まわるフリフリのフリ
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まわるフリフリのフリ
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つましい生活をしています。
おおごとにならずに良かったです。
December 4, 2025 at 9:16 AM
僕はうずくまったまま全く身動き出来なくなったので救急車を呼びました。手元に鎮痛剤になる坐薬などがない場合、状況によっては長時間全く痛みが治らないばかりか、さらに悪化するので、やばい予感がしたら迷わず救急車を呼んでください。病院でもこれと言ってすぐ効く処置があるわけではありませんが、痛み止めをもらったり利尿剤を点滴して排石を促す処置だけでも、少しは改善するかと思います。
December 4, 2025 at 5:36 AM
ところで上映後のアフタートークにて、日本での上映権は本日で切れてしまったのだけれど、ギデンズ・コー監督の好意により、来月12月27日・28日に過去作品も合わせて『赤い糸 輪廻のひみつ』の特別上映企画があるとの告知がありました。ご興味を持たれた方は是非その機会に本作を鑑賞してみては如何でしょうか。でも多分、チケット争奪戦になるかと思います。
November 30, 2025 at 3:10 PM
その後に続く感情の激流により、すぐさま記憶から消し去られたのかもしれない。多分そうに違いない。

今年に入り、本日でこの映画を計6回鑑賞したのだけれど、観るたびに感動するポイントがじわじわと変化していき、直近ではこの場面が一番好きになった。秒数は途中で現実にカットバックするところを省いて8秒くらいだろうか。その短いシーンが突如挿入されることで、それまで全く触れられていなかった「今からx0年ほど前(?)」が観客に否応なく意識されることになる。スクリーンでは知らされない、かつて辿った別の人生の物語に想いを馳せる…素晴らしい語りだと思う。

まったくの偶然だったが、この映画に出会えて本当に良かった。
November 30, 2025 at 3:02 PM
この唐突でささやかな5秒は最初から企図してここにインサートしたのか、編集の過程で閃いたのかわからないけれど、本作に幾度も足を運ぶ理由としてある数多くの「その一瞬が見たいがために見る」場面の中の一つです。本当にそんな魅力ある場面が、本作にはたくさん散りばめられている。

今回も大量の鼻水と涙でマスクがぐしゃぐしゃになり、予備のマスクをカバンに準備しておいて助かりました。鑑賞後は身体も精神も幸せに向上させる何かを持っている作品。
それにしてもこの映画が今月で日本国内上映終了になってしまうとは本当に信じ難い。もし世界の情勢が悪く傾けば、日本ではもう二度と観られないかもしれない。だからまた観たい。
November 24, 2025 at 2:57 PM
ところで、個人的に本書で一番(人間的な)感動を覚えたのは、あとがきの最後に添えられた「良き小説読者でありたい」という言葉である。より良いバージョンの自分を、焦らずゆっくりと、しかし不断の努力を持って追い求めていく事。その中にささやかな喜びが得られるであろう予感がある。
November 2, 2025 at 5:01 PM
近年増加した映画の深掘り考察系記事は個人的にトゥーマッチに感じていて、AI記事が氾濫する今後は個々人の単純な「この場面が好き」の一点突破で十分だと思っているのだけれど、今さらながらに精緻な小説の読み方の一例を教示されてとても有意義な読書となった。ナボコフはいわば「チェーホフの銃」のような緻密な配置を文字上で行う作家だということも分かった。

ナボコフ曰く、芸術作品とは「詩の精密さ」と「科学の興奮」が溶け合ったものだと定義しているらしいが、精密な詩という一見相反するような組み合わせは、最近、素直に納得出来るような気分が自分の中にある。今後の読書はその辺りを追求していくことになるんだろう。
November 2, 2025 at 4:53 PM
さらに『ロリータ』の中ではハンバートの初恋の相手だったと知り、どこかで見かけた気がするモヤモヤした気分の答えは大江健三郎『臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ』であり、それらの共通項は「少女」だった。先日、書店に立ち寄った際に新潮文庫版『ロリータ』を手に取り、そこに加えられた大江健三郎の解説に目を通してみたのだが、この短い解説のために文庫版を買っても良いかなと思った。
November 2, 2025 at 4:49 PM
さらに読書は進んで終盤の265頁、再びアナベル・リーが現れる。主人公のハンバート、ロリータとその母親シャーロットは、かなり昔に『ロリータ』を読んだ時の記憶に残っているけれど、アナベルは全く記憶にない。程なくして本書を満足のうちに読み終え、満を侍してアナベル・リーをググってみると…

エドガー・アラン・ポーが最後に残した詩のタイトルだった。
November 2, 2025 at 4:47 PM
閑話休題。シネコンのロビーで『ひゃくえむ。』の入場が開始されるまでの待ち時間に本書を読み進める。その途中で、ふと、さっき通過した頁に出てきたアナベル・リーってどこかで見かけたような気がする…が、一体何の関連でその語感を記憶しているのかパッと思いつかない。ググればすぐ謎解きできると思ったが、このモヤモヤしたもどかしい感触はもう少し溜めて味わいたいとペンディングした。

本書ではナボコフを読み解くために考察対象の『ロリータ』だけでなく、アメリカ移住後に書かれた『青白い炎』『アーダ』などにも幾度か触れていて、それらが部屋のどこかで積読されているのを思い出し、近いうちにサルベージしておきたいと思った。
November 2, 2025 at 4:46 PM
ところで、10月17日に『スノウ・クラッシュ』を読み終え、翌日18日から本書『ロリータ、ロリータ、ロリータ』を読み始めたのだが、遡ること10月11日にTwitterの方で古本屋 弐拾dBの藤井店主の買取ツイートを見かけた。この画像で紹介されている本はどれも読んだことが無いのだけれど、そこにある大江健三郎の作品タイトルはやけに仰々しいな(笑)と思った。
November 2, 2025 at 4:44 PM
→ そんなわけで、注目の地球温暖化SF作品はもう少し後回しでもいいかなという気持ちに。ただ近年、SFの持つ左右上下に大きなウィングと文学的インパクトを高い次元で融合させている傑作も多く見かけるので、SFというジャンル自体にはまだ期待。
November 2, 2025 at 2:17 PM
→ そもそも刊行当時頻繁に見かけた本作を何故手に取らなかったのか記憶を探ってみると、当時自分は純文学に嵌っていた時期で、SFの細部に緻密でありながら全体としてザックリなもの…に距離を置いていたのだなと思い当たる。目を惹きつつも内容はどこか大味な予感がしていたのだ。

ウイルスとしての言語という(今となっては珍しくはない)主題については、その由来を今で言うAIから教示された主人公が、その内容を要約整理してマフィアの連中に向かって再び講釈を垂れる場面に至り、これはギャグなのかと思うくらいに作品全体をスポイルさせており、悪い意味で強く印象に残る始末。→
November 2, 2025 at 2:15 PM
→ しかし印象に残ったのは演劇に関する2010年のロングインタビュー内で、今やりたいことを聞かれ「詩人になりたいと、たまに思いますね」と答え、詩の魅力を「ドラマや物語ではない」と続ける。何となく著者は詩をしっかりと掴みたかったのではないか…と思う。が、しかし、前出のメインパートで、当たり前のことを通り越してしまった、見た目そのまんまの言葉を何と言えばいいのか?の応答に「詩である」とポツリ書かれていて、思わぬ不意打ちに声を出して笑った。
November 2, 2025 at 12:14 PM
→ それにしてもしかし、この映画は、暗闇の奥底に沈み込んでいた精神を回復させるほどの光に溢れていて、この歳になって偶然に出会えたことに心から感謝している。諸事情で今後の配信もディスク化の予定も無いまま、この11月末で日本国内の上映権が消失する。その前に三度で終わりと言わず、またもう一度映画館で観たいと思うのだ。そこでまた僕は、この身体を通り過ぎてきたはずなのに思い出すこともない透明な時間について考え、また嗚咽するのだろう。

転生先は猫でした。
November 2, 2025 at 10:17 AM
→ いや、むしろそういった記憶に全く残らない些末な事柄、例えば自転車で移動中、小動物の存在に気付き、タイヤで轢いてしまう直前に急ブレーキをかけた人間は、そんな些細な出来事など日常に忙殺されてすぐに忘れてしまうだろう。しかしそんな些事を目撃した一人の月老の脳内では特別な発火を呼び起こすのだ。記憶にまるで残らない、取り戻そうと願うリストの候補にすらならない小さな出来事の連続体。もし1万年持続する強い気持ちを支えるものがあるとしたら、その1万年を構成するためにまずは、誰にも記憶されない脇役としての透明な時間の存在が必要であり、だからこそ逆説的ではあるが、魂は永遠に極楽へは到達しないのである。 →
November 2, 2025 at 10:10 AM
→ だから、己を縛りつけていた記憶を消し去ることで浄化を迎えるという筋立てになっている。しかし3度目となる今回の鑑賞で、人を人たらしめている記憶(多くの物語では「覚えている(思い出される)」という事がやたら重要視される)…の柵の外にある、俎上に載せられもしない出来事の重要性にも気付いたので記しておきたい。人が100年生きたとしても、体験してきた出来事のほとんどは記憶に残らないのだが、それらは無意味・無価値だったのだろうか? →
November 2, 2025 at 10:09 AM