「いちばん欲しいものが手に入らないのならすべては塵芥同然よ。ほかにはなんにもいらないわ」
「いちばん欲しいものは、何?」
「あなたからの信頼」
「……きみは何も悪くないんだ。何も……これはぼくの問題なんだ」
「問題を分かち合おうと思ってもらえないことが、信頼されてないってことでなくて? ……ああごめんなさい、違うの、責めたいんじゃないの。わたしはわたしで……あなたが正直者だって確認して、勝手にうれしくなってたの……」
「いちばん欲しいものが手に入らないのならすべては塵芥同然よ。ほかにはなんにもいらないわ」
「いちばん欲しいものは、何?」
「あなたからの信頼」
「……きみは何も悪くないんだ。何も……これはぼくの問題なんだ」
「問題を分かち合おうと思ってもらえないことが、信頼されてないってことでなくて? ……ああごめんなさい、違うの、責めたいんじゃないの。わたしはわたしで……あなたが正直者だって確認して、勝手にうれしくなってたの……」
「……いつから、そう思っていた?」
「……そうね、あなたと出会って、一年と経たないうちからかしら」
「あの頃こんな指摘を受けたら、きみを好きになれたかな」
「……」
「それでも必ずと言いたくなるわたしがいるよ。そいつに歌ってやってくれないか。こいつはたぶん、死ぬまでいるから」
「よくってよ……あなた」
「……いつから、そう思っていた?」
「……そうね、あなたと出会って、一年と経たないうちからかしら」
「あの頃こんな指摘を受けたら、きみを好きになれたかな」
「……」
「それでも必ずと言いたくなるわたしがいるよ。そいつに歌ってやってくれないか。こいつはたぶん、死ぬまでいるから」
「よくってよ……あなた」
「……さみしくないか、それは」
「さみしいって、わたし? あなた?」
「……ぼくだ……」
「……さみしくないか、それは」
「さみしいって、わたし? あなた?」
「……ぼくだ……」
ぞっとした。背骨が氷柱になったのかと錯覚するほど。
戦場での死の間際、男たちは母を呼んだ。未婚の男は特に。自分に呼ぶ母がいなくとも、それがどんなにか悲しいかは、わかるつもりだった。
今夜、彼女は自分を受け入れてくれた……と、感じていた。自分の人生に突如として与えられた包み込むような承認を、感慨深い混乱の中で噛み締めていた。
ところがどうだ。彼女はまどろみの中で母を呼ぶ。閨房こそ彼女にとって戦場だというのなら、そこに彼女を連れてきた自分はなんだ。まるで悪鬼だ。
闇夜に素肌がまぶしかった。その隣に潜り込むことは、とてもできなかった。
ぞっとした。背骨が氷柱になったのかと錯覚するほど。
戦場での死の間際、男たちは母を呼んだ。未婚の男は特に。自分に呼ぶ母がいなくとも、それがどんなにか悲しいかは、わかるつもりだった。
今夜、彼女は自分を受け入れてくれた……と、感じていた。自分の人生に突如として与えられた包み込むような承認を、感慨深い混乱の中で噛み締めていた。
ところがどうだ。彼女はまどろみの中で母を呼ぶ。閨房こそ彼女にとって戦場だというのなら、そこに彼女を連れてきた自分はなんだ。まるで悪鬼だ。
闇夜に素肌がまぶしかった。その隣に潜り込むことは、とてもできなかった。
彼はときどき、怖いと口にする。男のひとが怖いなんて言うところを、わたしは彼以外に知らなかった。
「ときどききみがぼくの欲望を女の形にしたものに思える。ぼくにとって都合のいい女になる必要なんかないんだ。もっときみの思うように振る舞っていい。きみはいくらでもぼくを裏切っていいんだ」
彼は甘えているのだと思う。彼はたぶん、わたしが本当に裏切ったら死さえ選びかねないだろう。わたしがそう考えている時点で、わたしたちにイーヴンはありえなかった。
彼はときどき、怖いと口にする。男のひとが怖いなんて言うところを、わたしは彼以外に知らなかった。
「ときどききみがぼくの欲望を女の形にしたものに思える。ぼくにとって都合のいい女になる必要なんかないんだ。もっときみの思うように振る舞っていい。きみはいくらでもぼくを裏切っていいんだ」
彼は甘えているのだと思う。彼はたぶん、わたしが本当に裏切ったら死さえ選びかねないだろう。わたしがそう考えている時点で、わたしたちにイーヴンはありえなかった。
「わたしがまだ赤ん坊の頃……月のきれいな真夜中がいいわ。泣いているのにみんな眠っていて、でも泣く以外に何もできないでいるとき、あなたは夢を見ているの。夢の中であなたは赤ん坊の泣き声を聞いて、そちらに向かって走る。果たしてそこには赤ん坊がいて、あなたは乳もおしめも持たないけれど、そのてのひらで頭を撫でてやるの。せめてさみしくないように。その一夜の夢がわたしを生かして、あなたのところに還ってきたの。わたしはなんだかそんな気がするのよ」
「わたしがまだ赤ん坊の頃……月のきれいな真夜中がいいわ。泣いているのにみんな眠っていて、でも泣く以外に何もできないでいるとき、あなたは夢を見ているの。夢の中であなたは赤ん坊の泣き声を聞いて、そちらに向かって走る。果たしてそこには赤ん坊がいて、あなたは乳もおしめも持たないけれど、そのてのひらで頭を撫でてやるの。せめてさみしくないように。その一夜の夢がわたしを生かして、あなたのところに還ってきたの。わたしはなんだかそんな気がするのよ」
「たしかにそうね。つい言ってしまうこともあるだろうけれど……あまり言わないようにするわ。本当に嫌なときだけ」
「……じゃあ、次に嫌だと言われたら、ぼくのことはもう嫌になったってこと?」
「違うわ。違う。……たとえば、そうね、こどもが悪いことをしても、その子が悪い子になったわけではないでしょう? やったのが悪いことでも、その子はいい子よ。あなたのしたことがわたしにとって嫌なことでも、あなたはわたしの好きなひとよ。……あなたなら、悪い子になっても好きよ」
「たしかにそうね。つい言ってしまうこともあるだろうけれど……あまり言わないようにするわ。本当に嫌なときだけ」
「……じゃあ、次に嫌だと言われたら、ぼくのことはもう嫌になったってこと?」
「違うわ。違う。……たとえば、そうね、こどもが悪いことをしても、その子が悪い子になったわけではないでしょう? やったのが悪いことでも、その子はいい子よ。あなたのしたことがわたしにとって嫌なことでも、あなたはわたしの好きなひとよ。……あなたなら、悪い子になっても好きよ」
「……裏切りだ」
ぼくの声は情けなく震えていた。ようやっと絞り出した言葉は、なんというか……そう、告白して振られたやつが口にする「友達でいてくれる?」に似た響きだ。つまりどこまでもぼくの敗北!
泣きたいな、と思った。こんな日くらい泣きたかった。
「……裏切りだ」
ぼくの声は情けなく震えていた。ようやっと絞り出した言葉は、なんというか……そう、告白して振られたやつが口にする「友達でいてくれる?」に似た響きだ。つまりどこまでもぼくの敗北!
泣きたいな、と思った。こんな日くらい泣きたかった。
そんなことはない、とは言えなかった。言うべきだ、と「ぼくだけのぼく」が強く主張するのが聞こえた。しかし「ぼくのものではないぼく」は、彼女がさらけ出した「彼女」に寄り添うことを非難した。板挟みになって立ち尽くすぼくはもはや誰でも何でもなく、どこにもいなかった。
そんなことはない、とは言えなかった。言うべきだ、と「ぼくだけのぼく」が強く主張するのが聞こえた。しかし「ぼくのものではないぼく」は、彼女がさらけ出した「彼女」に寄り添うことを非難した。板挟みになって立ち尽くすぼくはもはや誰でも何でもなく、どこにもいなかった。
「あなたの歴史と躊躇が見たくて。今はきみがいちばんだ、なんて言われていたら家出するところだったわ」
彼女のそういうところに自分は救われてきた。しかし、もし今よりずっと彼女のことを……そう、愛してしまったとしたら? そんな懸念が生まれたこと自体、考えられないことだった。ここが行き止まりでも構わないのに、遠くに何かが見える気がした。
「あなたの歴史と躊躇が見たくて。今はきみがいちばんだ、なんて言われていたら家出するところだったわ」
彼女のそういうところに自分は救われてきた。しかし、もし今よりずっと彼女のことを……そう、愛してしまったとしたら? そんな懸念が生まれたこと自体、考えられないことだった。ここが行き止まりでも構わないのに、遠くに何かが見える気がした。
不意に思い浮かんだ言葉は愛だった。なるほど、なるほど……。女は笑っていた。仔犬のように? 赤子のように? ならどれほどよかったことか! 彼女は女神像のように笑っていた。知りもしない母のように。
不意に思い浮かんだ言葉は愛だった。なるほど、なるほど……。女は笑っていた。仔犬のように? 赤子のように? ならどれほどよかったことか! 彼女は女神像のように笑っていた。知りもしない母のように。