長谷弘
hasehiroshi.bsky.social
長谷弘
@hasehiroshi.bsky.social
この作品はフィクションです。実在する人物・地域・団体・事件との一致は全て偶然性に起因します。著者はこれら偶然性の一致とそれにより生じる全ての不利益について、如何なる責任も負いません。
僕は『屋根裏の散歩者』をリュックサックに詰めて、他の本をひとまず片付ける。思えば、今日は不思議な一日だった。あのmgtncnと、他でもないこの僕が会話をしたというのも勿論だが、あまつさえ彼女と本を交換する約束をするなんて。僕が今まで知っていた彼女の姿と、今日僕の話をとりあえずは聞いてくれた彼女の姿が、どうしても頭の中で結び付けられない。──結び付けられないと言えば。創元推理文庫版『人でなしの恋』を本棚に戻す手が止まった。あのアカウントのこと……。
December 3, 2025 at 4:36 PM
乱歩らしさと推理趣味の共存、という意味で言えば『D坂の殺人事件』を挙げる人が多いような気がして、僕は創元推理文庫版『D坂の殺人事件』を一度は手に取ったが、この短編集はどちらかと言えば奇妙な味、ショート・ショートに偏って編まれている。これも乱歩らしくはあるけれど、推理小説とは言い難い。光文社文庫『屋根裏の散歩者』の方がより推理趣味に寄った短編を多く所収しているので、乱歩を推理小説家として俯瞰するのであれば、乱歩に親しみのない人にお勧めするなら結局これに勝る本がないような気がした。
December 2, 2025 at 3:44 PM
乱歩にあまり親しんだことのない人に、少年探偵団シリーズをぶつけるのも野暮というものだろう。小学生くらいの子ならまだしも、相手は同い年なのだから、これもパス。奇想が光る『青銅の魔人』やスパイアクション風味の『奇面城の秘密』も外れる。文庫本の『芋虫』『ぺてん師と空気男』も、推理趣味というジャンルからは逸脱する作品が多く所収されているので候補から外した。
December 2, 2025 at 3:36 PM
ちょうどその時、女子数人のグループが教室の扉を開けて入ってきたので、僕達の会話も途切れてしまい、mgtncnは再び本に目を落とし始めた。その姿はもう僕達のよく知っているmgtncnそのもので、僕は先ほどまでの会話がまるで夢だったかのような錯覚を覚える。心ここに在らずとでも言うべきか、なんだか全ての現実感が薄く、ふわふわとした浮遊感がつきまとっていて──気が付けば放課後になっていた。ぼんやりと教室を見回せど、既にmgtncnの姿はない。僕はリュックサックを背負って、蒸し暑い廊下へ出た。
December 1, 2025 at 7:08 PM
そう言って彼女は机の上の本をポンと叩いた。「これも、明日までには読み終わるからさ」スピンはまだ、冒頭八分の一くらいのところに挟まっている。かなり厚い本なのに、これを明日までに読み終わるのか。「だからさ、明日僕くんがお勧めする乱歩、持ってきてよ。僕も何か見繕って持ってくるからさ。お互いのお勧めを読み合うってのも面白いと思わない?」勿論、嫌ならいいけど、と言うmgtncnの言葉に強く首を横に振って、僕達は明日の朝本を交換する約束をした。
December 1, 2025 at 7:06 PM
訊きもしない蘊蓄を勝手に垂れ流されれば、うんざりもするのが普通だろう。折角mgtncnが興味を持ってくれたのに──と、どこかピントのズレた後悔が込み上げてきた時だった。「乱歩が一口で語れないってのは分かったよ。その上で、僕くんのお勧めを訊いてるんだって。三つに絞り込めないなら、ちょっと多くてもいいからさ」意外な言葉が続いて、僕は知らず知らずの内に俯かせていた頭を上げた。いつの間にかmgtncnはこちらに向き直り、丸眼鏡の向こうの、大粒の橄欖石のような瞳が真っ直ぐ僕を見つめている。「まあ、すぐには決めなくてもいいよ。その代わり、僕くんが思う乱歩のお勧めを貸してほしいんだよね」
December 1, 2025 at 5:55 PM
僕が話し始めてからというものmgtncnの目は一度も僕を見なかったが、幸いにも時折相槌を打ちながら、特に意見を差し挟むこともなく僕の話を聞いてくれている。開け放たれた窓から思い出したように吹き抜ける風が、彼女の暗い金髪を弄んだ。僕が一通り話し終えると、彼女はちらと手元の本を眺め──「で?」と訊き返した。「僕は僕くんのベストスリーを訊いたんだけど。答えになってないよね」そう言われて、僕は再び言葉を詰まらせてしまった。僕はmgtncnと自分が敬愛する乱歩、その両方に誠実であろうとして、結局のところは長文を捲し立てただけ。彼女の質問に答えたわけではない。
December 1, 2025 at 5:44 PM
mgtncnがどのような傾向の推理小説を好むのか、それさえも分からない今では、正直お勧めのしようがない。往々にして本格ものを好む人には、乱歩の変格ものは軽んじられる傾向がある。乱歩が著した本格ものの代表格である『二銭銅貨』と『一枚の切符』を既に読んでいるということは、mgtncnも本格ものを好むのではないか。迂闊に作品を勧めて、乱歩に悪い印象を持たれるのも避けたい。結局僕は、乱歩が如何に作風の幅広い作家か、どれほど作品ごとに覚える印象が異なるか、ということをかいつまんで話すのが精一杯だった。
December 1, 2025 at 5:37 PM
一方で『人間椅子』や『蟲』、『闇に蠢く』などは推理趣味的要素もありながらホラーに片足を突っ込んでいるし、ただひたすらに陰惨なだけの『芋虫』や完全にホラーと言って差し支えない『押絵と旅する男』『指』などの作品もある。児童向けに書かれた少年探偵団シリーズにも、「全身が青銅で出来た機械人間が、歯車の音を軋ませながら沢山の時計をぶら下げて夜の銀座を徘徊する」──という、あまりにも魅力的な場面から始まる『青銅の魔人』などの佳作があって、ひとえに児童文学と切り捨てられない魅力があるのが悩ましい。つまるところ──乱歩を一口で語るのは難しいのだ。
November 28, 2025 at 4:42 PM
えーっと……乱歩っていうのは振れ幅の広い作家で……。そう答える僕もしかし、いざ作品を挙げよと言われると迷ってしまう。無論、『二銭銅貨』や『一枚の切符』は国産本格推理小説の嚆矢という意味で意義深い作品だ。しかし、『二銭銅貨』の落ちは後の乱歩本人にも蛇足だったと評されているし、『一枚の切符』は構造こそ本格ものだが、プロットそのものは割と他愛ない。むしろその後に書かれた『屋根裏の散歩者』や『一寸法師』などの作品の方が、多少推理小説の本懐を置き去りにしているにしても、猟奇者として知られた乱歩らしいテイストをふんだんに含んでいる気がする。
November 28, 2025 at 4:41 PM
そんな僕の心中を知ってか知らずか、mgtncnは遠くを眺めたまま「僕くんが思う、乱歩のベストスリーって、何?」と、今まで僕達が彼女に抱いていた印象からすればあまりにも無邪気に思えるほど、軽く尋ねてきた。だからこそ、僕は無様にも聞き返してしまう。ぼっ、僕のベストスリー?mgtncnが横目に僕の顔を見て、軽く頷いた。小首を傾げるような角度のまま頭が静止しているのは、最低限僕の答えを待つつもりはあるというポーズだろう。
November 28, 2025 at 4:41 PM
「乱歩かあ……僕くん、なかなか渋いね」mgtncnは腕を組み、右手をその細い顎に添えて遠くを眺めるような仕草をした。「乱歩、あまり読んだことないんだよね。『二銭銅貨』と『一枚の切符』、あとは『押絵と旅する男』くらいかな。これは殆どホラーだったけど」mgtncnが挙げたのは、乱歩の処女短編だった。これは殆ど本格もので、理路整然としたミステリらしいミステリだ。乱歩の魅力は後に書かれることになる変格小説の方にある、と僕は主張したかったが、あまり押してしまえば彼女はすっと引いてしまう気がして、ぐっと言葉を飲み込んだ。
November 18, 2025 at 9:05 PM
うーん、江戸川乱歩、かな……。mgtncnの表情を見ながら僕は答えた。実際、推理小説というジャンルを横断して読むようになっても、僕に乱歩ほどの印象を残す作家はいなかった。海外ミステリはあまりにも知的遊戯といった側面が強く、ドライすぎるような気がしてあまりのめり込めない。国産ミステリは現実的すぎるとでも言うべきか、実際にあり得そうな話が多すぎて、乱歩のようにどこか浮遊感のあるストーリーには出会えなかった。一方で新本格ものはあまりにも突飛すぎ、推理小説という構造そのものに対するお膳立てが露骨に思えてしまう。
November 18, 2025 at 8:41 PM
それは別に嘘ではない。小学生の頃、図書館で江戸川乱歩『少年探偵団』シリーズを借りたのをきっかけに、僕は推理小説を読むことを覚えた。乱歩の描くケレン味たっぷりの冒険活劇が面白くて、夢中になって読んだことを覚えている。それ以来、読む小説と言えば専ら推理小説、という人生だ。尤も、mgtncnほどの読書量では当然ないだろうが。「そうなんだ。じゃあさ、好きなミステリ作家とかいたりする?」心なしか、彼女の表情が緩んだ気がした。同好の士を見つけて嬉しいのか。ガラス片のような刺々しい彼女の印象からは、とてもじゃないが持ちえない感情のように思えた。眉根の皺だって、当然消えていない。
November 18, 2025 at 8:26 PM
ミ、ミステリって、推理小説ってことだよね?僕はもう、滑り出してしまった会話をそれでも途切れさせないよう、必死で二の句を継ぐ。「……そうだよ。僕くんも読むの?ミステリ」彼女は意外にも、僕を名前で呼んだ。これには僕が面食らう番だった。てっきり、彼女は同級生の名前など全く覚える気もない質だと思っていたから。「……?読むの?」mgtncnが怪訝そうに訊き返すので、僕は慌てて首を縦に振った。
November 18, 2025 at 8:16 PM
その拍子に、開襟ブラウスの奥に肉の薄い鎖骨が、スカートの裾から白い太腿が覗いて、僕は思わず少し目を逸らした。「何なの。言いたいことがあるならはっきり言って」下らないことで時間を浪費させるな、とも言いたげに、mgtncnの眉根の皺が深くなる。一旦それに気付いてしまうと、もう頭の中が真っ白になってしまって──僕の口を衝いたのは、全然意図していなかった質問だった。……mgtncnさん、何の本読んでるの?彼女は一瞬虚を突かれたような顔をして、しかしすぐに怪訝そうな声で「……ミステリだけど。それが何か?」と答えた。
November 18, 2025 at 8:04 PM
ページを繰るその白い指を見ていると、否が応でも昨日見せられた写真を思い出してしまう。ブラウスの薄い布に包まれた腕、胸、そしてスカートに縁取られた、細く絞り込まれた腰。プリーツが伸び縮みしながら、腿の柔らかな曲線の上を緩くなぞって──「……何。僕に何か用?」そう声を掛けられ、慌てて脳内の残像をかき消すと、mgtncnの目が真っ直ぐに僕を見つめていた。僕が咄嗟に口籠ると、再びその目は小説の上に落とされていく。「普段、この時間には居ないでしょ。何の気まぐれ?それとも本当に、僕に何か用でもあるの?」
November 8, 2025 at 8:32 PM
急に扉の開く音がして我に返ると、戸口には誰あろうmgtncnが立っていた。丸眼鏡の奥の二つの橄欖石が僕の姿を認めると、彼女は少し意外そうな顔を見せ、小さな声で「おはよう」と囁く。僕が若干吃りながら間の抜けたタイミングで挨拶を返すと、僕の席の前をするりと抜けてmgtncnは自分の席に向かった。窓際から二条目の最後列に座ると、彼女は流れるような動作で鞄から小説を取り出して読み始める。四六判の上製本、カバーは外されていて、書名を窺い知ることは出来ない。臙脂色の表紙には、何も書かれていなかった。
November 8, 2025 at 7:57 PM
だからこそなのだろう、いくつかの女子グループに悪辣な陰口を叩かれているのを聞いたこともある。しかし、安全圏からやいのやいの言ったところで、所詮お前達には踏み込んでくる勇気すらない──と、mgtncnの全身にはそう大書してあるように思われた。それが彼女を取り囲む硬い殻、高い塀となっていて、僕達との距離はさらに開いていく。その距離を少しでも縮めたいから、僕は今日、早く家を出たんじゃないのか。
November 8, 2025 at 7:45 PM
あのアカウントの主は、たまたま似ているだけの、別人。ここまで考えて初めて、そうであってほしいと願っている自分自身に気が付き、僕は驚いていた。確かに、うちのクラスではmgtncnを異性として意識していない男子の方が少ないだろう。mgtncnはそのくらい、強烈な印象を放っていた。だが同時に近寄りがたくもある。本人の態度や言動が、丸っきり触れる者を皆傷付ける鋭さなのだから当然だ。抜き身のナイフというよりは、割れて砕けたガラスのような危うさ。迂闊に踏み込めば無事では済まないとすぐに分かる。
November 8, 2025 at 7:36 PM
扉を開けるまで、もしかするとmgtncnは既に来ているかも、と思っていたのは事実だった。教室に二人きりになれるかも、とも考えた。しかし、二人きりになったから何だというのだろう?昨日瀬川に教えられた、あのアカウントのことでもぶつけるつもりなのか?ぶつけるとして、どのように?「こんなことやめなよ」とでも言うつもりか?それとも──。よく分からなかった。それに瀬川の話だって、あくまで憶測に過ぎない。
November 8, 2025 at 7:21 PM
これ、どれくらい話題になってんの?と尋ねると、「今はまだそれほど。うちのクラスにmgtncnに入れあげてる奴がいてさ。そいつが大発見だってんで自慢げに仲間内に話したくらいかな」と瀬川は答えた。「まあ、広がるのも時間の問題だと思うよ。何せ、同窓生かも知れない子の裸が拝めるんだから、食い付かない男の方が少ないんじゃないか」
November 5, 2025 at 7:46 PM