IQブチ溶けなので、敵と友の区別ができません てめえも友達、、
論理に優れた人は、関係性を構築したりする力が抜群で、めっちゃ面白い
でも、世界を枠の中で見る訓練を積みすぎているように感じてしまう。そして、その人自身も感受での確信を持っていないから、思考という論理の中での正しさだけになってしまうんだよな
だから、思考は鋭いけれど、リアルに触れていない鋭さになることがある
それがすごく痛いときあるな
論理に優れた人は、関係性を構築したりする力が抜群で、めっちゃ面白い
でも、世界を枠の中で見る訓練を積みすぎているように感じてしまう。そして、その人自身も感受での確信を持っていないから、思考という論理の中での正しさだけになってしまうんだよな
だから、思考は鋭いけれど、リアルに触れていない鋭さになることがある
それがすごく痛いときあるな
世界を変えるべきだ、世界は変わるべきだより、世界とどう触れうるか?し、私が現時点でそのような政治的構造について批評するとしても、そうするべきだという倫理的、知的な義務感という立場から発する言葉であるなら、どれほどの意味があるんだろうか?
世界を変えるべきだ、世界は変わるべきだより、世界とどう触れうるか?し、私が現時点でそのような政治的構造について批評するとしても、そうするべきだという倫理的、知的な義務感という立場から発する言葉であるなら、どれほどの意味があるんだろうか?
逆説的に、主体の崩壊、意味の爆発、言語の断絶といった限界体験が純粋な倫理だとしても、自分が享楽性を感じている時点で、構造の内側に取り込まれているんだろうと理解できる。それでも私はなお、制度的なものや、日常の共鳴しない言葉、伝わらない沈黙などに耐えられない、それを愛と呼びきれない。
逆説的に、主体の崩壊、意味の爆発、言語の断絶といった限界体験が純粋な倫理だとしても、自分が享楽性を感じている時点で、構造の内側に取り込まれているんだろうと理解できる。それでも私はなお、制度的なものや、日常の共鳴しない言葉、伝わらない沈黙などに耐えられない、それを愛と呼びきれない。
私は他者を通じて“私でなくなる”ことを欲しているわけだが、この痛みというのは、主体が完全に壊れない、そのままでは欲望は充足されない。壊れなさゆえ何も感じられない故の痛み。なんか自分の存在が世界に響かなくなる__みたいな感覚は、倫理の核心や愛の地点であることも理解しながらも、一種の断絶や絶望感が伴っている。
私は他者を通じて“私でなくなる”ことを欲しているわけだが、この痛みというのは、主体が完全に壊れない、そのままでは欲望は充足されない。壊れなさゆえ何も感じられない故の痛み。なんか自分の存在が世界に響かなくなる__みたいな感覚は、倫理の核心や愛の地点であることも理解しながらも、一種の断絶や絶望感が伴っている。