明治三年(1870)築の威風堂々な薬医門で廃藩置県を経て現在なお県庁敷地内で西口の門として利用されてる。山口県。
明治三年(1870)築の威風堂々な薬医門で廃藩置県を経て現在なお県庁敷地内で西口の門として利用されてる。山口県。
行った日は工事で入れなかったが同様に武田五一・大熊喜邦の手によるセセッション風の大正建築。山口県。
行った日は工事で入れなかったが同様に武田五一・大熊喜邦の手によるセセッション風の大正建築。山口県。
武田五一の代表作の一つだが、なぜか見学し終わってもずっと妻木の作品と勘違いが残る。山口県。
「大蔵省臨時建築部に設計依頼されたものだが、妻木頼黄の下、武田五一と大熊喜邦(一八七七ー一九五二)が担当した。県庁舎は、煉瓦造二階建で、要所を花崗岩とする他は、モルタルに横目地を入れて石造風にみせる平滑な仕上げとする。車寄せの独立柱の柱頭は、大斗肘木を思わせる意匠とする等、各所に東洋のモチーフを挿入してセセッション風にアレンジしてみせた」(『日本の美術 No448』至文堂、2003)
武田五一の代表作の一つだが、なぜか見学し終わってもずっと妻木の作品と勘違いが残る。山口県。
「大蔵省臨時建築部に設計依頼されたものだが、妻木頼黄の下、武田五一と大熊喜邦(一八七七ー一九五二)が担当した。県庁舎は、煉瓦造二階建で、要所を花崗岩とする他は、モルタルに横目地を入れて石造風にみせる平滑な仕上げとする。車寄せの独立柱の柱頭は、大斗肘木を思わせる意匠とする等、各所に東洋のモチーフを挿入してセセッション風にアレンジしてみせた」(『日本の美術 No448』至文堂、2003)
縁起がすごく良さそうな社名。和歌山県。
「紀ノ川を南に俯瞰する高台にある。延喜式内社で、旧郷社。社伝によると、宝亀2年(771)、和気清麻呂が八輪宮を奉祀したのが始まりで、のち、高雄山の文覚上人が社殿を造営したという。その後、天正のころ織田信長の兵火で炎上したが、慶長19年(1614)に建された」(『郷土資料事典和歌山県・観光と旅 改訂新版』人文社、1983)。
縁起がすごく良さそうな社名。和歌山県。
「紀ノ川を南に俯瞰する高台にある。延喜式内社で、旧郷社。社伝によると、宝亀2年(771)、和気清麻呂が八輪宮を奉祀したのが始まりで、のち、高雄山の文覚上人が社殿を造営したという。その後、天正のころ織田信長の兵火で炎上したが、慶長19年(1614)に建された」(『郷土資料事典和歌山県・観光と旅 改訂新版』人文社、1983)。
のどかな山間はそれとなく美しい。鞆渕八幡神社を後にし県道に降りたら綺麗な環水平アークが出てた。和歌山県。
のどかな山間はそれとなく美しい。鞆渕八幡神社を後にし県道に降りたら綺麗な環水平アークが出てた。和歌山県。
めちゃくちゃ渋くて個人的には五つ星クラスの神社。雰囲気抜群。和歌山県。
「粉河市街地からかなり離れた、町域南東部の鞆淵地区にある。鎌倉時代の安貞2年(1228)、後堀河天皇の勅により山城国の石清水八幡神を勧請したのが始まり、という。中世、神仏習合の盛んなころ、神宮寺・供僧坊などを置いて隆盛し、とくに皇室、源氏諸家の崇敬が厚かった。境内には杉・檜の古樹・老木が多く、本殿・絵馬殿・神興庫・玉垣などの諸殿が静かなただずまいを見せている」(『郷土資料事典和歌山県・観光と旅 改訂新版』人文社、1983)。
めちゃくちゃ渋くて個人的には五つ星クラスの神社。雰囲気抜群。和歌山県。
「粉河市街地からかなり離れた、町域南東部の鞆淵地区にある。鎌倉時代の安貞2年(1228)、後堀河天皇の勅により山城国の石清水八幡神を勧請したのが始まり、という。中世、神仏習合の盛んなころ、神宮寺・供僧坊などを置いて隆盛し、とくに皇室、源氏諸家の崇敬が厚かった。境内には杉・檜の古樹・老木が多く、本殿・絵馬殿・神興庫・玉垣などの諸殿が静かなただずまいを見せている」(『郷土資料事典和歌山県・観光と旅 改訂新版』人文社、1983)。
小高いところにあり、周辺の長閑な景観と融合。和歌山県。
「神社の創立は明らかでないが、『三代実録』に貞観三年紀伊御船神に授位の記事がみえ、平安時代初期にはすでに存在していたことが分かる。祭神は地元安楽川庄の産土神の太玉命・木霊屋船命・彦狭知命である。摂社の丹生・高野両明神社が勧請されたのは、平治元年に美福門院が安楽川庄を高野山に寄進してからのことである。社伝によれば延文四年兵火をうけ社殿炎上し、また天文五年に造営された社殿も天正のはじめ織田信長の高野山攻めで焼失したため、木食上人應其が社地を現在地に遷して再興したと伝える」(『新指定重要文化財:解説版11』毎日新聞社、1981)。
小高いところにあり、周辺の長閑な景観と融合。和歌山県。
「神社の創立は明らかでないが、『三代実録』に貞観三年紀伊御船神に授位の記事がみえ、平安時代初期にはすでに存在していたことが分かる。祭神は地元安楽川庄の産土神の太玉命・木霊屋船命・彦狭知命である。摂社の丹生・高野両明神社が勧請されたのは、平治元年に美福門院が安楽川庄を高野山に寄進してからのことである。社伝によれば延文四年兵火をうけ社殿炎上し、また天文五年に造営された社殿も天正のはじめ織田信長の高野山攻めで焼失したため、木食上人應其が社地を現在地に遷して再興したと伝える」(『新指定重要文化財:解説版11』毎日新聞社、1981)。
古来わが国第一の滝と言わしめる名瀑。和歌山県。
「迫るように響く水音を耳にしながら、杉木立の間の石段を降りると、やがてスギ・ヒノキなどの原始林に囲まれた断崖をまっすぐに落下する那智滝が現われる。落差133m、その高さは日光の華厳滝を遥かにしのぎ、日本三名瀑に数えられている。水量は平均毎秒1トンといわれるが、大雨の後には水煙で滝壷も見えないほど。岩に砕け散る滝しぶきが霧となって滝の下部へ小さな虹をかける姿は幻想的である。那智滝は飛瀧神社の御神体とされ、滝壷拝所の滝見台から仰ぎ見るその姿を、古来から参拝者は神と崇めてきた」(『美しき日本』日本交通公社、1999)。
古来わが国第一の滝と言わしめる名瀑。和歌山県。
「迫るように響く水音を耳にしながら、杉木立の間の石段を降りると、やがてスギ・ヒノキなどの原始林に囲まれた断崖をまっすぐに落下する那智滝が現われる。落差133m、その高さは日光の華厳滝を遥かにしのぎ、日本三名瀑に数えられている。水量は平均毎秒1トンといわれるが、大雨の後には水煙で滝壷も見えないほど。岩に砕け散る滝しぶきが霧となって滝の下部へ小さな虹をかける姿は幻想的である。那智滝は飛瀧神社の御神体とされ、滝壷拝所の滝見台から仰ぎ見るその姿を、古来から参拝者は神と崇めてきた」(『美しき日本』日本交通公社、1999)。
神仏習合の時代は那智大社と一体的な存在の那智観音。現在の寺名は明治の破仏毀釈の嵐の中付けられた。寺域から見る那智の滝は絶景。和歌山県。
「那智神社と隣接して那智山上景勝の地に建って居る。古來西國巡禮第一番の札所として名高い。本堂は如意輪堂と稱し、天正十八年豊臣秀吉の命により大和大納言秀長の再建、慶長十九年豊臣秀頼によって修補されたもので、如意輪観音像を安置して居る。桁行九間、梁間九間、單層屋根入母屋造、柿葺の優秀な建築にして、その構造形式はよく桃山時代建築の特色を存し、内部須彌壇の形式彫刻もまた見るべきものである」(『日本案内記 近畿篇下』鉄道省、博文館、1933)。
神仏習合の時代は那智大社と一体的な存在の那智観音。現在の寺名は明治の破仏毀釈の嵐の中付けられた。寺域から見る那智の滝は絶景。和歌山県。
「那智神社と隣接して那智山上景勝の地に建って居る。古來西國巡禮第一番の札所として名高い。本堂は如意輪堂と稱し、天正十八年豊臣秀吉の命により大和大納言秀長の再建、慶長十九年豊臣秀頼によって修補されたもので、如意輪観音像を安置して居る。桁行九間、梁間九間、單層屋根入母屋造、柿葺の優秀な建築にして、その構造形式はよく桃山時代建築の特色を存し、内部須彌壇の形式彫刻もまた見るべきものである」(『日本案内記 近畿篇下』鉄道省、博文館、1933)。
神仏習合の雰囲気が熊野三山で唯一まだ残っており味わえる場所。和歌山県。
「創建については諸説あるが、神武天皇が大滝を神体として祭ったという説も伝わっている。熊野山の中腹、うっそうたる森を背に立つ社殿は、熊野権現造という独特なもの。白砂を敷きつめた境内奥に、6棟の朱塗りの社が並ぶ様は壮麗で美しい。平重盛が社殿を整えたとされるが、現在の社殿は信長の焼き打ち後、再興・改修を重ねたもの」(『美しき日本』日本交通公社、1999)。
神仏習合の雰囲気が熊野三山で唯一まだ残っており味わえる場所。和歌山県。
「創建については諸説あるが、神武天皇が大滝を神体として祭ったという説も伝わっている。熊野山の中腹、うっそうたる森を背に立つ社殿は、熊野権現造という独特なもの。白砂を敷きつめた境内奥に、6棟の朱塗りの社が並ぶ様は壮麗で美しい。平重盛が社殿を整えたとされるが、現在の社殿は信長の焼き打ち後、再興・改修を重ねたもの」(『美しき日本』日本交通公社、1999)。
グローバル化時代が終わり、一気に帝国主義化に逆戻りするとでも言いたそう。
これって、イギリスとEUの再統合を後押ししそう。NATOはどうなっていく?
mainichi.jp/articles/202...
トランプ氏、欧州8カ国に10%関税発動表明 グリーンランド領有巡り
グローバル化時代が終わり、一気に帝国主義化に逆戻りするとでも言いたそう。
これって、イギリスとEUの再統合を後押ししそう。NATOはどうなっていく?
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トランプ氏、欧州8カ国に10%関税発動表明 グリーンランド領有巡り
官幣大社熊野坐神社全景
#絵葉書
戦前発行のこの葉書、本宮大社当時の社名「熊野坐(クマノニマス)」について、「クマノザ」にしてるね。誤訳なのか、当時のもう一つの便宜な読み方なのか気になる。
官幣大社熊野坐神社全景
#絵葉書
戦前発行のこの葉書、本宮大社当時の社名「熊野坐(クマノニマス)」について、「クマノザ」にしてるね。誤訳なのか、当時のもう一つの便宜な読み方なのか気になる。
熊野三山の中では一番交通不便なだけに、古の雰囲気はその分一番残っていて個人的には大好き。和歌山県。
「本宮町にあり、熊野川プロペラ船發着場から北一粁餘にある。その由來極めて古く、熊野速玉神社及熊野那智神社と併せて熊野三山とも云ひ家都御子神が祀られて居る。延喜の制に於ては名神大社に例し、平安時代以来その名殊に著はれ、上皇女院等の御幸をはじめ、大臣以下公卿女房の熊野詣は屢々繰り返へされたのである。武家時代には平氏の信仰殊に厚く、清盛の熊野詣の事は平治物語にくはしく述べられて居る」(『日本案内記 [第6] (近畿篇 下)』、観光事業研究会、日本交通公社、1950)。
熊野三山の中では一番交通不便なだけに、古の雰囲気はその分一番残っていて個人的には大好き。和歌山県。
「本宮町にあり、熊野川プロペラ船發着場から北一粁餘にある。その由來極めて古く、熊野速玉神社及熊野那智神社と併せて熊野三山とも云ひ家都御子神が祀られて居る。延喜の制に於ては名神大社に例し、平安時代以来その名殊に著はれ、上皇女院等の御幸をはじめ、大臣以下公卿女房の熊野詣は屢々繰り返へされたのである。武家時代には平氏の信仰殊に厚く、清盛の熊野詣の事は平治物語にくはしく述べられて居る」(『日本案内記 [第6] (近畿篇 下)』、観光事業研究会、日本交通公社、1950)。
▫️JTB、長野県白馬村で期間限定レストラン 冬の夕食難民を解決 - 日本経済新聞 www.nikkei.com/article/DGXZ...
スノーリゾートでは泊食分離スタイルの宿が増える一方、冬季に飲食店不足で「夕食難民」が生まれる課題がある。白馬の取り組みはその第1弾で、利用客や周辺の宿泊施設などの意見を聞いて運営の改良を進め全国展開を目指す。JTBは2023年に立ち上げた新規事業で料理人派遣やイベントでの食事プロデュースなどを手がけており、今回のレストランでも新規事業で構築した料理人とのネットワークを活用した。▫️
▫️JTB、長野県白馬村で期間限定レストラン 冬の夕食難民を解決 - 日本経済新聞 www.nikkei.com/article/DGXZ...
スノーリゾートでは泊食分離スタイルの宿が増える一方、冬季に飲食店不足で「夕食難民」が生まれる課題がある。白馬の取り組みはその第1弾で、利用客や周辺の宿泊施設などの意見を聞いて運営の改良を進め全国展開を目指す。JTBは2023年に立ち上げた新規事業で料理人派遣やイベントでの食事プロデュースなどを手がけており、今回のレストランでも新規事業で構築した料理人とのネットワークを活用した。▫️
熊野参詣道の阿須賀王子跡としても知られている。興味深いのは徐福伝説との関わり、数少ない徐福之宮も祀られ、古代ロマンを感じる。和歌山県。
「新宮駅の北東約600mにあり、飛鳥神社とも背く。創建年代は明らかでないが、熊野速玉大社は、景行天皇の代に当社から勧請されたといわれ、社歴は相当古い。社殿背後の蓬莱山は、高さ40mほどの山で、昔徐福が不老長寿の薬草を採取したところと伝えている。阿須賀社の神体山で、いわゆる神南備(神の鎮座する山や森)に属する」(『郷土資料事典和歌山県・観光と旅 改訂新版』人文社、1983)。
熊野参詣道の阿須賀王子跡としても知られている。興味深いのは徐福伝説との関わり、数少ない徐福之宮も祀られ、古代ロマンを感じる。和歌山県。
「新宮駅の北東約600mにあり、飛鳥神社とも背く。創建年代は明らかでないが、熊野速玉大社は、景行天皇の代に当社から勧請されたといわれ、社歴は相当古い。社殿背後の蓬莱山は、高さ40mほどの山で、昔徐福が不老長寿の薬草を採取したところと伝えている。阿須賀社の神体山で、いわゆる神南備(神の鎮座する山や森)に属する」(『郷土資料事典和歌山県・観光と旅 改訂新版』人文社、1983)。
社殿につくには538段の急な石段を登らないといけない。和歌山県。
「神倉山は神代からの伝承をもつ山で、山上の”ごとびき岩”と呼ぶ巨岩の根元からは、銅鐸の破片や祭祀用具・仏教遺物がたくさん出土している。社殿を建てて神を祀る以前の祭祀礼拝所とした岩座(神の鎮座する所)にあたり、原始的な巨岩崇拝の名残りをとどめる遺跡として、注目に値する。現在、その岩のそばに丹塗りの社殿が建てられている」(『郷土資料事典和歌山県・観光と旅 改訂新版』人文社、1983)。
#磐座
社殿につくには538段の急な石段を登らないといけない。和歌山県。
「神倉山は神代からの伝承をもつ山で、山上の”ごとびき岩”と呼ぶ巨岩の根元からは、銅鐸の破片や祭祀用具・仏教遺物がたくさん出土している。社殿を建てて神を祀る以前の祭祀礼拝所とした岩座(神の鎮座する所)にあたり、原始的な巨岩崇拝の名残りをとどめる遺跡として、注目に値する。現在、その岩のそばに丹塗りの社殿が建てられている」(『郷土資料事典和歌山県・観光と旅 改訂新版』人文社、1983)。
#磐座
有名な熊野三山の一社。他の二社と比べ社殿はうんと新しいものの、数多な宝物類を擁し文化財の数は群を抜いて多い。和歌山県。
「当社の創建年代は明らかでないが、『熊野権現垂迹縁起書』によれば、神代、熊野速玉大神・夫須美大神・家津美御子大神の熊野神が、各地遍歴ののち、紀州の神蔵峯(当社南にある神倉山)に天降って鎮座された。ついで阿須賀社北の石淵に移られ、その後ここから家津美御子(素戔嗚尊)だけが熊野川上流の本宮に降臨されたという」(『郷土資料事典和歌山県・観光と旅 改訂新版』人文社、1983)。
有名な熊野三山の一社。他の二社と比べ社殿はうんと新しいものの、数多な宝物類を擁し文化財の数は群を抜いて多い。和歌山県。
「当社の創建年代は明らかでないが、『熊野権現垂迹縁起書』によれば、神代、熊野速玉大神・夫須美大神・家津美御子大神の熊野神が、各地遍歴ののち、紀州の神蔵峯(当社南にある神倉山)に天降って鎮座された。ついで阿須賀社北の石淵に移られ、その後ここから家津美御子(素戔嗚尊)だけが熊野川上流の本宮に降臨されたという」(『郷土資料事典和歌山県・観光と旅 改訂新版』人文社、1983)。
のどかな山間部の温泉地。温泉街はあるものの旅館と民家が混ざって賑わいとは無縁。和歌山県。
「安珍清姫の傳説を残した日高川の上流、裏紀州山脈の高峰を四圍に繞らした海抜約四〇〇米、山郷情趣豊かなところである。温泉は役小角の發見したのを、後僧空海が難陀龍王の夢告によって一般に知られるやうにしたものと傳はってゐる。これで龍神といふ名稱も生じたわけである」(『温泉案内』鐵道省、博文館、1940)。
のどかな山間部の温泉地。温泉街はあるものの旅館と民家が混ざって賑わいとは無縁。和歌山県。
「安珍清姫の傳説を残した日高川の上流、裏紀州山脈の高峰を四圍に繞らした海抜約四〇〇米、山郷情趣豊かなところである。温泉は役小角の發見したのを、後僧空海が難陀龍王の夢告によって一般に知られるやうにしたものと傳はってゐる。これで龍神といふ名稱も生じたわけである」(『温泉案内』鐵道省、博文館、1940)。
高野山三回目の宿泊先はこちらを選んだ。山の上なので、4月下旬であっても桜はまだ咲き誇ってた。客殿(客室)からは中庭とピンクの山桜だろうかがよく見えた。和歌山県。
「宿坊はもともとは修行僧や信者のために僧坊の一隅をあてていたもので、僧侶の縁故がなければ泊まれなかったが、現在では一般の旅館なみにだれでも泊まれるようになっている。酒やビールは般若湯と呼ばれ、お好みしだいである。各宿坊とも朝六時から持仏堂で勤行が行なわれる。べつに強制はしていないが出てみることをお勧めする」(『高野山物語 : 名刹歳時記』加藤楸邨、世界文化社、1989)。
#旅宿 (133)
高野山三回目の宿泊先はこちらを選んだ。山の上なので、4月下旬であっても桜はまだ咲き誇ってた。客殿(客室)からは中庭とピンクの山桜だろうかがよく見えた。和歌山県。
「宿坊はもともとは修行僧や信者のために僧坊の一隅をあてていたもので、僧侶の縁故がなければ泊まれなかったが、現在では一般の旅館なみにだれでも泊まれるようになっている。酒やビールは般若湯と呼ばれ、お好みしだいである。各宿坊とも朝六時から持仏堂で勤行が行なわれる。べつに強制はしていないが出てみることをお勧めする」(『高野山物語 : 名刹歳時記』加藤楸邨、世界文化社、1989)。
#旅宿 (133)
梁が佛光寺東大殿を唐の建築と断定できたその15年後(1953年)に同じく五台山でいよいよ見つかった中国現存最古の木造建築がこちら。中国山西省。
「五台県東冶鎮の北七、八キロの李家荘という小村の丘の上に建つ。大殿というと日本人はとかく誤解しそうだが、それは正殿のことであって、これは小さな寺の大殿だから、正面の柱間が三間で一ー・六ニメートル、側面が三間で九・六七メートルという小建築にすぎない。『峕大唐建中三年歳次壬戌、月居戊申、丙寅朔、庚午日癸未時、重修殿」とある墨書まで発見されたから、中国に現存する最古の木造建築である」(『世界美術全集 第15巻』角川書店、1961)。
梁が佛光寺東大殿を唐の建築と断定できたその15年後(1953年)に同じく五台山でいよいよ見つかった中国現存最古の木造建築がこちら。中国山西省。
「五台県東冶鎮の北七、八キロの李家荘という小村の丘の上に建つ。大殿というと日本人はとかく誤解しそうだが、それは正殿のことであって、これは小さな寺の大殿だから、正面の柱間が三間で一ー・六ニメートル、側面が三間で九・六七メートルという小建築にすぎない。『峕大唐建中三年歳次壬戌、月居戊申、丙寅朔、庚午日癸未時、重修殿」とある墨書まで発見されたから、中国に現存する最古の木造建築である」(『世界美術全集 第15巻』角川書店、1961)。