#塩野七生
(12/9) 紀伊國屋書店 電子書籍 雑誌ランキング1位:藤原正彦【著】/塩野七生【著】/佐藤優【...『文藝春秋2026年1月号』
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December 11, 2025 at 1:10 AM
文藝春秋2026年1月号 (藤原正彦/塩野七生/佐藤優/有働由美子/中野京子/山田詠美) が、紀伊國屋電子書籍ストアで販売開始されました。
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文藝春秋2026年1月号
著者:藤原正彦(著)/塩野七生(著)/佐藤優(著)/有働由美子(著)/中野京子(著)/山田詠美(著) 出版:文藝春秋 2025/12/10(水)配信
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December 9, 2025 at 9:14 PM
塩野七生の皇帝フリードリッヒ二世の生涯を、ようやく読み終えた。キリスト教が精神を支配する時代に、宗教とは関係なく人間の理性を以て、やれることをやった人。

この人は、徹底してフラット(公平)だ。キリスト教的には敵でしかないイスラム人と交流するし、中世の封建的な世の中に法の秩序をもたらそうと戦い抜いた。アレクサンダーやチンギスハンのような征服者ではないけど、世の中が次に進むための爪痕を残した、驚異の人だと塩野先生は語っている。

人としてかくありたい。公平に。
December 9, 2025 at 6:51 PM
文藝春秋2026年1月号 (藤原正彦,塩野七生,佐藤優,有働由美子,中野京子,山田詠美,成田悠輔) が、Kindleストアで販売開始されました。
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文藝春秋2026年1月号[雑誌]
著者:藤原正彦(著), 塩野七生(著), 佐藤優(著), 有働由美子(著), 中野京子(著), 山田詠美(著), 成田悠輔(著) 出版:文藝春秋 2025/12/10(水)配信
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December 9, 2025 at 4:31 PM
塩野七生はいいぞ
December 9, 2025 at 1:49 PM
処分する本がいっぱいあってうんざりする 手放したら二度と手に入らなさそうなのも多くて悩む 塩野七生の大部分に別れを告げる
December 7, 2025 at 8:51 AM
寒い…。今日はインライ見られた。梅井ちゃんいて嬉し❤︎ ローマ素敵だな。塩野七生でも読んでみようかな…
December 5, 2025 at 2:34 PM
 ローマ人の物語 塩野七生
よみたいな
December 5, 2025 at 1:26 AM
塩野七生のマキャヴェリの本に老境のマキャヴェリさんが、書斎で物書きをする際に偉大なる先人たちとの脳内の対話に興じた描写があったと記憶しているが、著者が著者なのでどこまで信用してよいかわからない。

/ “読書は孤独じゃない、なぜなら天才や怪物を召喚できるから - シロクマの屑籠” https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20251202/1764673200
読書は孤独じゃない、なぜなら天才や怪物を召喚できるから
いつも読書の参考にさせていただいているホリィ・センさんのアカウントに、ゆうべ、以下のようなメンションがあった。それを読み、勝手なことを書いてみたくなった。 > 令和人文主義者全体それぞれの人たちはあまり分からないが、少なくとも三宅さんの言う「読書」はけっこうラディカルなものを志向しているように見えるが > > — ホリィセン放言取り急ぎ (@noisysen) 2025年12月1日 > 読書をすることで一人になれるだとか半身になれるだとか言っているのって、今ある社会秩序を揺るがそうとしてはいるよね > > — ホリィセン放言取り急ぎ (@noisysen) 2025年12月1日 ホリィ・センさんのこのメンションは、最近一部で話題になっている「令和人文主義」なる語彙に関連したものらしい。私は、この「令和人文主義」なる語彙についてよくわからない。「令和人文主義の解説」なるものを読んでも理解した気持ちにならなかった。ただ、言及する人たちの熱量のうちに、ブログがブームだった頃のような熱量を嗅ぎとった気した。 それより、読書の孤独性や一人性について、私は考えこんでしまう。 独りで読書している瞬間には誰もいないし誰からも邪魔されない……ようにみえる。でも、読書している時って、本当に人は一人だろうか? 最近の私は、そう感じていない。昔からある程度までそうだったが、特に最近は孤独な読書をしていない気がする。そのあたり、好きなことを書いてみたくなったから書いてみる。 #### **みんなで読む読書・コミュニケーションを伴う読書** はじめに、孤独でも一人でもない読書の、わかりやすい例について考えてみたい。社会には、狭義の「みんなで読む読書」に相当する行為が幾つかある。それらの読書は多かれ少なかれ孤独ではない。 たとえば大学の研究室で皆で本を読む時、その読書は孤独ではない。そのとき読書は本と一対一で向き合うものではなく、指導教官と学生たちがコミュニケーションを行いながら書籍を紐解いていくかたちになる。そういう読書の良いところは、指導教官から読み方や読み筋を教えてもらえること、他の学生と議論をしたり補足しあったりしながら読めるところだ。そのかわり、読み方や読み筋はある程度まで指導教官や他の学生の影響下に入ることになる。読書をとおしてインストールされる知識、または読書体験そのものは、指導教官や他のゼミ生からの影響のカラーを免れ得ない*1。 それよりもっと緩い、読書会という集まりもある。読書会には指導教官は存在しないが、コミュニケーションは存在する。読書会には複数名が含まれ、そこにコミュニケーションもあるだろうし、読み方や読み筋についても幅があって面白かろう。とはいえ、この場合もインストールされる知識や読書体験には他の参加者からの影響のカラーが紛れ込む。 それらをもっと緩く・もっと広くした体験として、「話題の本を読む」「誰かの書評記事を見て本を読む」という体験もある。自分の属しているインターネットの界隈で話題になっている本があり、その感想文や引用文などがチラチラ見える状況下で読む読書は、読書会ほどではないにせよ、その本について言及しているメンバーからの影響を被る可能性がある。同じく、書評記事を見て本を読む行為も、大学の指導教官ほどではないにせよ、書評記事というメディアをとおして書評者とコミュニケーションが行われ、書評者の影響を受けながらの読書になる。なら、それだって厳密には孤独の読書と言い切れない。 逆に、自分が読書について「発信している」場合もあろう。 レビューを書き残したり、その本についてSNSに書いたりしているなら、それも孤独の読書とは言えない。読書した事実や読書をとおして獲得したことをブログや SNSに書き残し、他人がそれを読むよう期待するのはコミュニケーションである。そうしたコミュニケーションが織り込み済みの読書はどうにも孤独じゃないし、それで「いいね」がついたりつかなかったりする読書も孤独じゃない。それも読書には違いなかろう。ただし、それはコミュニケーションに紐ついた読書だと言えるし、社会的相互行為としての読書、ときには政治的行為としての読書というニュアンスさえ含んでいるかもしれない。 こうした要素をできるだけ切り捨て、読書体験の孤独さの純度をあげていくとしたら? 最も孤独な読書とは、ぶらりと本屋を訪れ、店内をぶらぶらしたり立ち読みしたりしたうえでこれぞ、という見知らぬ本を手に取る体験……あたりが該当するんじゃないだろうか。書店員のオススメ欄に置かれていた本を読む読書、派手な広告に惹かれて読む読書、帯に記された推薦者の売り文句に釣られて読む読書も、若干、孤独ではないかもしれない。なぜならそれらのメディアをとおしてコミュニケーションが発生し、そのぶん、誰かの影響下に入っていると言えるからだ。 そういったものをガン無視して、前評判や前知識や人間関係などと無関係に手に取って読む読書が、一般的には孤独の読書といえるんじゃないかと思う。 #### **でも、いつだって著者が存在している** で、そうやって前評判や前知識や人間関係から距離を置いた読書をしていてさえ、最近の私は孤独を感じない。なぜなら、そこには著者という人間がいるからだ。 たとえば、この『西洋近代の罪』という本には大澤真幸という著者がいらっしゃる。 西洋近代の罪 自由・平等・民主主義はこのまま敗北するのか (朝日新書) * 作者:大澤 真幸 * 朝日新聞出版 Amazon > これらは、全体としてどこに向かっているのか。それは、西洋近代の裁量の部分、啓蒙主義が見出した価値や理念の否定であろう。多文化主義、気候主義、LGBTQ+、ジェンダーの平等等の思想の多くは、直接的には、20世紀の終わりから21世紀にかけての時期に唱えられるようになった新しいものだが、それらを基礎づけている基本的な価値や理念は、ヨーロッパの啓蒙主義の時代(17-18世紀)に見出されたものだ。多文化主義や気候正義等は、この時代に定期された人権、平等、自由等々の概念の発展や現代版だ。トランプの制作は、これらをすべて否定するものである。 > (中略) > トランプは、AIの開発などIT関連のビジネスを大々的に支援するつもりでいる。これもまた、西洋近代の理念的な産物の否定を促進する仕事になる。なぜか? ミシェル・フーコーが、1966年に発表した『言葉と物』で、西洋近代(19世紀)のエピステーメー(認識枠組み)は、「人間」の概念を中心に置いて成り立っている、。と論じた。フーコーは1960年代後半の段階で、人間主義の終焉を予言していたわけだが、AIの急速な発展とともに私たちが今立ち会っているのは、19世紀的な人間概念の崩壊の過程以外のなにものでもない。トランプのIT企業への肩入れは、この家庭にさおさすものである。 私は大澤真幸という著者が特別に好きなわけではないが、上掲の文章などを読むと、「ああ、この著者さんならこう書くのはわかる気がするなー」などと感じ取ったりする。近代社会と啓蒙とトランプとAIについて論じる人はたくさんいようが、この著者ならこう書くのはすごくわかるし、この著者がこう書いたからこそ私が受ける影響というのもある。たとえば私は、これを読んで本棚の隅っこで居眠りしているフーコー『言葉と物』を叩き起こしたいと思ったわけだ。 この本に限らず、新書タイプの書籍は著者に教えられて次の読書に広がっていくことが多い。新書というフォーマットはおしゃべりだと思う。新書それ自体で一冊の読み物をなしていると同時に、著者が「この本は面白かったよ」「この本を引用してこれを書いているんだよ」と教えてくれる。これは新書に限ったことでもないか。著者はいつだって何事かを読者に投げかけてくるし、本とはそのようなメディアだ。だから私は読書をとおしていつでも著者の影響を受けているし、著者とのコミュニケーションを感じ取っている。 さきほど挙げた大澤真幸の新書にしても、それを通して私は彼の近代観、彼の啓蒙観、彼の21世紀観を浴びているわけだ。そしてイエス! と思ったり ノー! と思ったり ウムム…… と思ったりして、いわば討論している。私はこれをkindle版で導入したけど、メモ欄には、著者に向かって書いたことや自分と著者の考えを結び付けるために書いた殴り書きが残されている。読書であると同時に紛れもないコミュニケーションだと思う。 #### **読書は天才や怪物を召喚する** で、**読書の面白さとヤバさのきわみにあるのは、「読書は天才や怪物を召喚する」点にある** と思うんですよ。 新書の著者だってコミュニケーションの相手として十分に面白いしヤバい。けれども、読書でコミュニケーションできる相手はもっともっと広い。その分野を代表する学究や思想家、数百年前の偉人とさえコミュニケーションできてしまう。 > 「読んだら二度と戻れなくなる本」として私が経験した本といえば、『消費社会の神話と構造』『幼児期と社会』『進化と人間行動』『ディスタンクシオン』あたりで、それらを読んだ後は前のように娑婆を眺められなくなった。内容はさておき、それらの本の膂力に私はねじ伏せられ、感化されてしまった https://t.co/GWDVu2o22y > > — p_shirokuma(熊代亨) (@twit_shirokuma) 2025年11月28日 上掲ポストの著者であるボードリヤールやブルデューも、そうした召喚可能な天才や怪物だと思う。彼らの著書が欠点を含んでいないわけではないし、今日の研究では否定されている部分もある。しかし、著書の実物を読んで得られるものは「まちがいがある」「今日の研究では否定されている」といった切り取りだけでは到底済まない。その時代・その社会状況のなかで達成した偉業に驚いたり、それらを紹介する入門書には記されていない含蓄の深さや思慮深さ、ユーモアなどあてられたりする。 そうした過去の天才や怪物の著書は新書よりも読みづらかったり、その時代・そのジャンルのコンテキストを踏まえておかないと読めたものじゃなかったりすることが多い。だから、一冊読む前に何冊も新書や入門書で準備をしたり、同じ時代の異なる著者を当たってからアプローチしなければならない等の面倒さはある。 だけど、いざ自分で読み切れた時の喜びは大きい。過去の学究や思想家の怪物じみたパワー、知の脈拍をじかに感じ取れる。私は我を忘れ、その知の営みを賛美する。そんな読書体験の最中において「まちがいがある」「最新研究では否定されている」なんてのは、小さな問題でしかない。もちろん、引用する際にはそうした部分を点検すべきだろう。でも、読書をコミュニケーションとみなす場合、まずは眼前にフーコーやブルデューやルソーといったすごい面々が召喚され、じかに自分に向かって語り掛けてくる戦慄、遠い過去からものすごいものを投げかけてくる感覚に打ち震える。 だから、読書は著者を、過去の天才や怪物たちを召喚する魔術なのだろうとも思う。この点において本とは正しく魔導書であり、「読んだら発狂する本」「読んだら戻れなくなる本」「読者を下僕にしてしまう本」が世の中に沢山存在するのは間違いない。そういう目でジュンク堂書店や八重洲ブックセンターの奥のほうを眺め直すと、過去の大物たちが手招きしている危ない洞窟のようにみえてならない。大書店の静かなエリアは、天災や怪物たちが眠るカタコンベと言っても過言ではない。 #### **天才や怪物は、何度でも召喚できる** そのうえ、そうした強烈すぎる天才や怪物たちは何度でも蘇ってくれる。たとえば私も、さきに挙げた書籍たちを何度か通読している。飽きる気配はなく、暇な時にパラパラとめくったりする。手許に書籍さえあれば天才や怪物たちは何度でも召喚できるし、する甲斐がある。まるで『Fate /Grand Order』のカルデア召喚術のごとく、私たちは読書をとおして天才や偉人たちを何度も何度も呼び出し、サーヴァントのように使役することができる。 もちろん、ここでいう使役とは考える対象としての使役、そしてコミュニケーションとしての使役だ。自分の代わりに考えてもらう使役もあり得るだろう。時間をかけて向き合うも良し、枕頭の書として少しずつ言葉をわけてもらうも良し。彼(彼女)らは一筋縄ではいかないので、一度読んだだけで理解できるとは限らないし、下僕にならずに済むのかもわからない。が、何度でもいつまでも召喚できるのだから、細かいことは気にしなくて構わない。なにせ相手は、何十年も何百年も前に時代や分野のパイオニアになったような偉人なのだ。まずは怪物じみたパワーに惚れこみ、噛みしめようじゃないか。 そうして自分の本棚の一番良い場所に、お気に入りの天才や怪物の本を並べておけば、彼らを召喚しっぱなしにしているにも等しい。これも『Fate Grand Order』のチームバトルに似て、自室のいちばん手近な本棚に並べる本のチョイスは、(ソーシャルゲームやカードゲームで)デッキを組むのに限りなく近い。いちばん手近な本棚の本たちは、ほぼ直接的に自分の思考やアイデアに影響をもたらすし、それらは一番手近な話し相手としても機能する。個人的なイメージとしては、以下のようなチョイスに近い。 > 手近な本棚って、ソーシャルゲームのお気に入りデッキ編成にすごく近いと思う。今、自分に必要なバフや援助を与えてくれる本を並べておくと、いろいろはかどりやすくなるのでお勧め。 ページさえめくれば、いつでも過去の天才や偉人、怪物じみた力を持った著者たちが待ち構えていて、相手をしてくれるって素晴らしいと思いませんか? 私は思います、本ってすごい発明品だよね。 こうして考える場合、読書はまったく孤独な体験でなく、いつでも著者とお話できる召喚魔術ってことになる。私はそんな風に読書をしていて、私の本棚からはたくさんの偉人や天才や怪物や大学者たちの叫び声やうめき声や金切り声や演説が聞こえてくる。大きな書店や図書館でも同様だ。そうした著者たちの声がよく聞こえる日には、寂しがりな私でさえ寂しさが吹き飛んでしまう。 *1:もちろん、それがリテラシーやディシプリンを身に付けるうえで大切なのだけど、それは於く
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December 3, 2025 at 7:47 AM
塩野七生のマキャヴェリの本に老境のマキャヴェリさんが、書斎で物書きをする際に偉大なる先人たちとの脳内の対話に興じた描写があったと記憶しているが、著者が著者なのでどこまで信用してよいかわからない。

/ “読書は孤独じゃない、なぜなら天才や怪物を召喚できるから - シロクマの屑籠” htn.to/iQmn1Qt8No
読書は孤独じゃない、なぜなら天才や怪物を召喚できるから - シロクマの屑籠
いつも読書の参考にさせていただいているホリィ・センさんのアカウントに、ゆうべ、以下のようなメンションがあった。それを読み、勝手なことを書いてみたくなった。 令和人文主義者全体それぞれの人たちはあまり分からないが、少なくとも三宅さんの言う「読書」はけっこうラディカルなものを志向しているように見えるが— ホリィセン放言取り急ぎ (@noisysen) 2025年12月1日 読書をすることで一人になれる...
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December 3, 2025 at 7:46 AM
今後挑戦したい作家は、
塩野七生、深緑野分、笠井潔、真藤順丈、敬称略。
なんかさっさと死ぬより、健康でないことの方が辛いと悟った。
November 25, 2025 at 11:42 AM
しかし1960年代の後半に入って塩野七生がルネサンスの女たちでチェーザレと、中田耕治がルクレツィア・ボルジアでチェザーレと書いたあたりから雲行きが変わり始め、1970年の『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』が単行本として発売されて以降一気にチェーザレorチェザーレが広まり、シーザーやセザールを飲み込んでいき、今のような統一的表記に収束していく

という傾向がある 大雑把に見て調べただけだけど
やっぱり本のタイトルになってて代名詞的扱いを受けてるのはデカいね……と思った

そういう話をもう少しがっつりどっかに書きたいのだけど多分需要はない
November 23, 2025 at 9:20 AM
塩野七生のエッセイでイタリア人を困惑させる世界各国パスタ魔改造の話がありましたけど、「アメリカ海軍では12分と茹ですぎだし、フランスでは10分茹でたあげくヨーグルトと和えるらしい。これなら茹で時間にうるさい我が国はナポリタンを堂々とイタリア人に見せつけるべき」というくだりがありました。
どこまで許せるかのライン引きって個人差もあってなかなか悩ましいですね!
November 21, 2025 at 12:31 PM
『塩野七生『ローマ人の物語』スペシャル・ガイドブック』を読了。写真を見ながら、ローマ帝国の最初から最後までをざっとダイジェストでまとめている。本編を読んでおかないと深く理解できないですね。
November 15, 2025 at 1:25 PM
塩野七生さんの著書あまり読んだことなかったけど淡々と進める書き方いいな〜
November 14, 2025 at 3:04 PM
塩野七生と中田耕治がボルジアやり出してから急にチェーザレの名前の表記揺れが落ち着き出すの面白すぎない?
まあ両者の間には長音を入れる位置に違いがあるのだが、それまでのぐだぐだと比較すると明らかに整い始めている……
ただ、塩野七生の著作の表題にチェーザレ表記が採用された瞬間から一気に他の書き方が駆逐されていってるのは確か はぇ〜
November 14, 2025 at 6:51 AM
でもやっぱり塩野七生以降で爆増してるな……
November 14, 2025 at 6:40 AM
現代において倫理と世界史の教科書に見られる兆候が1800年代においても“ある”という事実、大変面白いですわね
しかし見てるとわかるけどある時から突然チェーザレの話が増えるわね……しかもそれはのちの創作に多大な影響を与えている塩野七生以前の話という……
November 14, 2025 at 6:36 AM
それはそれとして大別すると塩野七生かそれ以外であることにはあまり変わりないというのが面白い話
それ以前になるとデュマとかマキャヴェリに原因がありそうだなあ てかマキャヴェリはマジでデカい 同時代でかつ著作物(文章)がある人間の中だと冗談抜きで日本国内で一番著名だもんな〜え〜ん
November 14, 2025 at 5:22 AM
国内だとこれ塩野七生が名誉挽回した説はあるなと思ったが、そもそもマキャヴェリがいるから違うよな
彼の肩を持てば持つほどにチェーザレは美しくなってくじゃないですか、色んな意味で つまり悪いのはマキャヴェリ
November 14, 2025 at 5:19 AM
塩野七生以前を紐解こうと遊んでるけど、そうなった時に遭遇したのがデュマなので「つまり悪いのはデュマかユゴーってコト……?」になっている
November 14, 2025 at 5:19 AM
地中海世界の歴史2 沈黙する神々の帝国
194/25
#読了
西欧中心の歴史観の毒というものをデトックス
ペルシアの歴史に軸足置いて位置付ければ、ペルシア戦争の意味というのは随分変わってくるものだ

『心性史』の観点は面白いし浪漫を感じるのは確かだけど、実証しようが無い思い込みにも思える

さて次はギリシアのポリスたちの歴史だ
塩野七生女史の『歴史小説』とはかなり違うんだろうな
November 13, 2025 at 9:03 AM
ただEU5の紹介みてると、こういう歴史SLGほしいな~と思ってたことやってて、たとえば地域内に異なる民族からなる領民層が複数いてそれぞれが民意を持ってる、みたいなのがど真ん中ヒットしてるんですよね

あとは交易ルートとかあることかな。交易ルートの維持とかが抗争の理由になるっていう世界観、これなんかは塩野七生の小説の影響も大きい

あとは足利幕府って枠組み内に各大名家がいて抗争してるっていう勢力の包含関係とかね
November 12, 2025 at 8:57 AM
文藝春秋2025年12月号 (藤原正彦/塩野七生/保阪正康/佐藤優/山田詠美/成田悠輔) が、紀伊國屋電子書籍ストアで販売開始されました。
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文藝春秋2025年12月号
著者:藤原正彦(著)/塩野七生(著)/保阪正康(著)/佐藤優(著)/山田詠美(著)/成田悠輔(著) 出版:文藝春秋 2025/11/10(月)配信
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November 9, 2025 at 6:47 PM