あおぞらでは戦時商船、仮装巡洋艦、封鎖突破船、徴用漁船を中心に投稿予定。
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1941年9月21日に「ベンノ」Bennoに続き極東行きの第二船としてボルドーを出発し、12月6日に無事大阪に到着した。第一船の「ベンノ」Bennoが中止したため欧州から最初に日本に到着した封鎖突破船となった。
20)1942年1月31日大量の生ゴムとその他の貨物を積載して神戸を出発し、1942年4月16日に無事ボルドーに到着して2回目の航海も成功した。
1941年9月21日に「ベンノ」Bennoに続き極東行きの第二船としてボルドーを出発し、12月6日に無事大阪に到着した。第一船の「ベンノ」Bennoが中止したため欧州から最初に日本に到着した封鎖突破船となった。
20)1942年1月31日大量の生ゴムとその他の貨物を積載して神戸を出発し、1942年4月16日に無事ボルドーに到着して2回目の航海も成功した。
1926年4月にグラスゴーで建造された英貨物船Speybankで、インド洋を航行中の1941年1月31日に仮装巡洋艦Atlantisに拿捕され5月10日にボルドーに到着、その後機雷搭載設備を追加しDoggerbankと改名した。
19)1942年1月25日ボルドーを出発し南アフリカ沿岸で機雷敷設後、南大西洋で仮装巡洋艦Michel及び随伴タンカーCharlotte Schliemannと会合し、合計192名の捕虜船員を移乗させインド洋~バタビア経由で1942年8月19日に横浜に到着した。
1926年4月にグラスゴーで建造された英貨物船Speybankで、インド洋を航行中の1941年1月31日に仮装巡洋艦Atlantisに拿捕され5月10日にボルドーに到着、その後機雷搭載設備を追加しDoggerbankと改名した。
19)1942年1月25日ボルドーを出発し南アフリカ沿岸で機雷敷設後、南大西洋で仮装巡洋艦Michel及び随伴タンカーCharlotte Schliemannと会合し、合計192名の捕虜船員を移乗させインド洋~バタビア経由で1942年8月19日に横浜に到着した。
1939年9月の欧州開戦時点で南米チリのタルカワノTalcahuanoに退避した。1941年春に日本に向けて出発したが、6月18日太平洋上で機関が故障しドイツ貨物船ボゴタBogotaに曳航され、7月3日に横浜に到着し、その後入渠修理された。
18)封鎖突破船として1回目の航海は1941年12月23日横浜を出発し、太平洋~ホーン岬経由で1942年2月19日に無事ボルドー到着した。
1939年9月の欧州開戦時点で南米チリのタルカワノTalcahuanoに退避した。1941年春に日本に向けて出発したが、6月18日太平洋上で機関が故障しドイツ貨物船ボゴタBogotaに曳航され、7月3日に横浜に到着し、その後入渠修理された。
18)封鎖突破船として1回目の航海は1941年12月23日横浜を出発し、太平洋~ホーン岬経由で1942年2月19日に無事ボルドー到着した。
元ノルウェータンカーOle Jacobで、Bennoと改名後 8)1941年8月30日に極東行きの第一船としてボルドーを出発したが中止して引き返した。
17)1941年12月22日にボルドーを出発し、12月24日スペイン北方沖を航行中、英軍のサンダーランド飛行艇に発見され、長時間の追跡後ボーフォート機の雷撃により大破し,
カリーニョCariñoの浅瀬に乗り上げたが船体は放棄された。
救命艇で脱出中に機銃掃射によりドイツ人乗組員1名が死亡、救助活動中のスペイン人漁師2名が負傷した。座礁した船体はスペインの解体業者に売却された。
元ノルウェータンカーOle Jacobで、Bennoと改名後 8)1941年8月30日に極東行きの第一船としてボルドーを出発したが中止して引き返した。
17)1941年12月22日にボルドーを出発し、12月24日スペイン北方沖を航行中、英軍のサンダーランド飛行艇に発見され、長時間の追跡後ボーフォート機の雷撃により大破し,
カリーニョCariñoの浅瀬に乗り上げたが船体は放棄された。
救命艇で脱出中に機銃掃射によりドイツ人乗組員1名が死亡、救助活動中のスペイン人漁師2名が負傷した。座礁した船体はスペインの解体業者に売却された。
イタリア政府の優秀船建造施策により1939年10月に建造された貨物船で極東航路にチャーターされていたが、1940年6月10日のイタリア参戦時点で神戸港に停泊しており、その後待機状態のまま1年半停泊した。
1941年10月頃から封鎖突破船として準備が開始され、12月8日の日米開戦によりインド洋経由がより安全とも考えられたが、本国から特段の指示はなく今回も太平洋ルートが選択され、航路にはあらかじめ《O》で始まる17ヶ所の地点が指定され、ビスケー湾には悪天候の時季に到着するよう指示された。
イタリア政府の優秀船建造施策により1939年10月に建造された貨物船で極東航路にチャーターされていたが、1940年6月10日のイタリア参戦時点で神戸港に停泊しており、その後待機状態のまま1年半停泊した。
1941年10月頃から封鎖突破船として準備が開始され、12月8日の日米開戦によりインド洋経由がより安全とも考えられたが、本国から特段の指示はなく今回も太平洋ルートが選択され、航路にはあらかじめ《O》で始まる17ヶ所の地点が指定され、ビスケー湾には悪天候の時季に到着するよう指示された。
1931年3月にイタリアで建造された貨物船で、ベネチアを母港として、1937年からはトリエステを母港として紅海~インド洋~極東航路に就航した。1940年4月3日にはスエズ運河を通過して極東に向かったが、無事通過した最後のイタリア船となった。
1940年6月10日のイタリア参戦の時点で神戸に停泊しており、極東からの封鎖突破船の最初のイタリア船に指定された。
15)1941年11月16日、大連を出発し太平洋~ホーン岬~大西洋を突破して1942年1月27日午後にボルドーに到着した。
1931年3月にイタリアで建造された貨物船で、ベネチアを母港として、1937年からはトリエステを母港として紅海~インド洋~極東航路に就航した。1940年4月3日にはスエズ運河を通過して極東に向かったが、無事通過した最後のイタリア船となった。
1940年6月10日のイタリア参戦の時点で神戸に停泊しており、極東からの封鎖突破船の最初のイタリア船に指定された。
15)1941年11月16日、大連を出発し太平洋~ホーン岬~大西洋を突破して1942年1月27日午後にボルドーに到着した。
1928年4月に建造されたHapag社のサンフランシスコ級貨物船で、速力14ノットを発揮し、一等24名、三等24名を収容でき、4月19日に竣工後7月7日に北アメリカ西海岸への処女航海に出発した。
1939年9月22日にチリのコキンボに退避したが、1940年12月4日に修理のためタルカワノに移動し1941年1月にドイツ本国へ向けて出発した。2月に装甲艦Admiral Scheerと貨物船Nordmarkから300名以上の拿捕船員を収容し、船内は過密状態で3月13日に反乱で捕虜2名が死亡する事件も発生したがボルドーに到着した。
1928年4月に建造されたHapag社のサンフランシスコ級貨物船で、速力14ノットを発揮し、一等24名、三等24名を収容でき、4月19日に竣工後7月7日に北アメリカ西海岸への処女航海に出発した。
1939年9月22日にチリのコキンボに退避したが、1940年12月4日に修理のためタルカワノに移動し1941年1月にドイツ本国へ向けて出発した。2月に装甲艦Admiral Scheerと貨物船Nordmarkから300名以上の拿捕船員を収容し、船内は過密状態で3月13日に反乱で捕虜2名が死亡する事件も発生したがボルドーに到着した。
U333の艦長クレーマー大尉はロリエンに帰還後逮捕されたが、軍法会議ではSpreewaldが定期連絡を怠り、予定よりも早く航行していたとして無罪となった。
U333の艦長クレーマー大尉はロリエンに帰還後逮捕されたが、軍法会議ではSpreewaldが定期連絡を怠り、予定よりも早く航行していたとして無罪となった。
1922年にハンブルクで建造されたHamburg-Amerikanische Packetfahrt-Actien-Gesellschaft(Hapag)の貨物船で、Wald級と呼ばれる10隻の貨物船シリーズの1隻として建造された。1935年に南米西海岸航路に就航した際にはAnubisと改名したが、1939年に再びSpreewaldと改名し、6月の欧州開戦の時点で日本に退避していた。
1922年にハンブルクで建造されたHamburg-Amerikanische Packetfahrt-Actien-Gesellschaft(Hapag)の貨物船で、Wald級と呼ばれる10隻の貨物船シリーズの1隻として建造された。1935年に南米西海岸航路に就航した際にはAnubisと改名したが、1939年に再びSpreewaldと改名し、6月の欧州開戦の時点で日本に退避していた。
1938年にハンブルクで建造されたエスベルガー海運の貨客船で、乗客36名分の客室と設備はエルサ・エスベルガー婦人自らの監修で特に力が入れられ、ナチス党の成功の象徴となった。
1939年9月の欧州開戦の時点で神戸に寄港しており、ドイツ海軍に徴用されて太平洋で仮装巡洋艦OrionとBennoへの補給任務に従事した。
12)1941年10月14日、生ゴム4,000トンとその他の貨物990トンを積載し、来日していた独空軍のフリッツ・ロージヒカイト特使も便乗して佐世保を出発した。
1938年にハンブルクで建造されたエスベルガー海運の貨客船で、乗客36名分の客室と設備はエルサ・エスベルガー婦人自らの監修で特に力が入れられ、ナチス党の成功の象徴となった。
1939年9月の欧州開戦の時点で神戸に寄港しており、ドイツ海軍に徴用されて太平洋で仮装巡洋艦OrionとBennoへの補給任務に従事した。
12)1941年10月14日、生ゴム4,000トンとその他の貨物990トンを積載し、来日していた独空軍のフリッツ・ロージヒカイト特使も便乗して佐世保を出発した。
1930年に建造されたオランダ貨客船Kota Pinangで1940年5月のドイツ軍のオランダ侵攻時に港で拿捕された。1941年5月18日ライン演習作戦の偵察船として出撃し、6月にフランス西部の港に帰還した。6月12日に潜水艦補給船として改装されKlaraと改名しダカールへの配備が計画されたが7月に中止された。
11)1941年9月27日にボルドーを出発し9月29日にジロンド川河口を機雷原突破船に偽装して通過し護衛のU-129とともにビスケー湾に入ったが10月3日フィニステレ岬沖で英軽巡洋艦HMS Kenya に発見され撃沈された。
1930年に建造されたオランダ貨客船Kota Pinangで1940年5月のドイツ軍のオランダ侵攻時に港で拿捕された。1941年5月18日ライン演習作戦の偵察船として出撃し、6月にフランス西部の港に帰還した。6月12日に潜水艦補給船として改装されKlaraと改名しダカールへの配備が計画されたが7月に中止された。
11)1941年9月27日にボルドーを出発し9月29日にジロンド川河口を機雷原突破船に偽装して通過し護衛のU-129とともにビスケー湾に入ったが10月3日フィニステレ岬沖で英軽巡洋艦HMS Kenya に発見され撃沈された。
1928年8月にフルンスベルクで建造された貨物船で8月16日に竣工すると9月1日から東アジア航路への処女航海に出発し、1939年9月3日の時点で神戸に停泊していた。
10)1941年9月21日神戸を出発、12月10日に無事ボルドー到着した。
1928年8月にフルンスベルクで建造された貨物船で8月16日に竣工すると9月1日から東アジア航路への処女航海に出発し、1939年9月3日の時点で神戸に停泊していた。
10)1941年9月21日神戸を出発、12月10日に無事ボルドー到着した。
1939年にハンブルクでBelgrano級貨物船シリーズの4番船として建造され、Hamburg Süd社で南米航路に就役した。1939年6月の欧州開戦時にはブラジルのRio Grande do Sul州の港に停泊しており、ドイツ海軍の補給艦に指定されて待機しました。
1940年10月31日にブラジルの港を脱出し中部大西洋で活動する仮装巡洋艦トールThorと会合し、トールからは364名の拿捕船員を移乗させ、物資と燃料をトールに補給して12月13日に無事ボルドーに到着できた。
1939年にハンブルクでBelgrano級貨物船シリーズの4番船として建造され、Hamburg Süd社で南米航路に就役した。1939年6月の欧州開戦時にはブラジルのRio Grande do Sul州の港に停泊しており、ドイツ海軍の補給艦に指定されて待機しました。
1940年10月31日にブラジルの港を脱出し中部大西洋で活動する仮装巡洋艦トールThorと会合し、トールからは364名の拿捕船員を移乗させ、物資と燃料をトールに補給して12月13日に無事ボルドーに到着できた。
元ノルウェータンカーオーレ・ヤコブOle Jacobで、1940年11月10日にベンガル湾で仮装巡洋艦アトランティスAtlantisに拿捕され神戸に回航された。
2)1940年12月に極東発の第二船として神戸を出発し仮装巡洋艦オリオンOrionの随伴タンカーとして太平洋~インド洋で活動後にボルドーに向かい、ジロンド川河口で英潜水艦HMS Tunaにより損傷しながらもボルドーに到着し、その後ベンノBennoと改名した。
8)1941年8月30日極東への第一船としてボルードを出発したが途中で中止しボルドーに帰還した。
元ノルウェータンカーオーレ・ヤコブOle Jacobで、1940年11月10日にベンガル湾で仮装巡洋艦アトランティスAtlantisに拿捕され神戸に回航された。
2)1940年12月に極東発の第二船として神戸を出発し仮装巡洋艦オリオンOrionの随伴タンカーとして太平洋~インド洋で活動後にボルドーに向かい、ジロンド川河口で英潜水艦HMS Tunaにより損傷しながらもボルドーに到着し、その後ベンノBennoと改名した。
8)1941年8月30日極東への第一船としてボルードを出発したが途中で中止しボルドーに帰還した。
1923年にハンブルクで建造されたHamburg-Amerikanischen Packetfahrt-Actien-Gesellschaft (Hapag)社の貨物船Odenwaldで主に南米太平洋航路に就航したが、1935年にはアメリカ西海岸への就航に合わせてAssuanと改名され、1939年に再びOdenwaldと改名された。1939年4月にハンブルクを出発しフィリピン経由で日本に向かい、8月12日に名古屋からロサンゼルスに向けて出発した。8月26日北米西海岸近くで海軍の緊急電を受信し、日本に引き返して9月15日に横浜に到着した。
1923年にハンブルクで建造されたHamburg-Amerikanischen Packetfahrt-Actien-Gesellschaft (Hapag)社の貨物船Odenwaldで主に南米太平洋航路に就航したが、1935年にはアメリカ西海岸への就航に合わせてAssuanと改名され、1939年に再びOdenwaldと改名された。1939年4月にハンブルクを出発しフィリピン経由で日本に向かい、8月12日に名古屋からロサンゼルスに向けて出発した。8月26日北米西海岸近くで海軍の緊急電を受信し、日本に引き返して9月15日に横浜に到着した。
Seattle(7,369トン)は1928年にハンブルクでHAPAG社の「San Francisco」級貨客船シリーズ7隻の3番船として建造され、アメリカ東海岸の港湾都市に因んで「Seattle」と命名された。
1928年6月にパナマ運河~北米西海岸への処女航海を行い、数年間に北米西海岸を年に3回のペースで往復した。
1939年5月にドイツを出発しパナマ運河~ロサンゼルス~サンフランシスコ~タコマに寄港し、復路のシアトルで緊急電を受信し8月29日にオランダ領キュラソー島のウィレムスタッドに退避した。
Seattle(7,369トン)は1928年にハンブルクでHAPAG社の「San Francisco」級貨客船シリーズ7隻の3番船として建造され、アメリカ東海岸の港湾都市に因んで「Seattle」と命名された。
1928年6月にパナマ運河~北米西海岸への処女航海を行い、数年間に北米西海岸を年に3回のペースで往復した。
1939年5月にドイツを出発しパナマ運河~ロサンゼルス~サンフランシスコ~タコマに寄港し、復路のシアトルで緊急電を受信し8月29日にオランダ領キュラソー島のウィレムスタッドに退避した。
1935年にハンブルグのDeutscheWerft-Finkenwerder造船所で建造されたEssberger海運の貨物船で、アメリカ大陸~極東航路まで広範囲の不定期貨物船として運航されました。
1939年4月、ロッテルダムを出発しカナダとアメリカ東海岸に寄港後、パナマ運河経由でバンクーバーに向かい、上海向けの木材を積載してバンクーバーを出発しましたが、出発直後に戦争が勃発したため神戸に寄港し、その後21か月係留された間に乾ドックでの整備が行われました。
1935年にハンブルグのDeutscheWerft-Finkenwerder造船所で建造されたEssberger海運の貨物船で、アメリカ大陸~極東航路まで広範囲の不定期貨物船として運航されました。
1939年4月、ロッテルダムを出発しカナダとアメリカ東海岸に寄港後、パナマ運河経由でバンクーバーに向かい、上海向けの木材を積載してバンクーバーを出発しましたが、出発直後に戦争が勃発したため神戸に寄港し、その後21か月係留された間に乾ドックでの整備が行われました。
1926年にフレンスブルクで建造されたDDG Kosmaos社の貨物船で南米西海岸航路に就役し、後にDDG Kosmaos社はHamburg-Amerikanische Packetfahrt-Actien-Gesellschaft (Hapag)に買収されたため、RamsesもHapag社の所有となりました。
1939年7月1日、ハンブルクを出発して8月25日上海に到着したため欧州開戦の1939年9月3日の時点で上海に停泊しており、1941年3月29日に神戸に移動し封鎖突破船として準備が行われた。
1926年にフレンスブルクで建造されたDDG Kosmaos社の貨物船で南米西海岸航路に就役し、後にDDG Kosmaos社はHamburg-Amerikanische Packetfahrt-Actien-Gesellschaft (Hapag)に買収されたため、RamsesもHapag社の所有となりました。
1939年7月1日、ハンブルクを出発して8月25日上海に到着したため欧州開戦の1939年9月3日の時点で上海に停泊しており、1941年3月29日に神戸に移動し封鎖突破船として準備が行われた。
1928年にシュテチンのAG Vulcanで建造されたブレーメンの北ドイツロイド社(NDL)の貨物船でTrabeと命名されました。NDLの高速貨物船シリーズ15隻の10番船で、最初のディーゼル船として建造され、総排水量8,068トン、巡航速力13.5ノットを発揮しました。
1938年に大改装によりMAN社製新型ディーゼル機関に換装され、総排水量7,956トン、巡航速力16.5ノットが可能となりRegensburgと改名し、1938年7月4日に復帰後は主要航路に配船され1939年9月3日に横浜に到着しました。
1928年にシュテチンのAG Vulcanで建造されたブレーメンの北ドイツロイド社(NDL)の貨物船でTrabeと命名されました。NDLの高速貨物船シリーズ15隻の10番船で、最初のディーゼル船として建造され、総排水量8,068トン、巡航速力13.5ノットを発揮しました。
1938年に大改装によりMAN社製新型ディーゼル機関に換装され、総排水量7,956トン、巡航速力16.5ノットが可能となりRegensburgと改名し、1938年7月4日に復帰後は主要航路に配船され1939年9月3日に横浜に到着しました。
1941年4月20日に極東からの第3船として生ゴムなどの戦略物資を積載して大連を出発してボルドーを目指しましたが、独戦艦Bismarckと巡洋艦Printz Eugenを捜索中の英空母HMS Eagleのソードフィッシュ機に発見され、1941年6月6日にアゾレス諸島沖で沈没しました。
1941年6月21日に英海軍の補助巡洋艦HMS Hilaryが漂流中の乗組員19名をたまたま発見して救助しました。
1941年4月20日に極東からの第3船として生ゴムなどの戦略物資を積載して大連を出発してボルドーを目指しましたが、独戦艦Bismarckと巡洋艦Printz Eugenを捜索中の英空母HMS Eagleのソードフィッシュ機に発見され、1941年6月6日にアゾレス諸島沖で沈没しました。
1941年6月21日に英海軍の補助巡洋艦HMS Hilaryが漂流中の乗組員19名をたまたま発見して救助しました。
1931年11月3日にキール帰港後はHolsteinと改名し係留されました。
1933年12月にNorddeutscher Lloyd(NDL)に売却され新型のMAN社製ディーゼル機関搭載とともに船体も拡大され総排水量9,179トン、1本煙突で17名分の客室を備える当時ドイツ最大の貨物船となり1934年11月15日にElbeと改名され就役し、11月22日ブレーメンからバンクーバーへの処女航海に出発しました。
1931年11月3日にキール帰港後はHolsteinと改名し係留されました。
1933年12月にNorddeutscher Lloyd(NDL)に売却され新型のMAN社製ディーゼル機関搭載とともに船体も拡大され総排水量9,179トン、1本煙突で17名分の客室を備える当時ドイツ最大の貨物船となり1934年11月15日にElbeと改名され就役し、11月22日ブレーメンからバンクーバーへの処女航海に出発しました。
1929年にキールのDeutsche Werke造船所でノルウェー船主のIvar Anton Christensen向けにSud Expresoとして建造され、総排水量6,600トン、2本煙突で大型冷蔵室と30名分の客室を備えディーゼル機関で最大速力16ノットを発揮しました。6月~7月に引き渡されましたが船会社は性能に満足せず、1930年に新型機関への改修が計画されましたが世界恐慌の影響で実現せず、1931年1月にDeutsche Revisions - und Treuhandbank AGに売却されました。
1929年にキールのDeutsche Werke造船所でノルウェー船主のIvar Anton Christensen向けにSud Expresoとして建造され、総排水量6,600トン、2本煙突で大型冷蔵室と30名分の客室を備えディーゼル機関で最大速力16ノットを発揮しました。6月~7月に引き渡されましたが船会社は性能に満足せず、1930年に新型機関への改修が計画されましたが世界恐慌の影響で実現せず、1931年1月にDeutsche Revisions - und Treuhandbank AGに売却されました。
1939年建造のノルウェータンカーOle Jacobは10,000トンの航空燃料を積載してシンガポールからスエズに向けて航行中、1940年11月10日にベンガル湾で仮装巡洋艦Atlantisに拿捕されました。
Ole Jacobは神戸に回航され、1940年12月4日に神戸に到着後、積載していた航空燃料を同量の船舶用燃料重油と交換し、航空燃料はマリアナ諸島の日本軍航空隊に送られました。
1939年建造のノルウェータンカーOle Jacobは10,000トンの航空燃料を積載してシンガポールからスエズに向けて航行中、1940年11月10日にベンガル湾で仮装巡洋艦Atlantisに拿捕されました。
Ole Jacobは神戸に回航され、1940年12月4日に神戸に到着後、積載していた航空燃料を同量の船舶用燃料重油と交換し、航空燃料はマリアナ諸島の日本軍航空隊に送られました。