家に来た軍服の男性は、鉄に赤い紙を渡しました。召集令状でした。
周りの男の人たちは、ほとんど出征していました。いつかは来ると思ってはいましたが、もしかしたら逃れられたのかもしれない、とも思っていました。
でも、そうではなかった。
逃げられなかった。
現実なんだ。
心臓が早鐘のように鳴っています。
お腹の中で黒いものがぐるぐると暴れて飛び出しそうでした。
「そら、」
鉄がそらを呼びます。
「僕はね、まだ役に立てることを嬉しく思うよ。」
鉄は穏やかに言いました。
「そらを守れることを誇りに思うよ。」
そらは、堪えきれず泣きました。
家に来た軍服の男性は、鉄に赤い紙を渡しました。召集令状でした。
周りの男の人たちは、ほとんど出征していました。いつかは来ると思ってはいましたが、もしかしたら逃れられたのかもしれない、とも思っていました。
でも、そうではなかった。
逃げられなかった。
現実なんだ。
心臓が早鐘のように鳴っています。
お腹の中で黒いものがぐるぐると暴れて飛び出しそうでした。
「そら、」
鉄がそらを呼びます。
「僕はね、まだ役に立てることを嬉しく思うよ。」
鉄は穏やかに言いました。
「そらを守れることを誇りに思うよ。」
そらは、堪えきれず泣きました。
家に持ち帰ると、部屋の奥の押し入れに桐箱を隠しました。
そしてこっそりとひとつずつ売って食べ物や油に替えました。
鉄は腕のいい職人でしたが、今は仕事がありません。
そらは、桐箱の着物を売りながら、鉄との生活を守っていました。
それは戦争が始まる前、かつてお店が繁盛していた頃の父のようでした。
そらの父は仕入れた品物ひとつひとつを我が子のように大切に扱い、同様に大切に扱ってくれる人にしか売りませんでした。
一枚の着物も、それを着る人も大切に思う人でした。
仕事を誇りに思い、家族を守れることを誇りに思う人でした。
家に持ち帰ると、部屋の奥の押し入れに桐箱を隠しました。
そしてこっそりとひとつずつ売って食べ物や油に替えました。
鉄は腕のいい職人でしたが、今は仕事がありません。
そらは、桐箱の着物を売りながら、鉄との生活を守っていました。
それは戦争が始まる前、かつてお店が繁盛していた頃の父のようでした。
そらの父は仕入れた品物ひとつひとつを我が子のように大切に扱い、同様に大切に扱ってくれる人にしか売りませんでした。
一枚の着物も、それを着る人も大切に思う人でした。
仕事を誇りに思い、家族を守れることを誇りに思う人でした。
明日を語ることが出来ないのならば、せめて今を大切に生きよう。
そらはそう思っていました。
ある日、空襲で壊れた店の蔵を片付けていると、ガレキの下に見覚えのある桐箱を見つけました。
中には子供の頃の着物や、端切れで作った巾着、母のかんざし等が入っていました。
それはそらが幼い頃の、母との思い出の箱でした。
そらの母は、そらが幼い頃に亡くなっていました。先が長くないことを知っていた母は、そらのため、この箱の中に思い出を残したのでした。
明日を語ることが出来ないのならば、せめて今を大切に生きよう。
そらはそう思っていました。
ある日、空襲で壊れた店の蔵を片付けていると、ガレキの下に見覚えのある桐箱を見つけました。
中には子供の頃の着物や、端切れで作った巾着、母のかんざし等が入っていました。
それはそらが幼い頃の、母との思い出の箱でした。
そらの母は、そらが幼い頃に亡くなっていました。先が長くないことを知っていた母は、そらのため、この箱の中に思い出を残したのでした。
娘は鉄に真っ直ぐな眼差しを向けて言いました。
「お嬢さんは……、」
「お嬢さんじゃないです。そらといいます。」
鉄の言葉を遮ると、娘はにっこりと笑いました。
いつしかふたりは、支え合って暮らしていくようになりました。
日に日に配給は滞るようになりました。
朝、旗を振って見送ったのは、友達のお兄さんでした。
夜、焼夷弾が落ちたのは、同級生の家でした。
その日を生きるので精一杯でした。
戦況がどうなっているのかなんて、わかりませんでした。
娘は鉄に真っ直ぐな眼差しを向けて言いました。
「お嬢さんは……、」
「お嬢さんじゃないです。そらといいます。」
鉄の言葉を遮ると、娘はにっこりと笑いました。
いつしかふたりは、支え合って暮らしていくようになりました。
日に日に配給は滞るようになりました。
朝、旗を振って見送ったのは、友達のお兄さんでした。
夜、焼夷弾が落ちたのは、同級生の家でした。
その日を生きるので精一杯でした。
戦況がどうなっているのかなんて、わかりませんでした。
何も知らずにいられたのは、私が恵まれていたからだ。
お店があった頃は、皆にありがとうと言われた。
私は役に立っているのだと思い込んでいた。
ありがとうと言われる側なのだと。
今は鼻緒が切れて、ひとりで歩くことも出来ない。
これが今の私なのだ。なんと情けないことか。
娘は鉄に、罪を告白するように語りました。
「私は思い上がりを恥じました。」
その時鉄は、かつて賑やかだった町並みは見る影もなくなっていることに気付きました。
なんということだ。塞いでいる間に、僕は僕を支えてくれていた町の人々に背を向けていたのだ。
鉄は着物の裾を裂くと、娘の鼻緒を直しました。
何も知らずにいられたのは、私が恵まれていたからだ。
お店があった頃は、皆にありがとうと言われた。
私は役に立っているのだと思い込んでいた。
ありがとうと言われる側なのだと。
今は鼻緒が切れて、ひとりで歩くことも出来ない。
これが今の私なのだ。なんと情けないことか。
娘は鉄に、罪を告白するように語りました。
「私は思い上がりを恥じました。」
その時鉄は、かつて賑やかだった町並みは見る影もなくなっていることに気付きました。
なんということだ。塞いでいる間に、僕は僕を支えてくれていた町の人々に背を向けていたのだ。
鉄は着物の裾を裂くと、娘の鼻緒を直しました。
人と関わることも少なくなり、次第に世間とも疎遠になっていきました。
ある日配給を貰いに外へ出たとき、道にうずくまる人を見かけました。鉄は声をかけるのを躊躇いました。
通り過ぎようとした時、うずくまっている人が顔を上げ言いました。
「鼻緒が、切れてしまったのです。」
鉄は、その顔に見覚えがありました。
確か、あの大店の娘だ。
「お嬢さんの店に、いくらでもあるのでは?」
裕福な娘のわがままかと、冷たく返す鉄に、その人は言いました。
「私は、鼻緒の直し方も知らない。」
人と関わることも少なくなり、次第に世間とも疎遠になっていきました。
ある日配給を貰いに外へ出たとき、道にうずくまる人を見かけました。鉄は声をかけるのを躊躇いました。
通り過ぎようとした時、うずくまっている人が顔を上げ言いました。
「鼻緒が、切れてしまったのです。」
鉄は、その顔に見覚えがありました。
確か、あの大店の娘だ。
「お嬢さんの店に、いくらでもあるのでは?」
裕福な娘のわがままかと、冷たく返す鉄に、その人は言いました。
「私は、鼻緒の直し方も知らない。」
家はいつも賑やかで、多くの使用人や客たちの華やかな声で溢れていました。店で扱う美しい帯や着物などの織物を見るのが、子供の頃から、そらは大好きでした。
しかし、そんな日々も長くは続きませんでした。
品物は入荷出来なくなり、使用人もひとり、またひとりといなくなりました。
戦況の悪化が原因でした。
父と兄が出征しました。
店はたたむことになりました。
そらはたったひとりになりました。
当たり前だった生活が、少しづつ奪われていく。
大事なものが、少しづつ失われていく。
押し潰されそうな恐怖から、救い出してくれたのは鉄でした。
家はいつも賑やかで、多くの使用人や客たちの華やかな声で溢れていました。店で扱う美しい帯や着物などの織物を見るのが、子供の頃から、そらは大好きでした。
しかし、そんな日々も長くは続きませんでした。
品物は入荷出来なくなり、使用人もひとり、またひとりといなくなりました。
戦況の悪化が原因でした。
父と兄が出征しました。
店はたたむことになりました。
そらはたったひとりになりました。
当たり前だった生活が、少しづつ奪われていく。
大事なものが、少しづつ失われていく。
押し潰されそうな恐怖から、救い出してくれたのは鉄でした。
机やタンス等の家具や、屋根の修理もお手のものでした。声がかかれば喜んで出向き、どんな相談にも快く応じていました。
鉄は自分の仕事で皆が喜んでくれるのが、とても嬉しく、また誇らしく思っていました。
腕の良さと、その人柄の良さで、鉄はいつも引っ張りだこでした。
ですがある日、運命は変わってしまいました。
鉄は屋根から落ちたのです。
幸い命は助かりましたが、片手を失ってしまいました。
仕事が出来なくなった鉄は、世界を失ったように感じました。
そんな真っ暗な日々に、小さな明かりを灯したのがそらでした。
机やタンス等の家具や、屋根の修理もお手のものでした。声がかかれば喜んで出向き、どんな相談にも快く応じていました。
鉄は自分の仕事で皆が喜んでくれるのが、とても嬉しく、また誇らしく思っていました。
腕の良さと、その人柄の良さで、鉄はいつも引っ張りだこでした。
ですがある日、運命は変わってしまいました。
鉄は屋根から落ちたのです。
幸い命は助かりましたが、片手を失ってしまいました。
仕事が出来なくなった鉄は、世界を失ったように感じました。
そんな真っ暗な日々に、小さな明かりを灯したのがそらでした。
そらは縁側から家の中へ上がると、ザルを見せながら嬉しそうに言いました。
「そうか、こんなに。有難いなあ。」
下駄を直す作業の手を止めて、男はそう言いました。
この男は鉄といいました。
「早速アク抜きしますね!何にしようかな。おひたし、それともすいとんに入れようか。」
鼻歌を歌いながら台所へ向かうそらを、鉄は目を細めて見ていました。
苦しい生活の中でも小さな幸せを見つけ、いつも笑顔を絶やさないそらに、鉄は救われる思いがしていました。
そらは縁側から家の中へ上がると、ザルを見せながら嬉しそうに言いました。
「そうか、こんなに。有難いなあ。」
下駄を直す作業の手を止めて、男はそう言いました。
この男は鉄といいました。
「早速アク抜きしますね!何にしようかな。おひたし、それともすいとんに入れようか。」
鼻歌を歌いながら台所へ向かうそらを、鉄は目を細めて見ていました。
苦しい生活の中でも小さな幸せを見つけ、いつも笑顔を絶やさないそらに、鉄は救われる思いがしていました。
揺蕩う波がキラキラと反射し、時折不規則に揺れては消えていきます。
その時、霹靂が一閃したかのように、眩しく陽光が差しました。雲間を割って差し込む光は、空へ登る階段のようでした。
この崖の先には、鬼の爪は届きません。
振り返ることはしませんでした。
もう、世界から隠れる必要はないからです。
少女は一歩踏み出しました。
少女は自由になりました。
おしまい
title:鬼ごっこ
揺蕩う波がキラキラと反射し、時折不規則に揺れては消えていきます。
その時、霹靂が一閃したかのように、眩しく陽光が差しました。雲間を割って差し込む光は、空へ登る階段のようでした。
この崖の先には、鬼の爪は届きません。
振り返ることはしませんでした。
もう、世界から隠れる必要はないからです。
少女は一歩踏み出しました。
少女は自由になりました。
おしまい
title:鬼ごっこ
振り返ることもなく、一心不乱に走りました。
逃げなくては。
遠くへ、出来るだけ遠くへ。
それだけをひたすら念じていました。
林をくぐり、野原を抜け、湖畔を過ぎる頃には雨は止んでいました。
雷鳴は遠くへ去り、ぶ厚い雲の切れ間から見える空の端は、ほんのり赤く焼けてきています。
日が昇る。
別の一日が始まるんだ。
悪夢のような昨日は、太陽が終わらせてしまった。
少女は、辺りを見回しました。
明るくなるほど、ここが知らない土地だということがわかりました。
ずいぶん遠くまで来た、そう思いました。
少女が立っているのは切り立った崖の上でした。
振り返ることもなく、一心不乱に走りました。
逃げなくては。
遠くへ、出来るだけ遠くへ。
それだけをひたすら念じていました。
林をくぐり、野原を抜け、湖畔を過ぎる頃には雨は止んでいました。
雷鳴は遠くへ去り、ぶ厚い雲の切れ間から見える空の端は、ほんのり赤く焼けてきています。
日が昇る。
別の一日が始まるんだ。
悪夢のような昨日は、太陽が終わらせてしまった。
少女は、辺りを見回しました。
明るくなるほど、ここが知らない土地だということがわかりました。
ずいぶん遠くまで来た、そう思いました。
少女が立っているのは切り立った崖の上でした。
雷のおかげで、少女はその爪からギリギリで逃げることができたのでした。
鬼は唸り声を上げて追いかけてきます。
雨の中、少女は必死に走りました。
橋を渡った先の家にも、丘を越えたところの家にも、もう子供の姿はありませんでした。
雨が顔を打ち、涙と混ざって落ちました。
やがて鬼は追いかけてこなくなりました。
激しい雨は地面に落ちると飛沫を散らし、霧となって少女を隠してくれました。
雷のおかげで、少女はその爪からギリギリで逃げることができたのでした。
鬼は唸り声を上げて追いかけてきます。
雨の中、少女は必死に走りました。
橋を渡った先の家にも、丘を越えたところの家にも、もう子供の姿はありませんでした。
雨が顔を打ち、涙と混ざって落ちました。
やがて鬼は追いかけてこなくなりました。
激しい雨は地面に落ちると飛沫を散らし、霧となって少女を隠してくれました。
あっという間の出来事でした。
頭が理解をしたくなくて全てをストップしたように、何も考えられませんでした。
鬼はお腹が重たくなったのか、のそのそと這いつくばっては鈍く動いていました。
空を覆った雲からぽつりと雨が落ちてきました。
北風に煽られながら雨粒はバラバラと音をたて、どんどん強くなります。
激しい雨は少女の視界も奪っていきました。
その瞬間、目の前が真っ白になるほど眩しく空が光りました。
世界を切り裂くような雷鳴が響きわたりました。
金縛りにあっていたように動かなかった体が動きました。
少女は弾かれるように走り出しました。
あっという間の出来事でした。
頭が理解をしたくなくて全てをストップしたように、何も考えられませんでした。
鬼はお腹が重たくなったのか、のそのそと這いつくばっては鈍く動いていました。
空を覆った雲からぽつりと雨が落ちてきました。
北風に煽られながら雨粒はバラバラと音をたて、どんどん強くなります。
激しい雨は少女の視界も奪っていきました。
その瞬間、目の前が真っ白になるほど眩しく空が光りました。
世界を切り裂くような雷鳴が響きわたりました。
金縛りにあっていたように動かなかった体が動きました。
少女は弾かれるように走り出しました。
鬼は少女に手を伸ばし、鋭い爪で掴みかかろうとしました。
足がすくんで動けない少女は、その場にしゃがみこんでギュッと目を瞑りました。
「逃げて!」
頭の上から声がしました。
顔を上げると少年が、鬼の腕にしがみついていました。
「はやく逃げて……」
重たい雲が空を覆い、北風がバサバサと周囲の木を揺らしはじめました。
「君は自由になって。」
少年はそう言うと、まっすぐ少女を見てにっこり笑いました。
鬼は少年の頭を掴むと、その腕から引き剥がし、床へと放り投げました。
そして床に落ちた少年をつまみ上げ、ぱくりと飲み込んでしまいました。
鬼は少女に手を伸ばし、鋭い爪で掴みかかろうとしました。
足がすくんで動けない少女は、その場にしゃがみこんでギュッと目を瞑りました。
「逃げて!」
頭の上から声がしました。
顔を上げると少年が、鬼の腕にしがみついていました。
「はやく逃げて……」
重たい雲が空を覆い、北風がバサバサと周囲の木を揺らしはじめました。
「君は自由になって。」
少年はそう言うと、まっすぐ少女を見てにっこり笑いました。
鬼は少年の頭を掴むと、その腕から引き剥がし、床へと放り投げました。
そして床に落ちた少年をつまみ上げ、ぱくりと飲み込んでしまいました。
ひとりになるのも怖かったのですが、それよりも、少年をひとりで鬼のところに帰してはいけないと思いました。
少女は暗い道を走りました。
野原を抜け、林をくぐり、丘を越え、橋を渡り、少年の姿を探しました。
いない、
いない、
ここにもいない。
そして、一軒の家の前に差し掛かった時、家の中からガチャン、ドタンと大きな物音がしました。
開いていた窓から中が見えました。
少年でした。
家の中では大きな鬼が暴れていました。恐ろしい光景に、少女は立ち尽くしてしまいました。
鬼が外の少女に気付きました。
ひとりになるのも怖かったのですが、それよりも、少年をひとりで鬼のところに帰してはいけないと思いました。
少女は暗い道を走りました。
野原を抜け、林をくぐり、丘を越え、橋を渡り、少年の姿を探しました。
いない、
いない、
ここにもいない。
そして、一軒の家の前に差し掛かった時、家の中からガチャン、ドタンと大きな物音がしました。
開いていた窓から中が見えました。
少年でした。
家の中では大きな鬼が暴れていました。恐ろしい光景に、少女は立ち尽くしてしまいました。
鬼が外の少女に気付きました。
少年には聞こえませんでした。
少年の背中はあっという間に小さくなり、やがて見えなくなりました。
少女はひとりぼっちになりました。
少女は悩みました。
このままひとりで進むか、少年を追いかけて戻るか。
目の前は知らない道です。
真っ暗な夜に、月が自分の影を映しています。
振り返ると、今来た道が夜の闇に消えています。
どちらの暗闇を選べばいいの、少女は月を見上げました。
少年には聞こえませんでした。
少年の背中はあっという間に小さくなり、やがて見えなくなりました。
少女はひとりぼっちになりました。
少女は悩みました。
このままひとりで進むか、少年を追いかけて戻るか。
目の前は知らない道です。
真っ暗な夜に、月が自分の影を映しています。
振り返ると、今来た道が夜の闇に消えています。
どちらの暗闇を選べばいいの、少女は月を見上げました。
泣き疲れた少年は湖に映った月を見て言いました。
「僕だけ逃げてていいのかな。」
どうして?と少女は聞きました。
「だって、月がついてくるんだ。」
少年は言いました。
「助けて欲しくて空を見上げたんだ。
だけど月は見てるだけ。
仲間が欲しくてたくさんの家に行ったんだ。
だけどどの家にも鬼がいた。
どこに行っても鬼がいて、どの夜も月はついてくる。
逃げるな、って言われてるみたい。」
そして
「弟を探しに行かなくちゃ。」
少年は立ち上がると、踵を返して駆けていきました。
泣き疲れた少年は湖に映った月を見て言いました。
「僕だけ逃げてていいのかな。」
どうして?と少女は聞きました。
「だって、月がついてくるんだ。」
少年は言いました。
「助けて欲しくて空を見上げたんだ。
だけど月は見てるだけ。
仲間が欲しくてたくさんの家に行ったんだ。
だけどどの家にも鬼がいた。
どこに行っても鬼がいて、どの夜も月はついてくる。
逃げるな、って言われてるみたい。」
そして
「弟を探しに行かなくちゃ。」
少年は立ち上がると、踵を返して駆けていきました。
横たわった鬼を見てから、少年はずっと黙ったままでした。どうしたの?と少女が尋ねても、少年は答えません。
野原を進む二人を、月が照らしています。
夜空の星がひとつ、ふたつと増えては流れていきました。
少年はぽつりと話し始めました。
「僕には弟がいたんだ。」
少年の家には何人か子供がいたこと。
鬼にいつも虐められていたこと。
食べ物を取りに行かなかったあの日、弟がいなくなったこと。
そしてさっきの鬼は、あの日の鬼と同じ寝方をしていたこと。
「僕は、怖くて逃げたんだ。」
少年は声をあげて泣きました。
横たわった鬼を見てから、少年はずっと黙ったままでした。どうしたの?と少女が尋ねても、少年は答えません。
野原を進む二人を、月が照らしています。
夜空の星がひとつ、ふたつと増えては流れていきました。
少年はぽつりと話し始めました。
「僕には弟がいたんだ。」
少年の家には何人か子供がいたこと。
鬼にいつも虐められていたこと。
食べ物を取りに行かなかったあの日、弟がいなくなったこと。
そしてさっきの鬼は、あの日の鬼と同じ寝方をしていたこと。
「僕は、怖くて逃げたんだ。」
少年は声をあげて泣きました。
家の周りの塀は崩れ、ガレキが散乱していました。恐る恐る覗いてみると、中は真っ暗でした。
家具やガラクタがぐちゃぐちゃに倒れています。
「誰もいないのかな?」
少年が壊れた扉に手をかけ、中に入ろうとした時、何かに気付いて息を呑みました。
家具だと思ったのは、鬼でした。
背中にはホコリが積もり横たわって動きません。
この家に子供の姿は見当たりませんでした。
無事に逃げていて欲しい、と少女は思いました。
家の周りの塀は崩れ、ガレキが散乱していました。恐る恐る覗いてみると、中は真っ暗でした。
家具やガラクタがぐちゃぐちゃに倒れています。
「誰もいないのかな?」
少年が壊れた扉に手をかけ、中に入ろうとした時、何かに気付いて息を呑みました。
家具だと思ったのは、鬼でした。
背中にはホコリが積もり横たわって動きません。
この家に子供の姿は見当たりませんでした。
無事に逃げていて欲しい、と少女は思いました。
大きくて立派な家でした。
塀をのぼり中を覗くと、女の子がいました。
二人は声をかけました。
「君の家にも鬼がいる?一緒に行かない?」
すると女の子は答えました。
「行かない。」
「どうして?」
「だって、私が居ないと鬼が悲しむから。」
辛くないよ、とその女の子は言いました。
「私が居ないと死んじゃうの。」
二人は先へ進むことにしました。
女の子は、立派な窓から小さな手を振りました。
大きくて立派な家でした。
塀をのぼり中を覗くと、女の子がいました。
二人は声をかけました。
「君の家にも鬼がいる?一緒に行かない?」
すると女の子は答えました。
「行かない。」
「どうして?」
「だって、私が居ないと鬼が悲しむから。」
辛くないよ、とその女の子は言いました。
「私が居ないと死んじゃうの。」
二人は先へ進むことにしました。
女の子は、立派な窓から小さな手を振りました。
橋を渡ったところには、一件の家がありました。
壊れかけた家でした。
誰か住んでいるだろうかと、二人は裏庭からそっと覗きました。
中には男の子がいました。
奥から鬼のイビキが聞こえます。
二人はその男の子に声をかけました。
「君も鬼といるの?一緒に行かない?」
すると男の子は答えました。
「行かない。」
「どうして?」
「だって、僕がいないと、鬼はひとりぼっちになっちゃうから。」
辛くないよ、とその男の子は言いました。
「僕がいないと死んじゃうんだ。」
二人は先へ進むことにしました。
男の子は、倒れそうな家の中から小さな手を振りました。
橋を渡ったところには、一件の家がありました。
壊れかけた家でした。
誰か住んでいるだろうかと、二人は裏庭からそっと覗きました。
中には男の子がいました。
奥から鬼のイビキが聞こえます。
二人はその男の子に声をかけました。
「君も鬼といるの?一緒に行かない?」
すると男の子は答えました。
「行かない。」
「どうして?」
「だって、僕がいないと、鬼はひとりぼっちになっちゃうから。」
辛くないよ、とその男の子は言いました。
「僕がいないと死んじゃうんだ。」
二人は先へ進むことにしました。
男の子は、倒れそうな家の中から小さな手を振りました。
行き場がある訳ではありません。
これからどうなるかも分かりません。
ですが何があろうと今よりはきっとマシだと思いました。
少女はそっと、家を抜け出しました。
夜道を歩きながら、二人はたくさん話をしました。
「どんな食べ物がすき?」
「どんな家に住みたい?」
「いちばんしたい事は何?」
「あの海の向こうには、鬼がいないんだって。」
「小鬼は水が嫌いなんだって。」
「鬼には肉を渡すと早く寝るよ。」
誰かと話すのは久しぶりでした。
今夜の月は、とても綺麗に見えました。
行き場がある訳ではありません。
これからどうなるかも分かりません。
ですが何があろうと今よりはきっとマシだと思いました。
少女はそっと、家を抜け出しました。
夜道を歩きながら、二人はたくさん話をしました。
「どんな食べ物がすき?」
「どんな家に住みたい?」
「いちばんしたい事は何?」
「あの海の向こうには、鬼がいないんだって。」
「小鬼は水が嫌いなんだって。」
「鬼には肉を渡すと早く寝るよ。」
誰かと話すのは久しぶりでした。
今夜の月は、とても綺麗に見えました。
鬼が家にいるのも、外の小鬼が怖いのも、全て自分のせいだと思っていました。
なぜなら鬼が許さなかったからです。
この家を離れることも、外の世界を見ることも、鬼は許しませんでした。
鬼に自由を奪われた少女は、それが世界の全てだと思っていました。
そうではありませんでした。
鬼は自由だけではなく、少女から考える力も奪っていたのです。
気づいた今は、なぜ忘れていたのかも分かりません。この少年の言葉に、当たり前のことを思い出しました。
私は逃げてもいい。
鬼が家にいるのも、外の小鬼が怖いのも、全て自分のせいだと思っていました。
なぜなら鬼が許さなかったからです。
この家を離れることも、外の世界を見ることも、鬼は許しませんでした。
鬼に自由を奪われた少女は、それが世界の全てだと思っていました。
そうではありませんでした。
鬼は自由だけではなく、少女から考える力も奪っていたのです。
気づいた今は、なぜ忘れていたのかも分かりません。この少年の言葉に、当たり前のことを思い出しました。
私は逃げてもいい。
夜になると小鬼は石を投げるだけではありません。まるで違う生き物のように、赤い目で獲物を狙い、人だろうが動物だろうが、鋭い爪や牙でバリバリと食べてしまいます。
そんな恐ろしい小鬼が潜む夜道を、少年はひとりで歩いて来たのでした。
でも、それよりも驚いたのは、「逃げる」という言葉でした。
逃げていいの?
私はここから離れていいの?
「いいに決まってるよ。僕は、鬼に虐められるのはもう嫌なんだ。違うところで、我慢しないで生きてみたいんだ。」
夜になると小鬼は石を投げるだけではありません。まるで違う生き物のように、赤い目で獲物を狙い、人だろうが動物だろうが、鋭い爪や牙でバリバリと食べてしまいます。
そんな恐ろしい小鬼が潜む夜道を、少年はひとりで歩いて来たのでした。
でも、それよりも驚いたのは、「逃げる」という言葉でした。
逃げていいの?
私はここから離れていいの?
「いいに決まってるよ。僕は、鬼に虐められるのはもう嫌なんだ。違うところで、我慢しないで生きてみたいんだ。」