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哲学・文学・宗教bot_テキストデータ(採用)
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主人が、召使たちの上に立てて、時に応じて定めの食事をそなえさせる忠実な思慮深い家令は、いったいだれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人はその僕を立てて自分の全財産を管理させるであろう。
しかし、もしその僕が、主人の帰りがおそいと心の中で思い、男女の召使たちを打ちたたき、そして食べたり、飲んだりして酔いはじめるならば、その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰って来るであろう。そして、彼を厳罰に処して、不忠実なものたちと同じ目にあわせるであろう。
February 16, 2026 at 11:00 PM
人間は己の日常の暮らしをそれが消えるまでは気がつかないある光の輝きとともに送っている。それが消えると、生から突然あらゆる価値、意味、あるいはそれをどのように呼ぶにせよ、が奪われる。単なる生存──と呼びたくなるもの──がそれだけでは全く空疎で荒涼としたものであることを人は突然悟る。
まるですべての事物から輝きが拭い去られたかのようになる。すべてが死んでしまう。これは、例えば、病気の後に時として起こる。もちろんだからといって、それがより非現実的であったり、重要でないことなのではない、つまり、肩をすくめて済ますことはできない。その時、人は生きたまま死んでしまう。
February 16, 2026 at 9:00 PM
ヘルツはあらゆる困難の真の根源を見出さないで──これはどんな物理学者も、いまだ成功しなかったところである──、力の概念をことごとくないものにしようと企てた。これはあらゆる力学的体系の欠陥は、根本概念のいずれかのなかに求めなければならない、という正しい感情に基づいたものである。
ヘルツの企図したことは、物理学の像を、時間、空間、質量の量だけから構成するということであった。しかし、方向因子としての力の概念のなかに入っていた時間それ自身が"有機的"要素であって、この有機的要素がなくては、動力学理論が表明されないし、そしてその有機的要素をもってしては純粋な解決が
February 16, 2026 at 7:00 PM
一般的なるものへの我々の渇望には今一つ大きな源がある。我々が科学の方法に呪縛されていること。自然現象の説明を、できる限り少数の基礎的自然法則に帰着させるという方法、また数学での、異なる主題群を一つの一般化で統一する方法のことである。哲学者の目の前にはいつも科学の方法が
ぶらさがっていて、問題を科学と同じやり方で問い且つ答えようとする誘惑に抗し難いのである。この傾向こそ形而上学の真の源であり、哲学者を全たき闇へと導くのである。ここで私は言いたい。それが何であれ、何かを何かに帰着させる、またそれを説明するというのは断じて我々の仕事ではない、と。
February 16, 2026 at 5:00 PM
"一つの眼で二つの眼つき"。──ひいきを、またひいきしてくれる人をほしがる畸形な眼つきの連中は、ふつうまた、彼らのたびかさなる屈辱や復讐心の結果として、恥しらずな眼つきもしている。
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的2』第1部243)

"優雅の敵対者"。──寛容でない高慢な人間は優雅を好まず、それを自分に対する有形の可視的な非難のように感じる。なぜなら優雅は運動や身ごなしにあらわれた心情の宏量だからである。
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的2』第1部258)
February 16, 2026 at 3:00 PM
だからお若い方よ 忠告しよう
まずは論理学を聴講したまえ。
君の精神は鍛え上げられ 痛めつけられ
三段論法 四面四角
帰納演繹 思慮分別
間違いなしの大道を おっかなびっくりそっと歩み
迷い鬼火めいたジグザグ道など
決してふらつかぬようになる。
今までは恐るべし飲み食い同様
いとも気軽にやっていた日々の思案 考えも
大前提小前提 論理手順が不可欠と
年月費やして教えてくれる。
もちろん人間の思考は
織物にも似て
一歩踏めば千の糸が動き
左へ右へと梭が飛び交い
糸の流れは眼にも止まらず
一打ちで千の織目ができ上がるというものなのだが
さて哲学者先生が口を出すと
February 16, 2026 at 1:00 PM
単に金儲けの目的で文学をはじめようとする青年たちがゐる。これは全く新しい型だ。君たちの動機の純粋を私は嘉する。「金のため」──ああ何といふ美しい金科玉条、何といふ見事な大義名分だ。私たちの動機はそれほど純粋ではない。
もつと気恥かしい、口に出すのも面伏せな欲求がこんがらかつて私たちを文学へ駆り立てた。だが私たちだけに言へる種類の皮肉もあるのである。
February 16, 2026 at 11:00 AM
「すべてが素晴らしい。ただ、ぼくにとってだけはそうではない。しかも正当にも」正当にも、とぼくは言って、少なくともこの確信だけはあるのだというところを示す。あるいは、ぼくには実は確信なんぞないのではあるまいか? というのも、ぼくはそもそも「正当さ」のことなど考えておらず、
生は純粋な確信の前にあっては、自らのうちに正不正のための場をもたないからだ。お前が絶望的な死の瞬間に、正不正について思いをめぐらすことができないのと同じように、絶望的な生においてもそれはできない。矢はねらった傷口にぴったり当たれば、それで十分なのだ。
(カフカ 日記 1922.1.20)
February 16, 2026 at 9:00 AM
今こそ俺はあの賢者の言葉を知るのだ。
「霊たちの世界が閉じられているのではない
感覚が閉じられ 心が死んでいるのだ!
目覚めよ 学徒らよ 地上の埃つもるなんじらの胸を
朝焼けの大気に湯浴みさせよ ためらうことなく!」
何とすべてのものがひとつの全体へと織りなされ
互が互のなかで働き合い
互の中に生き続けていることだろう!
天使たちの軍勢が のぼって行き くだって行き
手から手へと黄金の手桶を受け渡している!
そして 祝福に匂う翼をゆるやかに羽ばたきつつ
天から地をめぐり行き
そのなごやかな響きをもって万有の間を充たしている。
何と素晴しい光景か! しかし光景に過ぎぬ!
February 16, 2026 at 7:00 AM
私たちは排中律を引用して「そのような像が彼の念頭に浮かんでいるかいないかのどちらかであり、第三の場合はない!」と言う。哲学の他の領域でもこの奇妙な議論に出くわすことがある。つまり「πの無限展開の中には『7777』が現れるか現れないかのどちらかであり、第三の場合はない」という場合だ。
神は知りたもう──だが私たちは知らない、というわけだ。しかしこれはどういう意味なのか?
[このように言うとき]私たちはある像を使っている。それは目に見える数列であり、ある者はそれを遥か先まで見通し、ある者は見通していない、という像である。排中律の命題はこの場合、このように見えるか
February 16, 2026 at 5:00 AM
"階序によせて"。──類型的な人間のもっている"凡庸さ"とは何か? "事物の裏面"を必然的なものとして解さないこと、すなわち、不良の状態を、あたかもそれなしですましうるかのごとく攻撃することである。一方を他方とともに甘受しようと欲しないこと、──事物の固有性の或る部分のみをよしとして
その他の部分を"廃棄"したがることによって、その"事物の"、状態の、時代の、人物の"典型的性格"を、抹殺し消去したがることである。
私たちの洞察するところはこれとは逆である。すなわち、
February 16, 2026 at 3:00 AM
幻想曲ハ短調の件ですが、この作品を演奏したことが一度もないので、適切なテンポについて思いつきを申し上げる気にはどうしてもなれません。とにかく、おっしゃるとおり、バッハにおいて、いやそれこそあらゆる音楽においてもそうですが、
何より大切なのは、うまい表現だと思いますが「おのれの鑑識眼」です。ご存じのように平均律において私の採用したテンポの多くはかなり非正統的です。華々しい効果を狙ったり、聴き手に特別な衝撃を与えようとしたテンポはひとつもなかったのですが(だいたいにおいて、
February 16, 2026 at 1:01 AM
だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
(マタイ福音書 6:2-4)
February 15, 2026 at 11:00 PM
仕様のない己惚れ屋といふものはどこか痛快で、憎めません。彼はウソつきではないのです。これに反して、謙遜な人といふのは大ていウソつきです。先年物故した某名優は「私なんぞはまだまだお恥かしいもので、役者は一生修行です」といふのを口ぐせにしてゐて、死ぬまでさう云つてゐました。某名女優は
天下に名がひびいてゐるくせに、又自分でそれをよく知つてゐるくせに、公開の席で自己紹介をするときには、「私は、新劇を勉強してをります××と申す者でございます」と、田舎の小学校の女教員みたいな態度で、声もほそぼそと言ふさうです。私はかういふ陰性の己惚れ屋がきらひです。最近の
February 15, 2026 at 9:00 PM
このひろい東京、ひろい日本、いや世界中で、あらゆる女性が美しく生き、あるひは美しく生きようとしてゐることは、絶望的なことである。美しく生きることを諦めてしまつたやうにみえる不器量な老嬢でさへ、男に比べれば、はるかに「美しく生きてゐる」のであります。おそらくそれは、女性が男性よりも
確実に存在してゐるといふことの別のあらはれに他ならないのであらう。醜さといふものは、存在の裂け目だからである。ところで芸術は美の創造だといはれるが、このやうな存在の裂け目からしか生れて来ない。女性が芸術家として不適任なのはこの点であります。芸術上の創造行為は存在そのものからは
February 15, 2026 at 7:00 PM
歩ける。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。
少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! メロス。
(太宰治『走れメロス』)
February 15, 2026 at 5:00 PM
謎解きが、かくて小説の重要な魅力であるなら、現代流行の推理小説にまさるものはないといへよう。しかし、作者によつて巧妙にしつらへられた謎が一旦解明されると人々は再読の興味を失ふ。過程はすべて、謎解きといふ目的のための手段であつたにすぎず、再読すれば、その手段としての機構が寒々と
あらはになるからである。
そこで、小説が文学であるためには、二次的ながら、この過程を単に手段たらしめず、各細部がそれぞれ自己目的を以て充足しうるやうな、さういふ細部で全体を充たし、再読しても、手段としての機構ではなく、自足した全体としての機構のみが露はにされるやうに作るべきであり
February 15, 2026 at 3:00 PM
所謂「思想家」たちの書く「私はなぜ何々主義者になったか」などという思想発展の回想録或いは宣言書を読んでも、私には空々しくてかなわない。彼等がその何々主義者になったのには、何やら必ず一つの転機というものがある。そうしてその転機は、たいていドラマチックである。感激的である。
私にはそれが嘘のような気がしてならないのである。信じたいとあがいても、私の感覚が承知しないのである。実際、あのドラマチックな転機には閉口するのである。鳥肌立つ思いなのである。
(太宰治『苦悩の年鑑』)
February 15, 2026 at 1:01 PM
ロシアの本格的な評論、たとえば社会学とか芸術などにかんする評論はどうかといえば、私は単なる臓病から、そういうものはいっさい読まない。
無類の尊大さ、かさにかかって相手を揶揄するような調子、外国の著者にたいするなれなれしい態度、どんな無意味なことでももったいぶってやる能力──
これらのことはみな私にとっては不可解でもあり、恐ろしくもある。
しかもこれは評論だけにかぎったことではない。ロシアの有識者諸君によってなされた、あるいは編集された翻訳を読むときも、私は一種の圧迫を感ずるのである。高慢な、好意の押売りをするような序文の調子、
February 15, 2026 at 11:00 AM
世間でヘーゲルがもてはやされるようになったとき、われわれとしてはとうの昔にシュライエルマッハーを見捨ててしまった。が、シュライエルマッハーという人こそ、自分の知っていることだけしか語らなかった美しいギリシア的意味での思想家であった。これに対して、ヘーゲルの方はと言えば、
その卓越した特性と並はずれた学識のすべてにもかかわらず、その仕事ぶりを見て思われることは、この人はいかにもドイツ的な意味での大ぶろしきの哲学教授だということであって、要するに「何としてでも」一切を説明せずにはおさまらないのである。
(キルケゴール『不安の概念』緒論)
February 15, 2026 at 9:00 AM
プラトンが言っているのは、ひとり知者にとってのみ、著作は想起の手段としてその意義を持つ、ということである。それゆえに彼によれば、完璧な著作は口頭での教授形式を模倣すべきで、それは、こうすることによって、知者がどのようにして知者となったか、を想起することを目的としているのである。
著作は、「彼自身および彼の哲学の仲間たちにとっては、想起手段の宝庫」ということになろう。
だがシュライエルマッハーによれば、著作は、"無知なる者を"知へ導く"次善の策"、ということになる。つまり著作の全体には、著作独自の、共通した教育および教導の目的がある、というのである。
February 15, 2026 at 7:00 AM
5.132 pがqから導かれるなら、私はからpを推論することができる。pをqから導くことができる。
推論の仕方を読み取ることができるのは、ふたつの命題[pとq]からだけである。
このふたつの命題だけが、推論を正当化することができる。
「推論法則」は、推論を正当化するものとして考えられたものだが、
無意味である。そういうものは、余計だろう。
5.133 導くことはすべて、アプリオリに起きる。
5.134 要素命題から別の要素命題を導くことはできない。
5.135 なんらかの状況になっていることから、それとはまるで異なった状況になっていることを推論することは、どんな仕方でもできない。
February 15, 2026 at 5:00 AM
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。
February 15, 2026 at 3:01 AM
ひとりの人間が避けられない運命と、それが引き起こすあらゆる苦しみを甘受する流儀には、きわめてきびしい状況でも、また人生最期の瞬間においても、生を意味深いものにする可能性が豊かに開かれている。勇敢で、プライドを保ち、無私の精神をもちつづけたか、あるいは
熾烈をきわめた保身のための戦いのなかに人間性を忘れ、あの被収容者の心理を地で行く群れの一匹となりはてたか、苦渋にみちた状況ときびしい運命がもたらした、おのれの真価を発揮する機会を生かしたか、あるいは生かさなかったか。そして「苦悩に値」したか、しなかったか。
(フランクル『夜と霧』)
February 15, 2026 at 1:00 AM
文学と関係のあることばかりやる人間は、堕落する。絶対、堕落すると思います。だから文学から、いつも逃げてなければいけない、アルチュール・ランボオが砂漠に逃げたように……。それでも追っかけてくるのが、ほんとうの文学で、そのときにあとについてこないのは、にせものの文学ですね。
ぼくは作家というのは、生活のなかでにせものの文学に、ばかな女にとり囲まれるように、とり囲まれていることが多いと思うのです。だって、ふり払ったことがないから。自分が“もてる”と思ってますからね。
ところが、それをふり払って、砂漠の彼方に駆けだしたときに、
February 14, 2026 at 11:01 PM