重篤な厨二病患者でもある。
Aにとっての善は、Bにとっての悪かも知れない。
Bにとっての平和は、Cにとっての戦争かも知れない。
Cにとっての抑圧は、Dにとっての解放かも知れない。
Dにとっての生は、Eにとっての死かも知れない。
Xの考える常識は、Yの考える非常識かもしれない。
話せば相互理解できるかも知れないが、どれだけ話しても相互に理解できないかも知れない。
この世のあらゆる物事に、意味はないかも知れない。
が――。
この世のあらゆる物事に、意味は見出され得るかも知れない。
#おはようの意
Aにとっての善は、Bにとっての悪かも知れない。
Bにとっての平和は、Cにとっての戦争かも知れない。
Cにとっての抑圧は、Dにとっての解放かも知れない。
Dにとっての生は、Eにとっての死かも知れない。
Xの考える常識は、Yの考える非常識かもしれない。
話せば相互理解できるかも知れないが、どれだけ話しても相互に理解できないかも知れない。
この世のあらゆる物事に、意味はないかも知れない。
が――。
この世のあらゆる物事に、意味は見出され得るかも知れない。
#おはようの意
ここで重要となるのは「認識」という概念で、その認識に関する定義と範囲ではないかと考える。
基本的な例を挙げるなら、人体の五感に関わる現象ならまず「認識」の範囲に含まれると考えられる。
では、もう一つの感覚とされる「直感」はどうか。
対象を取らず、「ただなんとなく嫌な予感がする」程度でも、それは「認識」と判断されるのだろうか。
もしそれが対象Aの効果を満たさぬなら、加えて認識外の範囲に於いて有効と考えられる干渉方法を実行できるなら、認識外を維持した処理も不可能ではない。
ここで重要となるのは「認識」という概念で、その認識に関する定義と範囲ではないかと考える。
基本的な例を挙げるなら、人体の五感に関わる現象ならまず「認識」の範囲に含まれると考えられる。
では、もう一つの感覚とされる「直感」はどうか。
対象を取らず、「ただなんとなく嫌な予感がする」程度でも、それは「認識」と判断されるのだろうか。
もしそれが対象Aの効果を満たさぬなら、加えて認識外の範囲に於いて有効と考えられる干渉方法を実行できるなら、認識外を維持した処理も不可能ではない。
が、もし他の宇宙では別の原理が働いていると仮定するなら、どのような原則が設定されているのか。
些かの興味がある。
が、もし他の宇宙では別の原理が働いていると仮定するなら、どのような原則が設定されているのか。
些かの興味がある。
観測者にあるまじき台詞ではあるが。
観測者にあるまじき台詞ではあるが。
少なくとも、これを打っている現段階では。
少なくとも、これを打っている現段階では。
が、超克できないことがあろうか。
が、超克できないことがあろうか。
ではその種の思考を獲得してしまった場合、如何するか。
その思考を一理として置き、同時に疑い、これまで通りに活動しながら別の思案を練る。
修業・修行・修養に終わりは無し。
終わりもまた始まりと同義なれば。
ではその種の思考を獲得してしまった場合、如何するか。
その思考を一理として置き、同時に疑い、これまで通りに活動しながら別の思案を練る。
修業・修行・修養に終わりは無し。
終わりもまた始まりと同義なれば。
空間領域に一定の性質を及ぼす力場と呼ばれる概念の構築条件・構築要素などがもう少し一般的に普及可能なレベルにまで解明されれば……或いはその手掛かりを得られることもあろうか。
手掛かりを得られない場合でも、手掛かりを得られなかったという客観的事実を獲得することが可能となる。
そうした謎が解明されると如何なるか。
より良い道の選択肢を得られる可能性が生じる。
空間領域に一定の性質を及ぼす力場と呼ばれる概念の構築条件・構築要素などがもう少し一般的に普及可能なレベルにまで解明されれば……或いはその手掛かりを得られることもあろうか。
手掛かりを得られない場合でも、手掛かりを得られなかったという客観的事実を獲得することが可能となる。
そうした謎が解明されると如何なるか。
より良い道の選択肢を得られる可能性が生じる。
彼ら彼女らは他者が行ったとされる肉体的な暴力に対して過激な反応を見せているにも関わらず、自身の発する精神的な暴力に対しては頗る寛容に思われるのだ。
私もまた、そうなのかも知れない。
常に自省を促し、粛然として事を為せ。
彼ら彼女らは他者が行ったとされる肉体的な暴力に対して過激な反応を見せているにも関わらず、自身の発する精神的な暴力に対しては頗る寛容に思われるのだ。
私もまた、そうなのかも知れない。
常に自省を促し、粛然として事を為せ。
進学を例に考えてみる。
以下、提示する学校(中高大のいずれでも)に進学できるとする。
(個々人の環境にも依るが)いずれに進学するのが最善か。
A:偏差値70
B:偏差値40
C:進学せずに通信で自主学習
一般的な最適解としては、偏差値70の学校に行くことが最善とされるだろう。
そして実際、在学中に問題も起こらず卒業して良い職に就くこともできたと仮定する。
が、人間関係の柵に縛られて心身を病むという悪性の結果に至るということは十分にありうる。
進学を例に考えてみる。
以下、提示する学校(中高大のいずれでも)に進学できるとする。
(個々人の環境にも依るが)いずれに進学するのが最善か。
A:偏差値70
B:偏差値40
C:進学せずに通信で自主学習
一般的な最適解としては、偏差値70の学校に行くことが最善とされるだろう。
そして実際、在学中に問題も起こらず卒業して良い職に就くこともできたと仮定する。
が、人間関係の柵に縛られて心身を病むという悪性の結果に至るということは十分にありうる。
それは単なる情報不足だと判断できます。
事象に対する情報を獲得し、道理を修め、理論を構築し、考慮と想像に到達す。
然れば、共感も納得も同情も可能になりましょう。
世間一般で言われる理解と呼ばれるものが、上記の類の感情を示しているものであるなら。
但し、実体験としての情報獲得については極めて困難であると言えます。
現在普及している科学の技術水準では、限定的に設定された複雑な状況を再現するに極めて困難であると考えられるためです。
その点を注視して、理解と称しているのであれば確かに。
現段階では理解不能と言うに十分な状況は大いにあります。
それは単なる情報不足だと判断できます。
事象に対する情報を獲得し、道理を修め、理論を構築し、考慮と想像に到達す。
然れば、共感も納得も同情も可能になりましょう。
世間一般で言われる理解と呼ばれるものが、上記の類の感情を示しているものであるなら。
但し、実体験としての情報獲得については極めて困難であると言えます。
現在普及している科学の技術水準では、限定的に設定された複雑な状況を再現するに極めて困難であると考えられるためです。
その点を注視して、理解と称しているのであれば確かに。
現段階では理解不能と言うに十分な状況は大いにあります。
「何もかもが無くなる」ということは、「何ものをも生じない」ということとイコールではない為だ。
何も無いという状態は、無限の停滞を意味しない。
「何もかもが無くなる」ということは、「何ものをも生じない」ということとイコールではない為だ。
何も無いという状態は、無限の停滞を意味しない。
互いに結び付こうとする力。
互いに反発しようとする力。
素粒子の統一理論に於いても、これらに明確な矛盾は見受けられないと思われる。多分。
だが、物理的尺度では直接的に推量できないエネルギーという概念も存在している。
引力、重力、動力、時計、いずれにしても物理的な要素の変化でエネルギーの存在を観測可能としているが、しかしそれらはエネルギーそのものを観測しているわけではない。
そして前述した力についてもまた、同様である。
エネルギーという概念が暗黙裡の前提条件として盲目的に設置されている社会的事実が普及する現状は、良きにしろ悪しきにしろ認識しておいても良い。
互いに結び付こうとする力。
互いに反発しようとする力。
素粒子の統一理論に於いても、これらに明確な矛盾は見受けられないと思われる。多分。
だが、物理的尺度では直接的に推量できないエネルギーという概念も存在している。
引力、重力、動力、時計、いずれにしても物理的な要素の変化でエネルギーの存在を観測可能としているが、しかしそれらはエネルギーそのものを観測しているわけではない。
そして前述した力についてもまた、同様である。
エネルギーという概念が暗黙裡の前提条件として盲目的に設置されている社会的事実が普及する現状は、良きにしろ悪しきにしろ認識しておいても良い。
納得できる。
だから私が恐らくは風邪による頭のふらつきもまた、それらウイルスや温度・湿度といった環境の諸要素による影響であり決して自身の不健康的な生活習慣のみに起因するものではないと判断できる。寝ろ。
納得できる。
だから私が恐らくは風邪による頭のふらつきもまた、それらウイルスや温度・湿度といった環境の諸要素による影響であり決して自身の不健康的な生活習慣のみに起因するものではないと判断できる。寝ろ。
思考を深めれば深める程に。
肉体を動かすことも大事だな、となる。
狩猟・採集・牧畜・農耕。
人類史に於ける環境基盤の変遷。
然し未だに、現行人類は地球という大規模な循環リソース無しには生きることができない文明レベルに位している。
精神的にも、肉体的にも。
纏まりの無い文章を連ねつつ、作業に戻る。
思考を深めれば深める程に。
肉体を動かすことも大事だな、となる。
狩猟・採集・牧畜・農耕。
人類史に於ける環境基盤の変遷。
然し未だに、現行人類は地球という大規模な循環リソース無しには生きることができない文明レベルに位している。
精神的にも、肉体的にも。
纏まりの無い文章を連ねつつ、作業に戻る。
とは雖も、双方の「協調・互譲・提携」などといった摺り合わせに類する活動によって一定の共有理解を獲得する余地は十分にある。
どちらの認識も必要ではある。
とは雖も、双方の「協調・互譲・提携」などといった摺り合わせに類する活動によって一定の共有理解を獲得する余地は十分にある。
どちらの認識も必要ではある。
では「人間」とは何を対象・意味として使われている言葉であるのか。
これを端的に言い示すことは、私には難しい。
ソクラテス、孔孟、釈迦、などを参照すれば感得できることもあろうとは考える。
では「人間」とは何を対象・意味として使われている言葉であるのか。
これを端的に言い示すことは、私には難しい。
ソクラテス、孔孟、釈迦、などを参照すれば感得できることもあろうとは考える。
なるほどね……。
なるほどね……。
何の起点か。
生命体が保有する繁殖と繁栄の本能である。
与太話だが……恐らくは、宇宙のそれと生命のそれらは本質的に類似するのではないかと想像している。
無論、科学的根拠は一切無い。
何の起点か。
生命体が保有する繁殖と繁栄の本能である。
与太話だが……恐らくは、宇宙のそれと生命のそれらは本質的に類似するのではないかと想像している。
無論、科学的根拠は一切無い。
自己と他者は異なる立場と視点を有しているが故に、全く同位の思考を積むことが不可能である為だ。
とはいえ、ある類型の目的に対して両者ともが行動を突き詰めた場合に於いては、感情や思考の合致に酷似する現象が生じることもあるらしい。
古今東西、類似の事例は幾つか提示されている。
或いはそれら全てが誤解だったとしても、それを求める心情を無視することは賢明ではない。
また、理解できぬと知っていて猶も理解し合おうとする心意気も重要な一事であるようにも思われる。
自己と他者は異なる立場と視点を有しているが故に、全く同位の思考を積むことが不可能である為だ。
とはいえ、ある類型の目的に対して両者ともが行動を突き詰めた場合に於いては、感情や思考の合致に酷似する現象が生じることもあるらしい。
古今東西、類似の事例は幾つか提示されている。
或いはそれら全てが誤解だったとしても、それを求める心情を無視することは賢明ではない。
また、理解できぬと知っていて猶も理解し合おうとする心意気も重要な一事であるようにも思われる。
客観的にそれらを判断するのは難しい。
前者はあからさまであるが、仮に後者が前者を装った場合に見破れるかと言えば困難だと予想される為だ。
客観的にそれらを判断するのは難しい。
前者はあからさまであるが、仮に後者が前者を装った場合に見破れるかと言えば困難だと予想される為だ。
となると、真空の相転移と呼ばれる大規模な状態変化(インフレーション)に至る原因があった筈である。
それは何か。
端的に二つ考えられる。
・真空という場そのものが、自発的な変化を起こしたか(起こすに足る微弱な変化が絶えず生じていた)。
・或いは、真空という場に外発的な影響が及んだか。
後者の場合、宇宙誕生前の領域に於いて何らかの力が存在していたと考えられる。
現在も膨張を続ける宇宙の外側、押し広げている外側の空間が……内側にある宇宙を圧している可能性はある。
となると、真空の相転移と呼ばれる大規模な状態変化(インフレーション)に至る原因があった筈である。
それは何か。
端的に二つ考えられる。
・真空という場そのものが、自発的な変化を起こしたか(起こすに足る微弱な変化が絶えず生じていた)。
・或いは、真空という場に外発的な影響が及んだか。
後者の場合、宇宙誕生前の領域に於いて何らかの力が存在していたと考えられる。
現在も膨張を続ける宇宙の外側、押し広げている外側の空間が……内側にある宇宙を圧している可能性はある。
それは別に忌むべきことではない。
感情に揺られ感傷に浸かり絶望に打ちひしがれ、それでも前方に向けて思考と行動と修正の輪を絶えず回し続けることが肝要だ。
そうしなければ生き残れなかった時代は、確かにあった。
現代では、果たしてどうだろうか。
そうしなければならない環境か。
そうしなくても構わない環境か。
それは別に忌むべきことではない。
感情に揺られ感傷に浸かり絶望に打ちひしがれ、それでも前方に向けて思考と行動と修正の輪を絶えず回し続けることが肝要だ。
そうしなければ生き残れなかった時代は、確かにあった。
現代では、果たしてどうだろうか。
そうしなければならない環境か。
そうしなくても構わない環境か。