その「わが」が、作者の石田波郷以外に投影不可能かどうか。
その問題を考えるキーの一つに「憧れ」があります。
石田波郷の生き方、生き様に憧れている読者の側からすれば、石田波郷の「三十にして不惑」の軽快な袖袂というのは、読者自らの理想像となります。つまりこの一句の「わが」には、石田波郷の自身の人生に対する思いと、石田波郷という人間の像を追い求めてきた人々がもつ人生への思いが呼応しているとも読めるのではないでしょうか。
勿論石田波郷にとって句中の「わが」は自身を指すでしょうが、読む側がこの句を自らの指針とすることが全く否定されている訳ではない、ということです。
その「わが」が、作者の石田波郷以外に投影不可能かどうか。
その問題を考えるキーの一つに「憧れ」があります。
石田波郷の生き方、生き様に憧れている読者の側からすれば、石田波郷の「三十にして不惑」の軽快な袖袂というのは、読者自らの理想像となります。つまりこの一句の「わが」には、石田波郷の自身の人生に対する思いと、石田波郷という人間の像を追い求めてきた人々がもつ人生への思いが呼応しているとも読めるのではないでしょうか。
勿論石田波郷にとって句中の「わが」は自身を指すでしょうが、読む側がこの句を自らの指針とすることが全く否定されている訳ではない、ということです。
先程「一人称の必要から解放されている」とは言いましたが、これは一人称の一切は必要ないということではなくて、あくまで入れる入れないは個人の思いに委ねられているということです。つまり、必ず一人称が要/不要ということではなく、思いの強弱やトーンによりそれは変化するということです。言い方が十分でなかったかもしれませんね、すいません。
先程「一人称の必要から解放されている」とは言いましたが、これは一人称の一切は必要ないということではなくて、あくまで入れる入れないは個人の思いに委ねられているということです。つまり、必ず一人称が要/不要ということではなく、思いの強弱やトーンによりそれは変化するということです。言い方が十分でなかったかもしれませんね、すいません。
それと同様に、俳句は一人称の必要からも解放されています。一人称があろうとなかろうと、作中主体は無限だから、誰が読者でもその俳句における「私(作中主体)」であり得る訳です。
それと同様に、俳句は一人称の必要からも解放されています。一人称があろうとなかろうと、作中主体は無限だから、誰が読者でもその俳句における「私(作中主体)」であり得る訳です。