ニーチェ(374),ウィトゲンシュタイン(319),三島由紀夫(239),シュペングラー(201),ゲーテ(179),ドストエフスキー(114),カフカ(101),聖書(99),カント(98),オスカー・ワイルド(61),太宰治(59),ショーペンハウアー(35),その他(359)
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(ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記 1937.2.24)
他のことについては多くの優れた意見を持っているシュペングラーが、キルケゴールの評価については大きく誤っているのは興味深い。ここには彼にとって偉大すぎる人間が、あまりにも近くに立っているのだ。彼はただ「巨人の長靴」を見ているに過ぎない。
(ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記 1937.3.6)
(ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記 1937.2.24)
他のことについては多くの優れた意見を持っているシュペングラーが、キルケゴールの評価については大きく誤っているのは興味深い。ここには彼にとって偉大すぎる人間が、あまりにも近くに立っているのだ。彼はただ「巨人の長靴」を見ているに過ぎない。
(ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記 1937.3.6)
対する汝の労苦の中にこそあるのだ。自己を征服し、自己を鎮圧せよ──そうすれば、汝はかつて想像もしなかったほどの自由の身となり、偉大な事業に手をつけることができる。そして他人をも自由の身の上となし、幸福をその目で見ることができるであろう。
(ドストエフスキー『作家の日記』1880.8)
対する汝の労苦の中にこそあるのだ。自己を征服し、自己を鎮圧せよ──そうすれば、汝はかつて想像もしなかったほどの自由の身となり、偉大な事業に手をつけることができる。そして他人をも自由の身の上となし、幸福をその目で見ることができるであろう。
(ドストエフスキー『作家の日記』1880.8)
無味乾燥で面倒だと考えるような人でも、語られた善行や悪行の道徳的な内容を詮索するような議論には、すぐに仲間入りしてくるものである。そしてそうした行為の意図の純粋さやその意図における徳の高さを低めたり、疑わしくしたりするような事柄をさまざまに考えだして、
無味乾燥で面倒だと考えるような人でも、語られた善行や悪行の道徳的な内容を詮索するような議論には、すぐに仲間入りしてくるものである。そしてそうした行為の意図の純粋さやその意図における徳の高さを低めたり、疑わしくしたりするような事柄をさまざまに考えだして、
〔エントロピー理論における〕"世界終末の理念"は、法式の着物を着て現われるのであるが、その法則は本質の根底においてもはや法式ではない。これとともにゲーテ的なものが物理学のなかにはいってくる。そうしてゲーテが色彩論においてニュートンに向かって激しく駁論したことの意味を明らかにする時、
〔エントロピー理論における〕"世界終末の理念"は、法式の着物を着て現われるのであるが、その法則は本質の根底においてもはや法式ではない。これとともにゲーテ的なものが物理学のなかにはいってくる。そうしてゲーテが色彩論においてニュートンに向かって激しく駁論したことの意味を明らかにする時、
将来にむかってつまずくこと、これはできます。
いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。
(カフカ フェリーツェへの手紙 1913.2.28-3.1)
倒るれば 倒るるままの 庭の草
(良寛)
将来にむかってつまずくこと、これはできます。
いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。
(カフカ フェリーツェへの手紙 1913.2.28-3.1)
倒るれば 倒るるままの 庭の草
(良寛)
おそろしい自己満足と不安との間を往復し、きはめて嫉妬深く、生きる前にまづ検証し、適度の狂気を内包し、しかし一方では呆れるほどお人好しで、黙されやすく、苦い哲学と甘い人生観をごちやまぜに包懐し、……要するに、一種独特の臭気を持つた、世にも附合ひにくい人種なのである。
おそろしい自己満足と不安との間を往復し、きはめて嫉妬深く、生きる前にまづ検証し、適度の狂気を内包し、しかし一方では呆れるほどお人好しで、黙されやすく、苦い哲学と甘い人生観をごちやまぜに包懐し、……要するに、一種独特の臭気を持つた、世にも附合ひにくい人種なのである。
あるいはそこへ入ってゆくことによりそれらを見つけることができると自分が信じるなら、そこで何が起きようともそこに入ってゆくべきであり、そこに入ってゆくことを避けるべきでない、と確かに自分は感じることができるのである。
(ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記 1937.2.20)
あるいはそこへ入ってゆくことによりそれらを見つけることができると自分が信じるなら、そこで何が起きようともそこに入ってゆくべきであり、そこに入ってゆくことを避けるべきでない、と確かに自分は感じることができるのである。
(ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記 1937.2.20)
したいけれど、できない。
できるけれど、したくない。
(ゲーテ『格言と反省』)
砂漠のインド人は魚を食わぬことを誓う。
(ゲーテ『格言と反省』)
不正なことが、不正な方法で除かれるよりは、不正がおこなわれている方がまだいい。
(ゲーテ『格言と反省』)
したいけれど、できない。
できるけれど、したくない。
(ゲーテ『格言と反省』)
砂漠のインド人は魚を食わぬことを誓う。
(ゲーテ『格言と反省』)
不正なことが、不正な方法で除かれるよりは、不正がおこなわれている方がまだいい。
(ゲーテ『格言と反省』)
ある作品の偉大さまたは矮小さは、作品をつくった人がどこに立っているのか、に左右される。
またこうも言える。自分で自分を誤認し、自分で自分を煙に巻いている人は、けっして偉大ではない。
(ヴィトゲンシュタイン 反哲学的断章 1946.9.1)
ある作品の偉大さまたは矮小さは、作品をつくった人がどこに立っているのか、に左右される。
またこうも言える。自分で自分を誤認し、自分で自分を煙に巻いている人は、けっして偉大ではない。
(ヴィトゲンシュタイン 反哲学的断章 1946.9.1)
大衆は、みんなと違うもの、優れたもの、個性的なもの、資格のあるもの、選ばれたものをすべて踏みにじろうとする。みんなと同じでない者、みんなと同じように考えない者は、抹殺される危険に晒される。
大衆は、みんなと違うもの、優れたもの、個性的なもの、資格のあるもの、選ばれたものをすべて踏みにじろうとする。みんなと同じでない者、みんなと同じように考えない者は、抹殺される危険に晒される。
現代では、野球選手やテレビのスターが英雄視されてゐる。
そして人を魅する専門的技術の持ち主が総合的な人格を脱して一つの技術の傀儡となるところに、時代の理想像が描かれてゐる。この点では、芸能人も技術者も変はりはない。
現代はテクノクラシーの時代であると同時に、芸能人の時代である。一芸にひいでたものは、
現代では、野球選手やテレビのスターが英雄視されてゐる。
そして人を魅する専門的技術の持ち主が総合的な人格を脱して一つの技術の傀儡となるところに、時代の理想像が描かれてゐる。この点では、芸能人も技術者も変はりはない。
現代はテクノクラシーの時代であると同時に、芸能人の時代である。一芸にひいでたものは、
まったく違ったアプローチが要求されます。指先の動きだけですべてが決まってしまうアプローチでして、昔のオルガンのトラッカー・アクションにつきものの、まるでヒューヒューと呼吸をするときの音が今にも聞こえてしまいそうなアプローチなのです。これを実行すると、スラーや誇張したフレージングに
まったく違ったアプローチが要求されます。指先の動きだけですべてが決まってしまうアプローチでして、昔のオルガンのトラッカー・アクションにつきものの、まるでヒューヒューと呼吸をするときの音が今にも聞こえてしまいそうなアプローチなのです。これを実行すると、スラーや誇張したフレージングに
わたしたちの外部に存在することはできず、わたしたちの感性の内部だけに存在するのである。ところが自然は、経験において認識される対象であるから、自然のうちに含まれる可能性のあるすべてのものとともに、自己統合の意識の統一のうちにしか存在しえない。
(カント『純粋理性批判』D46)
わたしたちの外部に存在することはできず、わたしたちの感性の内部だけに存在するのである。ところが自然は、経験において認識される対象であるから、自然のうちに含まれる可能性のあるすべてのものとともに、自己統合の意識の統一のうちにしか存在しえない。
(カント『純粋理性批判』D46)
a)人格性の剥奪としての愛。同じく同情。
b)"人格性を剥奪された知性"(「哲学者」)のみが、"真理"を、「事物の真の存在と本質」を認識するということ。
c)天才、"偉大な人間"が"偉大"であるのは、彼らが自己自身や自己のことをもとめないからであるということ。すなわち、人間の"価値"は、自己自身を否認するのに比例して"増大する"ということ。
d)「"意志に左右されない純粋主観"」の作品としての芸術。「客観性」の誤解。
a)人格性の剥奪としての愛。同じく同情。
b)"人格性を剥奪された知性"(「哲学者」)のみが、"真理"を、「事物の真の存在と本質」を認識するということ。
c)天才、"偉大な人間"が"偉大"であるのは、彼らが自己自身や自己のことをもとめないからであるということ。すなわち、人間の"価値"は、自己自身を否認するのに比例して"増大する"ということ。
d)「"意志に左右されない純粋主観"」の作品としての芸術。「客観性」の誤解。
実はさういふ虚偽は殿下のまはりに拡大された顕著な形で現はれてゐるもの、それはわれわれの生活のまはりにも、目立たない形で渦巻いてゐる虚偽と同質のものなのである。あるものは目をつぶつて盲従し、あるものは反抗して狂奔し、あるものは別のところに築いた世界にやうやく息をやすめてゐるのが、
実はさういふ虚偽は殿下のまはりに拡大された顕著な形で現はれてゐるもの、それはわれわれの生活のまはりにも、目立たない形で渦巻いてゐる虚偽と同質のものなのである。あるものは目をつぶつて盲従し、あるものは反抗して狂奔し、あるものは別のところに築いた世界にやうやく息をやすめてゐるのが、
「神の存在」を納得させることができるのは、ある種の教育によってなのかもしれない。つまり、自分がどのように生きているか、を示すことによって。
(ヴィトゲンシュタイン 反哲学的断章 1950)
「神の存在」を納得させることができるのは、ある種の教育によってなのかもしれない。つまり、自分がどのように生きているか、を示すことによって。
(ヴィトゲンシュタイン 反哲学的断章 1950)
私は議論をして、勝ったためしが無い。必ず負けるのである。相手の確信の強さ、自己肯定のすさまじさに圧倒せられるのである。そうして私は沈黙する。しかし、だんだん考えてみると、相手の身勝手に気がつき、ただこっちばかりが悪いのではないのが確信せられて来るのだが、いちど言い負けたくせに、
私は議論をして、勝ったためしが無い。必ず負けるのである。相手の確信の強さ、自己肯定のすさまじさに圧倒せられるのである。そうして私は沈黙する。しかし、だんだん考えてみると、相手の身勝手に気がつき、ただこっちばかりが悪いのではないのが確信せられて来るのだが、いちど言い負けたくせに、
理性はこれをみずから実行しなければならないのであって、他者によって吟味されるようなことは許さない。さらに理性がその思索に基づく使用にたいして設ける必要のある限界は、同時にあらゆる対抗者の詭弁的な越権を制約することができるものである。
だから純粋理性のすべての哲学の最大の、
理性はこれをみずから実行しなければならないのであって、他者によって吟味されるようなことは許さない。さらに理性がその思索に基づく使用にたいして設ける必要のある限界は、同時にあらゆる対抗者の詭弁的な越権を制約することができるものである。
だから純粋理性のすべての哲学の最大の、
もはや全く許されなくなるとすれば、最後には、完全な"没批判"が、盲目的な放任が結果する。しかも、これはさらに、芸術における"享受"そのものが絶えず減退するという結果をうみ出す(芸術における享受というものは、極度に鋭敏な味覚とニュアンスの感覚によってこそ、たんなる欲望の粗野な充足から
もはや全く許されなくなるとすれば、最後には、完全な"没批判"が、盲目的な放任が結果する。しかも、これはさらに、芸術における"享受"そのものが絶えず減退するという結果をうみ出す(芸術における享受というものは、極度に鋭敏な味覚とニュアンスの感覚によってこそ、たんなる欲望の粗野な充足から
また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、
また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、
実体表象の根ざすところは、言語のうちにあるのであって、私たちの外部に存在するもののうちにあるのではない! 物自体はいかなる問題ですらもない!
存在するものは感覚であると考えられるにいたるべきであるが、この感覚の根底にはもはやなんらの没感覚的なものもないのである。
実体表象の根ざすところは、言語のうちにあるのであって、私たちの外部に存在するもののうちにあるのではない! 物自体はいかなる問題ですらもない!
存在するものは感覚であると考えられるにいたるべきであるが、この感覚の根底にはもはやなんらの没感覚的なものもないのである。
その後からくっついて行っているということを、追感しなければならないのだ。
このような訓練を経て初めて、若者は、現代の新聞工場労働者や小説書きたちの文体のあんなに人気があって名声嘖々たる〈優雅さ〉や、現代の文士連中の〈選り抜きの用語法〉などに対して、生理的な嘔吐感を催すようになり、
その後からくっついて行っているということを、追感しなければならないのだ。
このような訓練を経て初めて、若者は、現代の新聞工場労働者や小説書きたちの文体のあんなに人気があって名声嘖々たる〈優雅さ〉や、現代の文士連中の〈選り抜きの用語法〉などに対して、生理的な嘔吐感を催すようになり、
「私が悪いから、私の尽くし方が足りないから、あなたは私を捨てた」と彼女は言う。
すると男性が言う。「君の態度がどうであるかで、
私が態度を決めねばならないのか。君は、しおらしい、殊勝で、控えめな態度を装っているが、実は、根本のところで、自分の態度で私を操れると考えている。君は、尊大で、不遜だ」。
二人は、また別れる。雨の街路には、たくさんの人影があるが、どれも後ろ姿でしかない。
「私が悪いから、私の尽くし方が足りないから、あなたは私を捨てた」と彼女は言う。
すると男性が言う。「君の態度がどうであるかで、
私が態度を決めねばならないのか。君は、しおらしい、殊勝で、控えめな態度を装っているが、実は、根本のところで、自分の態度で私を操れると考えている。君は、尊大で、不遜だ」。
二人は、また別れる。雨の街路には、たくさんの人影があるが、どれも後ろ姿でしかない。
それゆえ、この真に体得するという精神こそ、対話することの秘訣なのだということである。
(キルケゴール『不安の概念』緒論)
それゆえ、この真に体得するという精神こそ、対話することの秘訣なのだということである。
(キルケゴール『不安の概念』緒論)
『悪い僕よ、私はあなたの言ったその言葉であなたをさばこう。私がきびしくて、あずけなかったものを取りたて、まかなかったものを刈る人間だと知っているのか。では、なぜ私の金を銀行に入れなかったのか。そうすれば、その金を利子と一緒に引き出したであろうに』。そして、そばに立っていた人々に、
『悪い僕よ、私はあなたの言ったその言葉であなたをさばこう。私がきびしくて、あずけなかったものを取りたて、まかなかったものを刈る人間だと知っているのか。では、なぜ私の金を銀行に入れなかったのか。そうすれば、その金を利子と一緒に引き出したであろうに』。そして、そばに立っていた人々に、