その考えだと世の全ての出来事は「縁」で繋がっているので、偶然に起きる事象などない、すべては必然だ、ということになるわけですが、小さきものである私たち人間には「縁」の因果は隠れていて見えていないので偶然に思えますね。
SNSでつながった縁も何かの必然があったのかなと思いつつ偶然を愉しんでます。よろしくお願いいたします。
その考えだと世の全ての出来事は「縁」で繋がっているので、偶然に起きる事象などない、すべては必然だ、ということになるわけですが、小さきものである私たち人間には「縁」の因果は隠れていて見えていないので偶然に思えますね。
SNSでつながった縁も何かの必然があったのかなと思いつつ偶然を愉しんでます。よろしくお願いいたします。
【仁川上陸作戦決行日の9月15日に】
(終わり)
[母の話 その2]はこちら↓
bsky.app/profile/ando...
[母の話 その1]はこちら↓
bsky.app/profile/ando...
だいぶ昔の話だ。50年近く前の話になる。
例によって私の話は長い上に横道にすぐ逸れる。面倒に思われる方は飛ばしていただいてかまわない。私はこの個人的な話を誰かに読んでもらうために書いたのかというとそうでもないかもしれない。
そんな気がしなくもない、という程度のことだ。だから「です・ます調」ではなく「だ・である調」になっている。自分に向けて書いたのかもしれない。いろいろな憤りをおさめることと、少しばかりの鎮魂が目的だったような気がするが、自分でもあまりはっきりしない。
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だいぶ泣きはらしてから彼はのろのろと起き上がって、周りの人たちに詫びを言い、そして店から出て行った、ドアの外へ見送りに行った母を何度も振り返って彼は「ショーリさん!」「ショーリさん!」と言って、そして去っていった。
そして、彼は戻ってこなかった。
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だいぶ泣きはらしてから彼はのろのろと起き上がって、周りの人たちに詫びを言い、そして店から出て行った、ドアの外へ見送りに行った母を何度も振り返って彼は「ショーリさん!」「ショーリさん!」と言って、そして去っていった。
そして、彼は戻ってこなかった。
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マッカーサーは本格的な反攻作戦を強硬的に決定し、佐世保港はアメリカ第七艦隊や他の艦艇で埋まった。市街は将兵で溢れかえって、母の働く店もこれまで以上に忙しくなっていた。
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マッカーサーは本格的な反攻作戦を強硬的に決定し、佐世保港はアメリカ第七艦隊や他の艦艇で埋まった。市街は将兵で溢れかえって、母の働く店もこれまで以上に忙しくなっていた。
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母にとってこの佐世保時代は、10代半ばから20代半ばにかけての青春と呼べる時期だった。慌ただしくて、猥雑で、刺激的で、朝起きるたびに世界が変わっていく、そういう時代だった。激動の昭和とよく言われるが、終戦からの10年近くの期間こそ最も日本が変わり続けた時代であったことは確かだった。
その最たる変化は突然に起きた。
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母にとってこの佐世保時代は、10代半ばから20代半ばにかけての青春と呼べる時期だった。慌ただしくて、猥雑で、刺激的で、朝起きるたびに世界が変わっていく、そういう時代だった。激動の昭和とよく言われるが、終戦からの10年近くの期間こそ最も日本が変わり続けた時代であったことは確かだった。
その最たる変化は突然に起きた。
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うまく噛み合っているわけでもない会話を何度かしているうちに、どうやらこの巨漢黒人は、およそ兵士には不似合いな、戦闘向きではない性格だということを母は理解した。店の中で会話しているうちに彼がべそをかきだすこともしばしばあった。部隊の中でいじめられているのだった。その巨漢ならパンチ一発で相手を黙らせられるだろうに、そんなことはとてもできない性格で、そこを上官からまたひどく怒られたと泣きべそをかくのだった。
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うまく噛み合っているわけでもない会話を何度かしているうちに、どうやらこの巨漢黒人は、およそ兵士には不似合いな、戦闘向きではない性格だということを母は理解した。店の中で会話しているうちに彼がべそをかきだすこともしばしばあった。部隊の中でいじめられているのだった。その巨漢ならパンチ一発で相手を黙らせられるだろうに、そんなことはとてもできない性格で、そこを上官からまたひどく怒られたと泣きべそをかくのだった。
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黒人水兵が話しかけてきて母は「うわあ」と言って店の奥へ逃げ込んだ。何しろ英語はまったくわからない。話せるわけもない。たまたま店にいた「オンリーさん」が会話を取り次いでくれた。「ちょっと中を見てもいい?だって」
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黒人水兵が話しかけてきて母は「うわあ」と言って店の奥へ逃げ込んだ。何しろ英語はまったくわからない。話せるわけもない。たまたま店にいた「オンリーさん」が会話を取り次いでくれた。「ちょっと中を見てもいい?だって」
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店に来るパンパンには将校相手の「オンリーさん」も多く、金払いは一段とよかった。店の前には送迎のジープなどが待機しており、綺麗に飾り立てた「オンリーさん」はそれに乗って将校との逢瀬に臨むのだった。送迎車の水兵たちは基本的に店には入ってこなかったが、物珍しそうに中を覗き込む若い水兵はよくいた。
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店に来るパンパンには将校相手の「オンリーさん」も多く、金払いは一段とよかった。店の前には送迎のジープなどが待機しており、綺麗に飾り立てた「オンリーさん」はそれに乗って将校との逢瀬に臨むのだった。送迎車の水兵たちは基本的に店には入ってこなかったが、物珍しそうに中を覗き込む若い水兵はよくいた。
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母の働く店は活況だった。その一番の貢献者は米軍を相手に商売をしている女たちだった。バーなどで働く女たち、そして、パンパンたちで店は常に満員だった。店の中で一番の年少者で小柄だった母は、彼女たちにとても可愛がられていた。おそらくは、実家に残してきた妹たちを母に重ねて見ていたということもあったのだろう。
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母の働く店は活況だった。その一番の貢献者は米軍を相手に商売をしている女たちだった。バーなどで働く女たち、そして、パンパンたちで店は常に満員だった。店の中で一番の年少者で小柄だった母は、彼女たちにとても可愛がられていた。おそらくは、実家に残してきた妹たちを母に重ねて見ていたということもあったのだろう。
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師匠は大変「できる」人だった。美容師としての腕はもちろん、教える者としても有能だった。閉店後に弟子たちに技術指導することも毎日だった。いったいいつ寝ているのか不思議だと母は思っていた。しかし美容技術指導そのもの以外にも、調理技術など生活のための技能を仕込んでくれたことがとても有益だったことを、後になって母は実感することになる。
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師匠は大変「できる」人だった。美容師としての腕はもちろん、教える者としても有能だった。閉店後に弟子たちに技術指導することも毎日だった。いったいいつ寝ているのか不思議だと母は思っていた。しかし美容技術指導そのもの以外にも、調理技術など生活のための技能を仕込んでくれたことがとても有益だったことを、後になって母は実感することになる。
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美容店での住み込みとして働き始めることで、姉との共同生活は終わりを告げた。師匠の店には弟子が6〜7人いて、母は最年少だった。とはいえ、店の主人である師匠自身も20代で母と一回りくらいしか違わず、むしろ弟子の方が師匠より年上の者がいる状況だった。自分より年上の者たちを従業員として使う気苦労は相当のもので、母はたまに師匠の愚痴の相手をさせられていた。
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美容店での住み込みとして働き始めることで、姉との共同生活は終わりを告げた。師匠の店には弟子が6〜7人いて、母は最年少だった。とはいえ、店の主人である師匠自身も20代で母と一回りくらいしか違わず、むしろ弟子の方が師匠より年上の者がいる状況だった。自分より年上の者たちを従業員として使う気苦労は相当のもので、母はたまに師匠の愚痴の相手をさせられていた。
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まあ、イーロンが全部悪いんや、というのが今回の結論である。うん(何かサゲを書かないと終わった気になれないのもビョーキだと思うんですが仕方ないよね)。
長崎の「あの日」の79年後の夏の日に。
(終わり)
[母の話 その1]はこちら↓
bsky.app/profile/ando...
だいぶ昔の話だ。50年近く前の話になる。
例によって私の話は長い上に横道にすぐ逸れる。面倒に思われる方は飛ばしていただいてかまわない。私はこの個人的な話を誰かに読んでもらうために書いたのかというとそうでもないかもしれない。
そんな気がしなくもない、という程度のことだ。だから「です・ます調」ではなく「だ・である調」になっている。自分に向けて書いたのかもしれない。いろいろな憤りをおさめることと、少しばかりの鎮魂が目的だったような気がするが、自分でもあまりはっきりしない。
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まあ、イーロンが全部悪いんや、というのが今回の結論である。うん(何かサゲを書かないと終わった気になれないのもビョーキだと思うんですが仕方ないよね)。
長崎の「あの日」の79年後の夏の日に。
(終わり)
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書いて鎮魂になるものだろうか、という当然の疑問が頭に湧くが、葬祭という儀式は遺された人たちが身内の死を受け入れるためのものなので、私がこれを鎮魂に感じるのなら、たぶんそうなんだろう。
書いたことで何か心の整理ができたのかはよくわからない。むしろ、五月雨のように、母と交わした会話がぽつぽつと浮かんで心の中を漂っている。なので、こうやって吐き出して、供養の真似事をやっている。前回と同じく個人的な話だから、たぶん他の方には面白くも何ともないだろう。
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書いて鎮魂になるものだろうか、という当然の疑問が頭に湧くが、葬祭という儀式は遺された人たちが身内の死を受け入れるためのものなので、私がこれを鎮魂に感じるのなら、たぶんそうなんだろう。
書いたことで何か心の整理ができたのかはよくわからない。むしろ、五月雨のように、母と交わした会話がぽつぽつと浮かんで心の中を漂っている。なので、こうやって吐き出して、供養の真似事をやっている。前回と同じく個人的な話だから、たぶん他の方には面白くも何ともないだろう。
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「あれは自分が原因じゃない、たまたまそうなっただけだ」と、その度に母の合理的な精神が反論していたが、滓のように心の底にずっと溜まっていて、「あの光を見た時」から65年以上が経過して、手術からも40年近く経過した時になって、不意に、「あの原爆の光を浴びたから」と口に出してしまったのだろう。
それほど長い時間、心の隅に引っかかり続けていた言葉を、終わりの間際になって初めて口に出すというのは、母らしいと言えばそうかもしれない、と、今になって思う。
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「あれは自分が原因じゃない、たまたまそうなっただけだ」と、その度に母の合理的な精神が反論していたが、滓のように心の底にずっと溜まっていて、「あの光を見た時」から65年以上が経過して、手術からも40年近く経過した時になって、不意に、「あの原爆の光を浴びたから」と口に出してしまったのだろう。
それほど長い時間、心の隅に引っかかり続けていた言葉を、終わりの間際になって初めて口に出すというのは、母らしいと言えばそうかもしれない、と、今になって思う。
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母はそんなものに死ぬまで耳を傾けなかったが、それがなくても「あれは自分がしたあの行動のせいだったんじゃないか」という思いに囚われてしまうことは、ある。体や心が弱っている時は、頭の中をよくない考えが渦巻くものだ。
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母はそんなものに死ぬまで耳を傾けなかったが、それがなくても「あれは自分がしたあの行動のせいだったんじゃないか」という思いに囚われてしまうことは、ある。体や心が弱っている時は、頭の中をよくない考えが渦巻くものだ。
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