「ブラウン神父や教会だけが、当事者の内面の問題をちゃんと扱っていますよ」と、チェスタトンは暗に示しているのかもしれないですね。「本当はそちらの方が大事ですよ」と。
チェスタトンの時代はマルクスにせよフロイトにせよ、外面的・物質的・即物的だったので。けれどもそういう人々にも読まれる形で、皮肉や逆説を書いたのかも。
推測ですが…。
「ブラウン神父や教会だけが、当事者の内面の問題をちゃんと扱っていますよ」と、チェスタトンは暗に示しているのかもしれないですね。「本当はそちらの方が大事ですよ」と。
チェスタトンの時代はマルクスにせよフロイトにせよ、外面的・物質的・即物的だったので。けれどもそういう人々にも読まれる形で、皮肉や逆説を書いたのかも。
推測ですが…。
確かに、「いちばん大変な人の内面」はあまり描写されないような。短編だからでしょうか。もしブラウン神父譚が長編だったらどうでしょうか?
こういう描写、チェスタトン自身は意図的だったような気がします。ブラウン神父自身の素性もほとんど分からないのと同様に、懺悔の内容や告解者の内面も、もちろん決して明らかにはされない。内面の問題と行動の問題とを、かなり分離しているような。
社会が精神性を捨象してしまっていることを、チェスタトンお得意の逆説的な描写で皮肉ったとは考えられないでしょうか?
私の考えすぎかなあ。
確かに、「いちばん大変な人の内面」はあまり描写されないような。短編だからでしょうか。もしブラウン神父譚が長編だったらどうでしょうか?
こういう描写、チェスタトン自身は意図的だったような気がします。ブラウン神父自身の素性もほとんど分からないのと同様に、懺悔の内容や告解者の内面も、もちろん決して明らかにはされない。内面の問題と行動の問題とを、かなり分離しているような。
社会が精神性を捨象してしまっていることを、チェスタトンお得意の逆説的な描写で皮肉ったとは考えられないでしょうか?
私の考えすぎかなあ。
高校生ぐらいの時に原作をひと通り読んで以来のブラウン神父譚、ドラマはまだひとつしか観ていないので私は何とも言えません。でも、そういう感想をお持ちなのですね。
私はどちらかというと考え込むタイプですが、感じ方の激しさも少しわかります。良くないと思われる点は原作由来なのかどうか?
もう少し観てみますね。
高校生ぐらいの時に原作をひと通り読んで以来のブラウン神父譚、ドラマはまだひとつしか観ていないので私は何とも言えません。でも、そういう感想をお持ちなのですね。
私はどちらかというと考え込むタイプですが、感じ方の激しさも少しわかります。良くないと思われる点は原作由来なのかどうか?
もう少し観てみますね。
ユダヤ的な「父なる神」が、ローマ的農耕の母性と融和したのではないでしょうか。イエスの優しさは、母性的ですよね。
強い父性を和らげることで、救世主イエスの像が完成した。だから水が強調されると考えられないでしょうか。
ユダヤ的な「父なる神」が、ローマ的農耕の母性と融和したのではないでしょうか。イエスの優しさは、母性的ですよね。
強い父性を和らげることで、救世主イエスの像が完成した。だから水が強調されると考えられないでしょうか。
『ある心象風景』のみならず、noteにアップしている論考もできたら嬉しいです。
noteにアップしている作品であれば、他の作品でも構いません。お願いいたします🤲
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noteにアップしている作品であれば、他の作品でも構いません。お願いいたします🤲
説明も悪かったのでしょうけれども…。
説明も悪かったのでしょうけれども…。
出所は同じ「ポテンシャル」です。
このポテンシャルをうまく使うことが「リビドーの昇華」であり、人間としてのキモではないでしょうか。
出所は同じ「ポテンシャル」です。
このポテンシャルをうまく使うことが「リビドーの昇華」であり、人間としてのキモではないでしょうか。
つまり人間が「ポテンシャル」を建設的に用いることは、ユング的には「神の御心に叶う」ことだということでしょう。
このポテンシャルをフロイト的に表現した概念が「リビドー」なのだと思います。人間の知恵には性が絡んでいると考えると、「禁断の知恵の実」というメタファーも分かりやすいですよね。
つまり人間が「ポテンシャル」を建設的に用いることは、ユング的には「神の御心に叶う」ことだということでしょう。
このポテンシャルをフロイト的に表現した概念が「リビドー」なのだと思います。人間の知恵には性が絡んでいると考えると、「禁断の知恵の実」というメタファーも分かりやすいですよね。
「創る」と「壊す」は紙一重ですが、そのポテンシャルを持つのは人類だけではないでしょうか。
そのポテンシャルは、ポジティブにもネガティヴにも作用し得る。害のない破壊は、ネガティヴとは限りませんが。
そのポテンシャルをキリスト教では「原罪」と呼ぶのだと考えます。生物学的には、大脳皮質の発達ではないかと。
知性と関係しますね。
知性豊かな人には、時に両極端が表れやすいのかもしれません。
「創る」と「壊す」は紙一重ですが、そのポテンシャルを持つのは人類だけではないでしょうか。
そのポテンシャルは、ポジティブにもネガティヴにも作用し得る。害のない破壊は、ネガティヴとは限りませんが。
そのポテンシャルをキリスト教では「原罪」と呼ぶのだと考えます。生物学的には、大脳皮質の発達ではないかと。
知性と関係しますね。
知性豊かな人には、時に両極端が表れやすいのかもしれません。
訓練された巫女などは神懸かりになっても、必ず正気に戻るはずです。プロのカウンセラーが時間設定や料金を重視するのも、現実に立ち返るためだと思います。
訓練された巫女などは神懸かりになっても、必ず正気に戻るはずです。プロのカウンセラーが時間設定や料金を重視するのも、現実に立ち返るためだと思います。