鈴木康史, Koshi SUZUKI
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鈴木康史, Koshi SUZUKI
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大学教員。身体文化学/大衆文化論。明治/大正の社会史+精神史的な。バンカラとか天狗倶楽部とか春浪とか野球とか冒険とか探検とか旧制高校とか学生文化とか武士道とか。昔はオリエンテーリングを少々。音楽マニア。ゼミ生のテーマは鴨居羊子/パンパン/バンカラ/星野源と細野晴臣/もののけ姫の動物表象/神社空間/ジェンダーと労働
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軍需工場で隙間バイトをしたら1万円分のボーナスがマイナポイントとしてもらえる、とかそんな感じになるのかな。ドローンで敵を倒したらランクがあがってさらにボーナス獲得チャンスが上がるとか。ゲーミフィケーション慣れをした人たちをポイントの撒き餌で操るのはたやすい。
April 23, 2025 at 12:31 AM
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憲法や実際の軍備は別にして、この国の非常に低い民度を考えると、国民を戦争のプレイヤーに仕立てるという点で、現代の日本は間違いなく戦争を遂行しやすい国。
統一教会の信者である私の生みの親は、いまも見えない戦争をつづけている。組織に命じられるままに人からお金をとるか命をとるかの違い。
April 23, 2025 at 12:19 AM
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プラットフォームによって、書くこと、読むことへと掻きたてられるというファシズム。戦争へ駆りだされるためのいい準備体操にもなる。
煽り耐性。熱狂にのらずに孤立する勇気。そういう技術を人が共存するための知恵としてどこかで(まちがいなく義務教育の外で)身につけていかなければいけない。
April 23, 2025 at 12:08 AM
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84年生まれの自分は、後追いで見た歴史のなかにあった激しさやアイロニーにももちろん惹かれつつ、しかしその流れのなかで顔を出してくる「優しさ」について、強く考えるようになったのだった。この「優しさ」はどこから来たものなのか? 60年代生まれのプレイヤーたちは、なぜそれを表現し得たのか?
February 15, 2025 at 8:56 AM
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その脱社会的感覚には「68年」的な叛乱の記憶からの水脈があったと思う。そこにはやはり極めて強い激しさがあって、東京ロッカーズなり、関西NO WAVEなり、吉祥寺マイナーなり、坂本龍一「Riot In Lagos」なりに、そういうものを感じる。先述したような「優しさ」とそれらとの間には、やはり距離がある。

しかしそうした類の激しさを、80年代消費社会は消費財として残酷に捕捉していくわけである。「自主制作盤」は「インディーズ」に変わっていく。その出口の無さを突破するためには、アイロニーやシニカルな笑いが必要だった、という側面は確実にあるはずだ。2025年からは極めて掴みづらい文脈だが。
February 15, 2025 at 8:56 AM
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ナゴム関係のプレイヤーの方々自身はこう言われるのを嫌がると思うけど、そのような作家的資質とはつまり、「優しさ」という言葉で表現できるような資質である。それをアイロニーで包むか否かで、ナゴム的方向とYMOチルドレン的方向が分岐するようなイメージ。ここには世代的共通体験の問題もあるはず。

ではそれより上の世代、50年代生まれのプレイヤーたち(年少時にサイケデリックを体験し、パンク・ニューウェーブ期にはプレイヤーになっていたような世代)が共有し得たものとはなにか。それは脱社会的な感覚だったのではないかと思う。既存システムからの、(ときにはエクストリームな形での)離脱。
February 15, 2025 at 8:55 AM
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第二回ナゴム総決起集会のチラシに「俺たちの街(ロック)、日本語のロック&フォーク」というコピーが書かれている。このギャグ感覚(とぼくは捉えてる)は、例えば東京ロッカーズの頃にはあり得なかったはず。60年代対抗文化的な文脈をも脱臼させようとする意欲があったということだと、自分は考える。

いわゆるYMOチルドレンのなかには戦後民主主義的なものを最良の形で表現した作家が多くいる、と書いたけど(高野寛やTHE BOOMらを想定している)、アイロニカルな表現を多用したナゴム関係のプレイヤーたちにも、核の部分では実は同じような作家的資質を抱えた人たちが多くいると、自分は考えている。
February 15, 2025 at 8:55 AM
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そういう自立性についてこそよく考えておかないと、既存の最悪な権力構造や暴力装置が、また別の最悪な権力・暴力装置にすげ替えられるだけで終わる歴史が生まれかねない。自由にものが言えない状況を作らないようにするのが、本当に大切。
February 1, 2025 at 5:46 AM
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演芸や興業の世界、芸能界なんて、最悪の権力関係や暴力の遍在を前提に成立してきたものだっていうスーパー当たり前の話を、いつのまにかなんかみんな忘れているっていう。
なので、インディであろうとすることは、そういう理屈から独立しようとすることでもあるわけで。これもスーパー当たり前の話。
February 1, 2025 at 5:42 AM
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現在の「推し」概念はAKB48の「総選挙」を端緒に日本社会に膾炙した。それを踏まえると日本における政治的委任の形態と「推し」への主体性委任が遊戯的な体裁をとりつつも類似するのは必然かもしれない。投票したらあとはお任せ、自分の責任ではない、だが自分の一票への批判は許さない、というわけだ
January 24, 2025 at 3:35 AM