映画という媒体の文脈や性質を踏まえると当たり前なのかもしれないが、登場人物たちの「内省」は必ずしもテキストやセリフやナレーションの形で現れない。それは私がセンサーを発達させていないアングルやカット割や撮影技法や脚本の機微にまぶされているのかもしれない。もっと見たらわかるのかな。
映画という媒体の文脈や性質を踏まえると当たり前なのかもしれないが、登場人物たちの「内省」は必ずしもテキストやセリフやナレーションの形で現れない。それは私がセンサーを発達させていないアングルやカット割や撮影技法や脚本の機微にまぶされているのかもしれない。もっと見たらわかるのかな。
確かに「ラブコメディ」だが、どうしても笑えない居心地の悪さもあった。理由の1つは「ASD的コミュニケーションを行う人物と周囲のズレ」を面白さの源泉として使っていたから。ズレが違和感/奇妙さを醸すのは問題ないが、それを笑って良いものだろうか。
私は作品に対峙するとき、それを笑い賞賛し肯定することで、誰かを傷つけ搾取しないか気をつけたい。人の感情の機微を解しにくく、言葉を字義通りに受けとる「蔵田」は「なんかズレてて面白いやつ」として受け止められていたが、それに悩むASD当事者はあの作品を見て消費されたと感じないか。
確かに「ラブコメディ」だが、どうしても笑えない居心地の悪さもあった。理由の1つは「ASD的コミュニケーションを行う人物と周囲のズレ」を面白さの源泉として使っていたから。ズレが違和感/奇妙さを醸すのは問題ないが、それを笑って良いものだろうか。
私は作品に対峙するとき、それを笑い賞賛し肯定することで、誰かを傷つけ搾取しないか気をつけたい。人の感情の機微を解しにくく、言葉を字義通りに受けとる「蔵田」は「なんかズレてて面白いやつ」として受け止められていたが、それに悩むASD当事者はあの作品を見て消費されたと感じないか。
表舞台で男が齷齪する裏に、慈愛に基づく協力を強いられる女性たちがいる構造・搾取のグロテスクさに辟易する。それを変えようとする男が現れないことにも。既得権益の受益者を動かすのはこうも難しいか。おい男、出てこいよ。そう思いながら、中島みゆき『糸』を歌い踊る姿を見て不甲斐なく涙ぐんだ
表舞台で男が齷齪する裏に、慈愛に基づく協力を強いられる女性たちがいる構造・搾取のグロテスクさに辟易する。それを変えようとする男が現れないことにも。既得権益の受益者を動かすのはこうも難しいか。おい男、出てこいよ。そう思いながら、中島みゆき『糸』を歌い踊る姿を見て不甲斐なく涙ぐんだ
表舞台で男が齷齪する裏に、慈愛に基づく協力を強いられる女性たちがいる構造・搾取のグロテスクさに辟易する。それを変えようとする男が現れないことにも。既得権益の受益者を動かすのはこうも難しいか。おい男、出てこいよ。そう思いながら、中島みゆき『糸』を歌い踊る姿を見て不甲斐なく涙ぐんだ
表舞台で男が齷齪する裏に、慈愛に基づく協力を強いられる女性たちがいる構造・搾取のグロテスクさに辟易する。それを変えようとする男が現れないことにも。既得権益の受益者を動かすのはこうも難しいか。おい男、出てこいよ。そう思いながら、中島みゆき『糸』を歌い踊る姿を見て不甲斐なく涙ぐんだ
人間は誰しも、自分から見える物事/世界の解像度が最も高い。だから、わからないものに遭遇したとき、自らを基準にわかろうとしてしまう。人間の「属性」がもたらす構造的困難としての差別やハラスメントについて学ぼうとするとき、当事者との対話で「手っ取り早く」「間違わないための」知識を仕入れようとするのは、マジョリティの「傲慢」だと諭していた。
まずは、入門書をはじめ関連書籍で知識を仕入れ、それでもわからないところをテキストで質問するべきなのだと思う。甲斐田さんのような方には、トランスジェンダーQ&Aをお渡しするのがよさそうです。
人間は誰しも、自分から見える物事/世界の解像度が最も高い。だから、わからないものに遭遇したとき、自らを基準にわかろうとしてしまう。人間の「属性」がもたらす構造的困難としての差別やハラスメントについて学ぼうとするとき、当事者との対話で「手っ取り早く」「間違わないための」知識を仕入れようとするのは、マジョリティの「傲慢」だと諭していた。
まずは、入門書をはじめ関連書籍で知識を仕入れ、それでもわからないところをテキストで質問するべきなのだと思う。甲斐田さんのような方には、トランスジェンダーQ&Aをお渡しするのがよさそうです。
1人の人間が不条理に昆虫に変身し、変容する人間/昆虫関係を描く。その「変身」は精神疾患/難病/障害/思想の転換等、数多のメタファーたり得る。閉じたコミュニティで抱えるには大きすぎる「変身」への対処には第三者/公助が必須と再認識する。では、どうすればよかったか?
カフカが「変身」を執筆した1912年から113年が経過した今、当時なかった道具を、我々は手にしている。
異形の毒虫になった兄の世話をする17歳の妹は「ヤングケアラー」であり、社会システムによるケアが行き届くべき。歩行や会話が困難でも「営業」の仕事ができるアクセシビリティの整備が急務である。
1人の人間が不条理に昆虫に変身し、変容する人間/昆虫関係を描く。その「変身」は精神疾患/難病/障害/思想の転換等、数多のメタファーたり得る。閉じたコミュニティで抱えるには大きすぎる「変身」への対処には第三者/公助が必須と再認識する。では、どうすればよかったか?
カフカが「変身」を執筆した1912年から113年が経過した今、当時なかった道具を、我々は手にしている。
異形の毒虫になった兄の世話をする17歳の妹は「ヤングケアラー」であり、社会システムによるケアが行き届くべき。歩行や会話が困難でも「営業」の仕事ができるアクセシビリティの整備が急務である。
企業向けに行われる、無味乾燥なダイバーシティ研修よりはるかに、ゲイとして生きる人間の人生を追体験できる。知識を手に入れることは当然重要であるが、それを生身の温度を持った人間の切実な事情だと理解することは容易くない。そうしたきっかけを提供する稀有な作品である。
私はゲイなので、この公演がゲイではないセクシャリティの方にどれほど効果的に届いているのか体感しにくいが、極めて周到な構成に唸る。観客である我々に語る橋本さんは、演者でありながら、社会の一部なのだ。単なるパフォーマンスや記号でなくそうした状況を背負った人間がいるのだ。
企業向けに行われる、無味乾燥なダイバーシティ研修よりはるかに、ゲイとして生きる人間の人生を追体験できる。知識を手に入れることは当然重要であるが、それを生身の温度を持った人間の切実な事情だと理解することは容易くない。そうしたきっかけを提供する稀有な作品である。
私はゲイなので、この公演がゲイではないセクシャリティの方にどれほど効果的に届いているのか体感しにくいが、極めて周到な構成に唸る。観客である我々に語る橋本さんは、演者でありながら、社会の一部なのだ。単なるパフォーマンスや記号でなくそうした状況を背負った人間がいるのだ。
鬱病を患い休職中のマリが主人公。パートナーの1ヶ月の海外出張に半ば無理矢理同行する。滞在する奇妙なホテルの清掃プラン「ほったらかさない」により、部屋も精神も「ほったらかされない」ことに。人生が、命が、出張が、不甲斐ない自分が、おわるのをまっている。
鬱病の症状の一つである希死念慮、人生が命が終わるのをまっている状態を、死んでいる状態な人を出現させることでコミカルに翻す。生きている我々にとって死は、1→0の離散的な変化だが、実は連続的な変化なんだと諭す。死後も数直線が続く可能性と、0の後も連続する負の数の存在を示唆していた。
鬱病を患い休職中のマリが主人公。パートナーの1ヶ月の海外出張に半ば無理矢理同行する。滞在する奇妙なホテルの清掃プラン「ほったらかさない」により、部屋も精神も「ほったらかされない」ことに。人生が、命が、出張が、不甲斐ない自分が、おわるのをまっている。
鬱病の症状の一つである希死念慮、人生が命が終わるのをまっている状態を、死んでいる状態な人を出現させることでコミカルに翻す。生きている我々にとって死は、1→0の離散的な変化だが、実は連続的な変化なんだと諭す。死後も数直線が続く可能性と、0の後も連続する負の数の存在を示唆していた。