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人生において致命的な誤ちは、無分別ゆえに犯すのではない。無分別な瞬間というのは恐らくは人の最上の瞬間である。そうではなくて、むしろ人が論理的であるがために犯すのだ。そこには大きな違いがある。
(オスカー・ワイルド『深き淵より』)

なにごとも自分の本心から湧き出るのでなければ、その人の心に響くことはない。人に向かって、当人が感じもしなければ理解もできないことを語って聞かせるのは無意味なことだ。
(オスカー・ワイルド『深き淵より』)

究極の悪徳とは浅はかさである。認識されるものはなんであれ、すべて正しい。
(オスカー・ワイルド『深き淵より』)
February 11, 2026 at 3:00 PM
自分は個別的観念しかもっていないということを知っている人は、名前に結びつく〔とされる〕抽象的観念を見つけて理解しようと頭をしぼる無駄なことなどしなくなるだろう。名前はつねに観念を代表するわけではないということを知っている人は、見つかりもしない観念を探す徒労をやめにすることだろう。
したがって、考察すべき観念から言葉の衣装と重荷を剥ぎとって、その観念を明晰に見てとるよう最大限の努力を傾けるのが望ましい。言葉こそ、判断を曇らせ注意を散漫にする主因だからである。天界に視野を広げても、大地の内部を覗き込んでも無駄である。
February 11, 2026 at 1:00 PM
罪は、元来いかなる学問にも決して帰属していない。罪は説教の対象であって、説教では個人が個人として個人に向かって語りかけるのである。われわれの時代においては、学者気どりが牧師たちを翻弄して一種の大学教授の助手に仕立てあげるという時流に迎合して、
目下そのような〔学者気どりに感化された〕牧師たちは、自分たちも学問に奉仕し、学問の権威のもとで説教したいという考え方をもつにいたった。こうした風潮からすると、説教することがきわめて見すぼらしい技術だと見なされるようになるのも、別に不思議ではない。
(キルケゴール『不安の概念』緒論)
February 11, 2026 at 11:01 AM
〈ある〉ものが〈ある〉と語りかつ考えねばならぬ。なぜなら それが〈ある〉ことは可能であるが 無が〈ある〉ことは不可能だから。このことをとくと考えるよう 私は汝に命ずる。
探求の道として 私が汝を遠ざけ禁ずるのは まずこの道〔無の道〕、
しかし次には 死すべき人間どもが何ひとつ知ることなしに 頭を二つもちながら さまよい歩く道を汝に禁ずる。すなわち彼ら死すべき者どもの胸の中では 困惑がその迷い心をみちびき、彼らは聾(みみしい)にしてまた盲(めしい)、ただ呆然と もの識り分かちえぬ群衆となって引きまわされる。
February 11, 2026 at 9:00 AM
その頃の文壇は私を指さして、「才あって徳なし」と評していたが、私自身は、「徳の芽あれども才なし」であると信じていた。私には所謂、文才というものは無い。からだごと、ぶっつけて行くより、てを知らなかった。野暮天である。
(太宰治『東京八景』)

私は大部分の人間よりもむき出しの魂を持っている。私の天才とはいわば、そこにあるのだ。
(ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記 1932.1.28)
February 11, 2026 at 7:00 AM
最後には、"社会的なごった混ぜ"。これは、革命の、平等権の回復の、「平等な人間」に対する迷信の結果である。そのさい、長いこと下積みに"甘んじてきた"階層の奴隷の本能、臆病・老獪・悪党の本能をもふくめて、衰退の本能(ルサンチマン、不満足、破壊欲、アナキズム、ニヒリズム)の担い手が、
あらゆる階級の血液のすみずみにまで混りこんで、二世代、三世代経過すれば、いかなる血筋のものかも見分けがつかなくなる、──すべてのものが"賤民化されて"いる。この結果、"精選"に反抗する、あらゆる種類の"特権"に反抗する総体対本能が生ずるが、この本能は、"特権ある者"すら事実上ただちに
February 11, 2026 at 5:00 AM
北米合衆国はすべて美しい。感心するのは極度の商業主義がどこもかしこも支配してゐるのに、売笑的な美のないことである。これに比べたら、イタリーのヴェニスは、歯の抜けた、老いさらばへた娼婦で、ぼろぼろのレエスを身にまとひ、湿つた毒気に浸されてゐる。いい例がカリフォルニヤの
ディズニイ・ランドである。ここの色彩も意匠も、いささかの見世物的侘びしさを持たず、いい趣味の商業美術の平均的気品に充ち、どんな感受性にも素直に受け入れられるやうにできてゐる。アメリカの商業美術が、超現実主義や抽象主義にいかに口ざはりのいい糖衣をかぶせてしまふか、その好例は
February 11, 2026 at 3:00 AM
このような「みずからを歓ぶこと」は、優劣をめぐる独自の言葉で自分を守る。あたかも聖地の森がそうするように。その幸福にあたえた数多の名によって、すべての軽蔑すべきものを追い払う。
一切の臆病なものを追い払う。劣っているということは、──臆病ということだと言いながら。
いつも心配し、ため息をつき、泣き言ばかり言う者、どんな小さな利益さえ逃すまいとする者は、それにとって軽蔑すべきものである。
またすべての悲しみに溺れた知恵を軽蔑する。たしかに闇のなかで咲く知恵もある、夜影の知恵が。それはいつもいつもこう嘆息している。「すべては虚しい」。
February 11, 2026 at 1:00 AM
ニューヨークの街路の人たちは、ただ立つて歩いてゐるだけだ。しかし、ここでは、人々はただ立つて歩いてゐるのではない。歩く者、立止る者、しゃがんでゐる者、寝てゐる者、バナナを食べてゐる者、とびはねる子供、高い台の上に坐つてゐる老人、これに白い聖牛が加はり、犬が加はり、
鳥籠の鸚鵡が加はり、蠅が加はり、緑濃い木々が加はり、赤いターバンや美しいサリーが加はる。加はつて、動いて、渾然として、一瞬一瞬に完成して又移り変る「生」の絵を描くにとに力を合はせてゐる。
(三島由紀夫『インド通信』)
February 10, 2026 at 11:00 PM
俺はヨーロッパへ行きたいんだ、アリョーシャ。行きつく先は墓場だってことはわかっているけど、しかし何より貴重な墓場だからな! そこには貴重な人達が眠っているし、墓石の一つ一つが、過ぎ去った熱烈な人生だの、自分の偉業や、自己の真理や、自分の闘争や、自己の学問などへの情熱的な信念だのを
伝えてくれるから。俺は、今からわかっているけど、地面に倒れ伏して、その墓石に接吻し涙を流すことだろう。そのくせ一方では、それらすべてがもはやずっと以前から墓になってしまっていて、それ以上の何物でもないってことを心から確信しているくせにさ。俺が泣くのは絶望からじゃなく、自分の流した
February 10, 2026 at 9:00 PM
文章の中の、ここの箇所は切り捨てたらよいものか、それとも、このままのほうがよいものか、途方にくれた場合には、必ずその箇所を切り捨てなければいけない。いわんや、その箇所に何か書き加えるなど、もってのほかというべきであろう。
(太宰治『もの思う葦』)

自分の作品のよしあしは自分が最もよく知っている。千に一つでもおのれによしと許した作品があったならば、さいわいこれに過ぎたるはないのである。おのおの、よくその胸に聞きたまえ。
(太宰治『もの思う葦』)

人は人に影響を与えることもできず、また、人から影響を受けることもできない。
(太宰治『もの思う葦』)
February 10, 2026 at 7:00 PM
可能性、現実性、必然性のカテゴリーは、純粋な知性だけから定義しようとした場合には、まったくの同語反復となるのは明らかである。概念が論理的に可能であることによって、物が超越論的に可能であることを証明しようとするのはごまかしであり、学問的な経験のない人々を欺き、満足させるにすぎない。
要するに、概念があるだけで、すべての感覚的な直観が取り去られた場合には(私たちには感覚的な直観しか可能でないのである)、何ごとも証明することはできず、その実際的な可能性を示すことはできない。主張できるのは、たんにこれらの概念が論理的な可能性をそなえているということだけであり、
February 10, 2026 at 5:00 PM
『フランツィ』〔マックス・ブロートの小説〕をお送りしようと思います。でもこの本は、小さな例外は別として、きっとお気に召さないでしょう。これは、存命中の作家というものは彼らの書いた本と生きた関連を持っているのだ、という私の理論から説明できることです。作家たちは、
自分たちのあらわな存在で、その本のために、か或いは、その本に抵抗して闘っているのです。本の本当に独立した生命というものは、作家の死の後に、もっと正しく言えば、死後暫くたってからはじめて始まります。なぜといって、この連中は極めて熱心で、死後も暫くは自分たちの本のために闘うからです。
February 10, 2026 at 3:00 PM
お前の軽蔑を軽蔑する。お前は私に警告する──ならば、なぜお前自身に警告しないのか。
わが軽蔑と警告する鳥は、ただ愛からのみ飛び立たねばならない。泥沼からなどではない──
口から泡を吹く阿呆よ。人はお前をわが猿と呼ぶ。だがお前を呼ぼう、私のよく鳴く豚と。豚のように不平をうなることで、
お前は台無しにしているのだ、私の愚行への礼賛を。
一体どうして不平を言う豚になったのか。誰も思うように"媚びて"くれなかったからだ。──だから汚物のなかに座り込んだ。豚のように不平を言う理由に事欠かないために。
──絶えず"復讐する"理由に事欠かないために。虚栄心の強い阿呆よ。
February 10, 2026 at 1:00 PM
大体"天才は努力である"といふことわざにもあるやうに、磨かれない玉も、磨かなければそのままだれにも認められずに終つてしまふとは、よく言はれてゐることである。かうした格言は、立身出世主義の社会ではそれこそ珠玉のやうに見られてゐた。人々はあくせくと努力し、そして生存競争の激しい社会で、
人を押しのけては、自分のあさましい努力を誇示しつつ、世間的な勝利者になつていつたのである。われわれは、努力といふものの価値を一度も疑つたことがない、ことに日本では。
(三島由紀夫『若きサムラヒのための精神講話』努力について)
February 10, 2026 at 11:00 AM
量子的世界の摩訶不思議な特徴のひとつが、非局所性だった。量子力学は、2個の粒子が切っても切れない関係になり得ると予測する。完全に独立しているはずなのに、片方に触れたらもう片方にも触れたことになるのだ。まるで、距離など何の意味も持たないかのように。分断して征服するという科学の手法は
使えなくなる。
宇宙の反対側にある2個の粒子が本当に結びついているなんてばかげているとアインシュタインには思えた。そこで、世界は実際には局所的なのだが、非局所的だという印象を与えているだけだと考え、2個の粒子が一致して振る舞うことを可能にしている隠れたメカニズムを暴露するために、
February 10, 2026 at 9:00 AM
激しい土砂降り。この雨に立ち向かえ。鉄のような稲妻をからだ中に刺し貫かせろ。お前を押し流そうとする水のなかで滑れ。だがいつまでも耐えて、やがて突然そして無限に射しこんでくる陽光を、毅然として待て。
(カフカ 日記 1914.5.27)

日記を今日からしっかりつけること! 規則正しく書くこと! 諦めないこと! たとえ救いはまったく到来しなくても、ぼくはしかしいつでも救いに値する人間でありたい。
(カフカ 日記 1912.2.25)
February 10, 2026 at 7:00 AM
「ピストルだって下らないことさ! 飲みたまえよ、妄想にふけらずにさ。僕は人生を愛している、愛しすぎたほどなんだ。あまり愛しすぎて、浅ましいくらいさ。もうたくさんだ! 人生のために、君、人生のために飲もうや、人生のために乾杯! なぜ僕は自分に満足していられるんだろう?
僕は卑劣な人間だけれど、そんな自分に満足しているんですよ。自分が卑劣な人間であることに苦しんではいるが、それでも自分に満足しているんだ。僕は神の創造を祝福するし、今すぐにでも神とその創造を祝福するつもりではいるけれど、でも……とにかく悪臭を放つ一匹の虫けらをひねりつぶす必要が
February 10, 2026 at 5:00 AM
心の苦しみに関して言うと、私は今日どんな人間を眺める場合でも、その人が心の苦しみを、経験から知っているか、それとも書物から知っているかの違いに着目する。つまり、この知見を、上等な教養の印でもあるかのように、この知見を持っているそぶりをすることが何といっても必要だと考えているか、
それとも、大いなる精神的苦痛など信じておらず、歯痛や腹痛のことを思い浮かべて、そういう大きな身体的苦痛を言葉にする場合と似たり寄ったりの仕方で精神的苦痛を言葉にしているか、の違いである。しかし今日たいていの人は、まず後者なのではないかと思われる。
(ニーチェ『愉しい学問』48番)
February 10, 2026 at 3:00 AM
「それなら何十年先に、貴様が貴様の一等軽蔑する連中と一緒くたに扱われるところを想像してごらん。あんな連中の粗雑な頭や、感傷的な魂や、文弱という言葉で人を罵るせまい心や、下級生の制裁や、乃木将軍へのきちがいじみた崇拝や、毎朝明治天皇の御手植の榊のまわりを掃除することにえもいわれぬ
喜びを感じる神経や、ああいうものと貴様の感情生活とが、大ざっぱに引っくるめて扱われるんだ。そしてその上で、今俺たちの生きている時代の、総括的な真実がやすやすとつかまえられる。今はかきまわされている水が治まって、忽ち水の面に油の虹がはっきりと泛んでくるように。そうだ、俺たちの時代の
February 10, 2026 at 1:01 AM
彼自身の性質と経験を通して、ウィトゲンシュタインは、審判と贖罪を行なう神という考えを理解できる素養を持ち合わせていた、と私は思う。けれども、創造とか永遠とか原因とか無限とかいう観念から生まれる宇宙論的な神という考えは、彼の性に合わないものであった。神が存在するというあかしとか、
宗教に合理的な説明を加えようとする試みなどというものには、彼はついて行けなかった。いちど私がキェルケゴールの「キリストが私を救ったことを私自身が知っているのに、キリストが存在しなかったとどうして考えられようか」といった意味の言葉を引いたとき、
February 9, 2026 at 11:00 PM
「非局所性の発見と証明こそが、20世紀物理学の唯一最大の発見だと、以前からずっと、そして今でも私は考えています」と、ニューヨーク大学の教授で、世界をリードする科学哲学者のひとり、ティム・モードリンは言う。彼は1990年代後半に発表した論文のなかで非局所性の意義を次のように総括している。
「世界は単に、局所化されて離散的に存在し、空間と時間だけによって外的に関係しあっている物体の集合ではない。何かいっそう深いもの、いっそう不可思議なものが、世界を織り合わせている。物理学が展開していくなかで、私たちはようやく、それは何なのかとじっくり考え始めたばかりなのだ」
February 9, 2026 at 9:00 PM
君たち貴人よ。これをわたしから学べ。市場では貴人の存在など誰も信じない。それでも諸君がそこで語ろうとするなら、よろしい。賤民は目を瞬かせて言うだろう。「われわれはみんな平等だ」と。
「あなたたち、貴人よ」──と賤民は瞬きする──「貴人などは居はしない。われわれはみんな平等だ、
人間は人間だ。神の前では──われわれはみんな平等なのだから!」と。
神の前では、と──だがその神は今や死んだ。賤民を前にして、われらは平等であろうとは思わない。君たち貴人よ、市場を去れ。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部 貴人について 1)
February 9, 2026 at 7:00 PM
「何のために生きるのか。一切はむなしい。生きることは、麦わらを叩くことだ。──生きることは、みずからを焼いてなお暖まらないことだ」──
このような古くさい愚痴があいもかわらず「知恵」としてまかり通っている。古くて黴くさい、だからこそますます尊敬される。黴まで箔になるわけだ──。
子供がこう言うならよい。火傷をして、火が怖いのだ。古い知恵の書物には多くの子供らしさがある。
麦わらを叩くように無駄口ばかり叩いている者が、麦を打ち脱穀することを謗ってよいわけがあるか。そのような馬鹿の口に猿ぐつわをかますがいい。
こういう者たちは食卓につきながら何も持って来ない。
February 9, 2026 at 5:00 PM
「しかし、実際には現在でもまったく同じですの」ふいに長老が口を開いたので、みながいっせいにその方を向いた。「なぜなら、かりに今キリスト教の教会がないとしたら、犯罪者の悪業への歯止めがまったくなくなって、ひいては悪業に対する懲罰までないにひとしくなるでしょうからの。
懲罰と言っても、今この方が言われたとおり、たいていの場合ただ心を苛立たせるにすぎぬ、機械的な懲罰のことではなしに、唯一の効果的な、ただ一つ威嚇と鎮静の働きをもつ、おのれの良心の自覚に存する本当の懲罰のことですぞ」
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』第2編5)
February 9, 2026 at 3:00 PM