旗代@C105月曜日東5マ-01b
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hatashirorz.bsky.social
旗代@C105月曜日東5マ-01b
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近世ヨーロッパ軍事史好き。騎兵合同誌で近世ヨーロッパの騎兵戦術の変容を寄稿。「私家版近世欧州軍事史備忘録」シリーズを刊行中。BANZAIまがじん様にも寄稿中。最新はVol.15号の「ワーテルロー会戦における騎兵」。サロン・ダルメ所属。
おぉそうなんですね。国会図書館デジタルにあるもので我慢ですね。
November 14, 2025 at 3:03 PM
そんなことに。。。。 
文章界隈にもAIが迫ってきているので、他人事ではないと思っています。
なんとか情熱を失わずに! 唐墨さんの本、私は欲しいです!
November 9, 2025 at 9:28 AM
あの頃の馬術は、軽速歩とかがフランス軍の騎兵学校でで正式採用されるのも、普仏戦争後だし、今と色々と違うのが面白いなぁと思います。競馬でさえ、いわゆる天神乗りでしたからね。
October 8, 2025 at 2:24 PM
マーケットの支持は爆高みたいで、どうすんだろコレ感あるですね。儲かりましたけど。。。。
October 6, 2025 at 1:18 PM
あっと言う間にコリャ駄目だとなるかもしらんけどね。
October 5, 2025 at 10:55 AM
あの辺りは豪邸もあれば、普通なところもあり、足を伸ばせば等々力渓谷や、農園なんかもあり、野菜の無人販売所も残ってたりしたんですけど、今はどうなっているのかなと懐かしくなりました。小学生の頃に自転車で駆け回っていたので。自由が丘駅の周りには本屋がそこそこあったんですよ。https://x.com/Hatashirorz/status/1882392580983538056
October 5, 2025 at 10:26 AM
ぜひぜひ、3巻まで膨らませて、大長編に!!!!
凄く楽しみです。
September 21, 2025 at 1:34 PM
こうした事情を、実際の道路の事情から見ると、非常にイメージが付きやすい。
実際、舗装路と未舗装の軟弱な路面の道路だと、当時の感覚では2倍の運送効率の差があったようである。
当時の4頭立て荷馬車の軍用契約では、未舗装路では1500ポンド(680kg)、舗装路では3000ポンド(1360kg)の重量を牽引できるものとするという文言が確認できる。

これを考えるとほとんどが未舗装路であるはずの中世ヨーロッパや初期近世の荷馬車の実運用の実態は、推して知るべしというところなのだろう。
September 21, 2025 at 5:57 AM
また舗装路を前提にすれば、馬車も大型かつ、重量輸送に使えるようになる。
ナポレオンが大遠征に備えて準備した1811年式荷馬車は4~8頭立てで車体重量1230kg、最大積載量3000kgであるが、これは明らかに、このような舗装路を前提にした馬車である。

しかしロシアへの道がこんなに整っているはずがなかった。4頭および8頭立ての重荷馬車は、ポーランドとリトアニアの横断中に、ほぼ半分が損傷したとされ、ヴィルナから先には進めなかった。
軽量なコントワーズ式の荷馬車しか役に立たなかったとの評価は、至極当然で、ロシアの現地で徴発した荷馬車も、おそらく同様の素朴なタイプだったのだろう。
September 21, 2025 at 5:29 AM
そして、これはフランスだけではなかったようである。
例えばワーテルロー戦役を回想したナポレオンは「「シャルルロワの道は非常に広く、軍の退却には十分であった。ジュナップの橋も同じ幅であり、5、6列の馬車が並んで通過できる」と書いている。

こういった西ヨーロッパの事情の進展が、コントワーズ式からドイツ式とフランスでは呼ばれた馬の2頭並列立てのやり方への切り替えにつながったのだろう。舗装路で運用するなら、深い轍に足を取られる欠点は抑えられるからである。

bsky.app/profile/hata...
フランス式という別名もあるし、辞典によるとグリヴォーバル式まではこのやり方が主流だったとのこと。19世紀の再現画。
September 21, 2025 at 5:17 AM
実際の所、鉄道以前には、主要街道は、交易と住民の生活において大きな役割を果たしていたので、しっかりとその当たりを踏まえるべきだろう。

27.3mという道幅は大半で計画倒れに終わったようであるが、幅6.5mの多くの場合は砕石や小石で舗装された車道は、それなりに整備され、馬車がすれ違えるようになっていた。
また、別の論文を読むと、道の左右の土地も交通に利用しやすい状態だったようだ。
September 21, 2025 at 5:08 AM
そして主要幹線が何故重要かと言えば、道の大きさと出来映えが大きく異なったからである。今回の北側の主要幹線で言えば、シャンパーニュの区間では14.6m、他の区間では19.5mだったようである。この街道沿いに大軍が動くのは、至極当然といえるだろう。

それにしても、大陸の主要街道の道幅が広いのには驚くばかりだ。島国の日本にいると、この辺のイメージがかなり貧弱になる。
September 21, 2025 at 4:57 AM
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また、こちらのブログで「小パリ街道」「大パリ街道」とされていた二つの街道も、この論文では確認できる。名称は出てこないが、セザンヌ経由がドイツ新道(Nouvelle route d'Allemagne)であり、ドイツへの道との言及から、その類いの名称であろうことが推測できる。

南側の街道は1789年の地図によるとシャロン手前で破線になっていることから、完璧ではなかったようである。郵便路線図を見ても北側の街道が路線になっていることから、北側が主要幹線であることは明白である。
ウォーゲームで歴史に思いを馳せる 1814年戦役で、セザンヌを経由する街道はなぜほとんど使用されなかったのか?
ボードウォーゲームの日記的紹介、関連する歴史、動画の紹介などが主です。
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September 21, 2025 at 4:53 AM