うるか
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うるか
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富K
避難場所
たまった水たまりに突っ込んだ革靴が濡れた感触がした。空から落ちてくる水分、もしも富永が村を去ってしまったら、己から出る水分はこのようなものかも知れない。片恋をしていた頃以上にKは苦しんだ。
感傷とともに歩き続けると、前方に小さな灯りが見えてきた。脇に四角い建屋がシルエットとなって浮かび上がっている。本来Kが降車するはずだった終点、野上北の停車場だった。
バスを待つ乗客などいないと停車場を通り過ぎたKの背後から、雨音に紛れて人の気配が現れた。
「Kェ‼︎」
気配はぬかるんだ道の泥を派手に飛び散らせて慌てた様にKに追い縋った。
「え、なんで歩いてるの⁈バスは⁈ちょっと、ずぶ濡れじゃないですか‼︎」
December 19, 2025 at 8:21 AM
西海大に籍がある。派遣医である。富永は、ただ縁があって一時的に村にいるだけなのだ。
そう気づいてからは、引き潮のようにKの心は幸福から遠のいてしまった。
けれども富永と一緒にいればやはり嬉しくて心が弾み、触れれば例えようのない愉楽を得られた。
手放すなら傷が浅いうちの方が良い。
富永は傷、だろうか。
益体もないことを考える。どうやら今は、かつてのように思考を活性化させる歩行ではなく、むしろあてもなく迷路を進む抑鬱の状態にあった。雨如きでは動じることなどなかったKをこのように軟弱にしたのは、明らかに富永の影響だった。
December 19, 2025 at 8:19 AM
富永研太はKに好きだとか愛しているとかそんなことは一切言わなかった。その代わり瞳は雄弁で、Kの方は無限実行を得意としていた。
彼らは互いの手に触れ、身体の線を辿って抱擁を交わし、唇を重ねた。言葉は不要だった。
人の生においてこれほどの喜びがあるとKは知らず、歓喜の波は際限なく訪れた。彼とともに過ごす日々は、確かに幸福である。——永遠に続くならば。
富永は時々、村を出る。西海大医局に今も籍を置く彼は、同輩と勉強会をするのである。それは時に泊まりの日程になることもあって、一度富永と過ごす夜を経験してしまったKにとっては、酷く心許ない時間となった。
December 19, 2025 at 8:18 AM
今もまた、似たような状況かも知れないと他人事のようにKは思う。
診療所で患者に相対するのは自分だけった。一年あまり前までは。
現在は西海大からの派遣医が常駐している。
彼は心根の良い人物で、強い意志が宿った瞳と直情的な言動はKの心にひどく響いた。一目惚れなど都市伝説で、フィクションの中だけにしか存在せず己とは無縁だと諦念していた。しかし、一度芽吹いた俗に言う恋心は容易に消せず、無視することも叶わず、いたずらにKを苛んだ。
相手もまたKと同じくKに恋をしていたことを知ったのは、ひとえに相手が心情の秘匿を得手としていなかったからである。
December 19, 2025 at 8:17 AM
これ以上は深入りしない、なぜなら、私はあなたの側に居られないから——そのように一人少年は受け取り、それは現実になるだろう。
そのことを考えるとある種の衝動が一人少年を襲った。家族に起きた悲劇と、救えたかも知れない命の行方と結末の非常さに、時に何もかもを投げ出したい捨て鉢な激情に駆られそうになった。
実行すべきではなかった。神代家は代々村人の命を預かる一族だ。一人少年は村人を捨てる非常さを持ち得なかった。
彼にできた唯一の抵抗、あるいはささやかな自暴自棄が、帰宅を先延ばしにする、ただそれだけであった。
December 18, 2025 at 2:40 PM
こうしてバスを途中で降りて歩くことは何度かあった。そのほとんどは高校時代に集中している。家では医学の勉強が中心になるから、歩きながら学校の授業の復習をした。バスの時間では足りなくてあえて歩いたのだ。
他者は神代一人を塾も通わず家庭教師も付けていないのに常に成績優秀だと誉めそやす。実際はただ単に努力の賜物である。
一度だけ、授業の復習以外でバスを途中下車したことがあった。高校の卒業間近で、父が母の遺骨とともに失踪してから数年が経っていた。執事の村井に次代のKとしての技術を叩き込まれた末に、村井はある時を堺に透明の境界を敷いた。
December 18, 2025 at 2:38 PM
マントの肩に雨は降り注ぐ。Kの頭部もまた同様で、額やこめかみを雨が伝って流れていく。蒸し暑いが寒さは感じない。梅雨末期の大雨だった。
国道には街灯がない。街場ならいざ知らず、山間部に配備して管理するほど車通りがないのだ。せいぜい等間隔に反射板を貼り付けるていどで、これも通る車がなければただの板に過ぎず、Kの足元を照らしたりなどしない。
黙々と雨の中をKは歩く。足は脳を刺激する。様々なことを考える。現在抱えている患者のこと、新しい術式、薬価が高く使用を躊躇う新薬、あの時あの治療をしていれば。
December 18, 2025 at 2:26 PM
いや、でも、お客さん」
「この近くが家なんだ。次の停車場だと行き過ぎる」
見知った顔の運転士だ。向こうもKが終点まで乗ることを知っているだろう。しかしこの天候、この道がしばしば土砂崩れを起こすことは国道を走る者ならみな知っている。
「降ろしてくれないか」
運転士は無言だった。バスは左ウィンカーを出し、回転場に入る。始発から乗っているからバス券はない。ここまでの運賃を払い、降車するKの背中に「お気をつけて」と声がかかった。
土砂降りの中をバスは今来たばかりの道を引き返して行く。テールライトが遠ざかり、やがて山の影に消えていった
December 18, 2025 at 2:25 PM
泉平の街を出た時はまだ明るかった。夏至前の太陽は地上に長く手を伸ばすものだが、さすがに嵐には勝てないようだ。みるみるうちに雨は強くなってバスの車体を殴打し、地面に跳ね返って煙り、谷底の川を茶色く濁らせていく。
運転士が速度を落とし始めた。あと二駅で終点だ。Kのほか、客はいない。そして最終バスである。
カーブが多く側道が少ない国道には反対車線に戻るための回転場が設けられている。確か、その一つが近づいていた筈だ。
座席から立ち上がって、Kは運転士の元へ歩いた。
「次の回転場で降ろしてくれ」
驚いた気配はしたが、運転士はフロントとバックミラーとサイドミラーを忙しなく巡る視線の動きを止めなかった。
December 18, 2025 at 2:23 PM
鈍色の空から大粒の雨が落ちてきていた。泉平の街を出てすでに五十分、車窓からの視界は八割が切り立った崖で、谷底に流れる川沿いに整備された古い道からでは、山が高く空はごく僅かしか見えない。三角定規の形をした空から湧き上がる薄墨色の雨雲が、新緑も鮮やかな山々を侵食している。このあたりからなら拝めるはずの御明山も雲の向こうだった。
確か、今夜あたりに低気圧が通過するのだったか。
December 18, 2025 at 2:23 PM
バスの二段窓を叩く雨音に、Kは閉じていた眼を開いた。
眠っていたわけではない。バスのエンジン音に混じるタイヤとアスファルトの摩擦音から、自分の現在位置を測っていた。国道は老朽化が進んでもはや酷道と成り果てている。にも関わらず修繕されないのは、交通量の少なさゆえに補修計画が限界まで後回しにされているからだ。不規則な振動と聴覚からの情報で、だいたいどのあたりを走っているのかを想像する。風景を眺めれば現在位置など一目瞭然だが、Kはこのように視覚を遮断し、残る感覚を研ぎ澄まして外界を探る癖があった。これは集中力の訓練でもある。
December 18, 2025 at 2:22 PM
X(自称)からの避難場所
December 18, 2025 at 1:58 PM