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中国の駐大阪総領事、高市首相に「その汚い首は一瞬の躊躇もなく斬ってやる」 「台湾有事」めぐり暴言→削除 ndjust.in/R2tylpfd

↑これには驚いた!
品位のない「外交官」には #国外追放 の声が上がっても不思議ない。
これに日本政府が見て見ぬふりしてきたから、ますます言論が暴走して公然な恫喝に化けた。
外交官はその国柄をも代表。こんな雑な外交官僚も、それを育てた共産中国も、世に尊重されるはずがない。
まあ、天安門事件で自国民を虐殺しながらそれをタブー化し、さらに香港の自由も奪い自国内と同じ独裁統治を強める中国共産党の本性が危ない。
November 10, 2025 at 6:43 PM
信仰の力は本当に強い。

www.youtube.com/watch?v=ZUaq...
【本編】富士山頂に鳥居奉納「岩淵鳥居講」
YouTube video by 地域文化資産
www.youtube.com
November 9, 2025 at 10:44 PM
田子の浦港西防波堤灯台

通称白灯台。掘り込み式港湾の田子の浦港の入り口左右に安全を守る灯台があり、反対の東側は赤灯台。静岡県。
November 5, 2025 at 9:00 PM
絵葉書蒐集でも、稀だが時にキャプションが間違ったものはある。同じようなミスだろう。

natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/19/...
謎の島はどこにある?
写真には手書きで「下関の要塞」「薩摩の革命の際に包囲された」とあるが、関門海峡にそんな島は見当たらない。
natgeo.nikkeibp.co.jp
November 4, 2025 at 2:28 PM
富士山本宮浅間大社

この名神大社への参拝は2度共に小雨日だった。静岡県。

「火を噴く神=富士山を鎮めるため、浅間大神(のちにコノハナサクヤヒメと習合)を祭る神社は、静岡・山梨両県を中心に1300余りもある。その総本社が富士山本宮浅間大社。孝霊天皇の代に大噴火があったことから、垂仁天皇の時に浅間大神を祭ったのが起源とされるが、ずいぶん間があいているのが昔物語らしい。ちなみに正史での噴火の初見は続日本紀の天応元年(781)7月である。現在の社殿は慶長9年(1604)、徳川家康が関ヶ原の勝利に謝して寄進した。本殿は全国唯一の2層である」(『芸術新潮 2016年8月号』新潮社、2016)。
November 4, 2025 at 1:49 PM
横須賀の街並み

朝起きて朝食を頂く前に、横須賀を少々歩いてみた。宿を出ると、早速集団登校の小学生たちが前を通り過ぎていった。同じ方向に進んでいくと、左手に神社が見えて境内に入った。それが有名な祭りを持つ神社だ。静岡県。

「横須賀の三熊野神社の祭礼には、華麗な山車が曳き出される。この祭礼の本祭りは田遊び祭りであるが、附祭りとして山車祭りが行われている。横須賀藩の城下町であった横須賀の町は、江戸との交流の中から、江戸風の山車と囃子が伝えられ、それが今日まで伝承されている」(『祭礼行事 静岡県』桜楓社、1992)。
November 3, 2025 at 12:40 AM
八百甚

静かな街並みの中に佇む姿は目立つというより一心同体になっている感じで、この古き良き旅館があることで町は歴史的な面影を残せた。静岡県。

「割烹旅館『八百甚』は、県立横須賀高校の南、旧道に面して建っている。沿革は定かではないが、江戸末期八百屋甚助(初代)からの歴史を持っている。旅館としての経歴は明治時代後期以降に旅館業を始めたようである。旧城下町の面影を残している町並の中で特に目立つ貴重な存在である」(『静岡県の近代和風建築』静岡県教育委員会文化課、2002)。

#旅宿 (129)
November 2, 2025 at 11:55 PM
清水灯台

名勝三保の松原の岬に立つ白亜の灯台、周りの松が成長してやや邪魔になっているが、それでも富士山は綺麗に眺められて嬉しかった。静岡県。

「国際貿易港である清水港に出入りする船舶の安全確保のために明治45年に開設された、日本で最初の鉄筋コンクリート造りの灯台である」(『目で見る清水100年史 : 写真が語るふるさと一世紀』静岡郷土出版社、1990)。

#灯台記念日 (11月1日)
November 1, 2025 at 2:33 PM
旧和歌山県会議事堂

豪壮な明治期木造建築で、議場正面にある桁外れの大きな床の間に見とれた。和歌山県。

「和歌山市1番丁に明治29年に建設された。構造は木造2階建屋根日本瓦葺き。外部は最初は板貼りペンキ塗やモルタル大壁式の洋風その後、腰押縁横目板、上部漆喰仕上げの和風とし、内部を西洋の椅子式とした。このように変わったのは日清戦争の勝利によって西洋一辺倒より和風建築の見直しが行われたからである。昭和12年に今の県庁が建てられるにつれて、不要となり、現在は那賀郡岩出町根来寺境内の一乗閣として宿坊に使用されている」(『和歌山県の近代建築 ガイド・ブック』和歌山県洋風建築研究会、1984)。
October 29, 2025 at 12:22 AM
根来寺庭園

池泉鑑賞式の庭園は見事。和歌山県。

「いま根来寺庭園の中心をなすものがこの奥書院庭園である。この庭園は享和元年8月吹上御殿座所が引移される際、地割り築造されたものであると考える。庭園は奥書院の北側の高い裏山を切りけずって池を穿ち、その池は奥書院の西側の山裾を細長く廻り、光明真言殿と書院の間の小池につづき、余剰の池水は光明真言殿の裏側を通って観喜天堂と聖天堂の間を聖天池に落ちている。この池庭は奥書院の裏庭となり、表庭
は奥書院南面、表書院と光明真言殿と、この両者をつなぐ長廊下に囲まれた平垣地に石組をした枯山水庭とされている」(『新住宅 第14巻6月号』新住宅社、1959)。
October 28, 2025 at 12:01 AM
根来寺大伝法堂

大伝法堂は外観こそ普遍的な仏堂の形だが、内部に3尊の巨大な仏像が居並ぶ偉容はどこか中国大陸の伝統寺院を思わせるところがある。和歌山県。

「金堂は一に傳法堂といゝ、本尊大日如來には鳥羽法皇の御髪を納めてあると云われ、不動堂安置の錐鑽不動明王は、鳥羽法皇の御悩に際し靈験を現じ、また開祖の危難に身代りとして立つたと傳えられて、山中最も信仰せられる所である」(『旅行叢書第7集 紀伊・熊野』日本交通公社、1950)。
October 27, 2025 at 7:21 PM
根来寺大塔

再訪したときはまだ工事中だったが、幸いなことにもう終盤なようで、工事の足場もだいぶ取り払われて鑑賞するには問題なかった。和歌山県。

「下重が一四・九メートル四方、総高三五・九メートルにおよぶ大規模な多宝塔で、一般の多宝塔とはちがって下重が方五間あり、内部には十二本の柱が円形に立ち並び、そこに引違戸や連子窓を設けて内陣と外陣に区画している。こうした形式の多宝塔を大塔と呼ぶが、これは空海(七七四−八三五)が高野山において創建した新形式の塔で、円形の軸部に方形の屋根をかけた一重二階の宝塔に、裳階をつけて成立したものと考えられる」(『国宝大事典 5』講談社、1985)。
October 27, 2025 at 7:11 PM
根来寺

一山は宗教と政治の教科書のようだ。和歌山県。

「當寺はもと根來山大傳法院と稱したが昭和廿一年十二月根來寺と改稱された。大治五年(一一三〇年)覚鑁上人(興教大師)が高野山に一堂を創して一義を樹立し、小傳法院と稱したのが當寺の濫觴で、久いで長承二年十二月覚鑁は上皇の詔を奉じて當院及び金剛峯寺の座主を兼ねるに至ったが、覚鑁の卓抜なる識見が時衆に容れられず、かつ寺運隆盛に赴くに従つて金剛峯寺との間に常に軋轢を生じたので、上人は止むなく騒援の責を引いて座主職を眞誉に譲り、保延六年(一一四○年)根來山へ下つてこの地に圓明寺を建立した」(『旅行叢書第7集 紀伊・熊野』日本交通公社、1950)。
October 27, 2025 at 1:18 PM
川湯温泉 亀屋旅館

大塔川とは道一本を隔てるだけの至近距離。川のせせらぎを聞きながら、朝晩は静けさに包まれる。和歌山県。

「熊野川に注ぐ大塔川の左岸にあって河岸約半粁の間は到るところに湯が涌く。河原の砂を掘つて湯を溜め青空の下で入浴するといふやうな變った趣があり、また湯の中から釣竿をのべて鮎を釣る風景はこゝの特色で極めて閑雅な境地である」(『温泉案内』鐵道省、1940)。

#旅宿 (128)
October 26, 2025 at 9:45 AM
川湯温泉

とても印象的で楽しい川の温泉。これまで春、夏と冬計三回入浴し、ダントツ冬は一番人気だ。和歌山県。

「熊野本宮大社から南へ車で10分程の所に川湯温泉があります。川湯温泉地内では、熊野川の支流・大塔川の川底から70度以上の単純温泉が湧き出ています。そのため、持参したスコップで河原を掘れば、簡単に野趣あふれる露天風呂をこしらえることができます。冬場の水量が少ない時期(11月~翌2月)には大塔川をせき止めて川全体が、『仙人風呂』と呼ばれる大きな露天風呂に仕立て上げられます。わが国を代表する川湯といえます」(『日本温泉地域資産』日本温泉地域学会、2019)。
October 25, 2025 at 11:15 PM
阿弥陀寺

本堂内は極彩色で装飾され、堂内四方の小壁には美しい天女が舞う。和歌山県。

#天女の日 (10月24日)
October 24, 2025 at 1:57 PM
桃洞の滝

非常に印象的な滝で、「フライデー」か何かで記事を見て気になって山へ入った。上流へも奮って登ったが、見返ると傾斜があって実は降りるのが怖かった。秋田県。

「ノロ川キャンプ場からノロ川上流部原生流域のブナ林を川にそって、玉川温泉に向う道を歩くこと45分、やがて赤水沢と桃洞沢の分支点に出る。滝までは桃洞沢に向けて川渕を歩くこと20分の道程である。滝の形はまさに女性そのものである。上流には男滝があるとか?」(『秋田県立自然公園森吉山の自然』「森吉山の自然」を発行する会、1987)。
October 24, 2025 at 1:13 PM
安の滝

訪れる人がまだ少ない見応えのある滝。秋田県。

「新秋田観光30景の一つである安ノ滝は、山里の出湯、打当温泉よりブナ森林道を中の又沢に入ること車で25分、安ノ滝遊歩道を徒歩40分、深山幽谷にその大飛瀑をみせる。林道が延び途中の原生林はかなり伐採が進んでいるものの、滝の周辺は、断崖絶壁が囲み、標高900mの高原に高さ90mの飛瀑が壮大な景観をとどめている。マタギの娘、安子の悲恋物語の伝説を秘めた安ノ滝は、本流の他に大小の渓谷が流れを運び一大パノラマを作り出している」(『秋田県立自然公園森吉山の自然』「森吉山の自然」を発行する会、1987)。
October 24, 2025 at 11:09 AM
蒸ノ湯温泉

昼食を兼ねて日帰り利用。時折雨が降るなか野趣あふれる露天風呂にうきうき。秋田県。

「赤川の上流海抜一〇九〇メートル、菰森山の中腹にある、旅館の附近は到る處から湯気を噴き、泉量は豊富で蒸し湯が特徴なので蒸ノ湯の名がある。旅舎は小屋式で、十棟に餘る湯小屋があるばかりで、床も畳もなく、地面の上へ筵を敷いてその上に寝起きするのである。その下からは絶えず蒸気が噴出して昼夜を通して蒸されることになってゐる。冬季は積雪のため小屋を閉鎖するが、夏は遠近より数百人の浴客が集まって来るといふ。ここから渋黒温泉(鹿ノ湯)へ山越し一〇粁で行かれる」(『温泉案内』鉄道省、1940)
October 23, 2025 at 8:57 AM
大湯温泉 阿部旅館

一軒宿の秘湯。周りは何もないがため、ただただお湯を楽しむのみ。秋田県。

「 栗駒山の西麓皆瀬川の支流、大湯ノ沢にかかる大湯橋を渡ると、左手河畔に、民宿風の「阿部旅館」がある。ここ大湯温泉である。沢の河畔に建つひなびた湯小屋、140年前に造られたという風呂場はもちろん昔ながらの湯治場スタイルである。浴槽、洗い場共にコンクリート製。湯の感触もすこぶるいい。秋田の最深部までやって来たかいがあったというものだ。なにせここは岩手、宮城との県境なのだ」(『東北湯の旅』松田忠徳、北海道新聞社、1991)。

#旅宿 (127)
October 22, 2025 at 9:04 AM
強首温泉

かつては温泉郷をなしていたが、今はのどかな田園風景の中に、ただ一軒の旅館のみ。秋田県。

「昭和三九年七月帝国石油が天然ガスを掘っていた時噴出したのが強首温泉で、毎分二五キロリットルの高温泉を元秋田一七連隊の練兵場であった相台の上に西仙北町が引湯して温泉郷を作ったと共に、強首村内にも引湯して村民向けヘルスセンターを作った。泉源からー・一㌔離れた相台上の温泉郷は乙越沼(おとごえぬま)を見下ろす原野のような台地で、まだ整備されていないが、一〇余軒の旅館ができている。温泉はやや塩辛い石油臭がする湯である。今後を期待する温泉場であろう」(『全国温泉辞典』大石真人、東京堂、1981)
October 21, 2025 at 9:22 AM
美保関灯台

岬の高所にあるため灯台自体は背が低い。だが一帯の景色が素晴らしく見に行く価値あり。島根県。

「島根半島東端の地蔵崎にある。フランス人の設計により明治31年に点灯した一等灯台。灯台東の海上に浮かぶ沖ノ御前島・地ノ御前島は、事代主命がタイを釣った島といい、いまも灯台から西へ美保の北浦・七類・千酌・笠浦と格好の釣り場や海水浴場が連なる。灯台隣のフランス風のビュッフェは、灯台守りの宿舎として灯台とともに建てられたが、灯台が無人灯台となったため、改造してビュッフェとしたもの。外装・内観ともフランス風のしゃれたもの」(『郷土資料事典・観光と旅:県別シリーズ32』人文社)。
October 20, 2025 at 3:04 PM
興雲閣

飛雲閣は木幡家が時の皇太子を迎えるため建てた行在所で、ここ興雲閣は県が建てた迎賓館(御旅館)である。”〜雲閣”のように名前が類似してるのは、何か規則があったろうか。島根県。

「松江城の旧二の丸跡にある。明治36年、工芸陳列所として建てられたが、もともと明治天皇の行幸を願い、その行在所になるようにと建てられたもので、木造2階建て、白ペンキ塗りの美しい外観をもっている。明治40年5月、皇太子(のちの大正天皇)をここに迎えている」(『郷土資料事典・観光と旅:県別シリーズ32』人文社)。
October 20, 2025 at 2:49 PM
木幡家住宅(つづき)

すこぶる古いのは街道に面した主屋であり、その背後の座敷群は明治以降の増築。

「木幡邸は代々出雲藩の郡役人を勤め、藩主が大社参りをしたり、領内巡視の時の旅舎にあてられる所謂本陣で、不味公も其父君天隆院も曾つてこれに臨んだ記録がある」(『新住宅 1956-12』新住宅社)。
October 20, 2025 at 12:00 AM