哲学的ゾンビっていって、意思を持ってるかのように振る舞ってるが実際はランダムな答えを返してるだけの存在でも、全てが的確な返答になっていたら誰もそれが意思を持ってないことを証明できない、っていう哲学の問題がある。
思うに、そういう状況にいたらどっちでも相手が意思を持ってるものとして振る舞うべきだよね。意思を持っていたら正解の対応になるし、無いならどんな振る舞いでもどうも思わないのだから逆にその対応をしたとしても悪くは思われない。
僕は「4コマが実体と質量を持ったリアルな存在」であると信じ込んで活動に入ってる、ってところか
哲学的ゾンビっていって、意思を持ってるかのように振る舞ってるが実際はランダムな答えを返してるだけの存在でも、全てが的確な返答になっていたら誰もそれが意思を持ってないことを証明できない、っていう哲学の問題がある。
思うに、そういう状況にいたらどっちでも相手が意思を持ってるものとして振る舞うべきだよね。意思を持っていたら正解の対応になるし、無いならどんな振る舞いでもどうも思わないのだから逆にその対応をしたとしても悪くは思われない。
僕は「4コマが実体と質量を持ったリアルな存在」であると信じ込んで活動に入ってる、ってところか
ウナギは養殖でも天然でもおいしい。ダイヤモンドは人工でも天然でも美しく輝く。何が違うかって、わざとやってるかどうか、資源としてどうか。実際の背景は色々ある。
けど、作品のあり方から、見た人がどう思い感じるかどう背景を想像するか、これが鑑賞体験で、見る人感じる人にとってのその『作品』に対する本来の全てだからね。
ウナギは養殖でも天然でもおいしい。ダイヤモンドは人工でも天然でも美しく輝く。何が違うかって、わざとやってるかどうか、資源としてどうか。実際の背景は色々ある。
けど、作品のあり方から、見た人がどう思い感じるかどう背景を想像するか、これが鑑賞体験で、見る人感じる人にとってのその『作品』に対する本来の全てだからね。