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デリダは自伝的エレメントを哲学史に積極的に取り入れつつ自著を公刊し続けた 公私の境界線を攪乱して決定不可能にしたかったのか その欲望自体は個人なるものの強化に帰着した気もする 後期に論じた不可能な他者の到来も個を前提として成り立っていたように思う 自他の決定を不可能と決定する個を
March 21, 2024 at 8:50 AM
過去または記憶の継承を考える際「遺産相続」(デリダ)概念を私は使ってきたがトラヴェルソはこの捉え方自体が過去ないし記憶を既に物象化しており商品の個人消費を前提としているのでは?と指摘したことになる デリダの生とその概念は切り離せない 最近の批評にも自伝的語りが目立つ 当事者研究も
March 21, 2024 at 4:13 AM
 トラヴェルソによると一人称単数歴史記述は古代にもあった トゥキュディデスは客観的事実として戦争を再構成すべく歴史記述に三人称を導入した それを補うためクセノフォンは一人称単数を用いた 出来事の目撃者としてその事実性を補強する目的だという ここでは二つの人称は対立せず逆に協力し合う
 他方で三人称を巧妙に用いて客観性を装い責任を逃れる事例もトラヴェルソは紹介している これは戦後間もないドイツの歴史研究者の一部にあったという 自分自身の戦争体験をナチス・ドイツの所業を客観的に理解するという名目で中立的に叙述したわけである この手口は歴史記述に限らずわりと見かける
March 21, 2024 at 3:53 AM
トラヴェルソはブローデルの歴史記述(歴史≒人間を匿名化する過程)とアルチュセールの歴史の定義(主体なき過程)の共通点を指摘する アルチュセールと別れたバディウが主体論を構想し歴史を否定した所以 尤もバディウの主体は英雄的個人ならぬ匿名の存在である点でアルチュセールに忠実とも言える
March 21, 2024 at 1:13 AM
エンツォ・トラヴェルソ『一人称の過去 歴史記述における〈私〉』(未来社)を読む 21世紀初頃から歴史研究文献に一人称単数が散見されるようになったという 過去が消費される商品になり記憶は私的所有権や財産(遺産相続)のごとく扱われている 背景に資本主義の生活全域への深い浸透があるようだ
March 20, 2024 at 4:05 AM