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また日ざしが出てうまくいったときは魅惑的な虹が生まれる年齢である。
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的2』第1部271)
February 14, 2026 at 9:01 AM
"すべて哲学は或る年齢の哲学である"。──或る哲学者がその学説を創案したときの年齢は、その学説のなかから聞こえてくるのであって、いかに自分が時間を、時の刻みを高く超越していると感じようとも、彼はこのことを隠すことはできない。こうして、ショーペンハウアーの哲学は、常に熱っぽい、
憂鬱な"青年時代"の反映である、──その思考方法は年配の人たちむきではない。またプラトンの哲学は、三十代の中頃を想い起こさせる。それは、冷たい気流と熱い気流がいつも交互に吹きすさぶ年齢、そのためにほこりや切れ切れの薄雲が生ずる年齢、
February 14, 2026 at 9:01 AM
本當の公家の血は過激派の血なんです。お金持だけがお金を輕蔑できるやうに、私共は因襲のお庫を持つてゐますから、因襲を輕蔑することができます。
(三島由紀夫『鹿鳴館』第1幕)

自分の持たないものの悪口は言ひやすい。金を持つてゐなければ金持の悪口が言ひやすいし、権力を持つてゐなければ権力者の悪口が言ひやすい。
(三島由紀夫「社会料理三島亭」)
February 14, 2026 at 7:00 AM
隔たっているかを告白するつもりだ。これでも私は罪が何であるかを知らないというのだろうか?」だが、キリスト教は答える。そうだ。お前が完全さからどれほど隔たっているかということ、また罪が何であるかということ、これこそお前が一番知らずにいることなのだ、と。
(キルケゴール『死に至る病』)
February 14, 2026 at 5:00 AM
自然のままの人間、異教徒は、たとえば、こんなふうに考える。「よろしい、私が天上と地上とにあるすべての物事を理解してはいないことを、私は認める。もし啓示というものがあるというなら、天上のことについて我々に解き明かしてもらいたいものだ。しかし、罪が何であるかを解き明かすために
啓示がなければならないなどということは、実に馬鹿げたつじつまの合わない話である。私は自分が完全な人間だなどとは言わない、完全などころじゃありゃしない。しかし私は、自分が完全などころでないことをちゃんと知っているのだ、そればかりか、私はむしろすすんで、私がどれほど完全さからほど遠く
February 14, 2026 at 5:00 AM
さわるな!──何かの問題を解くかわりに、その問題に携わろうとする全ての人々に対してそれをかえってもつれさせ、いっそう解きにくくするような、忌むべき連中がいる。釘の頭を打ちあてることを心得ない者には、全然釘を打ちあてないよう頼むべきだ。
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的2』第2部326)
February 14, 2026 at 3:00 AM
ウィトゲンシュタインのお得意の言葉に「すげえものには手を出すな!」というのがあった。これを強い調子で、わざと真面目な顔つきで言った。問題になっている事物がちゃんとしているから、これ以上手を加えるな、といったくらいの意味であるが、彼はいろんな場合に、これを使った。
たとえば、あるときは、彼のベッドが今のままで結構だから動かさないでほしいというつもりで、別なときは、私の妻が彼の上着を修理したとき、これで十分だから、それ以上手を加えなくてもよい、という意味で。
(マルコム『回想のウィトゲンシュタイン』)
February 14, 2026 at 3:00 AM
おそらくわたしたちに与えられることが決してありえない対象について、見境なく判断を下すことになるからである。
(カント『純粋理性批判』097)
February 14, 2026 at 1:01 AM
ところでわたしたちに素材(客体)を与えることができるのは経験だけであり、純粋な知性概念は、こうして与えられた素材だけに適用できるものである。そして経験の領域を超えたところまで、この純粋な知性の認識と原則を単独で適用しようとするのは、超越論的な知性にとっては大きな誘惑であり、
魅力のある営みである。しかしそのときに知性は大きな危険に直面することになる。空虚な詭弁を弄して、純粋な知性のたんなる形式的な原理を実質的な[内容のある]ものとして利用することになるのであり、わたしたちにまだ与えられていない対象について、
February 14, 2026 at 1:01 AM
文献学者の古代に対する態度は、"弁解がましかったり"、あるいは、現代が高く評価するものを古代の中に指示しようとする意図で入れ智慧されたりしている。正しい出発点は、その逆なのである。すなわち、現代が顛倒したものであることを洞察することから出発し、後を振り返って見るということである、
そのとき、古代に見られる多くの極めて不快な事柄は、意味深長な必然性として現われて来るだろう。
古代を擁護したりその体裁をつくろったりしたら、我々は大変ばかげたものに見えることを、はっきり心得ておくべきである。我々は何たる者なのだろう!
(ニーチェ『「われら文献学者」をめぐる考察』15)
February 13, 2026 at 11:02 PM
ああいう態度の方がずっと有益且つ有効なのだ。つまり、相手に数歩をゆずっておいて、このために相手が進んで傾聴し感銘するようしむけるのだ。
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的2』第2部7)
February 13, 2026 at 9:00 PM
古代後期のひとびとの魂の慰め手であったエピクロスは、今日なお依然としてめったに見あたらないあのすばらしい洞察の持ち主であった。それは、心情の慰安のためには、窮極的な、また最も迂遠な理論的問題の解決など全然必要でない、という洞察である。そこで彼にとっては、「神々に対する不安」に
さいなまれているひとたちには、「もし神々が存在するとすれば、神々はわれわれのことなど気にかけていないだろう」と言うだけで十分であった、──そもそも神々は存在するのか、といった窮極的な問題について、不毛な、そしてもどかしい論議なぞするかわりに。
February 13, 2026 at 9:00 PM
知らねばならぬという意見らしく思われるね。宗教と連想の事柄に関しては、ともあれまだ神の影響を認めるが、科学と芸術のことについては、これは明らかに現世的なものであり、純粋に人間の力が生み出した産物以外のものではないと思いこんでいるよ」
(エッカーマン『ゲーテとの対話』第3部 1832.3.11)
February 13, 2026 at 7:00 PM
それから話は、キリスト以前に生存していた中国人とかインド人とかペルシャ人とかギリシャ人たちのすぐれた人物のことに移り、また、神の力が、彼らの裡でも、旧約聖書の二、三のすぐれたユダヤ人と同じように働いていたということに及んだ。また、現代のすぐれた人たちのうちに、神の影響はどのように
現れているかということが問題となった。
「人の話を聞いていると」ゲーテはいった、「神はあのずっと昔の時代このかた、まったく鳴りをひそめてしまい、人間はいまや完全に独立しているのだから、神の力をかりず、また日々目にみえない神の息吹きを受けずにうまくやっていくにはどうしたらよいかを
February 13, 2026 at 7:00 PM
精神に関する学問でこれと同じ仕方でなんらかの疑いを取り除こうとすれば、私が考察する事態と同じ事態に私自身をおかねばならないが、明らかにこの場合には、このように反省し、あらかじめ計画を立てることで、私の心を自然に動かしている原理の作用が乱れ、観察する現象から正しい結論を引き出すのを
不可能とするに違いないのである。したがって、精神に関する学問では実験を人間生活の注意深い観察から拾い集めなければならない。そして、その際、交際、業務、楽しみごとでの人々のふるまい方を通して、世の中のふだんのなりゆきに現われるままにとらえなければならない。
(ヒューム『人性論』序論)
February 13, 2026 at 5:00 PM
この人間の学自体に対して与えうる唯一のしっかりした基礎は、経験と観察とにおかれなければならない。
たしかに、精神に関する学問には自然学に見いだせない次のような特殊な不利の点がある。それは、観察実験を集めるにあたって、意図的に、あらかじめ計画を立て、起こりうるどんな問題点についても
十分に納得できるような仕方で実験を行なうことはできない、ということである。自然学でなら、たとえば一つの物体がある状態で他の物体に及ぼす影響をどう考えればよいかわからなければ、二つの物体を実際にその状態においてみて、なにがそれから生じるかを観察しさえすればよい。ところが、もし
February 13, 2026 at 5:00 PM
勇気を出して、自分自身を信じてみるがいい。諸君と、諸君の臓腑を。おのれを信じない者は、つねに嘘をつく。
「純粋な者」たちよ、諸君はひとつの神の仮面をかぶっている。その仮面のなかに、蚯蚓のようなおぞましい虫が入り込んでいる。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部 汚れなき認識について)
February 13, 2026 at 3:00 PM
おおきく孕んだ姿で、地平の上にあったとしても。
たしかに、諸君は高貴な言葉を口いっぱいにふくんでいる。それは我らの心があふれんばかりに満たされているからだ、と、そう信じさせようというのか。君たち、嘘をつく者たちよ。
対して、私の言葉は、いやしい、蔑まれた、あやしげな言葉だ。
君たちの食卓からこぼれおちた物を、私は喜んで拾う。
だが、私はこれを使って偽善者たちに真理を語りうる。拾った魚の小骨、貝の殻、棘ある葉で、偽善者の鼻をくすぐる。
諸君と諸君の食卓には、湿った空気がいつもただよっている。君たちの好色な思想や、そして隠しごとが、その空気にこもっている。
February 13, 2026 at 3:00 PM
美はどこにあるのか。私がすべての意志をあげて意志せざるをえなくなったところに。像(イメージ)が像のままで終わらぬように、私が愛し没落しようとしたところに。
愛すること、没落することは、永遠に響き合う。愛そうと意志することは喜んで死のうとすることでもある。君たち臆病者に、そう語ろう。
だが、諸君はおのれの去勢された流し目を「観照」と呼ぼうというのだ。その臆病な眼でなで回したものを「美」と呼ぼうというのだ。おお、高貴な名を冒涜する者たちよ。
しかし君たち汚れなき者たちよ、純粋に認識する者たちよ。諸君は呪いを受けている。決して産むことがないという呪いを。
February 13, 2026 at 3:00 PM
「“目”より先に“手”が肥えることはない」
良し悪しを見抜く“目”を養わねば 作品を生み出す“手”の成長は望めない
表現者の間でよく使われる文句
これはあらゆる専門(ジャンル)に共通し “目”の良い者の上達速度はそうでない者のそれを遥かに凌駕する
(芥見下々『呪術廻戦』第37話)
February 13, 2026 at 1:00 PM
目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。
(マタイ福音書 6:22-23)

悪は対象でなくて眼にあるのだ。眼さえあれば対象は見いだせる。君がたは眼がなくて盲目なものだから、どんな対象があったってなに一つ見いだせないのだ。
(ドストエフスキー『作家の日記』1876.10)
February 13, 2026 at 1:00 PM
われわれは、この時代に生まれたのであり、そしてわれわれに定められているこの終局への道を勇敢に歩まなければならない。これ以外に道はない。希望がなくても、救いがなくても、絶望的な持ち場で頑張り通すのが義務なのだ。
ポンペイの城門の前でその遺骸が発見された、あのローマ兵士のように頑張り通すことこそが。──彼が死んだのは、ヴェスビオ火山の噴火のときに、人びとが彼の見張りを交代させてやるのを忘れていたためであった。これが偉大さであり、これが血すじのよさというものである。
この誠実な最期は、人間から取り上げることのでき〈ない〉、ただひとつのものである。
(シュペングラー『人間と技術』12)
February 13, 2026 at 11:00 AM
たとえ死を前にしても、幸福な人は恐れを抱いてはならない。
時間の中ではなく、現在の中で生きる人のみが幸福である。
現在の中での生にとって、死は存在しない。
死は生の出来事ではない。死は世界の事実ではない。
もし永遠ということで無限な時の継続ではなく無時間制が理解されているのなら、
現在の中で生きる人は永遠に生きる、と語ることができる。
幸福に生きるためには、私は世界と一致せねばならない。そしてこのことが「幸福である」と言われることなのだ。
この時私は、自分がそれに依存していると思われる、あの見知らぬ意志と一致している。
(ウィトゲンシュタイン 草稿 1916.7.8)
February 13, 2026 at 9:00 AM
文章のコツ、即ち人に「分らせる」ように書く秘訣は、言葉や文字で表現出来ることと出来ないこととの限界を知り、その限界内に止まることが第一でありまして、古の名文家と云われる人は皆その心得を持っていました。
(谷崎潤一郎『文章讀本』)

もし皆さんが、何ぞ今までにない新しい思想や事柄を述べようとする場合には、無理にそれに当て篏まる単語を造り出そうとしないで、古くからある幾つかの言葉を結び合わせ、句を以て説明すればよいのであります。
とにかく、相当の言葉数を費した方がよく分ることを、二字か三字の漢語に縮めようとするのは宜しくない。
(谷崎潤一郎『文章讀本』)
February 13, 2026 at 7:00 AM
私小説と近代小説の告白性との関係などの大問題は、伊藤整氏にお任せすることにして、私は日本における小説の読者が、いかに「素朴なリアリティー」にとらわれて小説を読むことを愛するか、という言い古された現象をもう一度提示するにとどめる。
(三島由紀夫『私の小説の方法』2)
February 13, 2026 at 5:00 AM