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ニーチェ(371),ウィトゲンシュタイン(300),三島由紀夫(259),シュペングラー(200),ゲーテ(175),ドストエフスキー(111),カフカ(102),聖書(98),カント(97),太宰治(59),オスカー・ワイルド(57),ショーペンハウアー(39),その他(366)

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さういふと又読者は怒り出すにちがひない。少くとも戦前までの日本の法律は、女性の地位を不当に貶めるものであつた。いや、法律全体が男性の発明した詭計であつて、女性を囚はれの身にするための檻であつた。
しかし、私は、法律よりももつと広大な社会的慣習、旧慣習そのものに、
女性的諸力を見るものである。それは歴史の奥深くまでつづいてゐて、つひには土そのものにつながつてゐる。これらの網目が、究極のところで、女性を、「醜さの発見」から救ふのです。このどろの流行の言葉を使へば、「実存の発見」から救ふのである。
中年以上の女性は、今までの半生で、
February 8, 2026 at 11:01 AM
多くの人は説教を聞くことによって心が教化されたと思い込んでいるが、実際には説教のうちには善なる格律のいかなる体系も存在しておらず、それによって善を積むことはない。あるいは悲劇を観劇することによって心が改められたと思い込むとしても、そうした悲劇は時間を潰すための好ましい手段として
喜ばれているにすぎない。というのも、崇高なものはつねにわたしたちの"思考様式"との連関をそなえていなければならないからである。すなわち崇高なものは、知性的なものや理性の理念が感性にたいして主権を振るうような格律との連関をそなえていなければならないのである。
(カント『判断力批判』218)
February 8, 2026 at 9:00 AM
利口であらうとすることも人生のワナなら、バカであらうとすることも人生のワナであります。そんな風に人間は「何かであらう」とすることなど、本当は出来るものではないらしい。利口であらうとすればバカのワナに落ち込み、バカであらうとすれば利口のワナに落ち込み、
果てしもない堂々めぐりをかうしてくりかへすのが、多分人生なのでありませう。
(三島由紀夫『不道徳教育講座』馬鹿は死ななきや……)
February 8, 2026 at 7:00 AM
この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって、生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。ここにいう生きることとはけっして漠然としたなにかではなく、つねに具体的ななにかであって、
したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。この具体性が、ひとりひとりにたったの一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。
February 8, 2026 at 5:00 AM
理性を抽象的に検討してみるならば、理性は、自らを論駁する屈強な論証を提示する、と懐疑主義者たちは口をそろえて主張しています。〔それゆえ〕わたしたちは、どんなテーマについてもどんな確信も確約も維持することができないはずであるが、しかし、そうなっていないのはなぜかと言えば、
懐疑主義の推論があまりに洗練されすぎていて小難しいために、感覚や経験にもとづいたそれよりも堅固で自然な論証に対抗できないからである──彼らはこうも主張しています。ところが、明らかなように、わたしたちの論証が、
February 8, 2026 at 3:00 AM
社会的、宗教的、生理的、倫理的な事実のある群を、他の群の「原因」と定めていいだろうか。合理主義的な歴史叙述はそうだというし、それ以上に、現代の社会学は、まったくそうだと認めている。彼らにとっては、それが歴史を"理解する"ことであり、その知識を深めることである。
ところが文明化した人間にとっては、その根底にいつも"理性的な目的"が存している。この目的がなければ、彼の世界は無意味であっただろう。その通りだ。基礎的な原因を選択する場合における、まったくの非物理的な"自由"とは、滑稽以外のなにものでもない。
February 8, 2026 at 1:00 AM
ニーチェ哲学の様式、響き、態度は、ニーチェのなかにある時代遅れのロマン主義者が決定したものである。それ以外においてはニーチェはあらゆる点で、数十年にわたる唯物論の弟子となっていた。ニーチェをショーペンハウエルに熱情的に惹きつけたものは、
(彼にはもちろんそのほかの何人にも意識されなかったことであるが)ショーペンハウエルが大様式の形而上学を破壊し、その師カントを心ならずも戯画化したその学説中の要素であり、パロックのあらゆる深い概念を、具体的なもの、機械的なものに変じたことである。
February 7, 2026 at 11:00 PM
俗物はひとを諌めて思い止まらせることにかけてはこのように雄弁であることを示すが、その場合に、彼の言うことを聴き、その諌めを容れてくれる芸術家に感謝する。彼はかかる芸術家に次のようにほのめかす、世人は君をもっと気楽に、もっと呑気に取り扱いたいのであり、
真の心の友である君に対して崇高な傑作を要求しているのでは全然なく、ただ二つのことを、すなわち、牧歌や穏やかな滑稽味のある詩において猿真似なほどに現実を模倣することか、あるいは、現代の趣味を外聞を憚るほどの寛大さをもって取り扱いながら、
February 7, 2026 at 9:00 PM
およそ人の上の善悪を見出すは易き事なり。それを意見するもまた易き事なり。大かたは、人の好かぬ云ひにくき事を云ふが親切のやうに思ひ、それを請けねば、力に及ばざる事と云ふなり。何の益にも立たず。ただ徒に、人に恥をかかせ、悪口すると同じ事なり。我が胸はらしに云ふまでなり。
そもそも意見と云ふは、先づその人の請け容るるか、請け容れぬかの気をよく見分け、入魂になり、此方の言葉を平素信用せらるる様に仕なし候てより、さて次第に好きの道などより引き入れ、云ひ様種々に工夫し、時節を考へ、或は文通、或は雑談の末などの折に、我が身の上の悪事を申出し、
February 7, 2026 at 7:00 PM
「詩人たちはみんな、まるで自分たちは病人であり、世界全体が病院であるみたいに書いているのだ。彼らはみんなこの世の悩みとか苦しみ、あの世の喜びを語っている。もともと誰でも不満を抱いているのに、そのうえ他人をそそのかして不満をつのらせるのだ。これこそまさに詩の濫用だ。
詩は本来人生の些細ないざこざをなだめて、人びとが世界や自分の境遇に満足するように仕向けるために与えられているのだ。ところが今の世代は、本当の力をすべて恐れ、弱々しいものに惹かれる場合にだけ、情操ゆたかで詩的な気分になる。」
(エッカーマン『ゲーテとの対話』1827.9.24)
February 7, 2026 at 5:00 PM
好きだったからなのです。自分には、その人たちが、気にいっていたからなのです。しかし、それは必ずしも、マルクスに依って結ばれた親愛感では無かったのです。
非合法。自分には、それが幽かに楽しかったのです。むしろ、居心地がよかったのです。世の中の合法というもののほうが、
かえっておそろしく、(それには、底知れず強いものが予感せられます)そのからくりが不可解で、とてもその窓の無い、底冷えのする部屋には坐っておられず、外は非合法の海であっても、それに飛び込んで泳いで、やがて死に到るほうが、自分には、いっそ気楽のようでした。
(太宰治『人間失格』)
February 7, 2026 at 3:01 PM
完成することのむずかしさは、それが一寸した文章にしても、われわれの感情が、作品に結末をつけるために、実際の今までの内容が、それ自身の中から生み出せなかった情熱を求めるという点にある。むしろ、そのむずかしさは、どんなに一寸した文章にしても、
作者から一種の自己満足と自己喪失を求めるところから生ずるもので、そういう中から平常の空気にふれるには、強い決意と外部の刺激がないとむずかしいもので、その結果、文章を書き終えて、黙ってその場をはずすより早く、先に不安に追い立てられて逃げ出すが、
February 7, 2026 at 1:00 PM
本書の試みは、この未来の「非哲学的な哲学」──それは西欧の最後の哲学となるであろう──を素描しようというのである。懐疑主義は純粋な文明の表現である。それは過ぎ去った文化の世界像を砕く。その結果、あらゆる古い問題は、発生的な問題となる。すべてあるところのものは、
また成ったところのものであるという確信。すべて自然的なものと、認識し得るものとの根底には歴史的なものが存し、現実としての世界の根底には、その世界のなかに実現された可能としての「我」が存するという確信。ただ「何」のなかにばかりでなく、「何時」および「どんなに長く」のなかに、
February 7, 2026 at 11:00 AM
自分たちが今知っていること、すなわち観察事実に、集中したほうがいいではないか。「真の哲学者にとって、原因を探し求めようという節度のない欲求を抑制することほど重要なことはない」とデイヴィッド・ヒュームは記した。
この態度を究極まで進めたのが「道具主義」と呼ばれる思想で、
理論を単なる数学的ツール、あるいは、事実を分類するための道具としか見なさない立場だ。「黙って計算しろ」というのが道具主義者のスローガンである。事実のみを偏重するこの冷徹な科学観は、流行り廃りを繰り返している。ニュートン以後の数十年間に広まったあと、ふたたび20世紀前半から中ごろまで
February 7, 2026 at 9:00 AM
彼は思考であれ道徳であれ、制度というものに捧げられた人生を認めようとはしなかった。キリストに言わせれば、形式や儀式は人間のためにつくられたのであって、形式や儀式のために人間がつくられたのではない。安息日厳守主義などというものは、彼にとっては無視するためにつくられたようなものだ。
血の通わない博愛主義、これ見よがしの偽善的な慈善行為、中流階級人がありがたがる心の伴わない形式主義に対して、苛烈な嘲りを容赦なく浴びせた。我々にとって正統と呼ばれるものとは単に浅薄で頭の悪い追従にすぎぬが、彼らにとっては人心を麻痺させる恐ろしい専制支配だったのであり、
February 7, 2026 at 7:00 AM
ドゥルーリーのウィトゲンシュタインとの対話に関するメモには、私の見解では、彼を正しく理解するために不可欠な3つの発言が含まれています。
「私の人生において音楽が意味することのすべてを、私の本のなかで語ることは不可能だ。いったいどうすれば理解してもらえるのだろうか?」
「私は宗教家ではないが、あらゆる問題を宗教的な観点から見ずにはいられない」
「音楽はブラームスで完全に止まった。そしてブラームスの中でも機械の音が聞こえ始める」
これらの発言が含まれていることだけでも、ドゥルーリーのメモの出版が正当化されますが、もちろんそれだけではありません。
February 7, 2026 at 5:00 AM
信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。
他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。
February 7, 2026 at 3:00 AM
お前は全体のために働き、未来のために実行するのだ。決して褒美を求めてはならない。なぜなら、それでなくてさえお前にはこの地上ですでに褒美が与えられているからだ。行い正しき人のみが獲得しうる、精神的な喜びがそれである。地位高き者をも、力強き者をも恐れてはならぬ、だが賢明で、
常に心美しくあらねばならぬ。節度を知り、時期を知ること、それを学ぶがよい。孤独におかれたならば、祈ることだ。大地にひれ伏し、大地に接吻することを愛するがよい。大地に接吻し、倦むことなく貪婪に愛するがよい、あらゆる人を愛し、あらゆるものを愛し、
February 7, 2026 at 1:00 AM
瀬山はこの貴重な振舞に感激してみせ、酔うより先に酔ったふりをする宴会掛の習性を発揮して、擲られたあとに生れる人間同士の本当の理解を力説したり、自分を「男一匹」と呼んでみたり、「男の友情」を讃美してみせたりした。
(三島由紀夫『沈める滝』第6章)

「若いうちはね、城所さん、自分のために女を蹂躙できます。三十をすぎると、そうそう自分ばかりにかまけてもいられず、女の身になって考えてやる気にもなるんです。本当の残酷さはそれからはじまるのですよ。
青年というものは決して残酷になどなることはできません」
(三島由紀夫『沈める滝』第7章)
February 6, 2026 at 11:00 PM
かれらは自己に満足しているために、あなたを大いに不快にする。かれらは善でないものを善であるかのように喜ぶのみではなく、あなたの善をも自分の善であるかのように喜び、
あるいはまたたといあなたの善として喜んでも、それを受けることを自分の功績によるものと考え、あるいはまたたといあなたの恩寵によるものとして喜んでも、それを共有のものと考えずに、他人がそれにあずかることを妬むのである。
(アウグスティヌス『告白』第10巻第39章)
February 6, 2026 at 9:00 PM
物理学および他の多くの科学に起こりうる最悪のことは、派生的なものを根源的なものとみなし、根源的なものが派生的なものからは導き出されえないのに、根源的なものを派生的なものから説明しようとすることである。
これによって生ずるのは果てしない混乱、無用な言葉のかき集め、そして、真実がちょっとでも現われ強力になろうとするところで逃げ口上を探し求めようとする絶えざる努力である。
(ゲーテ『色彩論』718)
February 6, 2026 at 7:00 PM
少々見る眼をもった者は、自分の限界を知り、自分の非もともに知っていると思うので、(そのこと自体に満足し)いっそう自惚れを増すものである。自らの限界、自らの非が、真にどれだけのものであるかを知るのは、難しいことであるとのこと、海音和尚がお話しになった。
(『葉隠』聞書第二)

智恵ある人は、実があろうとなかろうと、智恵によって細工をし、理屈をつければまかり通る、と思うものである。智恵が害になるところである。何事も、実がなければ永続きしないものである。と言われた。
(『葉隠』聞書第二)
February 6, 2026 at 5:00 PM
理論的文化の胎内にまどろんでいる禍いは、しだいに近代人を不安にしはじめ、彼はおちつきを失って、自己の経験の宝庫から危険を避けるための手段を取り出そうとする。彼は、こうした手段をほんとうにみずから信じているわけではないが、こうして自己自身の帰結を予感しはじめる。一方その間に、
普遍的天分を恵まれた偉大な人々は、信じられぬほど熟慮を重ねながら、科学そのものの武器を利用して認識一般の限界と制約とを明らかにし、それによって、普遍的妥当と普遍的目的とを得んとする科学の要求を、決定的に否定するすべを知ったのであった。こう指摘してみてはじめて、あの妄想は、
February 6, 2026 at 3:00 PM
わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ。また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。
二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。
(マタイ福音書 10:27-31)
February 6, 2026 at 1:01 PM
「わたしは、もっと利口であるとも、もっと野心的であるとも言うつもりはありません。そしてまさにだからこそ、現在の世界を超えてもっと先にまで行こうとはしなかったのです。余計な苦労もなしに、最初からわたしを納得させたはずのものと同じ答えに最終的には甘んじるべきことが分かっているときは、
とくにそんなことはしません。仮にわたしが、原因については依然として完全に無知なままにとどまらざるをえず、一切の原因についてまったく説明できないとしましょう。そんな場合には、わたしには、難点がすぐに全力で繰り返し襲いかかってくるに違いないことはお分かりいただけると思いますが、
February 6, 2026 at 11:00 AM