主に織豊期に関連する論考をnoteにまとめています→ https://note.com/turedure7014/portal
【誤】『戦国遺文』武田氏編
→【正】『戦国遺文』今川氏編
『戦国遺文』武田氏編では1410号
【誤】『戦国遺文』武田氏編
→【正】『戦国遺文』今川氏編
『戦国遺文』武田氏編では1410号
そして、この風潮は学問の世界だけではなく政治や社会にも浸透しつつあり今後の社会を大いに苦しめるリスクとなり得るのではないかと推察する。
そして、この風潮は学問の世界だけではなく政治や社会にも浸透しつつあり今後の社会を大いに苦しめるリスクとなり得るのではないかと推察する。
「「田嶋家文書」酒井忠次宛佐久間信盛書状の考察」
note.com/turedure7014...
もともと佐久間信盛の書状をずっと取りまとめていたなかで偶然発見できた写真版から指摘できることをまとめた内容。書状の読み下しだけではなく花押型を確認しておいたことが功を奏した。
この記事では丸島和洋が『戦国大名の「外交」』他で明らかにした戦国大名の取次の実態を織田家にも適用できることを指摘できた。具体的には対武田氏において上杉輝虎(謙信)との同盟を結んだ徳川家康の意向を汲み取り、取次の佐久間信盛が信長に親武田氏の路線を翻意させようとしていたこと。
「「田嶋家文書」酒井忠次宛佐久間信盛書状の考察」
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もともと佐久間信盛の書状をずっと取りまとめていたなかで偶然発見できた写真版から指摘できることをまとめた内容。書状の読み下しだけではなく花押型を確認しておいたことが功を奏した。
この記事では丸島和洋が『戦国大名の「外交」』他で明らかにした戦国大名の取次の実態を織田家にも適用できることを指摘できた。具体的には対武田氏において上杉輝虎(謙信)との同盟を結んだ徳川家康の意向を汲み取り、取次の佐久間信盛が信長に親武田氏の路線を翻意させようとしていたこと。
「織田信長の偏諱授与-その実態、家中秩序の形成に関連する一試案-」
note.com/turedure7014...
きっかけはX上で言及された木下長秀(後の豊臣秀長)の「長」が信長からの偏諱とする指摘や無秩序的に信長の偏諱授与と関連づける議論から「果たして諸史料から信長の偏諱授与が何処まで確認できるのか」を疑問に思ったことから。
関連する一次史料がほとんど無いものの、編纂史料の関連記事を精査できたことや織田家中の家臣たちの実名から推測できる信長の偏諱授与の実態など自分の意見を持つことが出来たことは有意義であったと思いたい。
「織田信長の偏諱授与-その実態、家中秩序の形成に関連する一試案-」
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きっかけはX上で言及された木下長秀(後の豊臣秀長)の「長」が信長からの偏諱とする指摘や無秩序的に信長の偏諱授与と関連づける議論から「果たして諸史料から信長の偏諱授与が何処まで確認できるのか」を疑問に思ったことから。
関連する一次史料がほとんど無いものの、編纂史料の関連記事を精査できたことや織田家中の家臣たちの実名から推測できる信長の偏諱授与の実態など自分の意見を持つことが出来たことは有意義であったと思いたい。
改めてこの時期に提起された信長像は史料の残存状況という制約を含みながらも歴史研究においてはスタンダードなものになったと実感。
改めてこの時期に提起された信長像は史料の残存状況という制約を含みながらも歴史研究においてはスタンダードなものになったと実感。
本書状では「仍就御知行之儀、信長へ御理之筋目無別儀候趣御報申候」と信方が中川重政を通じて信長に「御知行之儀」を説明をしていること、「然者被対 公儀、無御油断之通尤珍重候」と述べていることから上記の違乱停止に関連する書状と考えられるか。つまり、武田氏は幕臣上野氏を通じて義昭に、中川重政を通じて信長に接触していた。
本書状を加えた複数の史料群から、織田家中において中川重政は若狭武田氏との取次を務めていた一人として考えられるか。
本書状では「仍就御知行之儀、信長へ御理之筋目無別儀候趣御報申候」と信方が中川重政を通じて信長に「御知行之儀」を説明をしていること、「然者被対 公儀、無御油断之通尤珍重候」と述べていることから上記の違乱停止に関連する書状と考えられるか。つまり、武田氏は幕臣上野氏を通じて義昭に、中川重政を通じて信長に接触していた。
本書状を加えた複数の史料群から、織田家中において中川重政は若狭武田氏との取次を務めていた一人として考えられるか。
しかし、天正五〜六年頃に信長が公家衆(近衛信基、鷹司信房)や戦国大名(長宗我部信親)に偏諱を与えるようになると、信盛が「定盛」に改名しているように織田家中では「信」の使用が憚られる。これは、室町将軍家と同様、もしくは超越する権威を有するようになった信長政権(権力)が儀礼的・家格的秩序の形成を志向するようになりつつあった証拠といえるのではなかろうか。
しかし、天正五〜六年頃に信長が公家衆(近衛信基、鷹司信房)や戦国大名(長宗我部信親)に偏諱を与えるようになると、信盛が「定盛」に改名しているように織田家中では「信」の使用が憚られる。これは、室町将軍家と同様、もしくは超越する権威を有するようになった信長政権(権力)が儀礼的・家格的秩序の形成を志向するようになりつつあった証拠といえるのではなかろうか。
浪人身分は名字帯刀免許状が出される訳でもなく、軍役の負担や扶持の給付を受ける訳でもないのに長安の創造意欲には凄まじい執念を感じる。さらに、そこには過去・現在・未来を意識した行動理念を感じるのが面白かった。
浪人身分は名字帯刀免許状が出される訳でもなく、軍役の負担や扶持の給付を受ける訳でもないのに長安の創造意欲には凄まじい執念を感じる。さらに、そこには過去・現在・未来を意識した行動理念を感じるのが面白かった。
しかし、このような加藤領国化の戦時体制は将来に禍根を残し、結果的に家光時代に改易となったという結論も納得できた。
しかし、このような加藤領国化の戦時体制は将来に禍根を残し、結果的に家光時代に改易となったという結論も納得できた。