なんとなく中途半端で止まってたので投稿。2024年もたくさん観れたぞ〜
なんとなく中途半端で止まってたので投稿。2024年もたくさん観れたぞ〜
映画の主要人物は顔でわかるというけど、田代まさしのそれですら特異な顔として機能せず、駅の中に、競馬場の中に、バスの中に他の群衆と同じようまぎれている。
当然のに挿入される街景のロングショットは、そこにいるそれぞれにささやかな人生があり、これから物語られる田代まさしのそれも同じくそういった取るに足らないものであることを雄弁に示す。
ふぃにロングショットから大胆にバストアップの切り返しに転じるレストランのシーンの気まずさ。ストーリー的には強引に向けられる少年野球へのエール。それは、この田代まさしのような孤独な瞬間を抱えた、街の、それぞれ孤独な僕らに向けられたものなんだと思う。
映画の主要人物は顔でわかるというけど、田代まさしのそれですら特異な顔として機能せず、駅の中に、競馬場の中に、バスの中に他の群衆と同じようまぎれている。
当然のに挿入される街景のロングショットは、そこにいるそれぞれにささやかな人生があり、これから物語られる田代まさしのそれも同じくそういった取るに足らないものであることを雄弁に示す。
ふぃにロングショットから大胆にバストアップの切り返しに転じるレストランのシーンの気まずさ。ストーリー的には強引に向けられる少年野球へのエール。それは、この田代まさしのような孤独な瞬間を抱えた、街の、それぞれ孤独な僕らに向けられたものなんだと思う。
ひりつくような障がい者アーティストのきらめきのうらに、しかし確実匂わせている死の存在。のんびりと自転車で駆けてくるシゲちゃんにすら切迫感がある。
「元気ですか?」と問いかけるシゲちゃんは今も存命だけど、しかしそれは確実に過去なのだよな、と思うと、『SELF AND OTHERS』の牛腸茂雄の死者の声と同質なのではないか、と思う。有頂天が「卒業生の誰もが 100年後にはもういない」と歌っていたけど、フィルムとは過去を記録するメディアである。いつかはシゲちゃんも死ぬ。私も死ぬ。佐藤真も居なくなってしまった。しかし映画は残り続けるだろう。僕たちは平気で『サンライズ』を観るのだ。
ひりつくような障がい者アーティストのきらめきのうらに、しかし確実匂わせている死の存在。のんびりと自転車で駆けてくるシゲちゃんにすら切迫感がある。
「元気ですか?」と問いかけるシゲちゃんは今も存命だけど、しかしそれは確実に過去なのだよな、と思うと、『SELF AND OTHERS』の牛腸茂雄の死者の声と同質なのではないか、と思う。有頂天が「卒業生の誰もが 100年後にはもういない」と歌っていたけど、フィルムとは過去を記録するメディアである。いつかはシゲちゃんも死ぬ。私も死ぬ。佐藤真も居なくなってしまった。しかし映画は残り続けるだろう。僕たちは平気で『サンライズ』を観るのだ。
ホン・サンスは反復を恐れない。独特のズームなどの手法もそうだけど、劇中で映画監督が呼ばれればそれはクォン・ヘリョだし、詩人と言ったらキ・ジュボンなのである。撮影所時代の映画や、手塚漫画のスターシステムみたいな安心感。
物語性のない会話すらも反復で、きしたかののYouTubeで天気の話だけをする映画の回とかを想起するような他愛もなさ。そのリアルすぎる会話が洗練された反復の中で反対に劇性を帯びてくる。
終盤の仕掛けで、その劇性のなさが反転し、フィクションこそがまさに現実に、その外の方がむしろフィクションになる。初めて『桜桃の味』とかエヴァの旧劇のあれとか観た時の感覚だった。
ホン・サンスは反復を恐れない。独特のズームなどの手法もそうだけど、劇中で映画監督が呼ばれればそれはクォン・ヘリョだし、詩人と言ったらキ・ジュボンなのである。撮影所時代の映画や、手塚漫画のスターシステムみたいな安心感。
物語性のない会話すらも反復で、きしたかののYouTubeで天気の話だけをする映画の回とかを想起するような他愛もなさ。そのリアルすぎる会話が洗練された反復の中で反対に劇性を帯びてくる。
終盤の仕掛けで、その劇性のなさが反転し、フィクションこそがまさに現実に、その外の方がむしろフィクションになる。初めて『桜桃の味』とかエヴァの旧劇のあれとか観た時の感覚だった。
映画なんてもう観なくていいのでは?とおもいつつ『灼熱のドッジボール』が観れたのは歓喜 『きみの色』は久々の心のベストテン第1位だった
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瀬田なつきモチベからのギヨーム・ブラックの夏。
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