文章界隈にもAIが迫ってきているので、他人事ではないと思っています。
なんとか情熱を失わずに! 唐墨さんの本、私は欲しいです!
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凄く楽しみです。
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実際、舗装路と未舗装の軟弱な路面の道路だと、当時の感覚では2倍の運送効率の差があったようである。
当時の4頭立て荷馬車の軍用契約では、未舗装路では1500ポンド(680kg)、舗装路では3000ポンド(1360kg)の重量を牽引できるものとするという文言が確認できる。
これを考えるとほとんどが未舗装路であるはずの中世ヨーロッパや初期近世の荷馬車の実運用の実態は、推して知るべしというところなのだろう。
実際、舗装路と未舗装の軟弱な路面の道路だと、当時の感覚では2倍の運送効率の差があったようである。
当時の4頭立て荷馬車の軍用契約では、未舗装路では1500ポンド(680kg)、舗装路では3000ポンド(1360kg)の重量を牽引できるものとするという文言が確認できる。
これを考えるとほとんどが未舗装路であるはずの中世ヨーロッパや初期近世の荷馬車の実運用の実態は、推して知るべしというところなのだろう。
ナポレオンが大遠征に備えて準備した1811年式荷馬車は4~8頭立てで車体重量1230kg、最大積載量3000kgであるが、これは明らかに、このような舗装路を前提にした馬車である。
しかしロシアへの道がこんなに整っているはずがなかった。4頭および8頭立ての重荷馬車は、ポーランドとリトアニアの横断中に、ほぼ半分が損傷したとされ、ヴィルナから先には進めなかった。
軽量なコントワーズ式の荷馬車しか役に立たなかったとの評価は、至極当然で、ロシアの現地で徴発した荷馬車も、おそらく同様の素朴なタイプだったのだろう。
ナポレオンが大遠征に備えて準備した1811年式荷馬車は4~8頭立てで車体重量1230kg、最大積載量3000kgであるが、これは明らかに、このような舗装路を前提にした馬車である。
しかしロシアへの道がこんなに整っているはずがなかった。4頭および8頭立ての重荷馬車は、ポーランドとリトアニアの横断中に、ほぼ半分が損傷したとされ、ヴィルナから先には進めなかった。
軽量なコントワーズ式の荷馬車しか役に立たなかったとの評価は、至極当然で、ロシアの現地で徴発した荷馬車も、おそらく同様の素朴なタイプだったのだろう。
例えばワーテルロー戦役を回想したナポレオンは「「シャルルロワの道は非常に広く、軍の退却には十分であった。ジュナップの橋も同じ幅であり、5、6列の馬車が並んで通過できる」と書いている。
こういった西ヨーロッパの事情の進展が、コントワーズ式からドイツ式とフランスでは呼ばれた馬の2頭並列立てのやり方への切り替えにつながったのだろう。舗装路で運用するなら、深い轍に足を取られる欠点は抑えられるからである。
bsky.app/profile/hata...
例えばワーテルロー戦役を回想したナポレオンは「「シャルルロワの道は非常に広く、軍の退却には十分であった。ジュナップの橋も同じ幅であり、5、6列の馬車が並んで通過できる」と書いている。
こういった西ヨーロッパの事情の進展が、コントワーズ式からドイツ式とフランスでは呼ばれた馬の2頭並列立てのやり方への切り替えにつながったのだろう。舗装路で運用するなら、深い轍に足を取られる欠点は抑えられるからである。
bsky.app/profile/hata...
27.3mという道幅は大半で計画倒れに終わったようであるが、幅6.5mの多くの場合は砕石や小石で舗装された車道は、それなりに整備され、馬車がすれ違えるようになっていた。
また、別の論文を読むと、道の左右の土地も交通に利用しやすい状態だったようだ。
27.3mという道幅は大半で計画倒れに終わったようであるが、幅6.5mの多くの場合は砕石や小石で舗装された車道は、それなりに整備され、馬車がすれ違えるようになっていた。
また、別の論文を読むと、道の左右の土地も交通に利用しやすい状態だったようだ。
それにしても、大陸の主要街道の道幅が広いのには驚くばかりだ。島国の日本にいると、この辺のイメージがかなり貧弱になる。
それにしても、大陸の主要街道の道幅が広いのには驚くばかりだ。島国の日本にいると、この辺のイメージがかなり貧弱になる。
また、こちらのブログで「小パリ街道」「大パリ街道」とされていた二つの街道も、この論文では確認できる。名称は出てこないが、セザンヌ経由がドイツ新道(Nouvelle route d'Allemagne)であり、ドイツへの道との言及から、その類いの名称であろうことが推測できる。
南側の街道は1789年の地図によるとシャロン手前で破線になっていることから、完璧ではなかったようである。郵便路線図を見ても北側の街道が路線になっていることから、北側が主要幹線であることは明白である。
また、こちらのブログで「小パリ街道」「大パリ街道」とされていた二つの街道も、この論文では確認できる。名称は出てこないが、セザンヌ経由がドイツ新道(Nouvelle route d'Allemagne)であり、ドイツへの道との言及から、その類いの名称であろうことが推測できる。
南側の街道は1789年の地図によるとシャロン手前で破線になっていることから、完璧ではなかったようである。郵便路線図を見ても北側の街道が路線になっていることから、北側が主要幹線であることは明白である。