@m2hilow.bsky.social
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辛いことや悲劇的なことがあるとオレたちは「誰か」や「何か」にその責任を求めざるを得ない。そうしないでは事態の辛さに耐えられない。処罰感情というものはそんなオレたちの「弱さ」に起源をもつ。「誰か」「何か」を責めることでオレたちの気は少しだけ軽くなる。「誰か」「何か」はその犠牲者だ。

まあしかし「誰か」「何か」がその悲劇の100%の要因であることはほとんどない(そういうケースは皆無ではないが)。おおかたの場合、悲劇とは複合的な様々に多様で辿れば無数に帰責されうる多くの因果によって引き起こされる。悲劇に憤る自分自身の存在すらその因果のひとつを構成する。
April 28, 2025 at 1:00 PM
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こういうこと言うと「では〇〇を批判することは間違っているということなのでしょうか?」などと論詰する主張がやってくる世の中になった。いやあなたが大変で辛いのはわかる(「わかってない」と言われるが)。しかし「そんな他人事をいうあなたはわかってない」という主張ばかりがまかり通り、帰責の構造をシビアに見たいという主張が控えられるのならば(私はすでにSNSなどでは無用な摩擦を避けて控えつつある。この発言はTwitterには書いてない)それは知的な思考をルサンチマンが領する世界になっていることを意味する。ルサンチマンが思考に対して常に優先されるようになったら社会は普通滅ぶよね
April 28, 2025 at 1:38 PM
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この世のあらゆる悲劇について自分は完全には無垢ではない。だからといって「オレがこうしなければよかったのに」と全ての悲劇に責任を負う必要もない。世界の悲劇に対して自分の責任は常にグラデーションをなして関わっている。ゼロと1でデジタルに判別できるものではない。

その曖昧さに耐えられない人は悲劇が起こると常に「誰か」「何か」に帰責する(繰り返しますがそれが常にあかんわけではない)。ただそれが世界を良くして悲劇を繰り返さないために役立つものか、それとも自分の無実を証し立てるためのものなのか、自分に問うてみる習慣はつけておくとよい。
April 28, 2025 at 1:00 PM