サトウジン(岩タイプ)
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サトウジン(岩タイプ)
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俳句結社「岳」の異端児代表

皆様よしなに〜
もう一つの考えを示しておきましょう。

その「わが」が、作者の石田波郷以外に投影不可能かどうか。
その問題を考えるキーの一つに「憧れ」があります。
石田波郷の生き方、生き様に憧れている読者の側からすれば、石田波郷の「三十にして不惑」の軽快な袖袂というのは、読者自らの理想像となります。つまりこの一句の「わが」には、石田波郷の自身の人生に対する思いと、石田波郷という人間の像を追い求めてきた人々がもつ人生への思いが呼応しているとも読めるのではないでしょうか。
勿論石田波郷にとって句中の「わが」は自身を指すでしょうが、読む側がこの句を自らの指針とすることが全く否定されている訳ではない、ということです。
February 15, 2024 at 2:32 PM
この場合は「私だから詠める」という自負があるでしょうから、「わが」による強調は不可欠ですね。

先程「一人称の必要から解放されている」とは言いましたが、これは一人称の一切は必要ないということではなくて、あくまで入れる入れないは個人の思いに委ねられているということです。つまり、必ず一人称が要/不要ということではなく、思いの強弱やトーンによりそれは変化するということです。言い方が十分でなかったかもしれませんね、すいません。
February 15, 2024 at 2:16 PM
一人称を意識して使いたいというのであれば、それも面白いとは思います。ただ、別段それに固執することもないかな、というのが私の考えであります。表現に癖がつくようになると、表現の幅が狭くなるのがネックなので…。
February 15, 2024 at 1:55 PM
私個人の考え方としまして、俳句の作中主体は基本的に「無限」(何でも当てはまる)と考えています。つまり俳句を詠むのに「自分の」体験であることに縛られる必要はないということです。ある俳句が読者に共有(共感)されるのは、読者がその俳句における主体たり得る、つまり俳句で表現された世界に入り込めるからです。これは裏を返せば、自分が経験し得ない視点や想像を、俳句を詠むことを通して直観することが可能ということになります。
それと同様に、俳句は一人称の必要からも解放されています。一人称があろうとなかろうと、作中主体は無限だから、誰が読者でもその俳句における「私(作中主体)」であり得る訳です。
February 15, 2024 at 1:46 PM