フィクションや個人的に好きなジャンル?についての話をしたり、情報収集にも使うかもしれないです。
逆に大阪だと、ビルの規模はでかくとも、ルクアにしろ、ミオにしろ、なんばCITYやパークスにしろ、もっと雑多な感覚があるというか(京都balも丸善があるから足は運ぶことがある)
心斎橋やアメ村、堀江あたりの路面店は、京都や神戸の複合ビルと近しいポジション?のところがありそうだが、そもそも行かないから自分にとっては「大阪」にはないとイメージしている面もあるとは思う
逆に大阪だと、ビルの規模はでかくとも、ルクアにしろ、ミオにしろ、なんばCITYやパークスにしろ、もっと雑多な感覚があるというか(京都balも丸善があるから足は運ぶことがある)
心斎橋やアメ村、堀江あたりの路面店は、京都や神戸の複合ビルと近しいポジション?のところがありそうだが、そもそも行かないから自分にとっては「大阪」にはないとイメージしている面もあるとは思う
まとまりがないが、都市というのもそれ単体で成り立つのではなく、グローバルな「収奪」による産物としての側面があるとも感じるし
下記は地球規模で、国という括りを超えた都市化について説明するための語彙?であるプラネタリーアーバニゼーションについて
www.10plus1.jp/monthly/2018...
まとまりがないが、都市というのもそれ単体で成り立つのではなく、グローバルな「収奪」による産物としての側面があるとも感じるし
下記は地球規模で、国という括りを超えた都市化について説明するための語彙?であるプラネタリーアーバニゼーションについて
www.10plus1.jp/monthly/2018...
日本の場合アニメーションと「日本型」の2Dアニメが強く結びつけられすぎているから、実際には無限に広がるアニメーションの表現の内のすごく幅の狭い表現のみを「正当」なものだとみなすような偏狭な考え方を持つ「思い上がった」人が一定数いるように感じており、個人的に非常に閉塞感を感じていると思うので、映画館などでも配信でも多様な国のアニメーション作品が気軽に見られるようになってきたのはかなり
日本の場合アニメーションと「日本型」の2Dアニメが強く結びつけられすぎているから、実際には無限に広がるアニメーションの表現の内のすごく幅の狭い表現のみを「正当」なものだとみなすような偏狭な考え方を持つ「思い上がった」人が一定数いるように感じており、個人的に非常に閉塞感を感じていると思うので、映画館などでも配信でも多様な国のアニメーション作品が気軽に見られるようになってきたのはかなり
個人的には、セクシャルな表現周りでチェンソーマン含めて日本の作品周りで苦手というか納得がいっていないところはあり、その点では羅小黒戦記シリーズの細かいところまで手の届くバランス感覚にも恐れ入ったところがある。もちろん一作品だけで中国全体の作品の傾向についてどうこうは言えないけれども、一クィアとしても、羅小黒戦記の映画版はすごく安心して見られる作品だった(TVシリーズというかweb版は、見ている感じ少し粗いところは見られたが)
個人的には、セクシャルな表現周りでチェンソーマン含めて日本の作品周りで苦手というか納得がいっていないところはあり、その点では羅小黒戦記シリーズの細かいところまで手の届くバランス感覚にも恐れ入ったところがある。もちろん一作品だけで中国全体の作品の傾向についてどうこうは言えないけれども、一クィアとしても、羅小黒戦記の映画版はすごく安心して見られる作品だった(TVシリーズというかweb版は、見ている感じ少し粗いところは見られたが)
全然まとまりがなく、途中で書いた文についても回収できずに放置されてしまっている箇所もあると思うが、今後もこうしたトピックについてはクィアネス前提に考えたりしたいな
全然まとまりがなく、途中で書いた文についても回収できずに放置されてしまっている箇所もあると思うが、今後もこうしたトピックについてはクィアネス前提に考えたりしたいな
一人身で埋没しやすいという点では日本の大都市には特有の居心地の良さはあるような気はするけれども、欧米圏(もちろん国等によって福祉なども千差万別なのだが)のクィアネス包括する方向性などは日本含めて取りいれられるべきというのと、同時にそこでクィアネスとして顧みられるようなライフスタイルのあり方を日本にそのまま移植するのは違うみたいなことを考えたりもする。
一人身で埋没しやすいという点では日本の大都市には特有の居心地の良さはあるような気はするけれども、欧米圏(もちろん国等によって福祉なども千差万別なのだが)のクィアネス包括する方向性などは日本含めて取りいれられるべきというのと、同時にそこでクィアネスとして顧みられるようなライフスタイルのあり方を日本にそのまま移植するのは違うみたいなことを考えたりもする。
などの文化的な背景とも関わるように思えており(都市化や現代における資本主義のあり方とも勿論関わるだろうし、その観点では欧米圏も同様の側面があるだろう)、それは「自己責任的」な論理の染み渡りと、「孤立」とも部分的に交差しているように思えている。
反面?いまだに血縁や世帯に紐づいたケアが求められやすい制度的な保障のあり方とか(かといってあらゆるケアが外部化されることがケア労働の
立場にとってよく働くか
などの文化的な背景とも関わるように思えており(都市化や現代における資本主義のあり方とも勿論関わるだろうし、その観点では欧米圏も同様の側面があるだろう)、それは「自己責任的」な論理の染み渡りと、「孤立」とも部分的に交差しているように思えている。
反面?いまだに血縁や世帯に紐づいたケアが求められやすい制度的な保障のあり方とか(かといってあらゆるケアが外部化されることがケア労働の
立場にとってよく働くか