軍神ー上杉謙信
banner
wargod-kenshin.bsky.social
軍神ー上杉謙信
@wargod-kenshin.bsky.social
越後の龍、軍神の異名を持つ戦国武将、上杉謙信。時を超え、再び越後上越に罷り越した。天子様より関東管領の命を仰せ仕り候。義を重んじ、我欲な戦は致さぬ。我こそが毘沙門天なり!縁繋ぎは独断と偏見ゆえ了承されたし。DMは禁止。
遅ればせながら、本日は年が明けて元旦じゃの。喪中ゆえ新年の挨拶は失礼致す。
大晦日、そして元旦も政務で先程、帰城した。明日漸く休み。
さて…飲むかの。
January 1, 2025 at 1:25 PM
勝家は無事で有ったが、戦死者の他に溺死者も多発し、信長は一時北陸方面の作戦を中止せざるを得なく成った…

手取川の戦いは柴田勝家が総大将、従った織田勢の武将は滝川一益、羽柴秀吉(豊臣秀吉)、丹波長秀、斎藤利治、氏家直昌、安藤守就、稲葉良通、不破光治、前田利家、佐々成政、原長頼、金森長近、長谷川秀一、徳山則秀、堀秀政、若狭衆と総勢四万の大軍。
対する上杉軍は半分の二万の軍で有った。
November 3, 2024 at 5:46 AM
もう一つは勝家と共に戦う筈だった豊臣秀吉が勝手に陣を離れてしもうた事。

七尾城落城を知らず、残された勝家は己だけで儂を阻もうとした。が、七尾城の陥落を知って撤退を決意。
其れを決めた場所が運悪く手取川を越えた直後だった訳じゃ。
折りしも雨で増水中の川は、容赦なく勝家軍の岐路を阻んだ。

手取川至近の松任城に入っていた儂が此の好機を見逃す筈はない。

背後を突かれた勝家軍は見事に壊走。
反撃しようにも鉄砲用の火薬は濡れてしもうて使い物に成らず、騎馬隊も混乱して如何にも成らぬ。

上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長(信長)
November 3, 2024 at 5:46 AM
もう一つの理由として儂にとって重要だったのが上洛する道筋を確保せねば成らん。
儂の居城、春日山から京に上がる為には北陸諸国を手中に収めていなければ安心出来ぬ。

其れで能登に有る七尾城を攻めたのじゃ。
七尾城は北陸有数の堅城ゆえ一度は上杉を退ける事に成功した。
然し、己の兵だけでは戦闘と領民保護を両立出来ないと考えた城主・長続連は織田家に救援を要請した。
織田軍の先鋒としてやって来た柴田勝家。信長は後日来る事に成って居ったらしい。

此処で二つの大問題が起きた。

一つは勝家が着く前に内部分裂も有り、早々に儂が七尾城を落城した事。
November 3, 2024 at 5:45 AM
然し1575年『長篠の戦い』で武田勝頼を撃破。包囲を破り、やり返すかの様に各方面に攻略軍を設置し始めた。
北陸、上杉家対策もその一つで柴田勝家が担当して居た。

先ず前哨戦として大規模な一向一揆を起こして以来自治国を作り上げていた加賀を攻略し、勝家に此処を与えた。

が、信長が本願寺と戦を始めた事が切っ掛けじゃ。
聖職者に向けた戦が儂は許せなかった。

儂は自国防衛と其の周りの大名の救援はするが此方からの侵攻はしない姿勢故、積極的に織田家とぶつかろうとはして居なかった。
November 3, 2024 at 5:44 AM
手取川は昔から暴れ川として有名でよく洪水を起こしていた。
その急な流れを義経と弁慶たちが手に手を取って渡った事から手取川と呼ばれる様になったと言われて居る。

手取川の戦いとは天正5年9月23日(1577年11月3日)に加賀の手取川で上杉謙信軍が織田信長軍を木っ端微塵に撃破した合戦じゃ。
現代風に言うと『フルボッコ』

当時、織田信長は将軍、足利義昭と仲違いし、織田包囲網で武田信玄、石山本願寺も敵に回して孤立しかけて居た。
November 3, 2024 at 5:43 AM
あきぞらに 欠けゆく月が しろくあり
むかひくる風 髪をせせりて
October 25, 2024 at 3:33 AM
桂花の香 甘きにほひに 誘われて
路地に入たる わづかな刻を
October 18, 2024 at 2:10 AM
雲の切れ間から覗いた見事なスーパームーン。
神無月の満月。まことに光が強うて美しい。
October 17, 2024 at 4:44 PM
とりあえず此方も作ったが
敢えて𝕏(旧Twitter)で言わずにおくか(笑)
馴らしだしの。まぁ、見つける者は見つけるじゃろう。
しかし、斯様にSNSをやったとて投稿する内容は同じ様なものになるじゃろうの。
October 17, 2024 at 4:43 PM