逆に、体験としてすごく気に入って楽しんでも、「作品の理解」からは遠いかもしれない。
もちろん、100%の「理解」は無理だし、外国の作品を好んで観る人間には常にその不安がつきまとう。ただ、例えばお気に入りのミュージカルがみんなに嫌われている人の演出で大幅に切り刻まれて独自のギャグまみれになり、舞台初挑戦のアイドルが下手な歌を披露する場になってしまったら、その「上演」をどれだけ楽しんでいる人がいたとしても、あるべき作品の姿からは離れているし、理解した気にならないでほしいと思うでしょう?
逆に、体験としてすごく気に入って楽しんでも、「作品の理解」からは遠いかもしれない。
もちろん、100%の「理解」は無理だし、外国の作品を好んで観る人間には常にその不安がつきまとう。ただ、例えばお気に入りのミュージカルがみんなに嫌われている人の演出で大幅に切り刻まれて独自のギャグまみれになり、舞台初挑戦のアイドルが下手な歌を披露する場になってしまったら、その「上演」をどれだけ楽しんでいる人がいたとしても、あるべき作品の姿からは離れているし、理解した気にならないでほしいと思うでしょう?
「だってそう見えてそう思っちゃったんだもん」は大事にしていいし他人が否定できるものではないが、「自分の感情が勘違いや無知の上に築かれたものだった」という事実まで認められないようになると、それはデマや扇動に簡単に利用される。
「だってそう見えてそう思っちゃったんだもん」は大事にしていいし他人が否定できるものではないが、「自分の感情が勘違いや無知の上に築かれたものだった」という事実まで認められないようになると、それはデマや扇動に簡単に利用される。
→入口に「ファシストは失せろ」という張り紙がある(大意)
→入口に「ファシストは失せろ」という張り紙がある(大意)