佐藤竜一
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佐藤竜一
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岩手県陸前高田市生まれ。宮沢賢治学会副代表理事・岩手大学特命准教授歴任後岩手大学非常勤講師。主著に『高野長英と吉田松陰』『那珂通世と夏目漱石』『建築家・葛西萬司』『原敬と新渡戸稲造』「宮澤賢治 あるサラリーマンの生と死』『盛岡藩』『それぞれの戊辰戦争』『宮沢賢治 出会いの宇宙』『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯』『国際外交の舞台で活躍した岩手の男たち』『海が消えた 陸前高田と東日本大震災』『石川啄木と宮沢賢治の人間学』『変わる中国、変わらぬ中国ー紀行・三国志異聞』など。
水俣駅から歩いて10分余り、徳富蘇峰・蘆花の生家(写真)があります。徳富蘇峰は明治から昭和にかけて活躍したジャーナリスト、蘆花は蘇峰の弟で『不如帰(ほととぎす)』で名を馳せた小説家です。
谷川健一も水俣の生まれです。東大卒業後平凡社に入社し、雑誌『太陽』の創刊編集長として辣腕を振るい、『風土記日本』などの著作を残し、地名研究を中心に民俗学者としても活躍しました。健一の弟谷川雁は詩人・評論家として有名です。サークル村という炭鉱労働者の文学運動を展開。その運動に参加したのが水俣病の悲劇を文学で表現した石牟礼道子でした。 #徳富蘇峰 #水俣 #徳富蘆花 #谷川健一 #谷川雁 #石牟礼道子 #水俣病
November 26, 2025 at 5:48 AM
水俣は熊本県の南端、鹿児島との県境にあり、元々、風光明媚な土地です。リアス式海岸が続く不知火海に臨み、日本の棚田百選に選ばれた久木野地区や7つの滝が点在する湯出川流域など山の景観が美しい街です。水俣病によるマイナスイメージを取り除こうと、観光客確保に努めています。
水俣病資料館(写真)は水俣病の歴史と現状を伝えるとともに、貴重な資料が散逸しないようにと1994年1月にオープンしました。受付の近くにシアタールームがあり、水俣病の歴史を伝えるビデオを観ました。漁業と共に生きていた水俣の人々がどのように苦しんできて、今も苦しんでいるか、よくわかる内容でした。 #水俣 #熊本県 #水俣病 #不知火海
November 25, 2025 at 5:47 AM
三枝暁子『日本中世の民衆世界ー西京神人の千年』(岩波新書)を読み終えました。京都にある北野天満宮は大宰府に流されて亡くなった菅原道真を祭神とする神社です。11世紀以降平安京がある西京には「神人」と呼ばれる商工業者が住んでいました。
本書は西京に住んでいた神人の千年の歴史を振り返る試みで、現代まで京都に脈々と受け継がれている人々の息遣いが伝わってきます。中世という時代を生き生きと伝えている名著だと思います(写真は京都にある東寺)。 #三枝暁子 #日本中世の民衆世界 #西京神人の千年 #岩波新書 #京都 #北野天満宮 #菅原道真 #平安京 #大宰府
November 24, 2025 at 9:19 PM
今日は盛岡中央劇場。細田守監督・脚本の「果てしなきスカーレット」を観ました。「サマーウォーズ」「おおかみこどもの雨と雪」等細田監督のアニメは元々好きなのです。中世デンマークの王女スカーレット(声:芦田愛菜)は父を殺した叔父クローディアスへの復讐心にとりつかれ「死者の国」で旅を続けますが、現代の日本からやって来た青年・聖(声:岡田将生)と出会い、共に旅を続けることにー。
折しも『キネマ旬報』12月号で二人が対談。声で役を演じる難しさを話してしてとても面白かったので。特に芦田愛菜の声はスカーレットになりきっていて魅力的でした。おすすめ。 #細田守 #果てしなきスカーレット #芦田愛菜 #岡田将生
November 24, 2025 at 6:44 AM
吉村昭『アメリカ彦蔵』(新潮文庫)を読み終えました。幕末期。船乗りとなった初航海で漂流し、アメリカ船に救助された後アメリカに渡って教育を受け、通訳として活躍した濱田彦蔵の生涯を生き生きと描いた歴史小説。吉村昭の小説はいつものことですが、克明に調べ上げたうえで書かれているので、とても読み応えがありました。アメリカでの南北戦争の様子、彦蔵とリンカン大統領と会った時の記述が特に印象に残りました。
彦蔵はアメリカ社会で新聞が広く浸透しているのを知り、横浜において日本で初めて新聞を発行した人としても知られています(写真は三鷹市にある吉村昭書斎)。 #吉村昭 #アメリカ彦蔵 #三鷹 #南北戦争 #リンカン
November 23, 2025 at 9:18 PM
宮崎県周辺はかつて日向国と呼ばれ、神話と縁が深い地域です。古墳時代はヤマト政権と連携した地域の首長が前方後円墳を造営しましたが、日向国では古墳時代前期に140メートル級の前方後円墳が、中期には170メートル級の巨大古墳が造営されたと伝えられています。
宮崎市にある宮崎神宮(写真)は江戸時代以前、神武天皇社と称されていました。そのこともあり昭和9(1934)年10月5日には、「神武天皇御東遷記念二千六百年祭」が開催されています。宮崎神宮に入ると厳かな雰囲気が漂っていて、神話的な雰囲気を醸し出していました。 #宮崎 #日向国 #神話 #宮崎神宮 #神武天皇 #古墳時代 #前方後円墳 #ヤマト政権
November 23, 2025 at 5:27 AM
今日のブラタモリは京都の二条城(写真)、とても面白かった。世界遺産の二条城は建築、庭園等が総合的に現存する唯一の城郭。国宝の二の丸御殿は武家風書院造りの優れた遺構で、桃山美術の粋が集結しています。二条城は1603年、江戸幕府を開いた徳川家康が天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所として築城しました。3代将軍家光の時後水尾天皇行幸のために大規模な改修を行い、二の丸御殿に狩野探幽の障壁画などが加えられました。
1867年10月14日15代将軍慶喜が政権を朝廷に返上することを申し出、江戸幕府は幕を閉じましたが、大政奉還の舞台が二条城二の丸御殿の大広間でした。 #ブラタモリ #京都 #二条城
November 22, 2025 at 11:15 AM
宮崎県は明治維新後鹿児島県に帰属していました。西南戦争後に日向を意識した分県運動が盛んに行われた結果、明治16(1883)年現在の宮崎県が設置されたのです。
宮崎県庁(写真)に出かけてみると、県庁舎が荘厳な雰囲気で建っていました。九州で一番古い庁舎が竣工したのは昭和7(1932)年のこと、建築当初の予算は72万円、7万人以上の労働者が間接に携わったといいいます。建築に要した資材、砂利、ケヤキ、松などの木材、大理石などは宮崎県産のものが使用されました。近世ゴシック式本館庁舎として現在でも現役で使用されていて、門近くには分県運動の立役者川越進の胸像が建っています。 #宮崎県 #鹿児島県 #川越進
November 22, 2025 at 5:03 AM
大庭萱朗編『色川武大・阿佐田哲也 ベストエッセイ』(ちくま文庫)。折に触れて読み返している本です。阿佐田哲也のペンネームで書かれた麻雀本は読んだことがありませんが、色川武大名義の『怪しい来客簿』や『うらおもて人生録』は愛読してきました。木村紅美が解説、負けゆく人への「あつい眼差し」で指摘している通り、著者の文章はとても温かくて読むと心が和みます。
色川は晩年岩手県一関市に移住し、そこで亡くなりました。私が携わっている、一関・文学の蔵という小さな文学館には『色川武大コーナー」があります(写真)。 #大庭萱朗 #色川武大 #阿佐田哲也 #木村紅美 #一関・文学の蔵 #岩手県 #一関市 #ちくま文庫
November 21, 2025 at 10:11 PM
広島に続き、長崎に原爆が投下されたのは1945年8月9日のことでした。長崎市内はたちまち、地獄絵の様相を呈したそうです。長崎市の平和公園内には「長崎の鐘」(写真)があります。長崎医大物理的療法科部長・助教授、永井隆は放射線治療を専門とする医師でしたが、長崎で被爆しながらも、原爆症患者の治療に当たりました。
永井隆は1951年43歳で亡くなりましたが、『長崎の鐘』『この子を残して』などの書物を著わして、原爆の悲惨さを訴えました。福島出身の作曲家・古関裕而により作曲された「長崎の鐘」は永井隆にちなんで作られましたが、今も歌い継がれている名曲です。 #長崎 #原爆 #長崎の鐘 #永井隆 #古関裕而
November 21, 2025 at 6:52 AM
俳人として活躍した原抱琴、本名達は1883年2月5日、盛岡生まれ。岩手県尋常中学校を経て東京府立日比谷中学校に転校しますが、東京では叔父原敬(父恭の弟)の家に寄宿。抱琴はやがて、正岡子規(写真は松山:正岡子規の句碑)に入門しました。子規の叔父加藤恒忠は原の友人でした。句会に出るようになった抱琴は俳句の才能を認められ、子規の弟子高浜虚子が主宰する例会で最高点を得ています。
抱琴は病弱で東京帝国大学へ進学しますが、卒業前肺尖カタルが再発し、1912年満28歳の若さで亡くなりました。原敬は俳句をたしなみましたが、抱琴の影響といわれています。 #原抱琴 #原敬 #正岡子規 #盛岡 #松山 #高浜虚子
November 20, 2025 at 5:31 AM
菊池寛は大分県中津と縁が深く、『恩讐の彼方に』という名作を書いています。舞台になったのは耶馬渓(写真)にある、そそりたつ競秀峰にくりぬかれた隧道、「青の洞門」(写真)です。「青の洞門」の青は地名(中津市本耶馬渓町曽木字青)に由来します。
耶馬渓は江戸時代の思想家頼山陽が九州を旅した際に、絶景に酔いしれたと伝えられています。山陽はその自然美に感銘を覚え、それまで山国谷とか城井谷と呼ばれていたこの渓谷を中国風に耶馬渓と名づけ、「耶馬渓山、天下に無し」と詠じたといいいます。その後、この地域は耶馬渓として親しまれるようになりました。 #菊池寛 #恩讐の彼方に #中津 #耶馬渓 #青の洞門 #頼山陽
November 19, 2025 at 5:28 AM
大分県中津が輩出した代表的な人物が福沢諭吉。故居(写真)が残っていて近くに記念館が作られています。諭吉は1834年中津藩の下級武士の末子として大坂の中津藩屋敷で生まれました。
父が没したため一家は大坂を離れ、中津に帰りました。下級武士の子としての生活は決して楽ではなく、幼い頃の体験は福沢の著作『学問のすゝめ』の「天ハ、人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の記述からもうかがえます。身分制度の壁を身を以て体験したのです。
諭吉は1854年長崎遊学を経て大坂の緒方洪庵が主宰する適塾で語学力を磨き、慶応義塾の創設者、啓蒙思想家として大成しました。 #大分県 #中津 #福沢諭吉 #緒方洪庵 #適塾
November 18, 2025 at 5:17 AM
今日は盛岡中央劇場の「午前十時の映画祭」。ロバート・ワイズ、ジェロ―ム・ロビンス監督の「ウエスト・サイド物語」(1961年)を観ました。ニューヨークの下町が舞台。イタリア系不良グループジェット団とプエルトリコ系不良グループシャーク団との抗争中に、敵味方となっている男(リチャード・ベイマ―)と女(ナタリー・ウッド)の間に恋が芽生えますー。
シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」を翻案とする悲恋物語。さすがに、「理由なき反抗」でジェームズ・ディーンと共演したナタリー・ウッドは迫真の演技でした。ミュージカルの傑作です。 #ウエスト・サイド物語 #ロバート・ワイズ #ナタリー・ウッド #ニューヨーク
November 17, 2025 at 7:13 AM
中津藩は江戸時代には蘭学が盛んでした。代表駅な人物が前野良沢です。良沢は1723年福岡藩の谷口家に生まれましたが、その後中津藩医前野東元の養子となり、藩医として奥平昌鹿に仕えました。江戸に出た良沢は1771年3月杉田玄白や中川淳庵などと刑死体の解剖を見学しました。
良沢は携えていた解剖書『ターヘル・アナトミア』に掲載されている人体解剖図の内容が実際の内臓の仕組みと一致することに驚き、玄白らと解剖書を翻訳しました。1774年『解体新書』として出版されましたが、日本の医学史上画期的な成果でした(写真は荒川区小塚原回向院の碑)。 #中津藩 #前野良沢 #蘭学 #杉田玄白 #解体新書 #小塚原回向院
November 16, 2025 at 5:52 AM
大分県中津市のシンボル・中津城(写真)は1588年、黒田勘兵衛が築城しました。勘兵衛は豊臣秀吉による九州征伐で活躍し、1587年豊前国6郡を秀吉から与えられたのです。中津城は黒田官兵衛が去った後、藩主となった細川氏や小笠原氏によって整備拡張されましたが、黒田時代に築かれた石垣が現在も広範囲に残っています。
今の天守閣は1964年に市民から寄付を募って造られたものですが、石垣は黒田時代を物語っており、現在の中津の町並みは黒田時代の町割りを踏襲しているといわれています。中津城は鉄筋コンクリート造りの5層5階建てで、奥平家歴代藩主の甲冑や古文書などを展示しています。 #大分県 #中津城 #黒田官兵衛
November 15, 2025 at 5:53 AM
勝部真長編『氷川夜話 付勝海舟伝』(角川ソフィア文庫)を読み終えました。幕末期から明治期にかけて活躍した勝海舟の語録。西郷隆盛や坂本龍馬、高野長英(写真は奥羽市の高野長英旧宅)、横井小楠などの印象を興味深く述懐していてとても面白い。中でも、江戸を戦火から守った西郷との出会いは圧巻。海舟は多くの困難を乗り越えてきただけに肝がすわっていて、なかなかの人物だと改めて思いました。
巻末の勝部真長による「勝海舟伝」は簡潔にしてポイントを押さえていて、海舟の人生を生き生きと紹介しています。名著だと思います。 #勝部真長 #勝海舟 #角川ソフィア文庫 #西郷隆盛 #坂本龍馬 #高野長英 #奥州市 #横井小楠
November 14, 2025 at 10:33 PM
山形市の山寺に松尾芭蕉が従者の曽良と共に到着したのは1689(元禄12)年7月13日(新暦)で、ふもとの宿坊で宿を借りてから山寺に登っています。その時に作られたのが有名な「閑さや 岩にしみ入 蝉の声」です。
山寺のふもとには、山寺芭蕉記念館(写真)があり、山寺と芭蕉とのつながりを詳細に伝えています。記念館の前庭に元米国駐日大使ライシャワー博士の寄稿文碑があります。ライシャワーは山寺を訪れた際に「日本の本来の姿を思い出させる美しい所です」と讃美しています。記念館では芭蕉に関する常設展示のほか、研修室や茶室が備えられていて、句会などが開かれています。 #山形 #山寺 #松尾芭蕉 #ライシャワー
November 14, 2025 at 5:41 AM
山形市にある霞城公園には山形県立博物館や山形美術館のほか、武道館や県の体育館もあり、文教施設が集中しています。
その中にあり異彩を放っているのが山形市郷土舘(写真)です。1878年9月、県立病院「済生館本館」として建築された建造物です。初代県令・三島通庸の命令で建立され、太政大臣である三条実美が命名。長く山形市立病院として使用されました。
三層楼の擬洋風建築で、1966年に国指定重要文化財に指定されました。1969年現在地に移築され、1971年「山形市郷土舘」として開館しました。山形県の医療の歩みを詳細に伝えています。 #山形 #霞城公園 #山形市郷土館 #済生館本館 #三島通庸 #三条実美
November 13, 2025 at 6:03 AM
山形のいしずえを築いたのは最上義光です。山形藩は義光の時代に57万石を擁し、伊達家に次ぐ雄藩でしたが、1622年に改易になりました。代わって入部したのが鳥居忠政で、以後は幕末まで譜代大名の藩として存続します。
最後の山形藩主となった水野忠精は、幕府の天保改革を推進し失敗した水野忠邦の子で、水野家の最後は山形で迎えることになりました。全国に先駆けて山形藩が廃藩になるのは1868年で、弱小譜代大名の悲哀を感じます。
そんな歴史の中にあり、最上義光は今でも山形を築いた偉人として顕彰されており、霞城公園の入口近くにある最上義光歴史館(写真)が最上家の歴史を伝えています。 #山形 #山形藩 #最上義光
November 12, 2025 at 7:22 AM
三宅理一『安藤忠雄 建築を生きる」」(みすず書房)を読み終えました。大阪に生まれ、工業高校を卒業して建築家となった安藤忠雄(1941~)の本格的な評伝です。安藤は高校時代ボクサーを志しましたが、ファイティング原田と出会い才能の違いを見せつけらえたというエピソードが印象に残りました。
私は安藤忠雄が設計した建造物が好きで、東大阪の司馬遼太郎記念館、姫路文学館、松山市の「坂の上の雲ミュージアム」を観ています。建造物もすそうですが、本書を読み生き方にもひかれました(写真は遠野市にある「こども本の森 遠野」)。 #三宅理一 #安藤忠雄 #みすず書房 #ボクサー #遠野 #姫路文学館 #司馬遼太郎記念館
November 11, 2025 at 9:23 PM
山形県鶴岡市が生んだ作家といえば藤沢周平(1927-1997)です。鶴岡公園内に市立藤沢周平記念館(写真)がオープンしたのは2010年のことでした。
藤沢周平の本名は小菅留治。山形師範学校卒業後教師となり、中学校で教えましたが、2年後に肺結核が見つかり休職。6年余の闘病生活を東京の病院で過ごした後、業界紙で記者として働きながら、小説を書きました。
1971年「溟い海」でオール読物新人賞、1973年「暗殺の年輪」で直木賞を受賞し、作家として独り立ちしました。その後は時代小説、歴史小説の旗手として活躍、吉川英治文学賞等多くの賞を受賞。1997年に亡くなりました。
 #山形県 #鶴岡市 #藤沢周平
November 11, 2025 at 4:15 AM
鶴岡市は歴史的建造物が多いのですが、中でも見所があるのが鶴岡公園内の旧西田川郡役所(重要文化財)です。1881(明治14)年創建の建造物で、1972(昭和47)年に移築。擬洋風のスタイルをとっていて、棟梁は西洋建築を学んだ鶴岡出身の高橋兼吉と石井竹次郎であり、ルネサンス様式の模倣が随所に見受けられます。
旧西田川郡役所は建物自体素敵ですが、展示内容も充実しています。庄内地方の考古資料、庄内藩の戊辰戦争関連資料、明治時代の暮らしと文化等が詳しく紹介されています。とりわけ詳しく紹介されているのが、幕末期から明治時代初期にかけでです(写真は旧西田川郡役所内部)。 #鶴岡 #旧西田川郡役所 #庄内藩
November 10, 2025 at 8:39 AM
石田繁之介『ジョサイア・コンドルの綱町三井倶楽部」(相模書房)を読み終えました。著者は鹿島建設や三井不動産で働いた経験を持つ建築評論家。本書はイギリスからやって来たお雇い外国人、ジョサイア・コンドル晩年の名作綱町三井倶楽部建築の背景に関して克明に紹介しています。
興味深いのはやはりコンドルが設計した旧古河虎之助邸(写真)に関しても詳細に触れていることです。私はこの建造物が好きで、何度も訪ねています。まるでおとぎの国にいるような、そんな雰囲気を漂わせている名建築です。 #石田繁之介 #ジョサイア・コンドル #綱町三井倶楽部 #イギリス #旧古河虎之助邸 #鹿島建設 #三井不動産 #相模書房
November 9, 2025 at 9:16 PM
山形県鶴岡市は江戸時代、庄内藩14万石の城下町として栄えました。庄内藩の息吹を伝えるのが藩校「致道館」(写真)です。東北で現存する唯一の藩校で、聖廟、講堂、御入間などがほぼ当時の姿のまま残っており、国指定史跡となっています。1805年庄内藩主9代忠徳(ただあり)が創設したもので、1816年、現在地に移されました。1873年に廃校になるまで、地域の教育に貢献してきました。致道とは論語の一節「君子学んで以て其の道を致す」が出典です。
致道館は岡山藩のいしずえを築いた池田光政が創設した、藩士や庶民の子弟向けの学校=郷学閑谷学校を参考にして創設されたそうです。 #山形県 #鶴岡市 #庄内藩 #致道館
November 9, 2025 at 6:51 AM