山下雅己
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山下雅己
@yamasyuta.bsky.social
美術家
テイカーとギバーについては、いろいろ思うところがある。
ポイントは「劣等感」にあるとのことで引き続き考えていきたい。
September 13, 2025 at 11:41 PM
娯楽、エンターテインメント、嗜好品としての在り方ではないものの在り方。

宗教的な在り方と言ってしまえばそれまでだか、もう少しフレンドリーというか「よろしくたのむで」という感じて置いたり飾ったり持ったりする。

制作者の「お守り」としての役割、広く言えば「ケア」としての役割があるのだから「鑑賞物」としてだけでない在り方があってよいだろう。

「薬局」というのもあるかもしれないけど「社務所」「授与所」とするのがいいかもしれない。

展開期間中はその場所を「社務所」とするという考えだ。
July 29, 2025 at 1:13 AM
「ブリコラージュ」する。

手元にあるものの「組み合わせ」を変えてみる。
手元にあったものに今日「出会った」ものを加えてみる。

それがいいものになるかならないか、ではなくそれが「創作」ではないか?

「組み合わせ」が良かった/悪かった。「出会い」があった/なかった。

というのは人生そのものなんだろう。

最近は制作の上だけでも「組み合わせ」の良し悪し、「出会い」の有る無しをあまり問題視しないでいたい。

それが全能感を持ってしまった現代人の自己肯定になるのではないかと思っている。

ケアとしての制作。
June 27, 2025 at 2:57 AM
「絵がうまくなりたい」
「いい絵が描きたい」
ということを考えたことは、もちろんある。
いい絵を描くことで、すべてが「うまくいく」という感覚。

しかし未来の「いい絵」を願った瞬間に過去作品が「よくない絵」になる可能性がある。

時間の奴隷になる可能性。

『鬱にならないためには「忙しく」すれば良い。』という意見はごもっともだけれど、体力は削られていく。

自身が「忙しく」して今より「いい絵」を描きたいと「願う」タイプであるから、時々エアーポケットのような空白や虚無に出会うと、これは身体からの「休め」のメッセージかもしれないと中年後期になって思えるようになった。

「願い」は副作用をもたらす。
June 27, 2025 at 2:39 AM
言ってしまえば素晴らしい「美/芸術」を作るためには才能やお金がかかり、それを補填するためには大衆を巻き込む必要があるということなのだろう。

そのあたりがひっかかってしまうのだ。
May 22, 2025 at 10:24 AM
保坂和志の「この人の閾」で主人公がラストに見たかもしれない景色。
April 1, 2025 at 8:33 AM
今はもうない柳の木
April 1, 2025 at 8:01 AM
がっつりとした大学の先生でもない(専門学校のデッサン非常勤講師)立ち位置、不安定さの中でも「やりたいことをやる」と言ってもやはり同じようにはいかないなーというのが話をした後の実感であり、それならば今の立ち位置でできるジャンルに縛られないことを実行しようというのが処世術?になる。

深掘りしない、専門家にならない、というと軽薄にみえるかもしれない。

しかしやりっぱなし、投げっぱなしをブリコラージュすることに自分の「制作」姿勢があることは確かではないかというのが今回の話の落としどころだろうか。
December 27, 2024 at 11:25 PM
「やりたいことをやる」ということが副業にみえるのは、漫才師や落語家等が、本業以外の仕事で顔を売って、広く知られても、本業を見たことがないという人がいる状況と大学の先生も似ているということだろう。

自分も先生業(最下位層だが)をやっているからわかるけど、学生が自分の本業(副業?)に興味を持つのではなく「教えられる」ことが中心だ。

システムとして組み込まれた状況を先生も学生も共有して能力を高めることが重要で、その場が大事なのであって教室を出たらあまり関わる必要はなくなる。

「別の収入」と「研究」はジャンルとしてはつながってるけど、別のコラボレーションと言っていいと思っている。
December 27, 2024 at 11:17 PM
「制作」や「研究」に没頭するためには、安定した収入が必要で「別に(先生業)収入があるから、お金のことを考えずに制作/研究できる」という話を聞いて、大学の先生の強みを感じた。
海外に拠点がある方だったので英語混じりだったけど、はっきり話されていた。

「自分の作品を時給や能力給に換算すると現実的な数字にならない。」という美術家あるある。打開するためには「大学の先生に憧れ/なるしかない…」という美術家あるあるを実感せざるを得なかった。

誰でもお金を気にせず「制作」や「研究」に没頭できるわけではなく、世間的にら本業とより副業にみえてしまうというモヤモヤが残り続ける。
December 27, 2024 at 11:05 PM
油彩画やデッサンでひたすらに加筆や修正を続けるのは、正しさに向かうというより、完治することの難しさをどこかで意識しているからではないか。

「個人の病を個人で何とかする」というのが自分にとってのブリコラージュであり制作なのだろう。

ここで言う「病」は「原罪」に近いものだろう。

その処方がたまたま作品という形をとるので、売り買いできて消費/社会に関われるという感じだろうか。

自分の場合は経済より先にまず治療があるのだ。
November 30, 2024 at 1:27 PM
「寄せ集めで自分でつくる」
という意味と「ものを自分で修繕する」という意味がブリコラージュにはあるらしく。
これも助けになる言葉だと直観した。

脱線気味な考えで「で」を「を」に変えてみる。

「寄せ集めで自分をつくる」
「もので自分を修繕する」

となる。
なるほど自分が美術でやっていることだ。

原罪とも言えるかもしれない「自分がない」「壊れている」が前提になっている。

自閉傾向の特徴として「モノと自分」を分けることができないというのがあるらしい。

なのでモノ作りも修繕も自分とつながってしまうのだ。

モノができれば自分もでき、
モノが治れば自分も治る。
November 30, 2024 at 1:20 PM
東浩紀の配信をたまたま聞いていたら「節制」がポイントだと話していた。

欲望を認めたうえで「節制」する。

否定の前に肯定を置いておくことにポイントがあるのだろう。

「かわいい」や「芸術」に対してとる行動を社会にも向けようということだとすると、難しいけれど可能性はあるかもしれない。
November 15, 2024 at 11:35 PM
自然や神をコントロールしようとする。

しかしそれができないことは地震多い大地に住む者はわかっているはずなのだが…。

「コントロール」は主にまず「言葉」で行われる。

言葉の前
言葉からの逃走

いろいろな表現があるけれど「言葉」の問題を考え続ける必要があることが自分なりによくわかる。

言葉を垂れ流しながらぶつぶつ自問自答、自作自演しながら言葉を離れて制作で試すことが大事なのだろう。
November 15, 2024 at 11:17 PM