灰になるsyntax
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silence-exe.bsky.social
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@silence-exe.bsky.social
20↑ 思考をやめた生物が友達求めています
IQブチ溶けなので、敵と友の区別ができません てめえも友達、、
あそれで友達が ツイートってゲップじゃん?お前のはゲロくらいヘビーっ言ってきてマジ草
November 13, 2025 at 9:23 AM
ただ、自分は思考の構築によって世界と触れうるというより、触れるたびに考えが変容していくタイプなので、感受の精度そのものが、世界との接続がどれだけ正確かという意味で必要だと思えてしまうな。現実といかにズレない知性でいられるのかみたいな
論理に優れた人は、関係性を構築したりする力が抜群で、めっちゃ面白い
でも、世界を枠の中で見る訓練を積みすぎているように感じてしまう。そして、その人自身も感受での確信を持っていないから、思考という論理の中での正しさだけになってしまうんだよな
だから、思考は鋭いけれど、リアルに触れていない鋭さになることがある
それがすごく痛いときあるな
November 12, 2025 at 10:41 AM
今は、生活、仕事、関係性、身体のリズムとか、具体的な生のテンポの中で、問題意識という形の思考のテンポは、自分の現実とズレるようになった。政治的言葉で世界を語るよりも、世界と身体の関係の仕方そのものに関心が移ったような。
世界を変えるべきだ、世界は変わるべきだより、世界とどう触れうるか?し、私が現時点でそのような政治的構造について批評するとしても、そうするべきだという倫理的、知的な義務感という立場から発する言葉であるなら、どれほどの意味があるんだろうか?
November 9, 2025 at 4:29 PM
たしか昔は、社会的・政治的問題意識が、自分の感覚や思考の延長線上にあったわけで、自分という主体にとって世界は、傷みであり不均衡として享受していて、それを媒介にして自分を確かめる構造だったように思える。世界そのものがストレスでもあったし。
November 9, 2025 at 4:29 PM
そしてさらには、同時に私のそれらの欲動を無為にする主体性を持つ他者すら求めてしまう。私の欲望そのものを、空白に還すみたいな。自分の倫理とも呼べないような地点の欲動を、誰かに、キモイ、消費的だと呆気なく言われ、自分のしょうもなさもヒシヒシと感じたい。(幻想)
November 7, 2025 at 7:51 AM
他者の他者性を欲するというバタイユ的衝動の只中にいながら、同時にそれを現実的な他者関係の中でどう生きればいいのか。他者性に触れたい欲望と、他者の不可触性(倫理的距離)の衝突のまるごと引き受けることでしか、愛を感じたくないというのは、強欲だろうか?そうした純粋な狂気の倫理に耐えうる他者を求めてしまう。それらに開かれた存在で合ってほしいと思ってしまう。ただ自分がこのように、純粋な他者性を求めることが倫理的な逃避であると自覚しつつも、しかしそれらを求めずにはられない。消費だとしても感受したいとさえ思っているのだから当たりめぇにただの強欲なのだけど。
November 7, 2025 at 7:51 AM
実際、共振できない他者と共にあることは、狂気的な自己の崩壊よりも、ある意味でさらに深い痛みを伴う感じもする。主体が破壊されていないのに、主体がずれていくことに、自己の裂けを見る。
逆説的に、主体の崩壊、意味の爆発、言語の断絶といった限界体験が純粋な倫理だとしても、自分が享楽性を感じている時点で、構造の内側に取り込まれているんだろうと理解できる。それでも私はなお、制度的なものや、日常の共鳴しない言葉、伝わらない沈黙などに耐えられない、それを愛と呼びきれない。
November 7, 2025 at 7:51 AM
制度的な恋愛において、たとえ共振の少ない他者であっても、他者の存在による裂けを抱え続けることは、倫理的行為だと思う。そのことは、自らの欲望の破棄を通して他者の存在を肯定するという、痛みが常に伴っている。
私は他者を通じて“私でなくなる”ことを欲しているわけだが、この痛みというのは、主体が完全に壊れない、そのままでは欲望は充足されない。壊れなさゆえ何も感じられない故の痛み。なんか自分の存在が世界に響かなくなる__みたいな感覚は、倫理の核心や愛の地点であることも理解しながらも、一種の断絶や絶望感が伴っている。
November 7, 2025 at 7:51 AM