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(ニーチェ『人間的、あまりに人間的2』第1部243)
"優雅の敵対者"。──寛容でない高慢な人間は優雅を好まず、それを自分に対する有形の可視的な非難のように感じる。なぜなら優雅は運動や身ごなしにあらわれた心情の宏量だからである。
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的2』第1部258)
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的2』第1部243)
"優雅の敵対者"。──寛容でない高慢な人間は優雅を好まず、それを自分に対する有形の可視的な非難のように感じる。なぜなら優雅は運動や身ごなしにあらわれた心情の宏量だからである。
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的2』第1部258)
まずは論理学を聴講したまえ。
君の精神は鍛え上げられ 痛めつけられ
三段論法 四面四角
帰納演繹 思慮分別
間違いなしの大道を おっかなびっくりそっと歩み
迷い鬼火めいたジグザグ道など
決してふらつかぬようになる。
今までは恐るべし飲み食い同様
いとも気軽にやっていた日々の思案 考えも
大前提小前提 論理手順が不可欠と
年月費やして教えてくれる。
もちろん人間の思考は
織物にも似て
一歩踏めば千の糸が動き
左へ右へと梭が飛び交い
糸の流れは眼にも止まらず
一打ちで千の織目ができ上がるというものなのだが
さて哲学者先生が口を出すと
まずは論理学を聴講したまえ。
君の精神は鍛え上げられ 痛めつけられ
三段論法 四面四角
帰納演繹 思慮分別
間違いなしの大道を おっかなびっくりそっと歩み
迷い鬼火めいたジグザグ道など
決してふらつかぬようになる。
今までは恐るべし飲み食い同様
いとも気軽にやっていた日々の思案 考えも
大前提小前提 論理手順が不可欠と
年月費やして教えてくれる。
もちろん人間の思考は
織物にも似て
一歩踏めば千の糸が動き
左へ右へと梭が飛び交い
糸の流れは眼にも止まらず
一打ちで千の織目ができ上がるというものなのだが
さて哲学者先生が口を出すと
もつと気恥かしい、口に出すのも面伏せな欲求がこんがらかつて私たちを文学へ駆り立てた。だが私たちだけに言へる種類の皮肉もあるのである。
もつと気恥かしい、口に出すのも面伏せな欲求がこんがらかつて私たちを文学へ駆り立てた。だが私たちだけに言へる種類の皮肉もあるのである。
生は純粋な確信の前にあっては、自らのうちに正不正のための場をもたないからだ。お前が絶望的な死の瞬間に、正不正について思いをめぐらすことができないのと同じように、絶望的な生においてもそれはできない。矢はねらった傷口にぴったり当たれば、それで十分なのだ。
(カフカ 日記 1922.1.20)
生は純粋な確信の前にあっては、自らのうちに正不正のための場をもたないからだ。お前が絶望的な死の瞬間に、正不正について思いをめぐらすことができないのと同じように、絶望的な生においてもそれはできない。矢はねらった傷口にぴったり当たれば、それで十分なのだ。
(カフカ 日記 1922.1.20)
「霊たちの世界が閉じられているのではない
感覚が閉じられ 心が死んでいるのだ!
目覚めよ 学徒らよ 地上の埃つもるなんじらの胸を
朝焼けの大気に湯浴みさせよ ためらうことなく!」
何とすべてのものがひとつの全体へと織りなされ
互が互のなかで働き合い
互の中に生き続けていることだろう!
天使たちの軍勢が のぼって行き くだって行き
手から手へと黄金の手桶を受け渡している!
そして 祝福に匂う翼をゆるやかに羽ばたきつつ
天から地をめぐり行き
そのなごやかな響きをもって万有の間を充たしている。
何と素晴しい光景か! しかし光景に過ぎぬ!
「霊たちの世界が閉じられているのではない
感覚が閉じられ 心が死んでいるのだ!
目覚めよ 学徒らよ 地上の埃つもるなんじらの胸を
朝焼けの大気に湯浴みさせよ ためらうことなく!」
何とすべてのものがひとつの全体へと織りなされ
互が互のなかで働き合い
互の中に生き続けていることだろう!
天使たちの軍勢が のぼって行き くだって行き
手から手へと黄金の手桶を受け渡している!
そして 祝福に匂う翼をゆるやかに羽ばたきつつ
天から地をめぐり行き
そのなごやかな響きをもって万有の間を充たしている。
何と素晴しい光景か! しかし光景に過ぎぬ!
神は知りたもう──だが私たちは知らない、というわけだ。しかしこれはどういう意味なのか?
[このように言うとき]私たちはある像を使っている。それは目に見える数列であり、ある者はそれを遥か先まで見通し、ある者は見通していない、という像である。排中律の命題はこの場合、このように見えるか
神は知りたもう──だが私たちは知らない、というわけだ。しかしこれはどういう意味なのか?
[このように言うとき]私たちはある像を使っている。それは目に見える数列であり、ある者はそれを遥か先まで見通し、ある者は見通していない、という像である。排中律の命題はこの場合、このように見えるか
その他の部分を"廃棄"したがることによって、その"事物の"、状態の、時代の、人物の"典型的性格"を、抹殺し消去したがることである。
私たちの洞察するところはこれとは逆である。すなわち、
その他の部分を"廃棄"したがることによって、その"事物の"、状態の、時代の、人物の"典型的性格"を、抹殺し消去したがることである。
私たちの洞察するところはこれとは逆である。すなわち、
何より大切なのは、うまい表現だと思いますが「おのれの鑑識眼」です。ご存じのように平均律において私の採用したテンポの多くはかなり非正統的です。華々しい効果を狙ったり、聴き手に特別な衝撃を与えようとしたテンポはひとつもなかったのですが(だいたいにおいて、
何より大切なのは、うまい表現だと思いますが「おのれの鑑識眼」です。ご存じのように平均律において私の採用したテンポの多くはかなり非正統的です。華々しい効果を狙ったり、聴き手に特別な衝撃を与えようとしたテンポはひとつもなかったのですが(だいたいにおいて、
あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
(マタイ福音書 6:2-4)
あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
(マタイ福音書 6:2-4)
天下に名がひびいてゐるくせに、又自分でそれをよく知つてゐるくせに、公開の席で自己紹介をするときには、「私は、新劇を勉強してをります××と申す者でございます」と、田舎の小学校の女教員みたいな態度で、声もほそぼそと言ふさうです。私はかういふ陰性の己惚れ屋がきらひです。最近の
天下に名がひびいてゐるくせに、又自分でそれをよく知つてゐるくせに、公開の席で自己紹介をするときには、「私は、新劇を勉強してをります××と申す者でございます」と、田舎の小学校の女教員みたいな態度で、声もほそぼそと言ふさうです。私はかういふ陰性の己惚れ屋がきらひです。最近の
確実に存在してゐるといふことの別のあらはれに他ならないのであらう。醜さといふものは、存在の裂け目だからである。ところで芸術は美の創造だといはれるが、このやうな存在の裂け目からしか生れて来ない。女性が芸術家として不適任なのはこの点であります。芸術上の創造行為は存在そのものからは
確実に存在してゐるといふことの別のあらはれに他ならないのであらう。醜さといふものは、存在の裂け目だからである。ところで芸術は美の創造だといはれるが、このやうな存在の裂け目からしか生れて来ない。女性が芸術家として不適任なのはこの点であります。芸術上の創造行為は存在そのものからは
少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! メロス。
(太宰治『走れメロス』)
少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! メロス。
(太宰治『走れメロス』)
あらはになるからである。
そこで、小説が文学であるためには、二次的ながら、この過程を単に手段たらしめず、各細部がそれぞれ自己目的を以て充足しうるやうな、さういふ細部で全体を充たし、再読しても、手段としての機構ではなく、自足した全体としての機構のみが露はにされるやうに作るべきであり
あらはになるからである。
そこで、小説が文学であるためには、二次的ながら、この過程を単に手段たらしめず、各細部がそれぞれ自己目的を以て充足しうるやうな、さういふ細部で全体を充たし、再読しても、手段としての機構ではなく、自足した全体としての機構のみが露はにされるやうに作るべきであり
私にはそれが嘘のような気がしてならないのである。信じたいとあがいても、私の感覚が承知しないのである。実際、あのドラマチックな転機には閉口するのである。鳥肌立つ思いなのである。
(太宰治『苦悩の年鑑』)
私にはそれが嘘のような気がしてならないのである。信じたいとあがいても、私の感覚が承知しないのである。実際、あのドラマチックな転機には閉口するのである。鳥肌立つ思いなのである。
(太宰治『苦悩の年鑑』)
無類の尊大さ、かさにかかって相手を揶揄するような調子、外国の著者にたいするなれなれしい態度、どんな無意味なことでももったいぶってやる能力──
これらのことはみな私にとっては不可解でもあり、恐ろしくもある。
しかもこれは評論だけにかぎったことではない。ロシアの有識者諸君によってなされた、あるいは編集された翻訳を読むときも、私は一種の圧迫を感ずるのである。高慢な、好意の押売りをするような序文の調子、
無類の尊大さ、かさにかかって相手を揶揄するような調子、外国の著者にたいするなれなれしい態度、どんな無意味なことでももったいぶってやる能力──
これらのことはみな私にとっては不可解でもあり、恐ろしくもある。
しかもこれは評論だけにかぎったことではない。ロシアの有識者諸君によってなされた、あるいは編集された翻訳を読むときも、私は一種の圧迫を感ずるのである。高慢な、好意の押売りをするような序文の調子、
その卓越した特性と並はずれた学識のすべてにもかかわらず、その仕事ぶりを見て思われることは、この人はいかにもドイツ的な意味での大ぶろしきの哲学教授だということであって、要するに「何としてでも」一切を説明せずにはおさまらないのである。
(キルケゴール『不安の概念』緒論)
その卓越した特性と並はずれた学識のすべてにもかかわらず、その仕事ぶりを見て思われることは、この人はいかにもドイツ的な意味での大ぶろしきの哲学教授だということであって、要するに「何としてでも」一切を説明せずにはおさまらないのである。
(キルケゴール『不安の概念』緒論)
著作は、「彼自身および彼の哲学の仲間たちにとっては、想起手段の宝庫」ということになろう。
だがシュライエルマッハーによれば、著作は、"無知なる者を"知へ導く"次善の策"、ということになる。つまり著作の全体には、著作独自の、共通した教育および教導の目的がある、というのである。
著作は、「彼自身および彼の哲学の仲間たちにとっては、想起手段の宝庫」ということになろう。
だがシュライエルマッハーによれば、著作は、"無知なる者を"知へ導く"次善の策"、ということになる。つまり著作の全体には、著作独自の、共通した教育および教導の目的がある、というのである。
推論の仕方を読み取ることができるのは、ふたつの命題[pとq]からだけである。
このふたつの命題だけが、推論を正当化することができる。
「推論法則」は、推論を正当化するものとして考えられたものだが、
無意味である。そういうものは、余計だろう。
5.133 導くことはすべて、アプリオリに起きる。
5.134 要素命題から別の要素命題を導くことはできない。
5.135 なんらかの状況になっていることから、それとはまるで異なった状況になっていることを推論することは、どんな仕方でもできない。
推論の仕方を読み取ることができるのは、ふたつの命題[pとq]からだけである。
このふたつの命題だけが、推論を正当化することができる。
「推論法則」は、推論を正当化するものとして考えられたものだが、
無意味である。そういうものは、余計だろう。
5.133 導くことはすべて、アプリオリに起きる。
5.134 要素命題から別の要素命題を導くことはできない。
5.135 なんらかの状況になっていることから、それとはまるで異なった状況になっていることを推論することは、どんな仕方でもできない。
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。
熾烈をきわめた保身のための戦いのなかに人間性を忘れ、あの被収容者の心理を地で行く群れの一匹となりはてたか、苦渋にみちた状況ときびしい運命がもたらした、おのれの真価を発揮する機会を生かしたか、あるいは生かさなかったか。そして「苦悩に値」したか、しなかったか。
(フランクル『夜と霧』)
熾烈をきわめた保身のための戦いのなかに人間性を忘れ、あの被収容者の心理を地で行く群れの一匹となりはてたか、苦渋にみちた状況ときびしい運命がもたらした、おのれの真価を発揮する機会を生かしたか、あるいは生かさなかったか。そして「苦悩に値」したか、しなかったか。
(フランクル『夜と霧』)
ぼくは作家というのは、生活のなかでにせものの文学に、ばかな女にとり囲まれるように、とり囲まれていることが多いと思うのです。だって、ふり払ったことがないから。自分が“もてる”と思ってますからね。
ところが、それをふり払って、砂漠の彼方に駆けだしたときに、
ぼくは作家というのは、生活のなかでにせものの文学に、ばかな女にとり囲まれるように、とり囲まれていることが多いと思うのです。だって、ふり払ったことがないから。自分が“もてる”と思ってますからね。
ところが、それをふり払って、砂漠の彼方に駆けだしたときに、
地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである」。また言われた、「神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。
地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである」。また言われた、「神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。
我々はここで、哲学的考察に特徴的な、注目すべきひとつの現象にぶつかる。困難なのは解決を見い出すことではなく、解決の前段階にすぎぬように見えるものを解決として承認することである──と私は言うことができよう。
「我々はすでに言うべきことはすべて言った。
我々はここで、哲学的考察に特徴的な、注目すべきひとつの現象にぶつかる。困難なのは解決を見い出すことではなく、解決の前段階にすぎぬように見えるものを解決として承認することである──と私は言うことができよう。
「我々はすでに言うべきことはすべて言った。
とかいうから。
だから、ぼくがそのひとたちに、「あのときの王子くんがいたっていいきれるのは、あの子にはみりょくがあって、わらって、ヒツジをおねだりしたからだ。ヒツジをねだったんだから、その子がいたっていいきれるじゃないか。」とかいっても、なにいってるの、と子どもあつかい
とかいうから。
だから、ぼくがそのひとたちに、「あのときの王子くんがいたっていいきれるのは、あの子にはみりょくがあって、わらって、ヒツジをおねだりしたからだ。ヒツジをねだったんだから、その子がいたっていいきれるじゃないか。」とかいっても、なにいってるの、と子どもあつかい
しかもそれが言論自由の筋道を通って実現される、私はそのようなことを一切信じません。というのは正義というのは一つの妥協の上でしか成立しないようにできているので、もしそれが妥協でない、それだけの形で実現すれば、必ずそれは言論の自由と衝突する結果になる、つまり、
しかもそれが言論自由の筋道を通って実現される、私はそのようなことを一切信じません。というのは正義というのは一つの妥協の上でしか成立しないようにできているので、もしそれが妥協でない、それだけの形で実現すれば、必ずそれは言論の自由と衝突する結果になる、つまり、