよかったけれど、碌でもない八つ当たりか失言しか出てきそうになくて口をつぐんだ。結局気の利いたことは言えずに黙り込んだ僕を苦い顔で見る視線を払いのけると、再び海の方向に顔が向けられた。 「なんなんだよ、お前……」 　こっちを見ないで文句をこぼすような呟き。海を見ているのに僕のことが頭にあるのだと思えば多少は気が晴れた。なので言ってもいいかな、という気になった。
February 25, 2025 at 10:29 PM
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ジルマリ(2/2)
セドティア(1/1)
雪を見たことはある？ かつてどこぞの屋敷で行われたパーティーの、誰にも相手にされない女にふいに声をかけられた。あなたを見て思い出したの。雪を見たことはある、小さな給仕さん。 なにを言い出すのかという不信とかすかな苛立ちは泡のように浮かんだだろう。とうの昔に生まれて消えた感情などもう思い出せないがあのころの自分の心の動きはたかが知れている。 ——この国は雪が降らないのね。もう暮らしはじめてからずいぶん経つけれどいまだにおかしい気がするわ。 ——おかしい？ ——ええ。ここは私がいる冬じゃないってね。 ——……。 ——わからないでしょう、たかが雪くらいでって。 いえ、そんなこと。 つまり故郷を離れて寂しいのだと、そう理解して笑みを形作った。こういう働きをはじめて長かったのだ。つつがなくこの場をやり過ごすための対応は身に付けてきた。意味不明なことを言われても、意識がある相手であるだけマシだと安堵に隠してため息を吐いた気がする。 私はあなたの抱える思いを理解していますよ、遠く故郷を離れたのに夫には相手にされず友人もおらず、手近な人間に声をかけて時間を潰したい。そんなところでしょう。私の考えを知ってから知らずか女は無害そうに微笑む。 「それで、雪を見たことはあるの、あなた」 「いいえ、ありませんが」 「そう。じゃ、雪が何色か知らないんだ」 「……白でしょう」 咄嗟に抑えた声が思ったよりも低くて焦る。さすがに不快を滲ませたことを気付かれただろう。けれど気分を害した様子もなく笑って「青よ」と言ってくるものだから驚いた。馬鹿にしているのか。本当の雪を見たことはなくとも絵画の中で見たことはある。それに嘘が描かれているのかどうかは知らない。しかし他の静物も動物も絵画の世界と実際の世界で同じように息をひそめているように見えた。 あなたの髪の色よ、と続けられる。結局この女は私をからかいたいだけなのだ。知りもしない雪の冷たさが胸を侵した。 「朝の空の色ね」 「なにが」 「あなたの髪の色よ」 愛しい妻がそう言って私の髪を掬った。するり、とその小さな手からすり抜けていくのを残念がって、そのまま顔を上向けた。丘の上に座り込んで、きっと今一番空に近いのは彼女だ。 こちらを向いてほしくて、けれど言い出すには湛える表情の満たされた様子に、不用意に触れることは戸惑われた。慎重な手で、やっとの思いで彼女の顔にかかる髪を払ってやってもくすぐったそうに一度目をつむっただけでこちらを向いてはくれない。朝焼けの色だ、とつい先ほど呟いたのは私だ。夜と昼が混じる時間。耳を澄ませれば太陽の呼吸が聞こえてきそうな朝。そういう清らかな一瞬を閉じ込めた色こそ彼女に似合っていると思っていたから。 「……」 「ね」 「……ああ」 空を見上げて驚いた。空がこんなに高いことを知らなかった。そこがどんな色をしていたのかも。私は今まで知らなかった。 いつもいつも夜が明けることを恐れて闇を睨むか、朝の気配に気が付いて目を伏せるか。部屋に戻らなくてはいけないきみとこうして朝を迎えることはなかったから。朝はきみと私を分つだけだと思っていたのに。 綺麗ね。そよ風に消されてしまいそうな、誰にも聞こえない声を私は受け取れる。言葉も持たず、ただ頷いた。眼下の大地が輝き、太陽の時間が広がっていく。夜の名残と朝明けは一緒に歩き出すに違いなかった。 　つい目で追ってしまった。頭の高いところに飾られたリボンが、彼女の動きに合わせて揺れていたので。 　犬ではないのだから、とは思うものの目を惹かれてやまない。犬だって、きっとおもちゃを追いかけているときこんなふうにあたたかな気持ちで胸をいっぱいにしている。 　豊かな金髪はいつも丁寧に梳られている。細かな調整によって編まれているのだろう髪型だが、髪の一本まで寸分のズレもない、なんてことはない。髪型一つとっても毎日違う君がいる。まだ知らない姿があることを思うと、目を離せなくなる。 　髪型はよく見るものとおおむね同じでも今日のような飾り方は初めて見る。愛らしいな、と直接言ってもよいものか悩んでしまう。珍しいな、くらいなら。それとも知らないだけで、こちらが君にとっては慣れた姿なのだろうか。 　知らないことが多くあるはずだ。けれど知らないことを嘆くのではなく楽しみにしていこうと思う。これから君の記憶で頭をいっぱいにしたいのだ、なんて言ったら君はまた顔を真っ赤にして怒ってしまうのだろうか。
February 25, 2025 at 10:24 PM
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カラプラ①
(4/7)
February 25, 2025 at 10:19 PM
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土りこ⚠️死ネタ
『幸せな傷』(4/12)
　日が暮れて数刻後に実習から帰還した善法寺伊作の報告は、忍術学園に重い影を落とした。 　曰く、潜入先の城から戻る途中、打ち棄てられていた死体に見覚えがあった気がしてならないのだと。確認をしに行きたい。保健委員長、あるいは彼女に世話になった少年の顔で言う彼は学園長を強い使命感を宿した瞳で見据えた。 　学園長は「ならぬ」とただ一言、それ以上は目を閉じた。 　行かせてください、と叫ぶ半助とそれを押しとどめる他の教師陣。半助以外の彼らは学園長の様子を窺いながら伝蔵に何度も気遣わしげな視線を送っていた。 　水の膜を通してその光景を眺めているような心持ち。現実を受け止めきれないような、しかしこういう日が来ることをずっと知っていたような。ああ。なににもならない言葉が漏れる。ああ、そうか。ああ。 「行かせてください！」 「土井先生、落ち着いてください」 「私に！　私っ、私が……！　行かせてください！」 「土井先生」 「行かせてください」 「少し落ち着いて」 「行かせてください……」 　善法寺の報告を受けて呼ばれた伝蔵は他の教師陣に先んじてすべての情報を受け取った。報告が示唆する可能性に行き当たりながらもそれが是であるか否であるか、その時点ではわからなかった。それから他の教師が召集され、最近の各勢力の緊張、フリーを含めた学園外の忍びの動向、彼女の目撃情報やうわさ、とにかく知る限りの情報を出し合うことになる。 　二つの勢力の間で戦が始まりそうだった。始まらないかもしれなかった。だから片方の城が六年生の実習先に選定されたのだし、戦が始まってしまったから六年生は引き上げさせた。プロの忍者もさまざまな思惑を胸に抱き、あるいは単に仕える先か依頼主の意向によって、両方の城を六年生に比べればはるかに深部まで探っていたに違いない。 会議は早い段階で破綻した。半助が「行かせてください」と呟いたかと思うと集っていた庵を飛び出そうとしたからだった。それだけで忍びとして優秀な彼も思い当たった可能性の高さがわかる。そしてそれが真実とかけ離れていることはないのだと否が応でも理解する。 「……利子は」 「うむ」 「状況から考えると、六年生と同じ城に潜り込んだのでしょう」 「そうじゃな」 「ではその死体はきっと利子でしょう」 　ぼんやりとした世界の中で目を閉じれば目の前の出来事は遠のき、昔の思い出が蘇ってくる。 　朝日が昇り始めるころに響いた彼女の産ぶ声、親を見るだけで楽しげだった笑い声、なにが不満なのかひたすらに続く泣き声、初めて言葉らしい音になった声。舌ったらずな話し方はすぐに抜けてはきはきと話す子だった。けれど幼さの残る声で呼びかけられることもあっていとおしさが止まることを知らなかった。忍術の訓練のときの張り詰めた声、私の帰宅を喜ぶ声、まだ話し足りないのだと言いながら眠気の混じる声、それからひとり立ちをすると告げた真剣な声。 　すべて思い出せる気がするのに、すべて忘れてしまったような気もする。 　もう二度と、あの声が耳を打つことはないのか。 「行かせてください」 　記憶は無音である代わりに目前から悲痛に満ちた声が聞こえた。押しとどめられて飛び出すことは諦めたのか、お願いします、と頭を畳に擦り付けている。「半助」と呟いた自分の声が途方に暮れていることに気が付いて、やはり耳を塞ぎたくなった。 「どうか、どうか」 「半助」 「どうか私に」 　お前、頭を下げる相手を間違っているぞ。 　彼はこの場、ひいては教師陣を統率する学園長ではなく伝蔵に向かって平伏していた。 「行かせてください」 　なおもうわごとのように繰り返す。どうすればよいのだろう。本当は父親である自分こそ死体が真に彼女であるかを確かめに行くのがよいと思うのに、どうにも全身から力が抜けてしまっていた。彼女も伝蔵も、家族であろうと忍務については話すことがない忍びであることを思うと行くべき理由はないのかもしれなかった。 　しかし彼は行きたいのだと懇願する。どうすればよいのだろう。困り果てて学園長に目を向けた。 　 「土井先生」 　学園長が口を開く。みな固唾を飲んでこの場の運びを見守っている。だんだん遠くの世界から戻ってくるような気分で学園長の言葉を待つ。一つ音を聞くごとに覚束なかった意識が現実の重さを取り戻していく。 「土井先生」 「はい」 　はっきりとした呼びかけにはっきりとしたいらえ。少し驚く。取り乱すばかりだと思っていた半助の声は思ったよりもずいぶん。 「土井先生、おぬしが行ってなにになる」 「私は。私ならば」 　彼の声色は水の向こう側から聞いていたときよりもずっと冷静だった。 　誰かが学園を出たと言うことだけは伝わっていたのだろう。しかし彼らの予想は外れていたようで、伝蔵が顔を出すと善法寺も食満も驚いたように目を見開いた。二人の目のふちは赤くて、特に善法寺は目尻に涙が溜まっている。心根がやさしい子なのだと、利子も彼を可愛がっていたか。 「てっきり山田先生が発たれたのだとばかり……」 「うん。まあ、あいつに任せることにした」 「そうですか」 　震える声で言葉を返したかと思えば再び瞳が潤んでいく。すみません、と小さく謝った彼に常ならば説教のひとつでもして、なにも間違ったことなどないのだと言い含めるのだが。 　「山田先生が一番お辛いのに」ととうとう泣き崩れてしまった善法寺を食満と共に支えつつ、心の片隅では「どうだろうなあ」と思う自分がいる。 　戦忍を退いて、利子が生まれて、それから彼女を忍者にすると決めたとき。そのときから彼女を永遠に失う覚悟をしていたのかもしれなかった。彼女を喪った悲しみは今後の人生で癒えることはないのだろう。しかしそれが自分の人生を捻じ曲げてしまうようにも、思えなかった。 　薄情だろうか。ただそれを受け止める準備をいつの間にかしていて、それが実を結んでしまっている。どんなに辛い事実でも、事実がそうであるのだから。 「すみません」 「よい。あやまるな」 　たしかに決定打は善法寺の情報だったが、それを彼がもたらそうともたらすまいと遅かれ早かれあらわになる現実だったのだ。あるいは現実は変わらずとも知らないまま時は過ぎていったのかもしれない。
February 21, 2025 at 12:28 AM
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February 21, 2025 at 12:01 AM