今年に入り、本日でこの映画を計6回鑑賞したのだけれど、観るたびに感動するポイントがじわじわと変化していき、直近ではこの場面が一番好きになった。秒数は途中で現実にカットバックするところを省いて8秒くらいだろうか。その短いシーンが突如挿入されることで、それまで全く触れられていなかった「今からx0年ほど前(?)」が観客に否応なく意識されることになる。スクリーンでは知らされない、かつて辿った別の人生の物語に想いを馳せる…素晴らしい語りだと思う。
まったくの偶然だったが、この映画に出会えて本当に良かった。
今年に入り、本日でこの映画を計6回鑑賞したのだけれど、観るたびに感動するポイントがじわじわと変化していき、直近ではこの場面が一番好きになった。秒数は途中で現実にカットバックするところを省いて8秒くらいだろうか。その短いシーンが突如挿入されることで、それまで全く触れられていなかった「今からx0年ほど前(?)」が観客に否応なく意識されることになる。スクリーンでは知らされない、かつて辿った別の人生の物語に想いを馳せる…素晴らしい語りだと思う。
まったくの偶然だったが、この映画に出会えて本当に良かった。
今回も大量の鼻水と涙でマスクがぐしゃぐしゃになり、予備のマスクをカバンに準備しておいて助かりました。鑑賞後は身体も精神も幸せに向上させる何かを持っている作品。
それにしてもこの映画が今月で日本国内上映終了になってしまうとは本当に信じ難い。もし世界の情勢が悪く傾けば、日本ではもう二度と観られないかもしれない。だからまた観たい。
今回も大量の鼻水と涙でマスクがぐしゃぐしゃになり、予備のマスクをカバンに準備しておいて助かりました。鑑賞後は身体も精神も幸せに向上させる何かを持っている作品。
それにしてもこの映画が今月で日本国内上映終了になってしまうとは本当に信じ難い。もし世界の情勢が悪く傾けば、日本ではもう二度と観られないかもしれない。だからまた観たい。
ナボコフ曰く、芸術作品とは「詩の精密さ」と「科学の興奮」が溶け合ったものだと定義しているらしいが、精密な詩という一見相反するような組み合わせは、最近、素直に納得出来るような気分が自分の中にある。今後の読書はその辺りを追求していくことになるんだろう。
ナボコフ曰く、芸術作品とは「詩の精密さ」と「科学の興奮」が溶け合ったものだと定義しているらしいが、精密な詩という一見相反するような組み合わせは、最近、素直に納得出来るような気分が自分の中にある。今後の読書はその辺りを追求していくことになるんだろう。
エドガー・アラン・ポーが最後に残した詩のタイトルだった。
エドガー・アラン・ポーが最後に残した詩のタイトルだった。
本書ではナボコフを読み解くために考察対象の『ロリータ』だけでなく、アメリカ移住後に書かれた『青白い炎』『アーダ』などにも幾度か触れていて、それらが部屋のどこかで積読されているのを思い出し、近いうちにサルベージしておきたいと思った。
本書ではナボコフを読み解くために考察対象の『ロリータ』だけでなく、アメリカ移住後に書かれた『青白い炎』『アーダ』などにも幾度か触れていて、それらが部屋のどこかで積読されているのを思い出し、近いうちにサルベージしておきたいと思った。
ウイルスとしての言語という(今となっては珍しくはない)主題については、その由来を今で言うAIから教示された主人公が、その内容を要約整理してマフィアの連中に向かって再び講釈を垂れる場面に至り、これはギャグなのかと思うくらいに作品全体をスポイルさせており、悪い意味で強く印象に残る始末。→
ウイルスとしての言語という(今となっては珍しくはない)主題については、その由来を今で言うAIから教示された主人公が、その内容を要約整理してマフィアの連中に向かって再び講釈を垂れる場面に至り、これはギャグなのかと思うくらいに作品全体をスポイルさせており、悪い意味で強く印象に残る始末。→
転生先は猫でした。
転生先は猫でした。