『存在と時間』の後、ハイデガーは自身の哲学を『存在と時間』で構想していたものからやや変えていき、続きは世に出ませんでした。
パルメニデス論は立場を変えた後の著作ですので、『存在と時間』のあの予告を果たしたものではありません。『存在と時間』の続きはもはや書かれず、あの予告果たされなかったのです。
『存在と時間』の後、ハイデガーは自身の哲学を『存在と時間』で構想していたものからやや変えていき、続きは世に出ませんでした。
パルメニデス論は立場を変えた後の著作ですので、『存在と時間』のあの予告を果たしたものではありません。『存在と時間』の続きはもはや書かれず、あの予告果たされなかったのです。
「疲労」を話題にした語りにおいて、「ある」の特徴と、嘔吐が示すような「自給自足的」存在について示されている(らしい)。
「疲労」を話題にした語りにおいて、「ある」の特徴と、嘔吐が示すような「自給自足的」存在について示されている(らしい)。
「吐き気」と「不眠」の違い ②:「吐き気」を催している存在者の存在を示すか「純粋な存在」(=「ある」)を示すか(何を示すかが違う)。
「吐き気」と「不眠」の違い ②:「吐き気」を催している存在者の存在を示すか「純粋な存在」(=「ある」)を示すか(何を示すかが違う)。
「吐き気」と「不眠」の違い①:自己同一性を維持するか解体するか(自己同一性がどうなるかが違う)。
「吐き気」と「不眠」の違い①:自己同一性を維持するか解体するか(自己同一性がどうなるかが違う)。
「彼によれば、事実的な生経験は「世界に対する人間の能動的、及び受動的なすべての態度」を意味しており、知見を広めるような単なる経験以上のものである(GA60,1l)。だが、事実的な生経験は、何に関わっているのかという経験の内容にひたすら力を注いでおり、いかに関わっているのかという経験の仕方には無関心である。経験の仕方はせいぜい内容に随伴しているだけである。」p.8
「事実的な生経験」の意味合い
「彼によれば、事実的な生経験は「世界に対する人間の能動的、及び受動的なすべての態度」を意味しており、知見を広めるような単なる経験以上のものである(GA60,1l)。だが、事実的な生経験は、何に関わっているのかという経験の内容にひたすら力を注いでおり、いかに関わっているのかという経験の仕方には無関心である。経験の仕方はせいぜい内容に随伴しているだけである。」p.8
「事実的な生経験」の意味合い
(EM 117-118; 154)
(EM 117-118; 154)
押見まり「ジャン・ヴァールの思想における「実存」と「超越」」 聖心女子大学大学院論集 第42巻2号 2020年 所収 ( u-sacred-heart.repo.nii.ac.jp/records/1068 )
押見まり「ジャン・ヴァールの思想における「実存」と「超越」」 聖心女子大学大学院論集 第42巻2号 2020年 所収 ( u-sacred-heart.repo.nii.ac.jp/records/1068 )
「人間を越える者である神の前に立つことはまさに超越することである。しかし、超越するためには自らの罪を内省することが不可欠であり、あるいは罪を内省することでひとは超越する。この構図はまさに、「内在することで超越し、超越することで内在する」運動だと言える。 ここに、3節で言及した「破壊と構築」という実存のアンチノミーが看取できよう。
「人間を越える者である神の前に立つことはまさに超越することである。しかし、超越するためには自らの罪を内省することが不可欠であり、あるいは罪を内省することでひとは超越する。この構図はまさに、「内在することで超越し、超越することで内在する」運動だと言える。 ここに、3節で言及した「破壊と構築」という実存のアンチノミーが看取できよう。