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私が物理学の命題に従って自分の行動を律していることは、間違いなのであろうか。しかるべき理由は何もない、と言うべきであろうか。それこそ我々が「しかるべき理由」と呼ぶものではあるまいか。
その理由を適切とは見做さない人々に我々が出会った、と仮定しよう。我々はこれをどう考えたらよいか。
彼らは物理学者の見解を尋ねるかわりに、神託に問うようなことをする。(だから我々は彼らを原始人と見做す。)彼らが神託を仰ぎ、それに従って行動することは誤りなのか。──これを「誤り」と呼ぶとき、我々は自分たちの言語ゲームを拠点として、そこから彼らのゲームを"攻撃"しているのではないか。
November 17, 2025 at 11:00 PM
僕はもう相当いろいろなことを経験しました。嬉しいことと悲しいこと、晴れ晴れすることと憂鬱なこと。しかしいつの場合でも神様は父親がかよわい子供を導くように僕をちゃんと導いて下さいました。すでに神様は僕をずいぶんつらい目にあわせました。でも僕はいつの場合でも、万事をうまくおさめて
痛みを切り抜けて行くように導いて下さる神様の神々しい力がそこにはたらいていることがわかります。僕はしっかりと心に誓いました、永久に神様に奉仕するために一身を捧げようと。主よ、僕のこの志に力と強さとをお恵み下さい、そして生涯を通じて僕をお守り下さい。子供のように僕は神様の恩寵に
November 17, 2025 at 9:00 PM
これに反して、信仰の騎士は逆説である、彼は個別者である、一切の係累をも遠い縁者をももたぬまったくの個別者でしかない。これは宗派的な弱虫どもには耐ええられぬ恐ろしいことである。すなわち、この恐ろしさから、自分が偉大なことをおこないえないことを学び知り、そしてそれを率直に白状する
(これがわたし自身のやっていることなのだから、むろんわたしは是認せざるをえないことなのだ)ことをしないで、能のない者は、他の能なしどもの幾人かと協力すれば、偉大なことをなしうるだろう、と思っている。しかしけっしてそうはいかない、精神の世界では、欺瞞はゆるされないのである。
November 17, 2025 at 7:00 PM
論理学は、"いくつかの同一の場合があったならば"という条件に結びついている。じじつ、論理的な思考や推理がなされるためには、"この"条件がまずみたされていると虚構され"なければならない"。言いかえれば、"論理的真理"への意志は、すべての生起の根本的"偽造"が想定されおえたのちにはじめて、
成就されることができる。このことから明らかとなるのは、ここでは、第一には偽造、第二にはおのれの観点の貫徹という二つの手段を駆使しうる成る衝動が支配しているということである。すなわち、論理学は真理への意志から由来するのでは"ない"。
(ニーチェ『権力への意志』512)
November 17, 2025 at 5:00 PM
憎悪という感情は、敵を〈尊敬する〉ということを前提にしている。そこには、魂の序列の等しさに関するある種の承認がある。自分より低い地位にいる者たちを、人々は〈軽蔑する〉。みずからが低い地位にいる者たちは〈妬み深い〉。昔の童話、神話、英雄伝説などは、そのようなモチーフであふれている。
鷲は、己れと同等のものしか憎まない。鷲は、誰をも妬まない。鷲は多くのものを、そしてすべてのものを軽蔑する。軽蔑は、高みから見おろすものであり、ねたみは、下から窺うように見あげるものである、──そして、国家や身分にまで組織化された人類の、〈世界史的な〉諸感情というものもあり、
November 17, 2025 at 3:00 PM
今おそらく、太陽は山の上に来ているのだろう、だが天候のせいで見えない。もしお前が神を訴えたいと思うのなら、お前は誤った神の概念を抱いているのだ。お前は迷信に捕らわれているのだ。もしお前が運命に怒るのなら、お前は誤った概念を抱いているのだ。
お前は自分の概念を転換すべきなのである。おのれの運命に満足すること、それは知恵の第一の掟でなければならないだろう。
(ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記 1937.3.18)
November 17, 2025 at 1:00 PM
「われわれは」とゲーテはつづけた、「一般にいろいろなことで、どれだけルターや宗教改革のおかげを受けているか測りしれないね。われわれは精神的な偏見の束縛から解放され、進歩しつづけている文化のおかげでその本源へ帰り、キリスト教を純粋に捉えることができるようになった。
われわれはしっかりと両足をふみしめて神の大地に立ち、自己を、神の恩寵を受けた人間なる存在として感じるだけの勇気をふたたび取りもどしたのだよ。たとえ精神的な文化がどれほど進歩し、自然科学がどれほど広く、そして深くひろがっていき、人間精神がどれほど思いどおりに拡大されていこうとも、
November 17, 2025 at 11:01 AM
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、
見えのために長い祈をする。だから、もっと厳しいさばきを受けるに違いない。偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そしてつくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。
(マタイ福音書 23:13-15)
November 17, 2025 at 9:01 AM
抽象的な学者、自然研究者、体系的な思想家、これらの人々の知的な全存在は、因果律に依拠しているのであって、これらの人々こそ、運命という理解することのできない力に対する無意識的な"憎み"の後期的な現れである。
「純粋理性」は、己の外にあるあらゆる可能性を否定する。ここでは厳密な思考が永久に大芸術と争っている。前者はしっかりと立ち、後者は身を投げ出している。
November 17, 2025 at 7:00 AM
引っ返したのだ、遅れていたのではない。──現代にまだ宗教的感覚から自分の発展を始めるような、そしてそののちおそらくもっと長い間形而上学や芸術の中で生きつづけるような人は、もちろんかなりの道のりを後もどりしたのであって、他の現代人との競走を不利な前提のもとで始めることになる、
彼は外見上空間や時間を空費しているようだ。しかし、熱気やエネルギーが解き放たれたり、たえず威力が熔岩の流れのように涸れることのない泉から湧き出たりするあの領域に滞在したことによって、適当な時機にさえあの地帯から離れてしまえば、たちまち彼はいっそう急速に前進する、
November 17, 2025 at 5:01 AM
従ってフェルマーの命題は、基数全体を通して等式の解を"求める"ことが可能でない限り、何の"意義"も持たない。
そして「求める」とは常に、体系的に求めることでなければならない。無限な空間の中で金の指輪を目あてにさまよい歩くことは、何ら求めることではないのである。
求めることはある一つの体系の中でのみ可能である。従って求めることのでき"ない"何物かがどうしても存在する。
(ウィトゲンシュタイン『哲学的考察』150)
November 17, 2025 at 3:00 AM
へぼ文士はならず者や愚か者を描くとき、筆運びがぎこちなく、わざとらしいために、いわばどの登場人物の背後にも作者がいて、登場人物の考え方や台詞をたえず否認し、「こいつはならず者だ。こいつは愚か者だ。こいつの言うことを真に受けるな」と警告の叫び声をあげているのが見える。これに対して
大自然の成すわざは、シェークスピアやゲーテのようだ。作中のどの人物も、たとえ悪魔でも、そこに立って語っている間は、あくまで正しい。どの登場人物もたいそう客観的に把握されているので、私たちはそれぞれの人物の利害に引き込まれ、共感せざるを得ない。
(ショーペンハウアー『幸福について』)
November 17, 2025 at 1:00 AM
偶数は基数と同じ数だけ存在する、なぜなら、すべての基数に偶数を対応づけることができるからだ──これがラッセルの理論の帰結だと言われる。
しかし、私が「うむ、やってみたまえ。それらを対応づけるのだ」と言うとしてみよ。私がそう言うことで何を意味しているかは、直ちに明確であるだろうか。
基数と偶数を対応づける技術はただひとつしかないのだろうか。諸君は「対応づける」という言葉を、「その通り、基数は偶数と同じ数だけ存在する」と言うような仕方で解釈することができる。しかし、いかなる意味で諸君は、自分がこれを"証明した"と言うことができるのか。諸君はある新たなことを行い、
November 16, 2025 at 11:00 PM
「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、
November 16, 2025 at 9:00 PM
音楽における演奏の原理について。──いったいほんとうに今日の音楽の演奏の芸術家たちは、彼らの芸術の至上命令は、どの曲にもできるだけくっきりした"高浮彫り"を施して、何としてもそれに"劇的な"言葉をしゃべらせることだと信じているのだろうか? これは、たとえばモーツァルトに
適用したとすれば、本来、精神に対する、つまりモーツァルトの快活で、明るい、やさしい、浮き浮きした精神に対する一つの罪ではないのか? モーツァルトのきびしさは、温和なきびしさであって恐ろしいきびしさではなく、その形象は観る者を驚愕と逸走のなかに追いこむために壁のなかから
November 16, 2025 at 7:00 PM
「キリスト教界」に見受けられるものと言えば、ごくわずかのお布施で、神からのお褒めの言葉を求めるわめき声ばかりだ。神はこうしたやり方を好まれない。否、神は天使たちをお気に召すのだ。そして、天使たちの称賛にもまして神がお気に召すのは、人生の終着点で、神が、まったくの無慈悲──
なぜこれほどまで、という無慈悲──へと姿を変えられ、人生への願いをことごとく彼から奪い去るためにあらゆることをなされるとき、それでも、神が愛であることを、神は愛ゆえにこのようなことをなさるのだということを信じ続ける、そのような人間である。
(キェルケゴール 日記 1855.9.25)
November 16, 2025 at 5:00 PM
説明しないこと! 記述すること!《お前の心を服従させよ、こんなに自分が苦しまなければならないことに腹を立てるな! これは私が自分に与えなけれはならない忠告である。お前が病気なら、病気に合わせて過ごすのだ。病気であることに腹を立てるな。》
(ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記 1937.2.19)
November 16, 2025 at 3:00 PM
スピノザのような誠実な人が、いかなる神も存在しないと確信していて、しかもこの確信は、道徳性の客体についても同じ帰結をもたらすために、いかなる来世も存在しないと確信するようなことも、ありうると考えられる。しかしそのような人は、実際の行為においては敬っている道徳的な法則に基づいて、
自分自身の内的な目的規定をどのように判定するのだろうか。
そうした誠実な人は道徳的な法則を遵守しながら、この世においてもあの世においても、自分自身のためにはいかなる利益を求めようともせず、かの神聖な道徳法則のために自分の一切の力を投じて、善だけを樹立しようと試みることだろう。
November 16, 2025 at 1:01 PM
真の意味での崇高さは判断を下す人の心のうちにしか存在しない。だからこそ、それについて判定する人の心のうちに調和的な気分を引き起こすような自然の客体のうちに、崇高さを求めてはならない。山の連なりが雑然と無秩序に重なり合っていて、その頂が氷で覆われているような異様な山岳を、
あるいは暗く荒れ狂う大海原などを、誰が崇高なものと呼ぼうとするだろうか。
それでも心がこうした光景を眺めると、自らの心において自分が高められたと感じるのである。このように心が崇高さを感じるのは、こうした光景の観察に際して、その形式を考慮せず、自らを構想力と理性に委ねるときである。
November 16, 2025 at 11:00 AM
祈りとは世界の意義についての思想である。世界の出来事を私の意志によって左右するのは不可能であり、私は完全に無力である。私は出来事への影響を専ら断念することによって、自分を世界から独立させることができ、従って世界をやはりある意味で支配しうる。
(ウィトゲンシュタイン 草稿 1916.6.11)

世界は私の意志から独立である。
仮に我々の望む全てのことが生起したとしても、このことはやはり、いわば運命の恩寵にすぎないだろう。何故なら意志と世界との間には、このことを保証するような論理的な連関は存在しないからである。
そして物理的な連関が想定されるとしても、この連関を欲することは
November 16, 2025 at 9:00 AM
文明──真の自然への復帰──とは貴族の消滅であるが、それは血族として(これはほとんど意味のないことであろう)の貴族の消失ではなく、生きた伝統としての貴族の消失である。同時に、文明は因果的知能をもって運命的拍子に代用したものである。そういう際、貴族とはただたんに肩書であるにすぎない。
しかしそのゆえにこそ、文明化した歴史とは皮相的歴史であり、支離滅裂となった目先の目的に向けられ、したがって宇宙的なもののなかで無形式となり、偉大な個人の偶然に依存し、内的確実さもなく、線もなく、意義もない。歴史は皇帝主義〔カエサル主義〕とともにふたたび歴史喪失の状態に立ち戻り、
November 16, 2025 at 7:00 AM
もしもある体系に可能な全体に対して、それを構成する部分が完璧なものとしてすでに与えられていると考えるのであれば、この体系の区分はたんなる比較によって"機械的"に行うことができるのであり、全体は[ひとつの体系とならずに]さまざまな部分が"集まった"だけのものになる。
しかし全体の理念は、それを構成する部分の規定に先立って、ある種の原理にしたがって前提とすることができるのであり、また前提とすべきであるならば、その場合には区分は"学問的に"行われなければならないし、そのようにすることで初めて、全体は一つの体系となるのである。
November 16, 2025 at 5:00 AM
覚醒存在のなかでは成ることと成ったこととが、世界像の優位を争っている。大文化にだけ可能な二種の観察の最高にして成熟した形式は、ギリシャ・ローマの魂にとっては、プラトンとアリストテレスとの対立に、西洋の魂にとってはゲーテとカントとの対立に現われている。
すなわち一は、永遠の子供の魂の見て取った世界の純粋な観相学であり、一は、永遠の老人の理性の認識した純粋な体系学である。
(シュペングラー『西洋の没落』第1巻第2章19)
November 16, 2025 at 3:00 AM
言葉が何の意味もないままに使われるとき、あなたがたは好きなようにそうした言葉を組み合わせていいし、そうすることで矛盾に陥る危険を冒すわけでもない。たとえば、「二の二倍は七に等しい」と言ってもかまわない。
ただし、こう言ってかまわないのは、あなたがたがこの命題に含まれているそれらの言葉をその普通の意味において用いるのではなく、自分たちですら何であるか分からないものを表わす印とみなしていると公言するかぎりでのことであって、これと同じ前提においてであれば、
November 16, 2025 at 1:00 AM
バッハが亡くなるまでに、その世界は、彼が生まれた頃とはかなり違った場所になっていました。論理的であることを切望する世界、若者たちや若い発想を求める世界に変わりはてていたのです。バッハが他界したとき、音楽の巨匠と見なされていたのは彼ではなく、むしろその息子たちでした。
息子たちは父親の知っていたものとはまったく異なる音楽語法の大家だったのです。新しい音楽様式の下地作りをしたのは、ほかならぬこの息子たちとその仲間たち──十代のヨーゼフ・ハイドンなどの作曲家たち──でした。
November 15, 2025 at 11:00 PM