IQブチ溶けなので、敵と友の区別ができません てめえも友達、、
まあどうでもいいはなし
まあどうでもいいはなし
今考えると、感覚を媒介にして思考が生まれ、思考が身体に由来する人と、論理の側に振っていて、思考が抽象的構造として成立し、感覚を材料としてしか扱わない人とでは、文章を読んでいてもよく違いがわかるし、やはり両者のあいだには隔たりがあると感じるな。
もちろん、この両者に優劣があるとかが言いたいわけではない!
今考えると、感覚を媒介にして思考が生まれ、思考が身体に由来する人と、論理の側に振っていて、思考が抽象的構造として成立し、感覚を材料としてしか扱わない人とでは、文章を読んでいてもよく違いがわかるし、やはり両者のあいだには隔たりがあると感じるな。
もちろん、この両者に優劣があるとかが言いたいわけではない!
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それが言説上どのように構成されるかということを全く考えずに発言しまって、大体意味ないし孤独を感じる
それが言説上どのように構成されるかということを全く考えずに発言しまって、大体意味ないし孤独を感じる
そうすることで初めて、初めて暴力的装置の感触そのものを、感覚的に受け取ることができる。構造が関係ないという地点に立って初めて、その構造を理解する回路が開かれる
正義の強制も変化の義務ないそういう距離が、生の形式そのものの運動、あるいは逸脱としての出来事のように思える。
それは政治への無関心という意味ではない、また変えねばならないという意識でもない、むしろ政治化を拒否することのうちに生じる政治的可能性へ考えること
そうすることで初めて、初めて暴力的装置の感触そのものを、感覚的に受け取ることができる。構造が関係ないという地点に立って初めて、その構造を理解する回路が開かれる
正義の強制も変化の義務ないそういう距離が、生の形式そのものの運動、あるいは逸脱としての出来事のように思える。
それは政治への無関心という意味ではない、また変えねばならないという意識でもない、むしろ政治化を拒否することのうちに生じる政治的可能性へ考えること
それが自分の生のリズムに介入してこない感覚がある。そのような痛みや暴力的装置の中で自分も動いているし、それがクソだとも思えるが、自分がその言説の前提としている主体とは異なる感覚、あるいは距離があるというか。
それが自分の生のリズムに介入してこない感覚がある。そのような痛みや暴力的装置の中で自分も動いているし、それがクソだとも思えるが、自分がその言説の前提としている主体とは異なる感覚、あるいは距離があるというか。
付き合う一人一人によって、それぞれにぞれぞれの倫理があると思うし、どんな他者であっても倫理は可能である。それは他者の他者性と自分が関わるとき、どのように他者を愛することが倫理的であるのかという問いになってくる。
付き合う一人一人によって、それぞれにぞれぞれの倫理があると思うし、どんな他者であっても倫理は可能である。それは他者の他者性と自分が関わるとき、どのように他者を愛することが倫理的であるのかという問いになってくる。
それでないと人を愛せないのだけど
私はさげマンかぁー?さげマンなのかぁあ?
それでないと人を愛せないのだけど
私はさげマンかぁー?さげマンなのかぁあ?
思想に自我を雁字搦めに固定している主体を見ると、あなたは何を賭けてその問いをしているのか? あなたの魂はどこにあるんだ?と問いたくなってしまう。
もちろん、思想的引用は必要であり、使うべきと思っている。しかし、知識の接点や論理体系だけで語られる場合、そこには主体的な見つめが欠けており、構造的に整えた図式の中で安全に語ってるだけじゃねえか!って思ってしまう。
裂け目を感受し、身体裂け目を感受し、身体的感覚の強度まで抱えることは、誰もができるわけではない。
思想に自我を雁字搦めに固定している主体を見ると、あなたは何を賭けてその問いをしているのか? あなたの魂はどこにあるんだ?と問いたくなってしまう。
もちろん、思想的引用は必要であり、使うべきと思っている。しかし、知識の接点や論理体系だけで語られる場合、そこには主体的な見つめが欠けており、構造的に整えた図式の中で安全に語ってるだけじゃねえか!って思ってしまう。
裂け目を感受し、身体裂け目を感受し、身体的感覚の強度まで抱えることは、誰もができるわけではない。