ニーチェ(371),ウィトゲンシュタイン(300),三島由紀夫(259),シュペングラー(200),ゲーテ(175),ドストエフスキー(111),カフカ(102),聖書(98),カント(97),太宰治(59),オスカー・ワイルド(57),ショーペンハウアー(39),その他(366)
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(ニーチェ『人間的、あまりに人間的2』第1部271)
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的2』第1部271)
憂鬱な"青年時代"の反映である、──その思考方法は年配の人たちむきではない。またプラトンの哲学は、三十代の中頃を想い起こさせる。それは、冷たい気流と熱い気流がいつも交互に吹きすさぶ年齢、そのためにほこりや切れ切れの薄雲が生ずる年齢、
憂鬱な"青年時代"の反映である、──その思考方法は年配の人たちむきではない。またプラトンの哲学は、三十代の中頃を想い起こさせる。それは、冷たい気流と熱い気流がいつも交互に吹きすさぶ年齢、そのためにほこりや切れ切れの薄雲が生ずる年齢、
(三島由紀夫『鹿鳴館』第1幕)
自分の持たないものの悪口は言ひやすい。金を持つてゐなければ金持の悪口が言ひやすいし、権力を持つてゐなければ権力者の悪口が言ひやすい。
(三島由紀夫「社会料理三島亭」)
(三島由紀夫『鹿鳴館』第1幕)
自分の持たないものの悪口は言ひやすい。金を持つてゐなければ金持の悪口が言ひやすいし、権力を持つてゐなければ権力者の悪口が言ひやすい。
(三島由紀夫「社会料理三島亭」)
(キルケゴール『死に至る病』)
(キルケゴール『死に至る病』)
啓示がなければならないなどということは、実に馬鹿げたつじつまの合わない話である。私は自分が完全な人間だなどとは言わない、完全などころじゃありゃしない。しかし私は、自分が完全などころでないことをちゃんと知っているのだ、そればかりか、私はむしろすすんで、私がどれほど完全さからほど遠く
啓示がなければならないなどということは、実に馬鹿げたつじつまの合わない話である。私は自分が完全な人間だなどとは言わない、完全などころじゃありゃしない。しかし私は、自分が完全などころでないことをちゃんと知っているのだ、そればかりか、私はむしろすすんで、私がどれほど完全さからほど遠く
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的2』第2部326)
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的2』第2部326)
たとえば、あるときは、彼のベッドが今のままで結構だから動かさないでほしいというつもりで、別なときは、私の妻が彼の上着を修理したとき、これで十分だから、それ以上手を加えなくてもよい、という意味で。
(マルコム『回想のウィトゲンシュタイン』)
たとえば、あるときは、彼のベッドが今のままで結構だから動かさないでほしいというつもりで、別なときは、私の妻が彼の上着を修理したとき、これで十分だから、それ以上手を加えなくてもよい、という意味で。
(マルコム『回想のウィトゲンシュタイン』)
(カント『純粋理性批判』097)
(カント『純粋理性批判』097)
魅力のある営みである。しかしそのときに知性は大きな危険に直面することになる。空虚な詭弁を弄して、純粋な知性のたんなる形式的な原理を実質的な[内容のある]ものとして利用することになるのであり、わたしたちにまだ与えられていない対象について、
魅力のある営みである。しかしそのときに知性は大きな危険に直面することになる。空虚な詭弁を弄して、純粋な知性のたんなる形式的な原理を実質的な[内容のある]ものとして利用することになるのであり、わたしたちにまだ与えられていない対象について、
そのとき、古代に見られる多くの極めて不快な事柄は、意味深長な必然性として現われて来るだろう。
古代を擁護したりその体裁をつくろったりしたら、我々は大変ばかげたものに見えることを、はっきり心得ておくべきである。我々は何たる者なのだろう!
(ニーチェ『「われら文献学者」をめぐる考察』15)
そのとき、古代に見られる多くの極めて不快な事柄は、意味深長な必然性として現われて来るだろう。
古代を擁護したりその体裁をつくろったりしたら、我々は大変ばかげたものに見えることを、はっきり心得ておくべきである。我々は何たる者なのだろう!
(ニーチェ『「われら文献学者」をめぐる考察』15)
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的2』第2部7)
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的2』第2部7)
さいなまれているひとたちには、「もし神々が存在するとすれば、神々はわれわれのことなど気にかけていないだろう」と言うだけで十分であった、──そもそも神々は存在するのか、といった窮極的な問題について、不毛な、そしてもどかしい論議なぞするかわりに。
さいなまれているひとたちには、「もし神々が存在するとすれば、神々はわれわれのことなど気にかけていないだろう」と言うだけで十分であった、──そもそも神々は存在するのか、といった窮極的な問題について、不毛な、そしてもどかしい論議なぞするかわりに。
(エッカーマン『ゲーテとの対話』第3部 1832.3.11)
(エッカーマン『ゲーテとの対話』第3部 1832.3.11)
現れているかということが問題となった。
「人の話を聞いていると」ゲーテはいった、「神はあのずっと昔の時代このかた、まったく鳴りをひそめてしまい、人間はいまや完全に独立しているのだから、神の力をかりず、また日々目にみえない神の息吹きを受けずにうまくやっていくにはどうしたらよいかを
現れているかということが問題となった。
「人の話を聞いていると」ゲーテはいった、「神はあのずっと昔の時代このかた、まったく鳴りをひそめてしまい、人間はいまや完全に独立しているのだから、神の力をかりず、また日々目にみえない神の息吹きを受けずにうまくやっていくにはどうしたらよいかを
不可能とするに違いないのである。したがって、精神に関する学問では実験を人間生活の注意深い観察から拾い集めなければならない。そして、その際、交際、業務、楽しみごとでの人々のふるまい方を通して、世の中のふだんのなりゆきに現われるままにとらえなければならない。
(ヒューム『人性論』序論)
不可能とするに違いないのである。したがって、精神に関する学問では実験を人間生活の注意深い観察から拾い集めなければならない。そして、その際、交際、業務、楽しみごとでの人々のふるまい方を通して、世の中のふだんのなりゆきに現われるままにとらえなければならない。
(ヒューム『人性論』序論)
たしかに、精神に関する学問には自然学に見いだせない次のような特殊な不利の点がある。それは、観察実験を集めるにあたって、意図的に、あらかじめ計画を立て、起こりうるどんな問題点についても
十分に納得できるような仕方で実験を行なうことはできない、ということである。自然学でなら、たとえば一つの物体がある状態で他の物体に及ぼす影響をどう考えればよいかわからなければ、二つの物体を実際にその状態においてみて、なにがそれから生じるかを観察しさえすればよい。ところが、もし
たしかに、精神に関する学問には自然学に見いだせない次のような特殊な不利の点がある。それは、観察実験を集めるにあたって、意図的に、あらかじめ計画を立て、起こりうるどんな問題点についても
十分に納得できるような仕方で実験を行なうことはできない、ということである。自然学でなら、たとえば一つの物体がある状態で他の物体に及ぼす影響をどう考えればよいかわからなければ、二つの物体を実際にその状態においてみて、なにがそれから生じるかを観察しさえすればよい。ところが、もし
「純粋な者」たちよ、諸君はひとつの神の仮面をかぶっている。その仮面のなかに、蚯蚓のようなおぞましい虫が入り込んでいる。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部 汚れなき認識について)
「純粋な者」たちよ、諸君はひとつの神の仮面をかぶっている。その仮面のなかに、蚯蚓のようなおぞましい虫が入り込んでいる。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部 汚れなき認識について)
たしかに、諸君は高貴な言葉を口いっぱいにふくんでいる。それは我らの心があふれんばかりに満たされているからだ、と、そう信じさせようというのか。君たち、嘘をつく者たちよ。
対して、私の言葉は、いやしい、蔑まれた、あやしげな言葉だ。
君たちの食卓からこぼれおちた物を、私は喜んで拾う。
だが、私はこれを使って偽善者たちに真理を語りうる。拾った魚の小骨、貝の殻、棘ある葉で、偽善者の鼻をくすぐる。
諸君と諸君の食卓には、湿った空気がいつもただよっている。君たちの好色な思想や、そして隠しごとが、その空気にこもっている。
たしかに、諸君は高貴な言葉を口いっぱいにふくんでいる。それは我らの心があふれんばかりに満たされているからだ、と、そう信じさせようというのか。君たち、嘘をつく者たちよ。
対して、私の言葉は、いやしい、蔑まれた、あやしげな言葉だ。
君たちの食卓からこぼれおちた物を、私は喜んで拾う。
だが、私はこれを使って偽善者たちに真理を語りうる。拾った魚の小骨、貝の殻、棘ある葉で、偽善者の鼻をくすぐる。
諸君と諸君の食卓には、湿った空気がいつもただよっている。君たちの好色な思想や、そして隠しごとが、その空気にこもっている。
愛すること、没落することは、永遠に響き合う。愛そうと意志することは喜んで死のうとすることでもある。君たち臆病者に、そう語ろう。
だが、諸君はおのれの去勢された流し目を「観照」と呼ぼうというのだ。その臆病な眼でなで回したものを「美」と呼ぼうというのだ。おお、高貴な名を冒涜する者たちよ。
しかし君たち汚れなき者たちよ、純粋に認識する者たちよ。諸君は呪いを受けている。決して産むことがないという呪いを。
愛すること、没落することは、永遠に響き合う。愛そうと意志することは喜んで死のうとすることでもある。君たち臆病者に、そう語ろう。
だが、諸君はおのれの去勢された流し目を「観照」と呼ぼうというのだ。その臆病な眼でなで回したものを「美」と呼ぼうというのだ。おお、高貴な名を冒涜する者たちよ。
しかし君たち汚れなき者たちよ、純粋に認識する者たちよ。諸君は呪いを受けている。決して産むことがないという呪いを。
良し悪しを見抜く“目”を養わねば 作品を生み出す“手”の成長は望めない
表現者の間でよく使われる文句
これはあらゆる専門(ジャンル)に共通し “目”の良い者の上達速度はそうでない者のそれを遥かに凌駕する
(芥見下々『呪術廻戦』第37話)
良し悪しを見抜く“目”を養わねば 作品を生み出す“手”の成長は望めない
表現者の間でよく使われる文句
これはあらゆる専門(ジャンル)に共通し “目”の良い者の上達速度はそうでない者のそれを遥かに凌駕する
(芥見下々『呪術廻戦』第37話)
(マタイ福音書 6:22-23)
悪は対象でなくて眼にあるのだ。眼さえあれば対象は見いだせる。君がたは眼がなくて盲目なものだから、どんな対象があったってなに一つ見いだせないのだ。
(ドストエフスキー『作家の日記』1876.10)
(マタイ福音書 6:22-23)
悪は対象でなくて眼にあるのだ。眼さえあれば対象は見いだせる。君がたは眼がなくて盲目なものだから、どんな対象があったってなに一つ見いだせないのだ。
(ドストエフスキー『作家の日記』1876.10)
ポンペイの城門の前でその遺骸が発見された、あのローマ兵士のように頑張り通すことこそが。──彼が死んだのは、ヴェスビオ火山の噴火のときに、人びとが彼の見張りを交代させてやるのを忘れていたためであった。これが偉大さであり、これが血すじのよさというものである。
この誠実な最期は、人間から取り上げることのでき〈ない〉、ただひとつのものである。
(シュペングラー『人間と技術』12)
ポンペイの城門の前でその遺骸が発見された、あのローマ兵士のように頑張り通すことこそが。──彼が死んだのは、ヴェスビオ火山の噴火のときに、人びとが彼の見張りを交代させてやるのを忘れていたためであった。これが偉大さであり、これが血すじのよさというものである。
この誠実な最期は、人間から取り上げることのでき〈ない〉、ただひとつのものである。
(シュペングラー『人間と技術』12)
時間の中ではなく、現在の中で生きる人のみが幸福である。
現在の中での生にとって、死は存在しない。
死は生の出来事ではない。死は世界の事実ではない。
もし永遠ということで無限な時の継続ではなく無時間制が理解されているのなら、
現在の中で生きる人は永遠に生きる、と語ることができる。
幸福に生きるためには、私は世界と一致せねばならない。そしてこのことが「幸福である」と言われることなのだ。
この時私は、自分がそれに依存していると思われる、あの見知らぬ意志と一致している。
(ウィトゲンシュタイン 草稿 1916.7.8)
時間の中ではなく、現在の中で生きる人のみが幸福である。
現在の中での生にとって、死は存在しない。
死は生の出来事ではない。死は世界の事実ではない。
もし永遠ということで無限な時の継続ではなく無時間制が理解されているのなら、
現在の中で生きる人は永遠に生きる、と語ることができる。
幸福に生きるためには、私は世界と一致せねばならない。そしてこのことが「幸福である」と言われることなのだ。
この時私は、自分がそれに依存していると思われる、あの見知らぬ意志と一致している。
(ウィトゲンシュタイン 草稿 1916.7.8)
(谷崎潤一郎『文章讀本』)
もし皆さんが、何ぞ今までにない新しい思想や事柄を述べようとする場合には、無理にそれに当て篏まる単語を造り出そうとしないで、古くからある幾つかの言葉を結び合わせ、句を以て説明すればよいのであります。
とにかく、相当の言葉数を費した方がよく分ることを、二字か三字の漢語に縮めようとするのは宜しくない。
(谷崎潤一郎『文章讀本』)
(谷崎潤一郎『文章讀本』)
もし皆さんが、何ぞ今までにない新しい思想や事柄を述べようとする場合には、無理にそれに当て篏まる単語を造り出そうとしないで、古くからある幾つかの言葉を結び合わせ、句を以て説明すればよいのであります。
とにかく、相当の言葉数を費した方がよく分ることを、二字か三字の漢語に縮めようとするのは宜しくない。
(谷崎潤一郎『文章讀本』)
(三島由紀夫『私の小説の方法』2)
(三島由紀夫『私の小説の方法』2)