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古代バルカンの民族イリュリア人とクロアチア人・スロベニア人・セルビア人を関連付け、彼らの政治的統一を唱えた運動。言語統一や政治綱領の策定、議会における反ハンガリー運動などが知られているが、この運動は特にクロアチア人の民族覚醒を象徴するものであった。
古代バルカンの民族イリュリア人とクロアチア人・スロベニア人・セルビア人を関連付け、彼らの政治的統一を唱えた運動。言語統一や政治綱領の策定、議会における反ハンガリー運動などが知られているが、この運動は特にクロアチア人の民族覚醒を象徴するものであった。
ラグーサ共和国の史家・ベネディクト会修道士。バルカン・スラヴの視点から歴史を叙述した初めての作家で、1601年の年代記『スラヴ人の王国』で知られ、後のスラヴ史学者に大きな影響を与えたことから「ダルマチアのトゥキディデス」と呼ばれる。
ラグーサ共和国の史家・ベネディクト会修道士。バルカン・スラヴの視点から歴史を叙述した初めての作家で、1601年の年代記『スラヴ人の王国』で知られ、後のスラヴ史学者に大きな影響を与えたことから「ダルマチアのトゥキディデス」と呼ばれる。
アルバニア公国内・陸相。第一次バルカン戦争に際してイスマイル・ケマルの政府に対抗してセルビア、ギリシャ後援の下中部アルバニア共和国を設置したが、間もなく介入した列強に降伏した。戦後は反政府派ムスリムを組織し、中部で蜂起を引き起こした。
アルバニア公国内・陸相。第一次バルカン戦争に際してイスマイル・ケマルの政府に対抗してセルビア、ギリシャ後援の下中部アルバニア共和国を設置したが、間もなく介入した列強に降伏した。戦後は反政府派ムスリムを組織し、中部で蜂起を引き起こした。
コルシカ島に生まれ、トレビゾンド皇帝ダヴィドの末子「ニケフォロス・コムネノス」の子孫を主張した(ダヴィドを処刑したメフメト二世側では「ニケフォロス・コムネノス」なる人物は記録されていない)。彼の主張はルイ16世に承認された。
コルシカ島に生まれ、トレビゾンド皇帝ダヴィドの末子「ニケフォロス・コムネノス」の子孫を主張した(ダヴィドを処刑したメフメト二世側では「ニケフォロス・コムネノス」なる人物は記録されていない)。彼の主張はルイ16世に承認された。
「バルカンのビスマルク」と呼ばれた政治家、イリヤ・ガラシャニンによって作られた文書。ドゥシャン帝時代の領土を基に、旧セルビア領域の奪還を唱えた。一方1881年、セルビアは二重君主国とともに結んだ協定の中で、ボスニアを諦めることとなった。
「バルカンのビスマルク」と呼ばれた政治家、イリヤ・ガラシャニンによって作られた文書。ドゥシャン帝時代の領土を基に、旧セルビア領域の奪還を唱えた。一方1881年、セルビアは二重君主国とともに結んだ協定の中で、ボスニアを諦めることとなった。
アルバニアの作家。イタリア語併記できわめて古いアルバニア語による文学作品『予言者たちの楔』を著した。また、大トルコ戦争に際してアルバニア南部の諸部族と結託し、親オーストリア運動を試みた。 https://mtbrs.net/ps_indrakandra_Bogdani_jpg
アルバニアの作家。イタリア語併記できわめて古いアルバニア語による文学作品『予言者たちの楔』を著した。また、大トルコ戦争に際してアルバニア南部の諸部族と結託し、親オーストリア運動を試みた。 https://mtbrs.net/ps_indrakandra_Bogdani_jpg
サラエボ事件に際してスロベニア・カトリック党の新聞『スロべネツ』に掲載されたマルコ・ナトラチェンの詩。原語では「セルベ・ナ・ヴルベ」と韻を踏んでいる。現在でもスロベニア・クロアチアの反セルビア主義者の落書きなどが報告されている。
サラエボ事件に際してスロベニア・カトリック党の新聞『スロべネツ』に掲載されたマルコ・ナトラチェンの詩。原語では「セルベ・ナ・ヴルベ」と韻を踏んでいる。現在でもスロベニア・クロアチアの反セルビア主義者の落書きなどが報告されている。
ルーマニアの歴史家。初期のトランシルヴァニア学派として知られ、『ダコ・ロマン民族の起源と発展に関する少史』、全四巻のルーマニア史を著した。言語学者としても活動し、シンカイとの共著の中でルーマニア語のラテン語起源説を主張した。
ルーマニアの歴史家。初期のトランシルヴァニア学派として知られ、『ダコ・ロマン民族の起源と発展に関する少史』、全四巻のルーマニア史を著した。言語学者としても活動し、シンカイとの共著の中でルーマニア語のラテン語起源説を主張した。
ヴィッテンベルク大学のドイツ人地理学者であり、ベルリン盲目財団の創設者。著書『ゲーア-科学的地理学の一式論』の中で「バルカン半島」という概念を提唱した。彼の定義したバルカンには批判があったものの、概念自体は欧州に広く浸透した。
ヴィッテンベルク大学のドイツ人地理学者であり、ベルリン盲目財団の創設者。著書『ゲーア-科学的地理学の一式論』の中で「バルカン半島」という概念を提唱した。彼の定義したバルカンには批判があったものの、概念自体は欧州に広く浸透した。
ボスニア王。総督(バン)が一般的であった中初めて王を名乗った。国内対立勢力を退けフムやシュマディヤへ拡大、ネマニッチ家との血縁を背景に「セルビア・ボスニア沿岸地方の王」を称し、クロアチア征服後「クロアチアとダルマチアの王」とも称した。
ボスニア王。総督(バン)が一般的であった中初めて王を名乗った。国内対立勢力を退けフムやシュマディヤへ拡大、ネマニッチ家との血縁を背景に「セルビア・ボスニア沿岸地方の王」を称し、クロアチア征服後「クロアチアとダルマチアの王」とも称した。
匪賊出身で、ギリシャ独立戦争期の軍事指導者。デルヴェナキアの戦いでオスマン軍を破るなど活躍したが、司令官の地位を追われ一時的に反対派と争う。後に暫定統治委員会に加わるが、新たに建てられた王国政府により投獄され影響力を失った。
匪賊出身で、ギリシャ独立戦争期の軍事指導者。デルヴェナキアの戦いでオスマン軍を破るなど活躍したが、司令官の地位を追われ一時的に反対派と争う。後に暫定統治委員会に加わるが、新たに建てられた王国政府により投獄され影響力を失った。
スロベニアの言語学者。1808年最初期の近代的な文法書『カルニオラ、カリンティア及びスティリア地方のスラヴ語の文法』を著し、ウィーン大学スラヴ語講座の開設に尽力した(開講は49年)。弟子にセルビアの代表的な言語学者カラジッチがいる。
スロベニアの言語学者。1808年最初期の近代的な文法書『カルニオラ、カリンティア及びスティリア地方のスラヴ語の文法』を著し、ウィーン大学スラヴ語講座の開設に尽力した(開講は49年)。弟子にセルビアの代表的な言語学者カラジッチがいる。
バルカン化とも呼ばれる、国際政治学上の一用語。19世紀~20世紀のバルカン諸民族による反オスマン蜂起になぞらえ、ある地域や国家が、互いに対立する小さな地域・国家に分裂していく様子をあらわす。また、たんに多様化といった意味合いで用いられることもある。
バルカン化とも呼ばれる、国際政治学上の一用語。19世紀~20世紀のバルカン諸民族による反オスマン蜂起になぞらえ、ある地域や国家が、互いに対立する小さな地域・国家に分裂していく様子をあらわす。また、たんに多様化といった意味合いで用いられることもある。
アルバニアのナウム・ヴェキルハルジが発表した文字。アルバニア語の音とほとんど対応しているが、現代アルバニア語ではいくつか文字のない音がある。1844年には小規模な出版活動が行われたが浸透しなかった。2021年9月よりユニコードに追加。
アルバニアのナウム・ヴェキルハルジが発表した文字。アルバニア語の音とほとんど対応しているが、現代アルバニア語ではいくつか文字のない音がある。1844年には小規模な出版活動が行われたが浸透しなかった。2021年9月よりユニコードに追加。
ブルガリアの革命家で、オスマン帝国からの独立を標榜する秘密結社を結成したことで死刑判決を受ける。国外に逃亡した後バルカン・キリスト教連邦構想を立案、後にオスマンを打倒すべく第一次・二次ブルガリア軍団を組織するが、準備中に病死した。
ブルガリアの革命家で、オスマン帝国からの独立を標榜する秘密結社を結成したことで死刑判決を受ける。国外に逃亡した後バルカン・キリスト教連邦構想を立案、後にオスマンを打倒すべく第一次・二次ブルガリア軍団を組織するが、準備中に病死した。
ハンガリー王にしてクロアチア王で、聖王のあだ名を持つ。1089年に王家が断絶したクロアチア諸侯と連合規約を締結し、クロアチア王となった。新領土クロアチアは王政府の財政を助けたが、ビザンツやヴェネツィアとの対立を激化させた。 https://mtbrs.net/ps_indrakandra_Laszlo-ChroniconPictum_jpg
ハンガリー王にしてクロアチア王で、聖王のあだ名を持つ。1089年に王家が断絶したクロアチア諸侯と連合規約を締結し、クロアチア王となった。新領土クロアチアは王政府の財政を助けたが、ビザンツやヴェネツィアとの対立を激化させた。 https://mtbrs.net/ps_indrakandra_Laszlo-ChroniconPictum_jpg
ルーマニア出身のユダヤ人であるフランスの詩人で、既存の秩序に対する否定的見解やニヒリズムを根底に持った「ダダイズム」を創始した。トリスタン・ツァラはペンネームで、本名は「サミュエル・ローゼンストック」である。 https://mtbrs.net/ps_indrakandra_Robert_Delaunay_-_Tzara_jpg
ルーマニア出身のユダヤ人であるフランスの詩人で、既存の秩序に対する否定的見解やニヒリズムを根底に持った「ダダイズム」を創始した。トリスタン・ツァラはペンネームで、本名は「サミュエル・ローゼンストック」である。 https://mtbrs.net/ps_indrakandra_Robert_Delaunay_-_Tzara_jpg
バルカン化とも呼ばれる、国際政治学上の一用語。19世紀~20世紀のバルカン諸民族による反オスマン蜂起になぞらえ、ある地域や国家が、互いに対立する小さな地域・国家に分裂していく様子をあらわす。また、たんに多様化といった意味合いで用いられることもある。
バルカン化とも呼ばれる、国際政治学上の一用語。19世紀~20世紀のバルカン諸民族による反オスマン蜂起になぞらえ、ある地域や国家が、互いに対立する小さな地域・国家に分裂していく様子をあらわす。また、たんに多様化といった意味合いで用いられることもある。
クロアチア王国の創設者で、クロアチア公でもあった。軍才に優れ、ハンガリーやフランクの勢力を破りクロアチアを統一、ビザンツと同盟を組みハンガリーやブルガリア軍を撃退した。晩年に関する史料は残されておらず、928年突如姿を消した。
クロアチア王国の創設者で、クロアチア公でもあった。軍才に優れ、ハンガリーやフランクの勢力を破りクロアチアを統一、ビザンツと同盟を組みハンガリーやブルガリア軍を撃退した。晩年に関する史料は残されておらず、928年突如姿を消した。
30日戦争とも。外交的強硬政策を取るディリヤンニス政権がクレタ島の反乱に乗じて宣戦を布告し進軍した。ギリシャ軍は30日でオスマン軍に敗北し、後世「黒の97年戦争」と称される程の屈辱的敗北を喫したが、講和後クレタ島は自治権を得た。
30日戦争とも。外交的強硬政策を取るディリヤンニス政権がクレタ島の反乱に乗じて宣戦を布告し進軍した。ギリシャ軍は30日でオスマン軍に敗北し、後世「黒の97年戦争」と称される程の屈辱的敗北を喫したが、講和後クレタ島は自治権を得た。
大トルコ戦争に際して、ペーチ主教アルセニェ3世が主導した民族移動で、3~4万家族がドナウ川を越えヴォイヴォディナに移住した。オーストリアは彼らを歓迎すると共に他の民族をも当地に移住させたが、この結果ヴォイヴォディナは諸民族が割拠する地となった。
大トルコ戦争に際して、ペーチ主教アルセニェ3世が主導した民族移動で、3~4万家族がドナウ川を越えヴォイヴォディナに移住した。オーストリアは彼らを歓迎すると共に他の民族をも当地に移住させたが、この結果ヴォイヴォディナは諸民族が割拠する地となった。
ダルマチア語最後の話者。1889年6月10日に爆死したとトリエステの新聞『La sera』は伝えているものの、ダルマチア語の調査を行ったマッテロ・バルトリは事故以後に彼と会ったことを伝えている。彼の死によりダルマチア語は消滅した。 https://mtbrs.net/ps_indrakandra_TuoneUdaina_jpg
ダルマチア語最後の話者。1889年6月10日に爆死したとトリエステの新聞『La sera』は伝えているものの、ダルマチア語の調査を行ったマッテロ・バルトリは事故以後に彼と会ったことを伝えている。彼の死によりダルマチア語は消滅した。 https://mtbrs.net/ps_indrakandra_TuoneUdaina_jpg
神聖ローマ皇帝レオポルト1世が占領地トランシルヴァニアに発した勅令で、国政の維持とザクセン人・マジャル人・セーケイ人の平等が保証される代わりにレオポルドのトランシルヴァニア公就任、平時は銀貨50万、戦時は金貨40万の貢納が決定した。
神聖ローマ皇帝レオポルト1世が占領地トランシルヴァニアに発した勅令で、国政の維持とザクセン人・マジャル人・セーケイ人の平等が保証される代わりにレオポルドのトランシルヴァニア公就任、平時は銀貨50万、戦時は金貨40万の貢納が決定した。
ビザンツ皇帝。前帝ヨハネスの四男だったが、兄弟が若死し即位した。娘婿ベーラ3世をハンガリー王位に就かせつつセルビア公ウロシュ2世、ネマニャを破ったが、イタリアやセルジュークへの遠征で敗北、プロノイア制の拡大で分権化を加速させた。
ビザンツ皇帝。前帝ヨハネスの四男だったが、兄弟が若死し即位した。娘婿ベーラ3世をハンガリー王位に就かせつつセルビア公ウロシュ2世、ネマニャを破ったが、イタリアやセルジュークへの遠征で敗北、プロノイア制の拡大で分権化を加速させた。
オスマン帝国で敷かれた徴税請負制度。スィパーヒーと呼ばれる騎兵が徴税権を与えられる代わり皇帝に対する軍事的奉仕を約束した。イスラム諸王朝のイクター制やビザンツのプロノイア制と近く、徴税請負制度の改革と騎兵から火砲への移行によって衰退した。
オスマン帝国で敷かれた徴税請負制度。スィパーヒーと呼ばれる騎兵が徴税権を与えられる代わり皇帝に対する軍事的奉仕を約束した。イスラム諸王朝のイクター制やビザンツのプロノイア制と近く、徴税請負制度の改革と騎兵から火砲への移行によって衰退した。