ニーチェ(376),ウィトゲンシュタイン(321),三島由紀夫(239),シュペングラー(205),ゲーテ(179),ドストエフスキー(114),カフカ(101),聖書(99),カント(99),オスカー・ワイルド(61),太宰治(59),ショーペンハウアー(35),その他(356)
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その理由を適切とは見做さない人々に我々が出会った、と仮定しよう。我々はこれをどう考えたらよいか。
彼らは物理学者の見解を尋ねるかわりに、神託に問うようなことをする。(だから我々は彼らを原始人と見做す。)彼らが神託を仰ぎ、それに従って行動することは誤りなのか。──これを「誤り」と呼ぶとき、我々は自分たちの言語ゲームを拠点として、そこから彼らのゲームを"攻撃"しているのではないか。
その理由を適切とは見做さない人々に我々が出会った、と仮定しよう。我々はこれをどう考えたらよいか。
彼らは物理学者の見解を尋ねるかわりに、神託に問うようなことをする。(だから我々は彼らを原始人と見做す。)彼らが神託を仰ぎ、それに従って行動することは誤りなのか。──これを「誤り」と呼ぶとき、我々は自分たちの言語ゲームを拠点として、そこから彼らのゲームを"攻撃"しているのではないか。
痛みを切り抜けて行くように導いて下さる神様の神々しい力がそこにはたらいていることがわかります。僕はしっかりと心に誓いました、永久に神様に奉仕するために一身を捧げようと。主よ、僕のこの志に力と強さとをお恵み下さい、そして生涯を通じて僕をお守り下さい。子供のように僕は神様の恩寵に
痛みを切り抜けて行くように導いて下さる神様の神々しい力がそこにはたらいていることがわかります。僕はしっかりと心に誓いました、永久に神様に奉仕するために一身を捧げようと。主よ、僕のこの志に力と強さとをお恵み下さい、そして生涯を通じて僕をお守り下さい。子供のように僕は神様の恩寵に
(これがわたし自身のやっていることなのだから、むろんわたしは是認せざるをえないことなのだ)ことをしないで、能のない者は、他の能なしどもの幾人かと協力すれば、偉大なことをなしうるだろう、と思っている。しかしけっしてそうはいかない、精神の世界では、欺瞞はゆるされないのである。
(これがわたし自身のやっていることなのだから、むろんわたしは是認せざるをえないことなのだ)ことをしないで、能のない者は、他の能なしどもの幾人かと協力すれば、偉大なことをなしうるだろう、と思っている。しかしけっしてそうはいかない、精神の世界では、欺瞞はゆるされないのである。
成就されることができる。このことから明らかとなるのは、ここでは、第一には偽造、第二にはおのれの観点の貫徹という二つの手段を駆使しうる成る衝動が支配しているということである。すなわち、論理学は真理への意志から由来するのでは"ない"。
(ニーチェ『権力への意志』512)
成就されることができる。このことから明らかとなるのは、ここでは、第一には偽造、第二にはおのれの観点の貫徹という二つの手段を駆使しうる成る衝動が支配しているということである。すなわち、論理学は真理への意志から由来するのでは"ない"。
(ニーチェ『権力への意志』512)
鷲は、己れと同等のものしか憎まない。鷲は、誰をも妬まない。鷲は多くのものを、そしてすべてのものを軽蔑する。軽蔑は、高みから見おろすものであり、ねたみは、下から窺うように見あげるものである、──そして、国家や身分にまで組織化された人類の、〈世界史的な〉諸感情というものもあり、
鷲は、己れと同等のものしか憎まない。鷲は、誰をも妬まない。鷲は多くのものを、そしてすべてのものを軽蔑する。軽蔑は、高みから見おろすものであり、ねたみは、下から窺うように見あげるものである、──そして、国家や身分にまで組織化された人類の、〈世界史的な〉諸感情というものもあり、
お前は自分の概念を転換すべきなのである。おのれの運命に満足すること、それは知恵の第一の掟でなければならないだろう。
(ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記 1937.3.18)
お前は自分の概念を転換すべきなのである。おのれの運命に満足すること、それは知恵の第一の掟でなければならないだろう。
(ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記 1937.3.18)
われわれはしっかりと両足をふみしめて神の大地に立ち、自己を、神の恩寵を受けた人間なる存在として感じるだけの勇気をふたたび取りもどしたのだよ。たとえ精神的な文化がどれほど進歩し、自然科学がどれほど広く、そして深くひろがっていき、人間精神がどれほど思いどおりに拡大されていこうとも、
われわれはしっかりと両足をふみしめて神の大地に立ち、自己を、神の恩寵を受けた人間なる存在として感じるだけの勇気をふたたび取りもどしたのだよ。たとえ精神的な文化がどれほど進歩し、自然科学がどれほど広く、そして深くひろがっていき、人間精神がどれほど思いどおりに拡大されていこうとも、
見えのために長い祈をする。だから、もっと厳しいさばきを受けるに違いない。偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そしてつくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。
(マタイ福音書 23:13-15)
見えのために長い祈をする。だから、もっと厳しいさばきを受けるに違いない。偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そしてつくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。
(マタイ福音書 23:13-15)
「純粋理性」は、己の外にあるあらゆる可能性を否定する。ここでは厳密な思考が永久に大芸術と争っている。前者はしっかりと立ち、後者は身を投げ出している。
「純粋理性」は、己の外にあるあらゆる可能性を否定する。ここでは厳密な思考が永久に大芸術と争っている。前者はしっかりと立ち、後者は身を投げ出している。
彼は外見上空間や時間を空費しているようだ。しかし、熱気やエネルギーが解き放たれたり、たえず威力が熔岩の流れのように涸れることのない泉から湧き出たりするあの領域に滞在したことによって、適当な時機にさえあの地帯から離れてしまえば、たちまち彼はいっそう急速に前進する、
彼は外見上空間や時間を空費しているようだ。しかし、熱気やエネルギーが解き放たれたり、たえず威力が熔岩の流れのように涸れることのない泉から湧き出たりするあの領域に滞在したことによって、適当な時機にさえあの地帯から離れてしまえば、たちまち彼はいっそう急速に前進する、
そして「求める」とは常に、体系的に求めることでなければならない。無限な空間の中で金の指輪を目あてにさまよい歩くことは、何ら求めることではないのである。
求めることはある一つの体系の中でのみ可能である。従って求めることのでき"ない"何物かがどうしても存在する。
(ウィトゲンシュタイン『哲学的考察』150)
そして「求める」とは常に、体系的に求めることでなければならない。無限な空間の中で金の指輪を目あてにさまよい歩くことは、何ら求めることではないのである。
求めることはある一つの体系の中でのみ可能である。従って求めることのでき"ない"何物かがどうしても存在する。
(ウィトゲンシュタイン『哲学的考察』150)
大自然の成すわざは、シェークスピアやゲーテのようだ。作中のどの人物も、たとえ悪魔でも、そこに立って語っている間は、あくまで正しい。どの登場人物もたいそう客観的に把握されているので、私たちはそれぞれの人物の利害に引き込まれ、共感せざるを得ない。
(ショーペンハウアー『幸福について』)
大自然の成すわざは、シェークスピアやゲーテのようだ。作中のどの人物も、たとえ悪魔でも、そこに立って語っている間は、あくまで正しい。どの登場人物もたいそう客観的に把握されているので、私たちはそれぞれの人物の利害に引き込まれ、共感せざるを得ない。
(ショーペンハウアー『幸福について』)
しかし、私が「うむ、やってみたまえ。それらを対応づけるのだ」と言うとしてみよ。私がそう言うことで何を意味しているかは、直ちに明確であるだろうか。
基数と偶数を対応づける技術はただひとつしかないのだろうか。諸君は「対応づける」という言葉を、「その通り、基数は偶数と同じ数だけ存在する」と言うような仕方で解釈することができる。しかし、いかなる意味で諸君は、自分がこれを"証明した"と言うことができるのか。諸君はある新たなことを行い、
しかし、私が「うむ、やってみたまえ。それらを対応づけるのだ」と言うとしてみよ。私がそう言うことで何を意味しているかは、直ちに明確であるだろうか。
基数と偶数を対応づける技術はただひとつしかないのだろうか。諸君は「対応づける」という言葉を、「その通り、基数は偶数と同じ数だけ存在する」と言うような仕方で解釈することができる。しかし、いかなる意味で諸君は、自分がこれを"証明した"と言うことができるのか。諸君はある新たなことを行い、
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、
適用したとすれば、本来、精神に対する、つまりモーツァルトの快活で、明るい、やさしい、浮き浮きした精神に対する一つの罪ではないのか? モーツァルトのきびしさは、温和なきびしさであって恐ろしいきびしさではなく、その形象は観る者を驚愕と逸走のなかに追いこむために壁のなかから
適用したとすれば、本来、精神に対する、つまりモーツァルトの快活で、明るい、やさしい、浮き浮きした精神に対する一つの罪ではないのか? モーツァルトのきびしさは、温和なきびしさであって恐ろしいきびしさではなく、その形象は観る者を驚愕と逸走のなかに追いこむために壁のなかから
なぜこれほどまで、という無慈悲──へと姿を変えられ、人生への願いをことごとく彼から奪い去るためにあらゆることをなされるとき、それでも、神が愛であることを、神は愛ゆえにこのようなことをなさるのだということを信じ続ける、そのような人間である。
(キェルケゴール 日記 1855.9.25)
なぜこれほどまで、という無慈悲──へと姿を変えられ、人生への願いをことごとく彼から奪い去るためにあらゆることをなされるとき、それでも、神が愛であることを、神は愛ゆえにこのようなことをなさるのだということを信じ続ける、そのような人間である。
(キェルケゴール 日記 1855.9.25)
(ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記 1937.2.19)
(ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記 1937.2.19)
自分自身の内的な目的規定をどのように判定するのだろうか。
そうした誠実な人は道徳的な法則を遵守しながら、この世においてもあの世においても、自分自身のためにはいかなる利益を求めようともせず、かの神聖な道徳法則のために自分の一切の力を投じて、善だけを樹立しようと試みることだろう。
自分自身の内的な目的規定をどのように判定するのだろうか。
そうした誠実な人は道徳的な法則を遵守しながら、この世においてもあの世においても、自分自身のためにはいかなる利益を求めようともせず、かの神聖な道徳法則のために自分の一切の力を投じて、善だけを樹立しようと試みることだろう。
あるいは暗く荒れ狂う大海原などを、誰が崇高なものと呼ぼうとするだろうか。
それでも心がこうした光景を眺めると、自らの心において自分が高められたと感じるのである。このように心が崇高さを感じるのは、こうした光景の観察に際して、その形式を考慮せず、自らを構想力と理性に委ねるときである。
あるいは暗く荒れ狂う大海原などを、誰が崇高なものと呼ぼうとするだろうか。
それでも心がこうした光景を眺めると、自らの心において自分が高められたと感じるのである。このように心が崇高さを感じるのは、こうした光景の観察に際して、その形式を考慮せず、自らを構想力と理性に委ねるときである。
(ウィトゲンシュタイン 草稿 1916.6.11)
世界は私の意志から独立である。
仮に我々の望む全てのことが生起したとしても、このことはやはり、いわば運命の恩寵にすぎないだろう。何故なら意志と世界との間には、このことを保証するような論理的な連関は存在しないからである。
そして物理的な連関が想定されるとしても、この連関を欲することは
(ウィトゲンシュタイン 草稿 1916.6.11)
世界は私の意志から独立である。
仮に我々の望む全てのことが生起したとしても、このことはやはり、いわば運命の恩寵にすぎないだろう。何故なら意志と世界との間には、このことを保証するような論理的な連関は存在しないからである。
そして物理的な連関が想定されるとしても、この連関を欲することは
しかしそのゆえにこそ、文明化した歴史とは皮相的歴史であり、支離滅裂となった目先の目的に向けられ、したがって宇宙的なもののなかで無形式となり、偉大な個人の偶然に依存し、内的確実さもなく、線もなく、意義もない。歴史は皇帝主義〔カエサル主義〕とともにふたたび歴史喪失の状態に立ち戻り、
しかしそのゆえにこそ、文明化した歴史とは皮相的歴史であり、支離滅裂となった目先の目的に向けられ、したがって宇宙的なもののなかで無形式となり、偉大な個人の偶然に依存し、内的確実さもなく、線もなく、意義もない。歴史は皇帝主義〔カエサル主義〕とともにふたたび歴史喪失の状態に立ち戻り、
しかし全体の理念は、それを構成する部分の規定に先立って、ある種の原理にしたがって前提とすることができるのであり、また前提とすべきであるならば、その場合には区分は"学問的に"行われなければならないし、そのようにすることで初めて、全体は一つの体系となるのである。
しかし全体の理念は、それを構成する部分の規定に先立って、ある種の原理にしたがって前提とすることができるのであり、また前提とすべきであるならば、その場合には区分は"学問的に"行われなければならないし、そのようにすることで初めて、全体は一つの体系となるのである。
すなわち一は、永遠の子供の魂の見て取った世界の純粋な観相学であり、一は、永遠の老人の理性の認識した純粋な体系学である。
(シュペングラー『西洋の没落』第1巻第2章19)
すなわち一は、永遠の子供の魂の見て取った世界の純粋な観相学であり、一は、永遠の老人の理性の認識した純粋な体系学である。
(シュペングラー『西洋の没落』第1巻第2章19)
ただし、こう言ってかまわないのは、あなたがたがこの命題に含まれているそれらの言葉をその普通の意味において用いるのではなく、自分たちですら何であるか分からないものを表わす印とみなしていると公言するかぎりでのことであって、これと同じ前提においてであれば、
ただし、こう言ってかまわないのは、あなたがたがこの命題に含まれているそれらの言葉をその普通の意味において用いるのではなく、自分たちですら何であるか分からないものを表わす印とみなしていると公言するかぎりでのことであって、これと同じ前提においてであれば、
息子たちは父親の知っていたものとはまったく異なる音楽語法の大家だったのです。新しい音楽様式の下地作りをしたのは、ほかならぬこの息子たちとその仲間たち──十代のヨーゼフ・ハイドンなどの作曲家たち──でした。
息子たちは父親の知っていたものとはまったく異なる音楽語法の大家だったのです。新しい音楽様式の下地作りをしたのは、ほかならぬこの息子たちとその仲間たち──十代のヨーゼフ・ハイドンなどの作曲家たち──でした。