なすの
nasuno.bsky.social
なすの
@nasuno.bsky.social
書かれていないのは『存在と時間』の第一部第三篇以降です。
『存在と時間』の後、ハイデガーは自身の哲学を『存在と時間』で構想していたものからやや変えていき、続きは世に出ませんでした。
パルメニデス論は立場を変えた後の著作ですので、『存在と時間』のあの予告を果たしたものではありません。『存在と時間』の続きはもはや書かれず、あの予告果たされなかったのです。
October 4, 2025 at 10:32 PM
「さて,アンセルは『実存から実存者へ』における「疲労」の現象学について,「ある」の特徴を明らかにするとともに,ある程度までは「逃走論」における「自給自足的」存在にもつながるという.本研究ではこの両義性に注目したい。」p.14。

「疲労」を話題にした語りにおいて、「ある」の特徴と、嘔吐が示すような「自給自足的」存在について示されている(らしい)。
May 2, 2025 at 12:08 PM
第3節 アンセルの「自給自足体制(autarcie)」について
May 2, 2025 at 12:08 PM
「「吐き気」が開示するものは,「私たち存在者の存在」である点に注意しなければならない.たしかに,ロランのみるように「逃走論」において,後の「ある」を指示しうるような「純粋な存在」という語が用いられているが,しかし言葉の上で連関があるからといって,現象の構造上の連関まで存するというのは飛躍であるように思われる36.」p.14

「吐き気」と「不眠」の違い ②:「吐き気」を催している存在者の存在を示すか「純粋な存在」(=「ある」)を示すか(何を示すかが違う)。
May 2, 2025 at 11:01 AM
「この同一性への反発と同一性を解体することの不可能性こそ「吐き気」を「吐き気」たらしめていた.ところが,「不眠」における「ある」は,自己の同一性の解体として記述されているのである.この点で,両者の「存在」の意味は全く異なると言うべきである.」p.14

「吐き気」と「不眠」の違い①:自己同一性を維持するか解体するか(自己同一性がどうなるかが違う)。
May 2, 2025 at 11:01 AM
第2節 『実存から実存者へ』における「不眠」と「ある」
May 2, 2025 at 10:33 AM
「レヴィナスは,ハイデガーが現存在の事実性として「被投性」を見出す仕方に特異なかたちで注目する.「特異」というのは,「レヴィナスの反省が被投性にこだわっていくのは,課された状況の彼方へと赴く傾向を実存がもはやみずからのうちに見出さないような状況,投げられた存在がみずからを投企するどんな可能性もいわば麻痺させてしまうような状況を見出し,描き出すため」20だからである.つまり,レヴィナスは可能性への開けという観点ではなく,この開けがもはや不可能となるような仕方で人間存在が自分自身に釘づけされているという点を強調するということである21.」p11。
May 2, 2025 at 10:33 AM
1-2.ロランによる「吐き気」の考察
May 2, 2025 at 10:33 AM
1-1.「逃走論」における「吐き気」の分析
May 2, 2025 at 10:33 AM
第1節 「逃走論」における「吐き気」
May 2, 2025 at 10:33 AM
はじめに
May 2, 2025 at 10:33 AM
1.事実的な生経験と哲学

「彼によれば、事実的な生経験は「世界に対する人間の能動的、及び受動的なすべての態度」を意味しており、知見を広めるような単なる経験以上のものである(GA60,1l)。だが、事実的な生経験は、何に関わっているのかという経験の内容にひたすら力を注いでおり、いかに関わっているのかという経験の仕方には無関心である。経験の仕方はせいぜい内容に随伴しているだけである。」p.8

「事実的な生経験」の意味合い
May 2, 2025 at 10:11 AM
これらの理由はどのように導かれたのか。まず存在についてヴァールは、存在そのものについては否定によってしかほとんど語りえないというハイデガーの言を援用して、ひとは諸物や諸存在者から存在へ上昇する権利をもたず、我々は存在について何も語りえないと主張する(EM 73; 95)。我々が語りうるのは存在者についてだけなのだ。それゆえヴァールは、存在の観念は諸存在者から抽き出された抽象にすぎず、言説のなかで使われる、主語と属詞を結ぶ文法的観念と考える(ibid.)。p.185
April 30, 2025 at 2:55 PM
ヴァールはここで、三つの経験が形而上学的経験でない理由を挙げる。それによれば、存在は文法的抽象であり、人間は世界についてほとんど認識できず、さらにこれらを経験できない以上、絶対についても経験できない。。
April 30, 2025 at 2:55 PM
我々がこの形而上学的経験をもつとき、我々は何についての経験をもつのか。我々は、存在の経験、世界の経験、絶対の経験という三つの答えの面前に自らを見出した。しかしおそらく、我々が言いうるのは、これら答えのどれも満足のゆかないこと、存在はある種の文法的抽象であること、世界について我々は諸事物を認識するが〔connaître〕、我々はほとんどそれらを認識していないこと、そして我々は、厳密に言えば世界の形而上学的経験をもたないことだ。我々はまして、絶対の形而上学的経験をもたない。
(EM 117-118; 154)
April 30, 2025 at 2:55 PM
「この「感情」とは、思考に対立する非―意識を広く意味する概念であり、情念のみならず知覚も含むと思われる。というのも、「感情」の原語「sentiment」は、字義通りには「感じられたこと」を意味するからだ。」p.184
April 30, 2025 at 2:55 PM
「ここでヴァールは、弁証法の到達点である実在が意識の彼方にあると述べる。というのも、先述の通り弁証法を説明する実在は弁証法ではなく、弁証法は私の経験や意識の歩みであるがゆえに、実在は私の外部にあるからだ。それゆえ、私である意識と実在の間には隔たりがあり、実在の近似は非―意識の領域に存するのだ。ヴァールはこの非意識を「感情」と呼ぶ」p183
April 30, 2025 at 2:55 PM
メモ

押見まり「ジャン・ヴァールの思想における「実存」と「超越」」 聖心女子大学大学院論集 第42巻2号 2020年 所収 ( u-sacred-heart.repo.nii.ac.jp/records/1068 )
聖心女子大学学術リポジトリ
CMS,Netcommons,Maple
u-sacred-heart.repo.nii.ac.jp
April 30, 2025 at 1:41 PM
かくて「内在することで超越する」実存とは、このように、生きられた経験を経験することにあると言えるのではないか。この「経験の経験」20こそ、ヴァールが描き出そうとしていた「形而上学的経験」であろう(EM 283)。ヴァールの思想における「実存」は、「内在へ向かう超越」であり「形而上学的経験」なのだ。したがって、ヴァールは自身の哲学を通して実存に迫ろうとしていたと言える。」p77
April 30, 2025 at 1:34 PM
罪を自覚し悔悛するとき、過去に構築された罪を犯す実存者は破壊されるのだが、「罪を犯した」という過去の実存そのものが、「罪人」という現在の実存者を構築し、それによって実存者は「神の前に立つ」ことへと超越する。ヴァールは、こうした行為のうちに実存があると述べていた(EHT 32)。
April 30, 2025 at 1:34 PM
というのも、その二極は相反するだけでなく、一緒に「緊張関係」を作り上げることで、二極が合一した一つの関係として共存するからだ。」p.69

「人間を越える者である神の前に立つことはまさに超越することである。しかし、超越するためには自らの罪を内省することが不可欠であり、あるいは罪を内省することでひとは超越する。この構図はまさに、「内在することで超越し、超越することで内在する」運動だと言える。 ここに、3節で言及した「破壊と構築」という実存のアンチノミーが看取できよう。
April 30, 2025 at 1:34 PM