感傷とともに歩き続けると、前方に小さな灯りが見えてきた。脇に四角い建屋がシルエットとなって浮かび上がっている。本来Kが降車するはずだった終点、野上北の停車場だった。
バスを待つ乗客などいないと停車場を通り過ぎたKの背後から、雨音に紛れて人の気配が現れた。
「Kェ‼︎」
気配はぬかるんだ道の泥を派手に飛び散らせて慌てた様にKに追い縋った。
「え、なんで歩いてるの⁈バスは⁈ちょっと、ずぶ濡れじゃないですか‼︎」
感傷とともに歩き続けると、前方に小さな灯りが見えてきた。脇に四角い建屋がシルエットとなって浮かび上がっている。本来Kが降車するはずだった終点、野上北の停車場だった。
バスを待つ乗客などいないと停車場を通り過ぎたKの背後から、雨音に紛れて人の気配が現れた。
「Kェ‼︎」
気配はぬかるんだ道の泥を派手に飛び散らせて慌てた様にKに追い縋った。
「え、なんで歩いてるの⁈バスは⁈ちょっと、ずぶ濡れじゃないですか‼︎」
そう気づいてからは、引き潮のようにKの心は幸福から遠のいてしまった。
けれども富永と一緒にいればやはり嬉しくて心が弾み、触れれば例えようのない愉楽を得られた。
手放すなら傷が浅いうちの方が良い。
富永は傷、だろうか。
益体もないことを考える。どうやら今は、かつてのように思考を活性化させる歩行ではなく、むしろあてもなく迷路を進む抑鬱の状態にあった。雨如きでは動じることなどなかったKをこのように軟弱にしたのは、明らかに富永の影響だった。
そう気づいてからは、引き潮のようにKの心は幸福から遠のいてしまった。
けれども富永と一緒にいればやはり嬉しくて心が弾み、触れれば例えようのない愉楽を得られた。
手放すなら傷が浅いうちの方が良い。
富永は傷、だろうか。
益体もないことを考える。どうやら今は、かつてのように思考を活性化させる歩行ではなく、むしろあてもなく迷路を進む抑鬱の状態にあった。雨如きでは動じることなどなかったKをこのように軟弱にしたのは、明らかに富永の影響だった。
彼らは互いの手に触れ、身体の線を辿って抱擁を交わし、唇を重ねた。言葉は不要だった。
人の生においてこれほどの喜びがあるとKは知らず、歓喜の波は際限なく訪れた。彼とともに過ごす日々は、確かに幸福である。——永遠に続くならば。
富永は時々、村を出る。西海大医局に今も籍を置く彼は、同輩と勉強会をするのである。それは時に泊まりの日程になることもあって、一度富永と過ごす夜を経験してしまったKにとっては、酷く心許ない時間となった。
彼らは互いの手に触れ、身体の線を辿って抱擁を交わし、唇を重ねた。言葉は不要だった。
人の生においてこれほどの喜びがあるとKは知らず、歓喜の波は際限なく訪れた。彼とともに過ごす日々は、確かに幸福である。——永遠に続くならば。
富永は時々、村を出る。西海大医局に今も籍を置く彼は、同輩と勉強会をするのである。それは時に泊まりの日程になることもあって、一度富永と過ごす夜を経験してしまったKにとっては、酷く心許ない時間となった。
診療所で患者に相対するのは自分だけった。一年あまり前までは。
現在は西海大からの派遣医が常駐している。
彼は心根の良い人物で、強い意志が宿った瞳と直情的な言動はKの心にひどく響いた。一目惚れなど都市伝説で、フィクションの中だけにしか存在せず己とは無縁だと諦念していた。しかし、一度芽吹いた俗に言う恋心は容易に消せず、無視することも叶わず、いたずらにKを苛んだ。
相手もまたKと同じくKに恋をしていたことを知ったのは、ひとえに相手が心情の秘匿を得手としていなかったからである。
診療所で患者に相対するのは自分だけった。一年あまり前までは。
現在は西海大からの派遣医が常駐している。
彼は心根の良い人物で、強い意志が宿った瞳と直情的な言動はKの心にひどく響いた。一目惚れなど都市伝説で、フィクションの中だけにしか存在せず己とは無縁だと諦念していた。しかし、一度芽吹いた俗に言う恋心は容易に消せず、無視することも叶わず、いたずらにKを苛んだ。
相手もまたKと同じくKに恋をしていたことを知ったのは、ひとえに相手が心情の秘匿を得手としていなかったからである。
そのことを考えるとある種の衝動が一人少年を襲った。家族に起きた悲劇と、救えたかも知れない命の行方と結末の非常さに、時に何もかもを投げ出したい捨て鉢な激情に駆られそうになった。
実行すべきではなかった。神代家は代々村人の命を預かる一族だ。一人少年は村人を捨てる非常さを持ち得なかった。
彼にできた唯一の抵抗、あるいはささやかな自暴自棄が、帰宅を先延ばしにする、ただそれだけであった。
そのことを考えるとある種の衝動が一人少年を襲った。家族に起きた悲劇と、救えたかも知れない命の行方と結末の非常さに、時に何もかもを投げ出したい捨て鉢な激情に駆られそうになった。
実行すべきではなかった。神代家は代々村人の命を預かる一族だ。一人少年は村人を捨てる非常さを持ち得なかった。
彼にできた唯一の抵抗、あるいはささやかな自暴自棄が、帰宅を先延ばしにする、ただそれだけであった。
他者は神代一人を塾も通わず家庭教師も付けていないのに常に成績優秀だと誉めそやす。実際はただ単に努力の賜物である。
一度だけ、授業の復習以外でバスを途中下車したことがあった。高校の卒業間近で、父が母の遺骨とともに失踪してから数年が経っていた。執事の村井に次代のKとしての技術を叩き込まれた末に、村井はある時を堺に透明の境界を敷いた。
他者は神代一人を塾も通わず家庭教師も付けていないのに常に成績優秀だと誉めそやす。実際はただ単に努力の賜物である。
一度だけ、授業の復習以外でバスを途中下車したことがあった。高校の卒業間近で、父が母の遺骨とともに失踪してから数年が経っていた。執事の村井に次代のKとしての技術を叩き込まれた末に、村井はある時を堺に透明の境界を敷いた。
国道には街灯がない。街場ならいざ知らず、山間部に配備して管理するほど車通りがないのだ。せいぜい等間隔に反射板を貼り付けるていどで、これも通る車がなければただの板に過ぎず、Kの足元を照らしたりなどしない。
黙々と雨の中をKは歩く。足は脳を刺激する。様々なことを考える。現在抱えている患者のこと、新しい術式、薬価が高く使用を躊躇う新薬、あの時あの治療をしていれば。
国道には街灯がない。街場ならいざ知らず、山間部に配備して管理するほど車通りがないのだ。せいぜい等間隔に反射板を貼り付けるていどで、これも通る車がなければただの板に過ぎず、Kの足元を照らしたりなどしない。
黙々と雨の中をKは歩く。足は脳を刺激する。様々なことを考える。現在抱えている患者のこと、新しい術式、薬価が高く使用を躊躇う新薬、あの時あの治療をしていれば。
「この近くが家なんだ。次の停車場だと行き過ぎる」
見知った顔の運転士だ。向こうもKが終点まで乗ることを知っているだろう。しかしこの天候、この道がしばしば土砂崩れを起こすことは国道を走る者ならみな知っている。
「降ろしてくれないか」
運転士は無言だった。バスは左ウィンカーを出し、回転場に入る。始発から乗っているからバス券はない。ここまでの運賃を払い、降車するKの背中に「お気をつけて」と声がかかった。
土砂降りの中をバスは今来たばかりの道を引き返して行く。テールライトが遠ざかり、やがて山の影に消えていった
「この近くが家なんだ。次の停車場だと行き過ぎる」
見知った顔の運転士だ。向こうもKが終点まで乗ることを知っているだろう。しかしこの天候、この道がしばしば土砂崩れを起こすことは国道を走る者ならみな知っている。
「降ろしてくれないか」
運転士は無言だった。バスは左ウィンカーを出し、回転場に入る。始発から乗っているからバス券はない。ここまでの運賃を払い、降車するKの背中に「お気をつけて」と声がかかった。
土砂降りの中をバスは今来たばかりの道を引き返して行く。テールライトが遠ざかり、やがて山の影に消えていった
運転士が速度を落とし始めた。あと二駅で終点だ。Kのほか、客はいない。そして最終バスである。
カーブが多く側道が少ない国道には反対車線に戻るための回転場が設けられている。確か、その一つが近づいていた筈だ。
座席から立ち上がって、Kは運転士の元へ歩いた。
「次の回転場で降ろしてくれ」
驚いた気配はしたが、運転士はフロントとバックミラーとサイドミラーを忙しなく巡る視線の動きを止めなかった。
運転士が速度を落とし始めた。あと二駅で終点だ。Kのほか、客はいない。そして最終バスである。
カーブが多く側道が少ない国道には反対車線に戻るための回転場が設けられている。確か、その一つが近づいていた筈だ。
座席から立ち上がって、Kは運転士の元へ歩いた。
「次の回転場で降ろしてくれ」
驚いた気配はしたが、運転士はフロントとバックミラーとサイドミラーを忙しなく巡る視線の動きを止めなかった。
確か、今夜あたりに低気圧が通過するのだったか。
確か、今夜あたりに低気圧が通過するのだったか。
眠っていたわけではない。バスのエンジン音に混じるタイヤとアスファルトの摩擦音から、自分の現在位置を測っていた。国道は老朽化が進んでもはや酷道と成り果てている。にも関わらず修繕されないのは、交通量の少なさゆえに補修計画が限界まで後回しにされているからだ。不規則な振動と聴覚からの情報で、だいたいどのあたりを走っているのかを想像する。風景を眺めれば現在位置など一目瞭然だが、Kはこのように視覚を遮断し、残る感覚を研ぎ澄まして外界を探る癖があった。これは集中力の訓練でもある。
眠っていたわけではない。バスのエンジン音に混じるタイヤとアスファルトの摩擦音から、自分の現在位置を測っていた。国道は老朽化が進んでもはや酷道と成り果てている。にも関わらず修繕されないのは、交通量の少なさゆえに補修計画が限界まで後回しにされているからだ。不規則な振動と聴覚からの情報で、だいたいどのあたりを走っているのかを想像する。風景を眺めれば現在位置など一目瞭然だが、Kはこのように視覚を遮断し、残る感覚を研ぎ澄まして外界を探る癖があった。これは集中力の訓練でもある。