山下雅己
banner
yamasyuta.bsky.social
山下雅己
@yamasyuta.bsky.social
美術家
配信で「テイカー」と「ギバー」という言葉を知った。
テイカーとは『自分の利益を優先して、他者より多くの利益を得ようとする人のことです。 他者の利益には関心がなく、自分の利益を一番に考えて行動します。 世の中を競争社会だと思っていて、常に自分が優位であろうとするところもあります。』
ギバーとは『自分の利益よりも相手への貢献や喜びを優先し、見返りを期待せずに他人に惜しみなく与える人のことです。ギバーは人間関係を重視し信頼を築きやすい一方で、自己犠牲に陥る「自己犠牲型ギバー」と、相手の利益を優先しつつも自分自身にも利益が巡るように行動する「他者志向型ギバー」の2タイプに分けられます。』
とのことだ。
September 13, 2025 at 11:30 PM
トランスサタニアン
という言葉が流れてきた。
魚座の自分としては、何だか気になるところである。

開催予定の展覧会のタイトルを考えているのだけれど、今日呟きながらまとまってきた。

作品を鑑賞したり販売したりする場所になるんだけれど、画廊やギャラリーというよりも「社務所」がしっくりくるかもしれない。

二葉さんが新居の玄関に「守り神」として棍棒ヒューマンを置いてくれると聞いた時のありがたさ。

鑑賞する/されるという関係の間に別の用途が加わることで作品の居場所が「見る」ことで成立するだけでなく、そこに「在る」だけで見なくても存在できる。
見る/見られる、使う/使われる、だけではない作品の在り方
July 29, 2025 at 1:03 AM
ブログ用のメモ

「組み合わせ/出会わせ」
数々のトライアンドエラーの繰り返しが「可能」というのが「物語」や「創作」の利点やと思うのだが、現実も「社会実験」の繰り返しなんだろうなと思う今日この頃。

どの組み合わせが「うまくいく」のか?を実験していて、
実際には「うまくいかなく」ても「うまくいく」と願う。

平行世界や並列世界の物語が「表現」の分野で注目されるのは「願い」ゆえだろう。

制作者としてトライアンドエラーを繰り返すのは「うまくいく」事ができれば生活や精神が安定するかもしれないと「願う」からであり、制作自体が安定剤になると「信じる」ことからじまる。

その副作用と効果について。
June 27, 2025 at 2:23 AM
なかなかBlueskyに来れなかった。ちょっと考え事をメモする感じで使う。

GQ旋風というか、富野G好きには良かれ悪かれ注目が集まっている。
コンテンツとしての寿命の長さ、様々なキャラクター(人もMSも)がブラッシュアップされ、洗練されたものがお茶の間に提供される。

様々な才能が集結して創作する造形美や映像美はある意味芸術と言ってもいいかもしれない。

だがしかしそれを可能にしている物語に乗れるか?
芸術はあくまで物語の挿絵という位置づけがますます強くなりそうではある。
May 22, 2025 at 10:12 AM
某宮跡のように整備されればよかったかもしれないが、そのために切り倒された柳の木もある(今描いてる)。
ほんまに自作自演というか、勝手に泣いたり喜んだり悲しんだり惜しんだりしてる。
ネガティブケイパビリティを発動させなどもならん。
April 1, 2025 at 7:28 AM
あけましておめでとうございます
本年もよろしくお願いいたします

新年早々コマーシャリズム全開ですが、明日1月2日より京都の衣料品店GWDHでセラミックヒューマンとLPバックの「初売り」はじまりまります。

「商い」は健康の元でありそれを広く包み込むのが美術であり芸術なんやと今は考えてます!

場所やは四条烏丸と四条河原町の間くらい営業時間などはGWDH 京都」で検索ください〜。
よろしくお願いします!
January 1, 2025 at 8:08 AM
体調がイマイチでなかなか青空にまで書き込みできなかった…

「技法/研究」というものに対してあまり執着が無い。
昨日大学の先生数人と個別に話してあらためて思ったことだ。

そのジャンルで「今までに無い」「斬新な」「過去の素材研究」「最先端と過去の比較と融合」等、興味が無いわけではないし「つくる」ことに置いてはそれなしでは面白いものは作れないだろう。

「ジャンル縛り」「ジャンルの深掘り」みたいな思考があまり無いということは、
そのジャンルの「専門家」にはなれそうにないということだろうか…。
December 27, 2024 at 10:45 PM
ブリコラージュという言葉を使った後に、たまたまTVの中に残ってた坂本龍一のドキュメンタリーをちょろっと流し見していたら、自宅に「あるもの」でせっせと制作している姿があった。

庭で撮影した金木犀の画像にセラミックヒューマンをPhotoshopを使って切り貼りしてみる。

今となってはなんのことはない作業なのだけれど、昔は気軽にできなかった。

自宅にあるもので「できるようになる」ことがブリコラージュの出発点だろう。

道具を
持つ/持たない
持てる/持てない
の問題は大きいけれど。

セラミックヒューマンもブリコラージュするための素材ということになるだろう。
November 30, 2024 at 1:03 PM
アンチテーゼとネガティブ・ケイパビリティ(答えのない状況に耐え受け入れる能力)は結びつきやすいだろな。

何かに反対すると、代替案を出せ、と言われる。
案が無くても反対な場合のあって、その状況にはネガティブ・ケイパビリティが必要とされる。

否定から入る会話や思考は苦手だと書いたけれど、その逆も怪しいと思っている。

何かに疑問をもったり反対することが現代美術の根底にあるとすれば、それはどこかで答えがないものに答えを出しているような状況に対してのアンチなんじゃないかなと思う。

現代美術の「わかりにくさ」はネガティブ・ケイパビリティを発動させるためなのではないかと思うくらいだ。
November 23, 2024 at 3:01 PM
「少数派」や「アンチ」であることに価値を置きやすいのは、「群れ」に対する警戒に由来するのかもしれない。

1972年生まれの自分にとっては第二次ベビーブームという「群れ」。「学校」に代表される。

群れ≒社会がなければ生きていけないことはわかりながら。

社会モデルが変革されたとしても大きな「群れ」の中での立ち位置に対しての「違和感」は拭い去れないだろう。

自分にとっての良い人数の「塩梅」を見極めなければ自滅してしまう。

個人のためだけでも、不特定多数のためだけでもない。
「ため」自体を持たなければという考え自体を問うてみたい。
November 21, 2024 at 11:18 PM
個人で美術をやる(現代美術)ことの根幹には「アンチテーゼ」がある。

なので個人を責めたり、リーダーが連名する事象を目にすると「アンチ」が働いてしまう。
気をつけた方がよいし、逆効果だと思う。

問題はそこにないのにわかりやすい「敵」を作って攻撃的になってしまう…。

自分が考える現代美術のアンチテーゼは「個人を守る」ために発動する。
November 16, 2024 at 11:32 PM
規制すれば、そこからはみ出たものが溜まる場所ができる。
禁止すれば抜け道ができる。

「ダメ」を主語にした考えは、清らかで品行方正にみえるが、ダメ側からの反発があるのは目に見えている。
それでも言うのは根っこに粛清したい恨みがあるんだろう。

自分も「これをしてはダメ」「これは形が違うからダメ」等々、会話がマイナスからスタートする時の方が多い。

SNSで何かについて悩みがあるという呟きをしたら「悩む必要はない」という善意の顔をした否定はじまりの語りをされて、つい「悩むことも許されないのか?」と反論してしまいそれきりになったことがある。

否定からの入りと結託に怖さを感じるのだ。
November 15, 2024 at 10:32 PM
先日の加筆。
今まで見てきた様々な景色や作品などありとあらゆるものと、自分の描き「癖」のようなものが合わさって画面が変容していく。

過去の写真を使うと、その当時の感情が湧き上がって来てしまうが、それをうまくいなしたい。

写真を使うということは「今」そのものを重要視する自分のようなタイプにとっては「過去」との対話なんだなと描きながら思った。

なんとなくノスタルジックなものにしない。

そのためには素っ頓狂(すっとんきょう)な絵にするしかない?

地にタルコフスキーの影響があるから、やっぱりノスタルジックになるかもしれない。

絵として過去と対話する。
写真を使う謎に触れた気がする。
November 1, 2024 at 9:47 AM
「人口(主に子供)が多かったからから作品がつくれた」というような発言をアニメーション映画監督から聞いた時に、それはそうなんだろうなと思うと同時に何とも言えない虚しさがあった。

やはりまずは「数」なんだなと。
当たり前の話を「夢」や「希望」が見えなくしていた。

以前は監督の発言、インタビュー等を楽しみにしていたけど、たくさんの人間で作り上げるものから急速に興味が遠のいていっている。

個人主義をかかげても、ひとりだけでは何もできないに等しいんだけどね。

小説があるということは大説があるという話を聞いた時に、小説よりも小さくなったものはあるのだろうか?と思ったものだ。
October 31, 2024 at 4:44 AM
「意味パースペクティブの外」(デジタルコラージュ)

「病気」かどうかの判断は自分ではできないけれど「自閉傾向がある」ということは、「ケアをひらく」シリーズや横道誠さんの著書や配信が「実用」されているということに注目したい。

今ままでうまくいかなかったことが、言語化され整理されるのだ。

そのためには自分も「病気」かもしれないという可能性を持つ必要がある。

それは「病気」が持つマイナスイメージとしてではない可能性だ。
October 22, 2024 at 8:49 AM
「意味パースペクティブの外」(デジタルコラージュ)

「何故絵を描くのか?」というような大きな問いに対して「自分のため」→「自分とは何か?」というような流れを若い頃は意識しがちだったし、コンセプトや現代美術の流れからの逃走としても使っていたと思う。

「自閉と美術」という問い建てをすることで「自分」を自立させることに執着せずに対症療法のような制作態度が可能になり、ずいぶんと楽になる。

そこでやはり世間的に問題になるのは「山下は病気なの?」というような反応だろうと思う。
October 17, 2024 at 4:49 AM
「意味パースペクティブの外」(デジタルコラージュ)

美術史上の立ち位置や政治や社会での立ち位置、批評的な態度を表明する必要はあまり感じていないのだけれど、近年は横道誠さんや医学書院の「ケアをひらく」シリーズに出会ったことで「自閉傾向と美術」という問題意識?を得ることができたのが大きな精神衛生上の救いになっている。

「考え癖」に対して肯定的になれたし、そのことが広く世界の問題意識につながる可能性があることに気がついた。
October 16, 2024 at 4:50 AM
「意識変容」という言葉を知る。
そのまま検索すると「意識障害の状態」となるのだけれど、「意識変容したい」と検索するとのAIの概要では

『意識変容とは、過去の経験や学習、生活環境などによって形成された「意味パースペクティブ」に気づき、それを意図的に変えていこうとする取組みです。』

と出る。
これはある意味、自分が美術でやっていることと似ている。

10代の頃に描いたデッサンについて「世界が無い」と言われた時に批判的な言葉であったものが転じて「世界が描けるかもしれない」という肯定になった時の感じとにている。

意識変容は障害かもしれないが意味に支配された空間からの脱出と考えることもできる。
October 11, 2024 at 10:28 PM
左側が加筆前
右側が加筆後

油彩再開

自己内の「加筆」という概念を再構成する試み。

「目からビーム」という感じで描く「何かを横切らせる」というように、動的な加筆としてみる。

現実では「目からビーム」や「何か」は出ないんだけど「仮に出た」としていったん固定する。
といった感じだろうか。

いわゆる黒子/後見/ピアノ線…のような見えないとする存在が「目からビーム」的なものを成り立たせているとすると、今の自分にとって「描く」ということに黒子の役割をさせていることになるのだろう。
October 5, 2024 at 9:42 PM
「共感を呼ぶ」という感覚が希薄で、美大に行ったのに「自分の作品を欲しいと思う気持ちがわからかい」などと平気で語っていた。

今も変わってないところがあるけれど、自分にとって必要なものは他者にも必要な場合があると思えるようになってきた。

クートラスの影響もあるかもしれない。

一点ものの作品は、パーソナルな存在で、それを所有するということはある種の共感なのかもしれないなどと巡り巡りしている。
October 2, 2024 at 4:35 AM
「ほどほどに」という言葉をわりと肯定的に捉えることができるようになったのは堂島ムジカ時代のTeaさんと話してから。

一杯の紅茶でさんざん粘る客等、様々なものに対して「ほどほどに」してほしいという願いでもある。

嫌いなものも完全に排除しようとすると…

「ほどほどに」である。

若いほどなかなか納得できない考えであるから信憑性がある。

全肯定と全否定が交互にやってくると病みやすい。
自閉気味なものが回避が難しいからこその「ほどほどに」なんやろな。
October 1, 2024 at 4:47 AM
システムの中に組み込まれていながらも「行為/デッサン」自体が持つ脱システム?の要素を巧みに嗅ぎ取り、行為自体をシステムの上に置く、というのが若い頃の処世術だった。

それは諸刃の剣で、デッサン至上主義に陥り、方法の奴隷になりかねなかった。

行為自体の神格化ではなく、巧みで姑息?な「処世術」としての行為が必要だったと今となれば思える。

生きづらさへの処世術。

と言ったほうがしっくりくる。
September 18, 2024 at 4:50 AM
「中動態」に興味をもったのは、受動/能動といったはっきりとした区別にモヤモヤがあったからだろう。

受験という受け身な仕組みに能動的にのぞまなければならないあの感じ。

必死でデッサンをやっても、入学したらほとんどの人は燃え尽きたり、それをやらなくなるあの感じ。

自分はその時エアーポケットにはまったような状態だったのかもしれない。
受動と能動の間に入った。

積極的に自分からやっているようでやらされている感じ。
試験に受かるために頑張ってもはみ出してしまう感じ。

そのことがモノとして、紙に描いたデッサンに残った。

はっきりさせないための仕方として。
September 17, 2024 at 4:04 AM
「安全に狂う方法」を読みながら、ふとSNSは自分にとって自己開示衝動の実現だけでなくと儀式の側面があるのでは?と思った。

お供え物をするような
儀礼
September 16, 2024 at 7:01 AM
「安全に狂う方法」を読みはじめた。

アデクションは生きづらさを緩和しようとして発見した「セルフ緩和ケア」である。というような言葉。

デッサンを受験のために能動的にはじめなければならなかったとして、それが即「生きづらの緩和」につながる実感があったんだろな。

自分にとってデッサンは「セルフ緩和ケア」の役割をもつ。

それは白い紙/ゼロから世界を立ち上げることができたという「成功体験」が「生きづらさの緩和」として作用する、と同時にアデクション/固着を引き起こす。

(画像は授業のデモンストレーションで10分くらい描いたアリアス像。)
September 15, 2024 at 2:42 PM