あつシ
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あつシ
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とりあえずこちらにも作ってみました。まあ、ゆるゆると。
仏教の考え方からすると、超越者である仏にとっては森羅万象古今東西のあまねく事象はすべて「見えて」いて、何かが起きた時のその事象が何の原因で生じたのか、そしてその原因自体も何によって生じたのか、すべて「見えて」いる、そして原因と結果の関係を「縁」と呼ぶ、ということらしいですね。

その考えだと世の全ての出来事は「縁」で繋がっているので、偶然に起きる事象などない、すべては必然だ、ということになるわけですが、小さきものである私たち人間には「縁」の因果は隠れていて見えていないので偶然に思えますね。

SNSでつながった縁も何かの必然があったのかなと思いつつ偶然を愉しんでます。よろしくお願いいたします。
September 15, 2024 at 3:42 AM
母にとって、佐世保の地での暮らしは、毎日が昨日と違う今日を繰り返していた。「ショーリさん」のやり取りも、日数にしてみたら本当に短い間の出来事だった。それでも明らかに、あの短い日々は、母にとって忘れようもない鮮明な記憶としてずっと残り続けていた。

【仁川上陸作戦決行日の9月15日に】

(終わり)

[母の話 その2]はこちら↓
bsky.app/profile/ando...
[母の話 その1]はこちら↓
bsky.app/profile/ando...
唐突だが、私の母とそのかかりつけ医の話を書こうと思う。
だいぶ昔の話だ。50年近く前の話になる。
例によって私の話は長い上に横道にすぐ逸れる。面倒に思われる方は飛ばしていただいてかまわない。私はこの個人的な話を誰かに読んでもらうために書いたのかというとそうでもないかもしれない。

そんな気がしなくもない、という程度のことだ。だから「です・ます調」ではなく「だ・である調」になっている。自分に向けて書いたのかもしれない。いろいろな憤りをおさめることと、少しばかりの鎮魂が目的だったような気がするが、自分でもあまりはっきりしない。
September 15, 2024 at 2:21 AM
この話を私は母から何度も聞いた。「戦争が終わって、そのままアメリカへ帰ったんじゃないかな」と、若干の希望的観測も入りながら母は言うのだった。マッカーサーが5000対1と言った仁川上陸作戦の賭けは大勝ちだったから、そうなのかもしれない。けれども、仁川上陸の成功による進撃で逆に北朝鮮軍を中国国境間際まで追い込んだ直後に中国人民志願軍の参戦で戦闘は激化したので、その戦闘にも参加していたのなら遠い異国の地の下でそのまま眠っているのかもしれない。

September 15, 2024 at 2:20 AM
突然の終焉に母ももらい泣きに近い涙をこぼした。もうあの日々は終わりなのだ、という感傷が全身に広がって涙は増えていった。見かけに似合わない気弱なこの黒人水兵は、床に座り込んで泣いていると、自分よりもおちびな弟のように思えた。

だいぶ泣きはらしてから彼はのろのろと起き上がって、周りの人たちに詫びを言い、そして店から出て行った、ドアの外へ見送りに行った母を何度も振り返って彼は「ショーリさん!」「ショーリさん!」と言って、そして去っていった。

そして、彼は戻ってこなかった。

September 15, 2024 at 2:20 AM
仕事に忙殺されている最中に、不意に巨漢黒人の姿が現われた。母を見つけると、ボロボロと泣きながら「ショーリさん!」と店に入ってきた。ボロボロと涙をこぼしながら彼は「お別れなんだ」と母に告げた。軍機だから作戦行動については何も言えないので彼は「国に帰るんだ。もう戻ってこない。お別れを言いに来たんだ」と言って、大声で泣きじゃくった。

September 15, 2024 at 2:19 AM
マッカーサーは完全に油断をしていた。攻め込んでくるはずがない、と思い込んでいたために対応が遅れ、北朝鮮軍の攻撃によって韓国軍は米軍の支援も受けられずに総崩れとなった。朝鮮戦争が始まった。開戦2日でソウルは陥落し、アメリカ軍が急遽派遣した支援部隊も壊滅して、後退を続け、かろうじて釜山の橋頭堡のみが持ちこたえていた。

マッカーサーは本格的な反攻作戦を強硬的に決定し、佐世保港はアメリカ第七艦隊や他の艦艇で埋まった。市街は将兵で溢れかえって、母の働く店もこれまで以上に忙しくなっていた。

September 15, 2024 at 2:19 AM
だからこの店で他愛もない会話をすることが彼にとっては異国でのストレスだらけの日々の中の憩いだということが母にもよくわかった。母にとっても、こんな巨漢の黒人と知り合いになって会話するなんて、戦前では考えられなかったことが毎日のように起きていて、とても刺激的だった。

母にとってこの佐世保時代は、10代半ばから20代半ばにかけての青春と呼べる時期だった。慌ただしくて、猥雑で、刺激的で、朝起きるたびに世界が変わっていく、そういう時代だった。激動の昭和とよく言われるが、終戦からの10年近くの期間こそ最も日本が変わり続けた時代であったことは確かだった。

その最たる変化は突然に起きた。

September 15, 2024 at 2:17 AM
「ショーリ」はshorty、つまり、「おちびちゃん」を意味するスラングで、彼から見て体格差のある、ちっちゃくてコロコロした感じの母の姿は、まさにshortyさんなのだった。

うまく噛み合っているわけでもない会話を何度かしているうちに、どうやらこの巨漢黒人は、およそ兵士には不似合いな、戦闘向きではない性格だということを母は理解した。店の中で会話しているうちに彼がべそをかきだすこともしばしばあった。部隊の中でいじめられているのだった。その巨漢ならパンチ一発で相手を黙らせられるだろうに、そんなことはとてもできない性格で、そこを上官からまたひどく怒られたと泣きべそをかくのだった。

September 15, 2024 at 2:17 AM
それから、彼はたびたび店にやってきて他愛もない話を母とした(たいていパンパンや「オンリーさん」が店にいたので通訳には困らなかった)。彼の名前を母は聞いたはずなのだが覚えなかった。なぜかと言うと、彼が店に来るたび「ショーリさん!」と母に呼びかけてきたので、すっかり彼を「ショーリさん」で覚えてしまったからだ。もちろんそれは彼の名乗りではなく母への呼びかけなので母を「ショーリさん」と呼んでいたのだが、「あ、『ショーリさん』また来たね!」と母は彼をそう認識していた。

September 15, 2024 at 2:16 AM
ドアをくぐるように入ってきた彼は物珍しそうに店内をきょろきょろと見まわしていた。母と目が合うと、今度はニコニコとした顔で話しかけてきた。「送迎じゃないみたい。前から見てみたかったんだって」と「オンリー」さん。よく見てみると、体格に似合わず幼い目と顔立ちをしていた。「オンリーさん」を間に挟んだ奇妙な会話が起きていた。年齢は母と同じくらいだとわかった。話し方も穏やかで、母を怖がらせないようにずっと笑顔をキープしているのがわかった。「また来ていい?だって」店長じゃないから決められることじゃないんだけど、好奇心が生まれつき強かった母は「OK」と笑顔で返事した。

September 15, 2024 at 2:16 AM
母が、店の外から中を覗き込む巨大な黒い男に気が付いたのは、たまたま忙しい時間帯を終えて休憩をしていた時だった。母と目が合って、お互いがびっくりした顔になっていた。何しろ体格も容姿も全然違う。巨漢の黒人水兵は190cmくらいはあったのに対して、店でも一番背が低い母は150cm以下だった。

黒人水兵が話しかけてきて母は「うわあ」と言って店の奥へ逃げ込んだ。何しろ英語はまったくわからない。話せるわけもない。たまたま店にいた「オンリーさん」が会話を取り次いでくれた。「ちょっと中を見てもいい?だって」

September 15, 2024 at 2:15 AM
だがチップは給与明細に書いていないので守り通せていた。

店に来るパンパンには将校相手の「オンリーさん」も多く、金払いは一段とよかった。店の前には送迎のジープなどが待機しており、綺麗に飾り立てた「オンリーさん」はそれに乗って将校との逢瀬に臨むのだった。送迎車の水兵たちは基本的に店には入ってこなかったが、物珍しそうに中を覗き込む若い水兵はよくいた。

September 15, 2024 at 2:15 AM
今では考えられない事だが、当時の日本の家庭では兄弟姉妹が5人や6人いるのは普通だった。戦前に政府が打ち出した「産めよ増やせよ」の出生奨励運動の結果だった。戦後になって、それは家庭全体の困窮の原因となった。幼い乳幼児は死のリスクが増大し、実際、餓死や疾病での死亡者数は増大していた。働ける年齢の子は家を出されて働くことを親から命じられ、しかも、稼いだ金は親が取り上げるのが通常だった。母も、母の姉を除けば他の兄弟姉妹はすべて年下で、働ける者といえば姉と母しかいなかった。当然のように給料は親に押さえられていた。そうでもしなければ年下の弟や妹たちは飢え死にするのだから嫌も応もなかった。

September 15, 2024 at 2:14 AM
佐世保時代の話をする時に母はパンパンの人たちを悪く語ったことはなかった。可愛がってもらってチップも弾んでもらった相手を悪く言うはずもないのだが、身体を売っていることに対する生理的な嫌悪感もなかった。あの時代は、そうでもしないと生きていくこと自体が困難だということは、誰もがわかっていた。家族に幼い者がいれば、自分の命だけでなく彼らの命も否応なく背負うのだから、使えるものは何でも使う。倫理観から咎める者がいるとすれば、それはあの時代において飢えることも生命維持も心配せずにいられる恵まれた境遇の人だけだったろう。

September 15, 2024 at 2:14 AM
特にパンパンたちは金払いがよくて、世紀の料金とは別に従業員のポケットにチップを押しこんでいくのが常だった。母は特に多かった。師匠はチップを取り上げたりすることはなく、「いい仕事をした評価なのだから各自のものだ」と自由にさせていた。「ただ、遊びすぎるな」とも釘を刺し、経営者というものがどういう姿勢を取るべきかを母は自然と身につけることになった。母のチップは給料を超えることが度々あり、後々に自分の店を持つときの資金としてとても役に立った。

September 15, 2024 at 2:13 AM
戦前とは完全に異なり、佐世保港にはアメリカの艦艇が停泊していた。佐世保の街の新たな主人は米海軍の水兵や将校たちであり、そして、彼ら相手のバーや遊興場で働く者たち、それから、夜の女たちが、街の経済も人の流れも動かしていた。

母の働く店は活況だった。その一番の貢献者は米軍を相手に商売をしている女たちだった。バーなどで働く女たち、そして、パンパンたちで店は常に満員だった。店の中で一番の年少者で小柄だった母は、彼女たちにとても可愛がられていた。おそらくは、実家に残してきた妹たちを母に重ねて見ていたということもあったのだろう。

September 15, 2024 at 2:13 AM
そんな母も、自分が独立して店を持った時に同じ気苦労を味わうことになるとは、この時点では思いもしなかったのだが。

師匠は大変「できる」人だった。美容師としての腕はもちろん、教える者としても有能だった。閉店後に弟子たちに技術指導することも毎日だった。いったいいつ寝ているのか不思議だと母は思っていた。しかし美容技術指導そのもの以外にも、調理技術など生活のための技能を仕込んでくれたことがとても有益だったことを、後になって母は実感することになる。

September 15, 2024 at 2:12 AM
そんな世界で女性が自分で生きていくために稼げる職業は限られていた。女を売る商売を除いたら、髪を扱う商売が有力な手段だった。髪結いやパーマネントはいい稼ぎになるのだった。

美容店での住み込みとして働き始めることで、姉との共同生活は終わりを告げた。師匠の店には弟子が6〜7人いて、母は最年少だった。とはいえ、店の主人である師匠自身も20代で母と一回りくらいしか違わず、むしろ弟子の方が師匠より年上の者がいる状況だった。自分より年上の者たちを従業員として使う気苦労は相当のもので、母はたまに師匠の愚痴の相手をさせられていた。

September 15, 2024 at 2:12 AM
TwitterやBlueskyは、もともと誰に向けてというわけでもない独り言をつぶやくためのプラットフォームだったはずで、むしろこういう使い方が本来という気もしなくはない。いつの間にか、インプレッションやいいねの獲得ゲームに参加させられてる気分になってしまうけど、こっちがあるべき姿なんだろうなと思ったり。

まあ、イーロンが全部悪いんや、というのが今回の結論である。うん(何かサゲを書かないと終わった気になれないのもビョーキだと思うんですが仕方ないよね)。

長崎の「あの日」の79年後の夏の日に。

(終わり)

[母の話 その1]はこちら↓
bsky.app/profile/ando...
唐突だが、私の母とそのかかりつけ医の話を書こうと思う。
だいぶ昔の話だ。50年近く前の話になる。
例によって私の話は長い上に横道にすぐ逸れる。面倒に思われる方は飛ばしていただいてかまわない。私はこの個人的な話を誰かに読んでもらうために書いたのかというとそうでもないかもしれない。

そんな気がしなくもない、という程度のことだ。だから「です・ます調」ではなく「だ・である調」になっている。自分に向けて書いたのかもしれない。いろいろな憤りをおさめることと、少しばかりの鎮魂が目的だったような気がするが、自分でもあまりはっきりしない。
August 9, 2024 at 12:36 AM
これも、母への鎮魂として書きたかったのかもしれない。先日書いた、母の乳癌の話の後日談と言えなくもない。

書いて鎮魂になるものだろうか、という当然の疑問が頭に湧くが、葬祭という儀式は遺された人たちが身内の死を受け入れるためのものなので、私がこれを鎮魂に感じるのなら、たぶんそうなんだろう。

書いたことで何か心の整理ができたのかはよくわからない。むしろ、五月雨のように、母と交わした会話がぽつぽつと浮かんで心の中を漂っている。なので、こうやって吐き出して、供養の真似事をやっている。前回と同じく個人的な話だから、たぶん他の方には面白くも何ともないだろう。

August 9, 2024 at 12:29 AM
おそらく母は、乳癌を患った時に数えきれないほど「どうして」という思いが湧くのをずっと理性で抑えていたのだろう。

「あれは自分が原因じゃない、たまたまそうなっただけだ」と、その度に母の合理的な精神が反論していたが、滓のように心の底にずっと溜まっていて、「あの光を見た時」から65年以上が経過して、手術からも40年近く経過した時になって、不意に、「あの原爆の光を浴びたから」と口に出してしまったのだろう。

それほど長い時間、心の隅に引っかかり続けていた言葉を、終わりの間際になって初めて口に出すというのは、母らしいと言えばそうかもしれない、と、今になって思う。
August 9, 2024 at 12:27 AM
新興宗教やカルトはそれを目ざとく見つけて付け入ってくる。弱っている人のところに忍び寄り、優しくいたわる素振りを見せながら、こうささやく。「あなたがそうなったのは信心が足りなかったから」「あなたの病は危険な食べ物のせい」「病院にかかるから病気になる」「医者の出した薬を飲んではいけない」「人間が本来持っている力が一番だから自然な生き方を」「それを捨てて、さあこれを」

母はそんなものに死ぬまで耳を傾けなかったが、それがなくても「あれは自分がしたあの行動のせいだったんじゃないか」という思いに囚われてしまうことは、ある。体や心が弱っている時は、頭の中をよくない考えが渦巻くものだ。

August 9, 2024 at 12:22 AM