もうひとつ。女性の失踪を主題とし、彼女を追う二人の男性を主体的に描くパート1に対し、パート2では彼らの存在感が薄れ、主体が女性たちへと移行していく。その意味でこの作品は(画面から)男性が消えていく映画という見方もできるのではと感じた。
もうひとつ。女性の失踪を主題とし、彼女を追う二人の男性を主体的に描くパート1に対し、パート2では彼らの存在感が薄れ、主体が女性たちへと移行していく。その意味でこの作品は(画面から)男性が消えていく映画という見方もできるのではと感じた。
とはいうものの、その答えを(二次)創作してまで明かしてしまうのはどうなのか…と思っていたところ、さすがはオリヴェイラ、一筋縄ではいかなかった。会話劇としての面白さ、鏡の使い方、光と影の演出など、やはり見事というしかない。ただすべてを楽しむには『昼顔』を見ておいた方がいいと思う。
とはいうものの、その答えを(二次)創作してまで明かしてしまうのはどうなのか…と思っていたところ、さすがはオリヴェイラ、一筋縄ではいかなかった。会話劇としての面白さ、鏡の使い方、光と影の演出など、やはり見事というしかない。ただすべてを楽しむには『昼顔』を見ておいた方がいいと思う。
例えばこんな発言「映画は決して1人で作るものではない。自分のカオスを理解し、共有してくれる存在が必要だ。それが、この作品を捧げたジャン=イヴ・エスコフィエであり、ドニ・ラヴァンでもある。彼らに出会わなければ、まったく違う映画を作っていたかもしれない。今もそういった人に出会うチャンスを探している」
あと、常に本を2冊づつ、昼と夜で分けて読んでいるという発言も興味深かった。
例えばこんな発言「映画は決して1人で作るものではない。自分のカオスを理解し、共有してくれる存在が必要だ。それが、この作品を捧げたジャン=イヴ・エスコフィエであり、ドニ・ラヴァンでもある。彼らに出会わなければ、まったく違う映画を作っていたかもしれない。今もそういった人に出会うチャンスを探している」
あと、常に本を2冊づつ、昼と夜で分けて読んでいるという発言も興味深かった。
・映画芸術への招待(まあ、これがやりたくて初めて放送大学に入るようなもの)
・日本語リテラシー(文章力をもっと上げたく)
文学や歴史も考えたけど、それは次学期以降で。まずはこの2科目をしっかりとやりたい(ホントに、ちゃんとやれよ自分)。
・映画芸術への招待(まあ、これがやりたくて初めて放送大学に入るようなもの)
・日本語リテラシー(文章力をもっと上げたく)
文学や歴史も考えたけど、それは次学期以降で。まずはこの2科目をしっかりとやりたい(ホントに、ちゃんとやれよ自分)。
人物のキャラをことさらドラマチックに誇張せず、彼/彼女を取り巻く自然=世界と共に描く。テレンス・マリックの特徴的なスタイルがこのデビュー作ですでに見られる。全編に渡ってさまざまな動物が登場し、後半にかけては地平線が忘れ難い印象を残す(やや画面の中央に据えられがちな気もするけれど)。
人物のキャラをことさらドラマチックに誇張せず、彼/彼女を取り巻く自然=世界と共に描く。テレンス・マリックの特徴的なスタイルがこのデビュー作ですでに見られる。全編に渡ってさまざまな動物が登場し、後半にかけては地平線が忘れ難い印象を残す(やや画面の中央に据えられがちな気もするけれど)。
この曲が持つ「これからは我々の時代だ」というメッセージは、本来は親の世代や政治家たちに向けられたもののはずだが、この場面ではディランがそれを観衆に向けて歌っている。その解釈は自分にとっても新鮮で、まったく考えたことがなかった。
この曲が持つ「これからは我々の時代だ」というメッセージは、本来は親の世代や政治家たちに向けられたもののはずだが、この場面ではディランがそれを観衆に向けて歌っている。その解釈は自分にとっても新鮮で、まったく考えたことがなかった。
映画の内容については、森の中で吉開さんと沖縄の語り部の方が突然話し始めるロングショットの場面について、小田監督が「二人が勝手に話し出した」と語ると、吉開さんが「いや、監督の指示があった」と返し、記憶の相違をめぐってやり合う(もちろん和やかに)場面では、会場が大いに沸いた。
映画の内容については、森の中で吉開さんと沖縄の語り部の方が突然話し始めるロングショットの場面について、小田監督が「二人が勝手に話し出した」と語ると、吉開さんが「いや、監督の指示があった」と返し、記憶の相違をめぐってやり合う(もちろん和やかに)場面では、会場が大いに沸いた。
主演(ととりあえず呼ぶ)の吉開奈央さんの役名は「シャドウ」だが、洞窟や地面に映る影そのものもそれ自体の存在が魅力的だった。沖縄の平和ガイド・松永光雄さんの語りは、その重い内容とともに深く引き込まれ、映画全体の音響(あの軍用機?の轟音など)もまるで立体音響のような凄みを持っていた。
主演(ととりあえず呼ぶ)の吉開奈央さんの役名は「シャドウ」だが、洞窟や地面に映る影そのものもそれ自体の存在が魅力的だった。沖縄の平和ガイド・松永光雄さんの語りは、その重い内容とともに深く引き込まれ、映画全体の音響(あの軍用機?の轟音など)もまるで立体音響のような凄みを持っていた。
バーセルに協力するユヴァルは、この状況を本気で変えたいと考えているが、イスラエル国民である彼には通行の自由があり、安全に帰ることのできる家がある。二人の対話は微妙にすれ違う。この問題の難しさを痛感する。上映時間が過ぎても、この映画に本当の終わりはまだ訪れていない。
バーセルに協力するユヴァルは、この状況を本気で変えたいと考えているが、イスラエル国民である彼には通行の自由があり、安全に帰ることのできる家がある。二人の対話は微妙にすれ違う。この問題の難しさを痛感する。上映時間が過ぎても、この映画に本当の終わりはまだ訪れていない。
後半で映画のスタイルが大きく変わるとはいえ、室内の場面が多いため、母と娘たち三人の女性のヒジャーブを着けない姿が長く画面に映り続ける。そしてクライマックスでは不可抗力的にそのまま屋外に出てしまう(街中ではないが、映像として外に出た、頭に何も被らない女性の姿が映り続ける)。ここにラスロフ監督の企みを感じる。
後半で映画のスタイルが大きく変わるとはいえ、室内の場面が多いため、母と娘たち三人の女性のヒジャーブを着けない姿が長く画面に映り続ける。そしてクライマックスでは不可抗力的にそのまま屋外に出てしまう(街中ではないが、映像として外に出た、頭に何も被らない女性の姿が映り続ける)。ここにラスロフ監督の企みを感じる。
映画の方は来週観る予定だけど、今日の講義を聞いてから観るという順番は、意外と良いかもしれないと思った。上映トラブルがあったとのことで、最後にエンドロールの部分も見せてもらえて少し得した気分。
映画の方は来週観る予定だけど、今日の講義を聞いてから観るという順番は、意外と良いかもしれないと思った。上映トラブルがあったとのことで、最後にエンドロールの部分も見せてもらえて少し得した気分。
ちなみに今ちょこっと調べていて知ったのだけど、『暴力についての瞑想』で華麗な中国武術を見せてくれるChao Li Chi氏は、その後も俳優として活躍されていて、イーストウッドの『ブラッド・ワーク』なんかにも出ていたみたい。
ちなみに今ちょこっと調べていて知ったのだけど、『暴力についての瞑想』で華麗な中国武術を見せてくれるChao Li Chi氏は、その後も俳優として活躍されていて、イーストウッドの『ブラッド・ワーク』なんかにも出ていたみたい。