正:「与えられていることに留意すべきである。」
正:「与えられていることに留意すべきである。」
木元麻里「『全体性と無限』におけるジャン・ヴァールの影響について : 「分離」と「不幸」をめぐる一考察」「倫理学年報」日本倫理学会 71号2022年所収 pp.173-187
「ヘーゲルによれば、ユダヤ教は、個別的なものと普遍的なものとの分離、「無である手前」と「絶対である彼方」との「根底的な対立」を本質としている。ユダヤの神はそこで、最も高き分離としてあらゆる統一を排除する。」p.175
木元麻里「『全体性と無限』におけるジャン・ヴァールの影響について : 「分離」と「不幸」をめぐる一考察」「倫理学年報」日本倫理学会 71号2022年所収 pp.173-187
「ヘーゲルによれば、ユダヤ教は、個別的なものと普遍的なものとの分離、「無である手前」と「絶対である彼方」との「根底的な対立」を本質としている。ユダヤの神はそこで、最も高き分離としてあらゆる統一を排除する。」p.175
「諸事物の実在性」に直に触れるのは分からなくもないけど、「その中に入り込み」というのがよく分からない。直接触れる→直接経験するのではなく、直接触れる→触れたものの中に入り込む→そのまま経験するという書きぶりになるのは何故?
「諸事物の実在性」に直に触れるのは分からなくもないけど、「その中に入り込み」というのがよく分からない。直接触れる→直接経験するのではなく、直接触れる→触れたものの中に入り込む→そのまま経験するという書きぶりになるのは何故?
「苦痛とは、いずれも努力、それも無力な努力のことであるはずだ。すべての苦痛は一部位だけの努力であり、努力のこうした孤立そのものがその無力さの原因である。」
少なくとも、行為未満の能動性というアイデアがここにはあって、このアイデアは、行為の不可能性という受動性のなかにも能動性を見いだすことを可能にしている。
「苦痛とは、いずれも努力、それも無力な努力のことであるはずだ。すべての苦痛は一部位だけの努力であり、努力のこうした孤立そのものがその無力さの原因である。」
少なくとも、行為未満の能動性というアイデアがここにはあって、このアイデアは、行為の不可能性という受動性のなかにも能動性を見いだすことを可能にしている。