徒然草
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歴史関係のつぶやきが多いです。
主に織豊期に関連する論考をnoteにまとめています→ https://note.com/turedure7014/portal
ミス
【誤】『戦国遺文』武田氏編
→【正】『戦国遺文』今川氏編

『戦国遺文』武田氏編では1410号
December 3, 2025 at 2:48 PM
知識そのものの価値が押し下げられた結果、「知識は誰にでも開かれており、誰しもが発言をする権利を持つ」が恣意的に解釈され、「知識は誰にでも開かれており、〈私は正しい知識を取得しているが故に〉誰しもが発言する権利を持つ〈中で私の意見が尊重されるべきだ〉」という独善的な思考に陥る危険性が発生する。本来は意見の発言には相手の立場の尊重など様々なルールがあるにも関わらず、独りよがりな押し付けこそが正義という無意識な風潮が生まれてきたのではないかと思う。

そして、この風潮は学問の世界だけではなく政治や社会にも浸透しつつあり今後の社会を大いに苦しめるリスクとなり得るのではないかと推察する。
October 20, 2025 at 3:10 PM
ただ、悲しいことではあるが、例えば戦争の当事者となっている国々が「私たちは民族の多様性を守ります」みたいな言葉を流している様子を見るとすごく複雑な思いがした。恐らくそのような言葉は今後信頼することは出来ないだろうし、お互いの行動に対してどれだけ小さくとも疑念の芽が生じることになるのは不可避なのだろうと思う。現代の世界情勢のせいで関西万博のような大規模な世界的イベントを心底から楽しめないのは本当に残念、そして、恐らくは無条件で他国のことを信頼するような言動が出来ないのは悲しいことだと感じてしまった。
May 17, 2025 at 12:39 PM
今年書いた記事の振り返り③

「「田嶋家文書」酒井忠次宛佐久間信盛書状の考察」
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もともと佐久間信盛の書状をずっと取りまとめていたなかで偶然発見できた写真版から指摘できることをまとめた内容。書状の読み下しだけではなく花押型を確認しておいたことが功を奏した。

この記事では丸島和洋が『戦国大名の「外交」』他で明らかにした戦国大名の取次の実態を織田家にも適用できることを指摘できた。具体的には対武田氏において上杉輝虎(謙信)との同盟を結んだ徳川家康の意向を汲み取り、取次の佐久間信盛が信長に親武田氏の路線を翻意させようとしていたこと。
「田嶋家文書」酒井忠次宛佐久間信盛書状の考察|徒然なるままに
本稿では、以下の書状について検討してみたい。 「(包紙ウハ書) 酒左/御宿所   信盛」  猶以先度御馬被懸御意、畏入候、将又拙者江刕留守之刻、御用之事好斎懇ニ申置候、自然之事、可被仰付候、然者先好斎へ貴所より書状にて御理尤候、 先度参候処、御取成故、貴殿御気色能、御懇之儀共本望候、仍御一書之通、信長具申聞候、御存分、先以無余儀之由候、従越国近日佐々一兵衛可罷上候、甲使者種々雖申掠候、被仰聞候...
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December 31, 2024 at 12:27 PM
今年書いた記事の振り返り②

「織田信長の偏諱授与-その実態、家中秩序の形成に関連する一試案-」
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きっかけはX上で言及された木下長秀(後の豊臣秀長)の「長」が信長からの偏諱とする指摘や無秩序的に信長の偏諱授与と関連づける議論から「果たして諸史料から信長の偏諱授与が何処まで確認できるのか」を疑問に思ったことから。

関連する一次史料がほとんど無いものの、編纂史料の関連記事を精査できたことや織田家中の家臣たちの実名から推測できる信長の偏諱授与の実態など自分の意見を持つことが出来たことは有意義であったと思いたい。
織田信長の偏諱授与-その実態、家中秩序の形成に関連する一試案-|徒然なるままに
はじめに  本稿では、織田信長の偏諱授与に関する個別の事例を取り上げ、その実態を考察することを目的とした。考察対象とする事例は、古文書や古記録といった一次史料の他に家譜類や系図史料といった編纂史料からも抽出した。また、史料の記述は存在しないが、近年の研究や一次史料で確認できる実名からの推測に基づいて信長から偏諱を与えられた可能性が想定できる人物、以前に別稿で考察した松平信康については【補論①~④...
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December 31, 2024 at 12:12 PM
池上本は、学術的考察に基づき信長の流通・交通政策は評価するものの家臣団統制や村落支配を疎かにしていた部分を指摘し、さらに戦国大名や民衆と敵対して殺戮を積み重ねる信長の残虐性を徹底的に非難しているというのが個人的な感想。ただ、このシンポジウムでは「天下静謐」を掲げて戦国大名たちとの共存を図ろうとしたのが信長の基本政策であり、延暦寺焼き討ち、浅井氏や武田氏との敵対については政治的側面や面子を潰された恨みであった可能性が座談会の振り返り(神田千里筆)で挙げられている。

改めてこの時期に提起された信長像は史料の残存状況という制約を含みながらも歴史研究においてはスタンダードなものになったと実感。
December 28, 2024 at 3:50 AM
武田信方は永禄十一年十二月に「上意」を受けて遠敷郡賀茂荘の社納の違乱を停止する等、幕府方に属する姿勢を明示していた。

本書状では「仍就御知行之儀、信長へ御理之筋目無別儀候趣御報申候」と信方が中川重政を通じて信長に「御知行之儀」を説明をしていること、「然者被対 公儀、無御油断之通尤珍重候」と述べていることから上記の違乱停止に関連する書状と考えられるか。つまり、武田氏は幕臣上野氏を通じて義昭に、中川重政を通じて信長に接触していた。

本書状を加えた複数の史料群から、織田家中において中川重政は若狭武田氏との取次を務めていた一人として考えられるか。
December 25, 2024 at 4:54 AM
信長が家中統制に偏諱を用いなかったことは、織田家中で「信」「長」の使用が「避諱」されていなかったことからも推察できる。佐久間信盛(息「信栄」)や丹羽長秀(父「長政」、息「長重」)といった家臣は家の通字を優先している。

しかし、天正五〜六年頃に信長が公家衆(近衛信基、鷹司信房)や戦国大名(長宗我部信親)に偏諱を与えるようになると、信盛が「定盛」に改名しているように織田家中では「信」の使用が憚られる。これは、室町将軍家と同様、もしくは超越する権威を有するようになった信長政権(権力)が儀礼的・家格的秩序の形成を志向するようになりつつあった証拠といえるのではなかろうか。
December 20, 2024 at 1:29 PM
具体的には甲斐国山梨郡下井尻村の依田与右衛門長安の事例である。彼はイエの由緒を整備し、先祖代々の武功とともに武田信玄や羽柴秀吉から得た感状や石田三成知行目録をまとめた由緒書を作り、自分一代限りで認められていた浪人身分を世襲させることに成功した。しかし、これらのイエの歴史は全て「捏造」であり、長安は浪人身分という名誉を獲得するために多数の偽文書を作成したというのである。

浪人身分は名字帯刀免許状が出される訳でもなく、軍役の負担や扶持の給付を受ける訳でもないのに長安の創造意欲には凄まじい執念を感じる。さらに、そこには過去・現在・未来を意識した行動理念を感じるのが面白かった。
December 14, 2024 at 3:35 AM
これらのイメージは表裏一体のようなものであり、秀吉の期待に最大限に応えないと、秀吉側近から肥後北半国の大名に抜擢された恩義に報いることが出来ない/他の大名のような改易される憂き目に遭う恐怖があったからこそ「際限なき軍役」と称されるような領国の疲弊を感じ取りつつもあらゆる人的・物的資源を戦争に導入するような徹底化が行われたのだろうと感じた。そして、この朝鮮出兵において猛将としての存在感を示したことが諸大名から一目置かれる存在になった理由であったことは想像に難くない。

しかし、このような加藤領国化の戦時体制は将来に禍根を残し、結果的に家光時代に改易となったという結論も納得できた。
December 10, 2024 at 5:30 AM