Kentaro Susano (Yano)
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Kentaro Susano (Yano)
@susanokentaro11.bsky.social
きゃくほんか
Writer:"STEEL ANGIE".
My Magazine http://note.com/susanokentaro119
Movie Trailer "STEEL ANGIE" https://youtu.be/Z9M0_k10zis?si=OiaTjft1_76GzOdj
丁か半かはわからないが、リスクを伴って挑戦したいし、そこで得る快楽は私の想像を超えているだろうし、超えてほしいものだ。
まあ、私がその想像を超えさせてやるのだが。
自意識過剰と罵られそうなのであまり好んで言わないだけで、私が何かに関わる、挑戦している時は安定や平穏は優先順位において一位ではない。常に頭の中に自分の想像を超えた感興·感動を味わいたくてやっているからだ。
平凡は私には合わない。
ただそれだけだ。
末路も末代も覚悟の上でやっている。
いつからか、怖いものがなくなった。失うものもなくなった。(ウソ。ホントはあるがあった方がより楽しいのだ)
October 17, 2025 at 12:24 AM
しかし、興行やプロモートを少しでも齧り、制作だけじゃなく製作の裏側も覗かせてもらえば、単純だと思われた話が単純に見えなくなるから不思議だし、だからこそ面白さ、一興を感じる。そこに面白さを見出してしまえば、一制作者、一脚本家の本分を越えてしまったとも思うわけで、あらゆる計算を頭に入れながら執筆していくわけになるが、そうして気付かされたのは自分はどちらかというと、そこまで計算を視野に入れて執筆するタイプじゃなかったこと。おかげで悩みも増えたが問題がクリアになったものもある。後は実践していくだけだ。今は頭領ではなく、一スタッフとして違う分野に飛び込もうと思っている。
October 17, 2025 at 12:09 AM
だからこそ、映画館には商売上手の喜ばせ上手になってもらわないといけない。エンタメもアートも私にとって区分を感じないし、シネコンとミニシアターの区分も私にはあまり意味を感じない。大事なのは客商売であって、人の喜怒哀楽の全てを映画館で感じさせること。しかもなるべく大きなスクリーンで。なぜなら大きければ大きいほど大勢の人が鑑賞しやすいからだ。単純明快だけど、実践は単純ではない。というより継続、維持が死ぬほど難しいのだ。私自身の映画をスクリーンで見た時も、やはり感動はあった。少ないお客さんに見られて何のリアクションも無い時は死ぬかと思った。それでも、映画を想定して作られたのなら映画館で私は見たいのだ。
October 16, 2025 at 11:56 PM
映画館で映画を鑑賞する至福は確実にあるし、私にはたまらなく気持ちいい。と、同時にIMAXだろうが映画作家だろうが、受賞者だろうが無冠だろうが等しく観客の視線に晒されている以上、少ない人数で見る映画は内容の面白さの如何に関わらず、やはり、自己満足·自己陶酔以上の快楽はない。だが、大勢の全く趣味嗜好も年齢層も性別も違う人々と見る映画はこれも内容の如何に関わらず、不思議な高揚感を感じる。私は映画館で自分以外の人と見るあの雰囲気が好きなのだと最近の話題作を大勢の観客と見て改めて思った。一人でBlu-rayやDVD、サブスクリプションの配信を見ても満たされない感興が確かに映画館にはあるのだ。
October 16, 2025 at 11:47 PM
批評家筋に評判はいいが、興行的にはうまくいってないらしい。というより、予算をかけ過ぎで回収しなければいけない金額がかなりあるのだとか。ディカプリオが出てニコルソンばりの怪演をしても、それが集客に繋がるとは限らないし、小品としてならまだしもPTAの作品で小品というのも難しいわけで、PTAの権威も"今"の時代、なかなか通用しないわけだ。プログラムピクチャーならまだしも。名誉ある賞を獲った映画作家といえど、商売として通用しなければ劇場は敬遠するだろう。イーストウッドの新作がきちんと上映できなかったのはそこもあるだろうし。配信が一番リーチしやすくなる現状を見ると妥当と言わざるを得ない。
October 16, 2025 at 11:37 PM
個人の感想としては面白く見ていたけれど、所々のポイントに世情、世間に対して流行に乗っているように見えたというのは否定できないなと思う。
特定の所属、派閥だけに受け容れられるというのもなんだかなぁ、と思わなくもないが、こういう売り方も今の時勢的にはアリなんだろう。
より分断、というかフィルターバブルかつエコーチェンバーの中で、フェアネスなど鼻で笑われるようなものなのだろうから、互いに譲歩せず相容れない仲でも、それを良しとして肯定していくしかないんだろうね。
商売的にも、特定の相手にだけするのは別段悪くはない。マーケットを狭めている気がするが、広範にビジネスをするのは今の時代難しいのだろうから。
October 15, 2025 at 4:19 PM
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October 15, 2025 at 4:06 PM
2本目の『8番出口』はボレロの音楽が象徴的かつ、印象的に耳に残った。
October 15, 2025 at 9:33 AM
『ワン·バトル·アフター·アナザー』の劇中で道場に飾られている映画ポスターが『スーパーマン』(クリストファー·リーヴ版)の日本語版ポスターだったのには何か意味があるのだろうか。
そこが気になった。
October 15, 2025 at 5:23 AM
これはいってしまえば作品を見る人にとっての敷居をある意味で下げていると云っていい。演じている役者も一皮むけばただの人でしか無い。それが舞台で演じると不思議と神々しさを感じるわけだ。
映画「国宝」では歌舞伎の特性上、花道を使うのだが、当然観客との距離は近くなる。映画内で見ると、その観客の反応が目に入るわけだ。主役陣の演技を見入っている観客の嬉しげな反応を見ると、この映画で重要なのは、こうした素朴な反応をする観客たちが映画の撮影であっても、見入ってしまい、感動している姿だ。
September 18, 2025 at 5:10 PM
監督のイングマール・ベルイマンは舞台の演出家としてキャリアをスタートしているので、役者陣や裏方の舞台裏はよく知っている。そして「魔笛」を舞台のオペラではなく映画作品として創った中でわざわざ物語の本筋とは全く関係ない楽屋裏を見せることで、舞台で行われる非日常と、現実にそれを演じ、舞台装置を動かす人々、更に観客を映し出すことで、どれも欠かすことの出来ない、作品と観客の橋渡し的役割として機能している。単に演目だけを見せたければ観客も舞台裏も楽屋裏も見せなくていいのに、あえて見せることで、地続き感を出したわけだ。
September 18, 2025 at 5:05 PM
その観客の顔が印象に残ったところで物語が始まる。単にモーツァルトの「魔笛」のオペラが始まるわけじゃなく、この舞台を観客席で観ている人がいますよ、というエクスキューズが出されるわけだ。否が応にもこの作品が舞台で上演されていることを意識させられる。更に、前奏や間奏の間には楽屋でチェスに興じたりして寛ぐ出演者や幕の隙間から観客を観たり、素に戻る姿が唐突に映し出され、また前走、間奏が終わると何事もなかったかのように舞台が再開し、先程までの舞台裏楽屋裏について一切言及されないというシーンがあった。
September 18, 2025 at 4:58 PM
それは北欧はスウェーデン出身の映画監督イングマール・ベルイマンが監督した、モーツァルト作曲のオペラ「魔笛」を上演している舞台を撮影した(という体で、実際に舞台で撮影したものは殆ど無い)作品である。私はこの作品で初めて「魔笛」がどういう作品か知ったのだが、普通にオペラとして物語が進む中で奇妙なシーンが何度も差し込まれる。まず冒頭、実際にスウェーデンにある劇場の客席にいる人々を延々と写す。オーバーチュア、序曲が流れている間その観客が今か今かと楽しそうに、中には早く始まらないかなと退屈そうに観ている観客の姿が映し出されるのだ。
September 18, 2025 at 4:51 PM
もう一つ、見ていて思ったのは冒頭でも書いたように観客や裏方と云った人々こそ生き生きと映っていることである。またある歌舞伎役者は「国宝」を観て歌舞伎役者の楽屋裏を描いていて面白い、との指摘もあった。メインの主人公たちへのディティールの薄さと対象的なほどに、メインでない脇役や裏方、そして観客といった、あまり好まない言い方だが、モブであり主人公たちを動かす物語上の舞台装置でしか無い彼ら彼女らがディティール深く濃く描かれている。そこで私が思い出した一つの映画がある。
September 18, 2025 at 4:40 PM
海外では多少の名前の変更があってもかなり、実在の事件や人物を題材に作品を作ることは多く、例えば、イタリア系アメリカ人のマーティン・スコセッシの「グッドフェローズ」のように、1955年から1980年までのイタリアンマフィアの暮らし、そして彼らが起こしたエア・フランス現金強奪事件、それを起こした首謀者を題材にした映画である。これも面白いことに首謀者の一人であるヘンリー・ヒルはあくまでマフィアの準構成員で、マフィアではない。マフィアも血統主義で、両親ともにイタリアのシチリア島出身でなければマフィアにはなれないのだ。不思議と「国宝」の喜久雄とダブって見える。
September 18, 2025 at 4:34 PM