詳細不明。下笠集落にあったとされる。国土地理院地図を基に作図。
詳細不明。下笠集落にあったとされる。国土地理院地図を基に作図。
応永年間(1394~1428)に駒井高郷によって築城される。永禄十二年(1569)の駒井秀国の代に織田氏によって落城した。建分大明神境内一帯にあったとされ、境内に“駒井氏発祥の地”の石碑が建っている。国土地理院地図を基に作図
応永年間(1394~1428)に駒井高郷によって築城される。永禄十二年(1569)の駒井秀国の代に織田氏によって落城した。建分大明神境内一帯にあったとされ、境内に“駒井氏発祥の地”の石碑が建っている。国土地理院地図を基に作図
詳細不明。上笠集落北西に築かれたとされる。国土地理院地図を基に作図。
詳細不明。上笠集落北西に築かれたとされる。国土地理院地図を基に作図。
詳細不明。国土地理院地図を基に作図
詳細不明。国土地理院地図を基に作図
詳細不明。光明寺近辺に比定される。国土地理院地図を基に作図。
詳細不明。光明寺近辺に比定される。国土地理院地図を基に作図。
矢橋氏の城で琵琶湖の湊である矢橋湊に近く関連性があると考慮される。良覚寺および正高寺近辺に比定される。
矢橋氏の城で琵琶湖の湊である矢橋湊に近く関連性があると考慮される。良覚寺および正高寺近辺に比定される。
応永八年(1401)に宇野一元によって造営。その後その後六角氏一族種村道成が城主となる。永禄十一年(1568)に織田方により落城。その後織田方により改修され、稲葉貞通が在城した。
国土地理院地図を基に作図。
応永八年(1401)に宇野一元によって造営。その後その後六角氏一族種村道成が城主となる。永禄十一年(1568)に織田方により落城。その後織田方により改修され、稲葉貞通が在城した。
国土地理院地図を基に作図。
渋川氏の屋敷。金剛法寺付近にあるとされている。国土地理院地図を基に作図
渋川氏の屋敷。金剛法寺付近にあるとされている。国土地理院地図を基に作図
安村氏の居城。国土地理院地図を基に作図。
安村氏の居城。国土地理院地図を基に作図。
三上氏被官の古高氏の居城。国土地理院地図を基に作図。
三上氏被官の古高氏の居城。国土地理院地図を基に作図。
千代氏の居城。千代集落に比定される。国土地理院地図を基に作図。
千代氏の居城。千代集落に比定される。国土地理院地図を基に作図。
寛永十九年(1642)に長谷川長勝が島田代官に任命され、長谷川氏の屋敷とした。長谷川氏3代ののち野田氏、岩松氏が代官を務めた。国土地理院地図を基に作図。
寛永十九年(1642)に長谷川長勝が島田代官に任命され、長谷川氏の屋敷とした。長谷川氏3代ののち野田氏、岩松氏が代官を務めた。国土地理院地図を基に作図。
永禄十二年(1569)に武田信玄により砦を築いたとされるが定かではない。天正元年(1573)に武田勝頼により造営または改修されたと考慮される。
永禄十二年(1569)に武田信玄により砦を築いたとされるが定かではない。天正元年(1573)に武田勝頼により造営または改修されたと考慮される。
島の山古墳の東側に立地する環濠集落。国土地理院地図を基に作図
島の山古墳の東側に立地する環濠集落。国土地理院地図を基に作図
阿波細川氏の守護所。地福寺近辺もしくは勝瑞館東端に比定される。国土地理院地図を基に作図。
阿波細川氏の守護所。地福寺近辺もしくは勝瑞館東端に比定される。国土地理院地図を基に作図。
河野氏の一族とされる越智兼常の居城。天神屋敷、御屋敷、隠居屋敷の地名が残る。
河野氏の一族とされる越智兼常の居城。天神屋敷、御屋敷、隠居屋敷の地名が残る。
福良吉武の居城と伝わる。現在のあわぎんホール近辺に比定される。国土地理院地図を基に作図
福良吉武の居城と伝わる。現在のあわぎんホール近辺に比定される。国土地理院地図を基に作図
平井対馬守の居城。天正年間に長宗我部氏によって落城した。大久寺周辺に比定される。
平井対馬守の居城。天正年間に長宗我部氏によって落城した。大久寺周辺に比定される。
伴氏関連の城と考慮される。
伴氏関連の城と考慮される。
福島左近の城と伝わる。四所神社周辺に比定される。
福島左近の城と伝わる。四所神社周辺に比定される。
仲村長右衛門の唐院山城と関連性が示唆されるが詳細不明。城の内周辺に比定される。国土地理院地図を基に作図
仲村長右衛門の唐院山城と関連性が示唆されるが詳細不明。城の内周辺に比定される。国土地理院地図を基に作図
堀江宗親の居城。天正七年(1579)御館の乱の際の上杉景虎最期の地。
堀江宗親の居城。天正七年(1579)御館の乱の際の上杉景虎最期の地。